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喧嘩のあと

エンド後 / マナ メロダーク


「そんなにずっと傍にいなくても大丈夫ですよ。メロダークさんももう少し一人の時間をお持ちになればいいんじゃないですか」
 これは男のことを気遣った一言であったのだが、中庭のエンダとチュナの賑やかな話し声に気を取られていたせいで、かなりそっけない口調になった。メロダークの返事はなく、思い返せばそれ以外に心当たりがない。つまりあの言葉を、冷ややかな拒絶として受け取ったらしい。

 二人だけで遅い昼食をとりはじめた食堂で、メロダークの口数の少なさはいつも通りだったが、いつもと違ってひどく不機嫌だった。表情は同じだが、わかる。マナが話しかけてもほとんど答えない。
 マナより先に食事を終えたメロダークは、席を離れることもなく、人差し指の先でこつこつとテーブルを叩いていた。出会った最初の頃と同じように見えない壁が――高い高い壁が――男の周囲を取り囲んでいる。
 昼食はマナの好きな野菜のスープで、一口目は確かにとても美味しかったのだが、義務的な相槌しか戻ってこないおしゃべりを続けるうちに、段々と味がまずくなっていくようだった。いつまでもこちらを見ないメロダークに、マナが恐る恐る言った。
「なんだか喧嘩してるみたいですね」
「違う」
 ぴしゃりと断言される。
「そ……そうですか?」
「喧嘩というのは意見が相違した場合に起こるものだ。私とお前ではそういうことがない。だから絶対に喧嘩にはならない」
 私って言った。私って。
 思わず上目づかいになってしまう。
「怒ってます?」
 伺うようにそう尋ねたら、相変わらずそっぽをむいたまま、「違う」とまた却下された。
 マナはメロダークをじっと見つめた。
 怒っている。
 それを指摘しようと口を開いたとたん、マナの言葉を遮るように、メロダークが立ち上がった。
「メロダークさん」
 呼び止めたが、メロダークは振り返らなかった。大股で食堂の出口に向かう。壁にかけていた外套を取り、マナに背をむけたままでそれを羽織った。
「パリスから棚の修理の手伝いを頼まれている」
 と、まるで独り言のように言った。
「そうでしたね。待って、一緒に行きます。すぐに食べ終えますから」
「必要ない。力仕事だ。お前は邪魔だ」
 ぴしゃりとそう言って、メロダークは出ていった。残されたマナは呆然として、食堂の出口を見つめていた。
 ――お前は邪魔だ。
 その口調と、こちらを一度も振り向かなかった男の背中を反芻するうちに、遅ればせながら頭に血がのぼってくる。
 なんなのあの態度は、と思う。
 ああいうこと、言う? あんな言い方して。腹が立ったならそう言えばいいのに、怒ってないって言い張って。
「もう! 面倒なんだから!」
 そうつぶやいて、マナは乱暴に席を立った。
 今日はもう口をきかない。子供っぽくそう思った。いってらっしゃいも言わせてもらえなかったんだから、お帰りなさい、も言うものですか。

 日が沈む頃になってもメロダークは神殿に帰って来なかった。
 パリスとも顔見知りの探索者の一人がわざわざ神殿に立ち寄って、今日は遅くなる、もしかしたら明日まで戻らないかもしれないというメロダークの伝言を伝えてくれた。丁寧に礼を述べにこやかに彼を見送ったあと、マナは、いじけた。
 帰らないなんて、ひどい。
 大体、戸棚の修理にそんなに時間がかかるなんてこと、あるかしら。
 いつもより多めに盛ったメロダークの夕食を厨房に戻しに行きながら、マナは再び腹を立て直した。




