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空葬

竜の塔〜古代都市/マナ メロダーク


 欲望についての話をしよう。



 ずっと昔から存在する、ごくありふれた、誰もが持つ欲望についての話だ。恥じることなど何もない。



 薄暗い洞窟の苔生す路面に足を取られ、あっと思う間もなく体が滑り落ち、たちまち濁流に飲み込まれる。冷たい水の中で天地の区別が失われ、悲鳴をあげようと開けた口には大量の水が流れ込んでくる。両足が水底につかず、恐怖に頭が空白になった次の瞬間、腕を勢いよく引っ張られ、水の中から救い出される。
 激しく咳きこんで水を吐き息を吸い涙を流す。呼吸を助けるように背中を叩き、さすられる。「大丈夫か」耳元に響く低い声にはさしたる気遣いも含まれてはいない。ぼやけていた視界が鮮明さを取り戻すに連れ、自分が自分を助け出した男の体に固くしがみついているのに気づく。振り仰げば男の顔がすぐそこにある。
「大丈夫か」
 もう一度男が言い、これもまた単なる確認の言葉に過ぎない。大丈夫ではない、まだ体が震えている。歯の根があわない。だが反射的に「大丈夫……大丈夫です、ごめんなさい」と囁いている。相手が誰であろうとも、心配をかけるのが嫌だ。頷いた男が少女の手首をつかみ、濡れた両腕を自分の肩から無造作に引き離す。固い岩の上に座り込んだ彼女を、いや彼女の体を表情のない目で一瞥し、側を離れていく。
 向こうの岸辺で仲間が自分たちを呼ぶ声がする。大丈夫だ、と男が怒鳴りかえす。
 呼吸を整えながら自分の体を見下ろし、濡れた長衣が体に張りつき、肌着が、いや体の形までが露になっていることにぎくりとする。慌てて両腕で体を抱く。歩き出した男はもう二度とこちらを見ようとはせず、その気遣いにかえって泣きそうになる。男からなるべく離れ、うつむいて後をついていく。重くまとわりつく長衣のあちこちを指でつまんでは体から引き剥がし、何度も瞬きし、恥ずかしさとなぜか沸き起こる罪悪感を涙と一緒にこらえる。ひどく惨めだ。前髪から水滴が滴り、睫毛を濡らす。


 男たちは時々そういった視線を、欲望がこらえようもなく膨れ上がった瞬間決まって彼らの顔から一切の表情が潮が引くように消え失せてまるでこちらを叱咤するように怖いように目が光り、そうやって見つめられるといつも彼らの情欲への嫌悪を上回って、それを呼び起こした己の肉体が汚くてとても悪いものであるかのように思える。この罪悪感はなぜだろう。自分は何もしていない、もしも<悪い>ことがどこかにあるのだとすれば、それは彼らの中にあって自分には落ち度すらないはずだ。繰り返しそう考えるがうまくいかない。そもそも人が自分の連れあいを探し求めるのは自然の摂理のはずで、それなら何が<悪い>のかしら。自然を受け入れられない私が<悪い>のかな。男女の交わりについての貧弱な知識を基に、欲望について空想し、神殿の教えに己の感覚を沿わそうとするが、これもまたうまくいかない。
 私はやっぱり間違っているのかな。
 いくら考えてもわからず、ただ苦しく、己が子供っぽく狭量で神職にふさわしくないのではと辛くなる。


 秩序と神聖に守られた神殿の中では気が楽だ。
 実際神殿に危険がないことはもちろんだが、ここでは巫女服姿の少女にいやらしい視線を向ける人などいない。そう、そこがたとえ墓地であっても。雨上がりの地面を柔らかく踏みながら近づいて行けば、見上げる男の表情は酒場にいるときよりも穏やかで、少女は安心する。周囲に人がおらず二人きりだとずっと話しやすい。
「朝の礼拝はいつも人が少ないんですよ」
「それがどうしたのだ」
「えっと……人がたくさんいるのが嫌で、礼拝に出席されないのかな、と思いまして」
「いや――そういうわけではない」
 短くそう答えたあと、男が片手を上げる。
 少女の髪についた木の葉を摘みあげ、捨てると、「どうした」と言う。
「す、すみません」
 赤面した少女は小さく謝って、とっさに動きを押しとどめようと、男の手首にかけてしまった指を外す。ああ、恥ずかしい。また変なことをしてしまった! だって――頬に触られるんじゃないかと――男の目がまだ自分に向けられているのに気づいて、「ぶたれるかと」と下手な、いや、かえって失礼な言い訳をする。
「そんなことはせん」
「そうですよね」
「理由もないのに――」
 あれっと思って口を閉ざし、上目遣いに様子を伺い、少しためらってから、やっぱり質問してみた。
「……理由があったら、ぶつんですか?」
「……」
 くだらないことを言うなと叱られるかと思ったが、そんなことにはならない。かわりにあきれたような溜め息をつかれる。
 墓地では男のまなざしはいつも伏せられている。隣に立つ少女を見ようともしない。だからといって別に邪魔だと思われているわけでもないらしい。
 酒場でも遺跡でも男はいつもどこか緊張し、周囲に意識を払い、様子を伺って、少女が視界に入ってくると煩わしげに手で払う仕草をすることまである――もっともそこで少女が傷ついた顔をすると、ああ、すまなかった、ぶっきらぼうにそう詫びるのだが……。墓地ではそういったことがない。男は近づいてくる少女を許す。神殿の影が落ち、緑と城壁に囲まれたこの場所には警戒すべき危険などない。
 あるいは友人の墓前にいるせいで、彼が心を許しているのは結局、そう考えると、少女は寂しくなる。
 宿に引き上げる彼を、いつものように通りまで送っていく。遺跡の話をしながら、なんてことない顔をして、さりげなく、一歩だけ身を寄せてみる。ちらりと一瞥されるが、嫌がる素振りはない。それだけで嬉しくなる。
 もう一歩だけ近づいてみようかなと思う。
 子供たちを相手にするときのように、手を取りたくなる。
 慰めを必要としているわけでもない、大人の、それも男の方にそういうことをするのは変かしら。手をおつなぎしましょうかときいてみたくなるが、そんなことをきくのは確実に変だから黙っている。
 一度意識すると、空の掌がなんだか物足りなくなる。背中に回した手をこっそりと握り締め、ぱっと開き、また握り、顔は前に向けたまま、変なの、改めてそう思う。


 洞窟から出てきて短い斜面を滑り降り、踏み固められた土の上に立つ。果てのない夕空の下、森の風を吸い込み、緑の木々の向こうに建ち並ぶ家々の屋根が見えるとほっとする。
 帰れる場所があるのは幸せなことだ。
 私の故郷。大切な場所。
 怪異に襲われた春以来、自分にとってこの小さな田舎町がどれだけ大事な場所か、骨身に染みて理解できるようになった。
 家々からは夕餉の支度をする細い煙が立ち昇っている。紫紺の空には星が輝いている。
 探索を終えて疲労しきっているが、神殿まで駆け戻りたくなる。養い親である巫女長のところに無事に帰れる今日・今・この瞬間はひどく幸福だ。今日もまた夕食をとりながら、探索中に経験した様々なことをお話ししようと思う。
 あまりご心配をおかけしないように、夜種たちの群を相手にしたことや、魔法の炎のただ中で足を焼いたことは伏せて。
 同行者たちが洞窟から出てくるのを待つ間、大河の方角を向き、立ったままで祈りを捧げる。簡単だが心のこもった祈祷だ。
 どうか明日も、何事もなく、私と私の仲間たち、いいえすべての人たちが、無事に戻って来れますように。



 この土地にこれ以上の不幸は不要だ。
 自分を慈しみ愛してくれた人々の苦しみを和らげ、彼らを守ることができるなら、それに勝る幸福はない。



 折りにふれ見つめるようになる。
 遠くから姿を目で追っている。
 大体が陰気な顔で暗がりに立ち、酒場の様子を眺めている。人とは交わろうとしないが、他人が近づいてきても嫌がりはしない。むしろ熱心に話をきいているようにも見える。探索者だけでなく行商人や兵士たち、面白みもなさそうな彼らの愚痴に、黙って耳を傾けている。
 少女の知る町の少年たち、一度口を開けば止まらず、成したすべてを口にして、仕入れた知識を露天の小物売りのようにひけらかしてみせる彼らとは大違いだ。神殿で老婆に育てられた少女にとって、男の静けさは親しみを呼び、二人でいる時には安心すら覚える。
 巫女長様はお前さんも巫女なら口よりは耳を使いなとお叱りになるけれど、あの方はその訓練ができている。
 それにきっと、とてもいい人。
 縁もないこの町を守るため、力を尽くしてくださる。
 人々のために傷つき、剣を振るい、危険もかえりみず、なんと立派な方なのだろう!