 土埃がまだ収まらぬぱりすやの倉庫で、差し込む西日を浴びながら、「棚には二つの種類がある」とパリスが言った。
「ただの棚と、造り付けの棚だ」
 メロダークは返事をしなかった。
 両腕を組んで、足元の棚の残骸を熱心に観察している。ふりをしている。
 昔と比べて陰気さは薄れたが、図太いのは相変わらずな男の横顔から目を逸らさぬまま、ぱりすやの店長は、ゆっくりと噛んで含めるように続けた。
「そこでオレが不思議なのはよ、どうして板を抜く前にその違いに気づかねえのかってことなんだよな。板一枚と、家の壁一枚って、引っ張った時の手応えが全然違うよな?」

 ぱりすやの倉庫の壁は、棚の形で真四角く崩れ落ちていた。ホルムの町並みに沈みゆく巨大な夕日が見える。美しくも物悲しい光景であった。通りかかる人々が驚いた顔で、あるいは面白そうに、足を止めては壁の中を覗き込み、暗がりに佇むパリスとメロダークと目があうと、慌てて逃げていった。
 メロダークはようやく顔を上げた。
「……考え事をしていたのだ」
「一体なにについて考えてりゃ、間違えて壁をぶち抜くことになるんだよ?」
 パリスが鋭く突っ込む。
 マ、と素直に返事をしかけたメロダークは、危ないところで言葉を飲み込んだ。ホルムに暮らすようになってから、馬鹿のように口が軽くなっている。
「すまなかった」
 重々しく謝罪をされて、パリスはため息とともに夕空を見上げた。
「雨が降らなきゃいいんだけどよ」






 日が暮れた頃に雨が降り始めた。
 やることもないので自室で古い帳簿を整理していたマナは、気がつくとペンを持つ手をとめ、卓上のランプの揺れる炎に目を据えて、メロダークのことを考えはじめていた。喧嘩のきっかけを思い出し、自分の物言いが冷たすぎたことを後悔したり、いいえやっぱりメロダークさんが大人気ないわと心の中で責めたりしていたのだが、やがて、メロダークがこんな風に怒ったことが今までにあっただろうかと、最初に会った時から今までのことを思い返しはじめていた。
 言葉も態度も常に厳しく、口に出す考えの大半は時にマナが鋭い苦痛を感じるほどの冷ややかさであり、罪を犯す人々や無法に対しては怒りと不快を露わにした。だが普通の人間なら怒りを感じるような理不尽にメロダークは淡々と耐え、それは探索の間だけでなく神殿に暮らし始めてからも、あまり変化がなかった。肉体や精神に与えられる苦痛はもちろん、深い傷やその先の死すら当然と思っている節があって、マナは彼の生い立ちを知って以来、男の痛みに対する無頓着さが無性に悲しかった。
 思い出した。
 メロダークが我を忘れた激しい怒りを見せたことが、一度だけあった。
 激昂した彼を、彼が殺した王の死体を、自分は、あの夢の大河で――。
 あの時の情景を思いだそうと瞼を閉じると、死んだ王の顔は、どういうわけかメロダークの顔であった。自分自身の怒りに殺された男が、誰からも顧みられることなく、汚れた路面に倒れ伏している……。マナはぎょっとして目を開けた。
 メロダークに対する怒りはしぼみ、変わりに悲しいような寂しいような、落ち着かない、嫌な気持ちになる。むずむずして、こういう気持ちになってしまったことを、それこそメロダークに聞いてもらいたくなった。絶え間ない雨音と肌にまとわりつく冷めたく濡れた空気に、息苦しさを感じる。

 湿気のせいで紙にペンがひっかかり、字が滲む。今夜はこれ以上仕事を続けることができない。記帳を諦めてしまえばますますやることがなくなった。祈祷書を開く気にもなれず、マナはメロダークの部屋を覗きに行った。
「メロダークさん?」
 扉を叩いてそう呼んでみたが、当然返事はない。
 鍵のかかっていない扉を押し開く。暗い部屋に入りこみ、勝手に寝台に横たわってみた。この部屋に来るのは久しぶりだ。毛布にはかすかにメロダークの残り香がある。
 メロダークの部屋の窓は大河ではなく墓地に向いているせいで、マナの部屋よりは幾分静かだ。