 地面から掘り出した鉄の箱を開く。
 ランタンの光の下、太古の宝は時を越えた輝きを放ち、箱を取り囲む探索者たちに感嘆の声をあげさせる。
 金は美しい。銀は人を誘う。水晶のきらめきを他の何に例えよう? 地底から生まれた宝玉の美しさは、天の星に劣りもしない。
 田舎町の少女は古代の貴人を飾った首飾りや髪留めを指先でつまみあげ細工の見事さにため息をつき、次にはこれで己を飾り人前に出て、なんと美しい、そう賞賛されることを願い、だがこの年頃の娘らしい欲望を決して満たそうとはしない。装身具を体に当てて試すことすらせず箱に戻すと、武具を買う足しにしましょうと仲間に告げる。少女を律するのはかすかな恐怖だ。身の丈を越える虚栄に溺れてしまうのが恐ろしい。少女が身につけるのは竜の骨から手に入れた青い石のついた銀の首飾りひとつで、私にはこれで十分と思い、実際、それは少女のたおやかな首や真っ白な胸元や華奢な鎖骨の作り出す淡い影によく似合う。
 とてもとてもよく似合う。
 真冬の大河のような深い青とそこに散りばめられた星のような金の輝きに、少女の虚栄心と慎みの両方が深く満足する。
 もしもこれを外せば、自分はこれよりもっと華美な装身具が欲しくなり、そのうち聖職者らしからぬ放蕩に溺れてしまうことだろう。
 だから彼女はこの慎ましやかな首飾りを、ずっと身につけていたいと願う。


 強すぎる光を見れば目がくらむ。
 度を越した欲望は己にすら理解できぬものだ。



 町の鍛冶屋が練習用にと、刃を潰した細身の剣を二本用意してくれる。
 神殿の敷地内で刃物を振り回すわけにもいかず、大河を見下ろす崖の上の空き地、つまり神殿の入り口から丸見えの場所で訓練を行うことになる。顔見知りの信者のおじさんやおばさんが神殿に入る前に足を止め、頑張ってるのねぇありがたいこと、そう声をかけられるとありがたいやら恥ずかしいやら申し訳ないやら、挨拶のたびに手が止まるので、相手をしてくれている探索者仲間から、「気をおそらしにならないで下さい」そう叱られる羽目になる。一人で素振りをしていれば、今度は通りかかった兵士だの元剣士だのさほど親しくはない探索者だの、いや、それどころか城の執事までが入れ替わり立ち替わり剣の教師を買って出てくれて、ありがたいことではあるけれど、全員の言うことが微妙に、時には大胆に違うので困ってしまう。
 盾を使えという人もいれば剣を持つのと同じ足で踏み込めという人もおり、振り回せ、突け、払え、狙え、狙うな、いいや違う剣など飾りに過ぎず実践で肝心なのは足技だという人までいる。
 最後に男が来る。
 夕日の下で剣を振る少女をじっと見ていたが、相手をしてやろうといい、練習用の剣を持って目の前に立つ。男の剣技の荒さも容赦のなさもよく承知しており、誰を相手にしたときよりも緊張する。半身に構えて剣を掲げ、同じように構えた男と相対するが、案の定むこうは本気になっており、まるで隙が見えない。どこに打ち込めばいいのかわからず、身動きできなくなってしまう。とうとう「打ってこい」そう促される。
「怖いです」
 丸い切っ先を向けたまま正直なところを告げると、「訓練にならんだろう」と呆れられる。
「大体お前はいつも無鉄砲なくせに」
「そんなことありません」
 さすがにむっとしてそう答える。探索の時は常に慎重なつもりだ。預かっているのは自分の命だけではない。
「危険な場所でも先頭を歩きたがる」
「……他の方も一緒にいるのに、危険な場所で後ろに下がる方がおかしいじゃないですか」
 そう言い返せば一瞬の沈黙のあと、男が苦笑する。滅多に浮かばないその笑顔に気をとられた瞬間、男が前触れもなく踏み込んでくる。斜め上からの斬撃をとっさに真正面から受けてしまい、姿勢が崩れる。男の動きは見えていたが避けられず、腹を蹴られ、倒れた。剣が手から離れて遠くへ落ちる。男が剣を拾いに行き、乾いた地面の上に横たわり天を仰いで荒い呼吸をしている少女に差し出す。
「受けるな。流せ」
 沢山の人に言われたができていないことを、ここでもまた指摘される。起き上がると、倒れた時にぶつけた背や蹴られた腹の痛みに涙が滲んできて、ばれないように急いで顔を乱暴に擦るが、すぐにばれる。
「おい」
 男の声がうろたえている。
「泣くな」
 剣を地面に置くと、少女の右腕を取り、袖をまくりあげた。斬撃に痺れた腕の上を男の手が滑り、肘を押す。「痛くないか」予想もしなかった優しい手つきと気遣いに気が緩み、とうとうべそをかきながら「ずるい」と口にする。
「訓練だぞ。卑怯などあるか」
「笑うのずるいです。いつもはあんな顔なさらないのに」
 大変に真面目な顔になった男が何か言いたげに口を開くが、一言も発さぬまま、また閉じる。同じことをもう一度繰り返し、結局何かを言うのは諦めたらしい。少女の手首をつかみ、固い豆のできた彼女の手を見つめている。ようやく泣き止んだ少女の手を引くと立ち上がらせた。


 夜に自室で一人、空手で剣を振る真似をする。
 見えない敵を突き、刺し、叩く。
 もっと強くなりたいと思う。自分と自分の大事な人たちを守れるくらいには。
 本当の願いはもっと大きい。
 この町を守れるほど強くなりたい。
 これまではそういったことは神々に属する領域で、人間の力では叶わぬ事だと思っていたが、探索をするようになってから考えが変わった。
 酒場に集まる探索者には、公国の騎士がおり、放浪の魔術師がおり、荒野から来た遊牧民がおり、学芸の巫女がいる。彼らは少女が知らない土地で生まれ、育ち、それぞれの方法で彼らの属する世界の一端を支え、作り、あるいはかき回す。
 都から騎士団を率いてきた公子、本来なら巫女見習いの少女が口すらきけぬ身分の男は、少女が自分と並んで立つことを許す。「あの神殿の子」「大河の巫女様」だった少女を貴公と呼び、彼女を見る目は一人で立ち一人で流れる一人前の探索者に対するそれだ。
 少女は初めて自身を評価され、成したことが認められる快感を知る。この町が伯爵領の一部であり、伯爵領が国の一部であり、国が世界の一部であることに気づく。上に立つ者も仕える者も、自分と同じような肉体と頭脳を持つ人間であることを理解する。
 遺跡。地下。公国。魔術。歴史。
 周囲に立ち込めるもやのような色彩に過ぎなかった世界は、今や鋭い輪郭と質感を持って少女の眼前に広がりはじめている。世界は自己を映す鏡だ。もはや神殿とだけ繋がり、祈祷と信者の世話だけで充足できる巫女ではない。

 素振りを終えると疲れきった体を寝台の上に投げ出して、少女は右手を見つめる。豆ができ、細かな傷がつき、不恰好で、親友に比べればひどく不器用、祈るために何度も組みあわせ、一度は一本の指が折れたことがあり、今日はあの人に触れられた。
 この手で何ができるのだろう?
 目を閉じ、眠りに落ちる前に、どうか力をお与えくださいと祈る。
 害なすすべてから愛しい人々を守れますように。
 これもまたありふれた、とても強い、様々な場所で繰り返し繰り返し人々が願ってきた、一つの欲望の形だ。


 また別の欲望。


 夢の中で男の手が腕に触れる。形を重さを確かめるように少女の腕を包みこみ、剥き出しの肩まで上がってくる。
 お前の傷を私が癒そう。
 低い声が鼓膜を打ち胸の鼓動を速くする。
 怖がらなくてもいい、以前にも同じことを、お前に少しの苦痛も与えたりはしない、囁きが吐息と一緒に皮膚の上に広がっていく。
 晴れた春の日、大河の川べりに素足で踏みこめば、生ぬるい水流が足を洗う。肌をくすぐる波の心地よさ、自分を包む暖かな空気、水面に揺れ動く光のかけらの眩しさまでを一度に思い出す。
 お前のここに触れていいか?
 ここは?
 では、ここは――?
 柔らかく清く痛みも汚れもない、五感のあちこちが少女に不快を与えぬよう巧妙に遮断された、砂糖と蜜で作られたお菓子のような、まどろむ子供のためのおとぎ話のような、美しく優しくとろとろと甘い夢だ。