 二人の時間を過ごすとき、メロダークは彼女の部屋に来ることを好んだ。
 寝台にどっかりと座り込み、子供の頃からずっと使っている書き物机や、ナザリの老神官に譲ってもらった真鍮の燭台や、ネルのおばさんが編んでくれたネルとお揃いの膝掛けや、部屋に置いてある何の変哲もないあれこれの物について尋ね、それらにまつわる思い出を語るマナの声にじっと耳を傾けているのだった。
 マナはおしゃべりをしながら、こんななんてことのない話を聞いて楽しいのかしら、つまらなくないのかなと心配になる。だがメロダークは彼女の寝台でひどくくつろいだ表情をしており、マナが黙ると「どうした」と話の続きをうながす。その自然な声の調子に、あ、そうだ、私はこの人の傍では不安になったり怖がらなくてもいいんだ、そう思い出して、マナはいつも少しの恥ずかしさを含む、幸福な気持ちになるのだった。




 明け方近くにようやく雨がやんだ。
 くたびれきった両足でぬかるんだ道を急ぎ、ひっそりと帰宅したメロダークが自室の扉を開けると、暗い部屋には人の気配があった。
 寝台に小さな影が丸くなっている。
 メロダークは手にしたランタンの覆いを下ろし、足音を忍ばせて寝台に近づいていった。気配で察したとおり、毛布にすっぽりとくるまったマナがいる。彼の枕に顔を埋め、安らかな寝息を立てていた。なぜ彼女がここにいるのかわからない。しばらくぼんやりと、眠る少女の顔を薄闇に透かし見ていた。  それにしてもなぜここで寝ているのだ、部屋に虫でも出たか、あるいは彼に話でもあったのか……そこまで考えて、ようやく昨日の口論が原因なのではないかと思い至る。顔を近づけてみれば頬には泣いた跡があり、メロダークの胸はかすかに痛んだ。
 揺り起こす変わりに毛布をめくりあげ、マナを抱き上げた。起こさないように気をつけながら、部屋を出る。寒い廊下を歩いて少女の部屋まで行く途中で、運ばれていたマナが目を覚ました。一瞬、自分が不安定な姿勢でいることに混乱したらしい。両足で空中を蹴ってもがく。メロダークが慌てて抱え直すと、状況を把握したのかすぐに大人しくなった。珍しいことに、下ろして、と言われなかった。それどころか首筋に両腕を絡めてくる。
 自分の寝台に到着しても、マナはメロダークの首筋を抱いた両手を離そうとしなかった。
 メロダークはマナの体を寝台に載せたあと身を屈めてじっとしていたが、いつまでも開放してくれないので、立ち去るのを諦めた。抱きつかれたまま苦労して靴を脱ぎ、汚れた外出着のままでごそごそと寝台に潜り込む。目覚めているはずのマナは彼の胸に顔を埋めたまま、強情な沈黙を守り続けている。
 勝手な奴だ。
 そう思いながら、隣に横たわり、腕枕をしてやった。
 ――たまには一人になれと言ったくせに、少し離れたら、これだ。
 だがぎゅっと自分を抱きしめるほっそりとした体の感触に、そう命じられた瞬間胸に感じた鋭い痛みが、ゆっくりと溶けていくのを感じた。一日の疲労と一緒に、怒りの形をとった悲しみが、遠いどこかへと流れて消えていく。
 そのうちに瞼が重くなって来て、メロダークは大きくあくびをした。マナの体に手足を絡めてぎゅっと抱き返したとき、マナがようやく口を開いて、小さな声で言った。
「お帰りなさい」
「ああ。ただいま」
 同じくらいの小さな声で囁きかえし、温もりと幸福を感じながら、彼は穏やかな眠りに落ちていった。

end

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