 目を開ければ見慣れた自室の天井が飛び込んでくる。窓からは朝の光が射し、小鳥のさえずりがきこえる。そのままずるりと寝台から滑り落ち、床の上で一人、赤面した。

 時間が経つに連れて本格的に落ち込みはじめる。
 少女の潔癖さと真面目さが、あんなものはたかが夢と一笑に付すことを許さない。笑い事にして忘れてしまうには、夢で得た快感が強すぎる。自分はおかしいのではないかと真剣に悩みはじめる。
 町がこんなにも大変な、自分のせいで、怪物たちを殺し、人が死に、子供たちは病に倒れ、友人も苦しんで、世界に歪みを生じさせた太古の魔法が、今はもっと強くなることを考えるべきで、そこかしこに神殿の助けを待つ信徒たちが、巫女長様や町の人たちのためにも、なのにあんな、眠りこけ、あんな、あんな、あんな汚くていやらしい夢を、あれほどよくしてくださる方をあんな風に、馬鹿みたい、いや本当に馬鹿な私だ。
 しばらくは男の顔をまともに見ることすらできず、声をかけられても挨拶すらそこそこに側を離れ、努めて距離を取り、男が不審がっているのがわかって、どう考えても無礼にすぎる己の態度に落ち込むが、一度意識し始めるともう駄目だ。
 自分の中の汚い情欲が恥ずかしい。



 一方で廃墟の探索は順調だ。探索者としても剣士としても、一日、いや一歩を進むごとに力がついていくのを感じる。昨日までできなかったことが今日はできるようになり、苦しかったことを楽に行えるようになる。もちろんたくさん失敗し、しかし失敗は次の成功につながっていく。探索は楽しい。もはやそう言ってもいいくらいだ。少女はいくつかの大事なことを忘れ、憂いなく日々を楽しむようにすらなっている。探索は義務、いや、己に課せられた重い罰だと心得ていたはずなのに!
 ある日廃墟の暗がりに、すみれ色の水晶が埋め込まれた石柱を見つける。ひどく心惹かれるが、無邪気に柱に触れ語り合う仲間たちからは離れ、ランタンを手に立ちすくむ。水晶の表面はひびもなく曇りもなく凝固した水面のようで、光を反射してきらきらと輝いている。どうしようもなく惹かれる一方で、そこに触れれば何かが起こり、もう後戻りはできなくなると本能が囁く。



 手を伸ばし触れたい。
 何千年も昔から、あらゆる人間がそう願ってきた。
 単純極まりない欲望だ。



 夕暮れの町角で、何者かと立ち話をしている男の姿を偶然見かける。
 路地裏に見慣れた、見間違えようのない長身の男の影を見つけ、少女は思わず足を止める。
 いつもとは違う場所で偶然出会えたことに、思わぬくらい幸福な気持ちになり、胸が弾む。久しぶりに声をかける勇気がでる。
 いいかな。いいよね。だってこんなに薄暗い夕闇、たとえ顔が赤くなってもばれないもの。それにしても明かりも持たずにあんな路地裏で、最近は町中でも物騒な噂を度々耳にするのに――お話しておられるのはどなたかしら。探索者の人? 暗くて見えないな。
 暗い色の外套を羽織った彼らは、汚れた壁にこびりつく影の一部のようだ。近づいていく少女の耳に会話の断片が飛び込んでくる。「馬鹿げている」苛立ちの滲む声で男が吐き捨てる。「そんな取り引きに応じる愚か者なら、とっくに領地を失くしている」「そう判断されたと?」「こんなものは判断とは言わん」二人の声は険悪だ。喧嘩かしらと不安になり、進むか引き返すかで悩むが、決断するより先に男たちが彼女に気づく。柔らかな靴底は土の道に足音すら立てていなかったのにも関わらず、二人の声がはっきりときこえる距離まで少女が踏み込んだ瞬間、男たちは同時にぱっと振りむく――夕闇と建物の影が重なった暗がりですら、彼らの鋭い、冷たい目が光を放つのがわかり、それは少女をひるませるのに十分だ。長身の男が素早く壁から体を引き剥がす。もう一人の視線を遮るように少女の前に立ちふさがり、「こんなところで何をしている」ときく。いつもと同じ静かな口調だが、声にかすかな詰問の気配があり、それが少女をさらに怯えさせる。
「何って、あの、ただ、あの、声をかけようと……ごめんなさい、お邪魔をするつもりでは」
 何かを確認するように少女の顔をじっと見つめていた男が、やがて息を吐いた。
「神殿へ帰るところか?」
 わかりきったことを口に出してきかれる。頷くと、
「送っていこう。巫女のお前に何かあれば、巫女長殿が心配されるだろう」
 返事を待たずに少女の肩に手をかけ、有無を言わさぬ態度で歩き出した。背後でかすかな笑い声がきこえ、肩ごしに見るが行き止まりのはずの路地の暗闇に、すでに人の気配はない。背中がぞくりとする。足を遅らせた少女を叱咤するように、男が肩を抱く手に力をこめ、そちらの方に気を取られる。男の指が外套と長衣を通して肌に食い込んでいる。痛い。
 痛いです、と抗議するが無視される。
 通りに出ても歩調は緩むことなく、男の手に捕らえられたままで、つまずきかけて声をあげるがこれも無視され、引き摺られるようになった少女は男の名前を呼びながら手を伸ばし胸を叩き服を引っ張る。ようやく男の足が止まった。泣きだしそうな顔で自分にしがみついている少女に気づき、驚いたようだった。



「マナ」
 名前を呼んだ。


 夕闇が町を覆っていて、家々は鎧戸をおろし戸口を閉ざしている。そこかしこの窓から漏れた光が石畳の路面に細く落ち、月のないホルムの夜をぼんやりと照らしている。生温い夜風が髪を揺らした。空いた方の手で乱れた前髪を乱暴にかきあげられ、顔を覗き込まれる。涙の滲む目をまともに見られる。
「すまん」
 メロダークに静かにそう謝られ、本当に泣きたくなってしまった。
 暗がりと、不安と恐怖と、あとは久しぶりに二人になったせいで、多分おかしくなってしまったのだ。半身を密着させ、痺れたように彼の顔を見上げていた。あとはきっと夜のせいだ。気がつくと両腕で彼を抱きしめ、胸元に額を押し付けていた。子供たちやエンダ、じゃれあって抱き合うネルの体とは全然違う。両手に伝わる熱も、固い体も、自分の心臓の鼓動も。メロダークが鋭く息を飲んだ。頭に血が上ってぼうっとする。つかまっているはずなのに足元がぐらぐらする。
 肩を抱くメロダークの手に力がこもったような気がしたがそれも一瞬で、男が息を吐き身じろぎし、それでようやく我に返った。弾かれたように離れ、後ずさり、両手を後ろに回した。
「あっ……ち、違うんです、ごめんなさい」
 沈黙の後、
「何が違うのだ」
 メロダークがやけに厳しい声で言った。
「え……えっ? ……そ、そう言われると……」
「……」
「ち……違わない? かも、です」
 居づらい沈黙の中、マナは乱暴に頬を擦った。ひどく熱い。何度か深く呼吸をし、気持ちを落ち着かせようとしたが、こうして向い合って黙っていたら、またとんでもないことをしでかしてしまうな気がして、急いで話題を探し、すぐに見つけた。
「え、と、本当にすみません。お話の途中だったのに、お邪魔をして」
「謝るな。邪魔も何もない、ただの顔見知りだ」
 間をおかず返事が戻ってきてほっとしたが、男の声にも薄明かりに照らされる横顔にも不機嫌さが滲んでいる。
「話はとっくに終わっていた」
「喧嘩をしておられるのかと思いました」
「……男同士で喧嘩をしているところに、なぜ近づいて来るのだ」
 馬鹿が、とは言われないが、ほぼそのような口調だった。マナの頬が、さっきとは別の理由で熱くなった。
「でも、だって……メロダークさんがもしも、本当に喧嘩なら――」
「自分の面倒は自分で見れる。私事に首を突っ込むな」
 今度はマナがむっとする番だった。
 そんな言い方ないじゃない。心配したのに。久しぶりにお話しできたのに。会えて嬉しかったのに。それに助けはいらないって、そんな、探索中はあんなに一緒に力をあわせて、そりゃあご迷惑もおかけしてばかりだけど時々は私もお役に立って、そしたら助かったってお礼も言ってくださるのに。ここは思い切って文句のひとつも言ってやろうとした先に、メロダークが踵を返して歩き出した。
「来い、送ってやる。大体こんな時間に、明かりも武器も持たずに一人でいるのがおかしいのだ。お前は……お前は、いつでも油断が多すぎる」
 さらに小言が重なる。マナはますますむっとして、でもいつもよりずっと男の口数が多いことにも気づいていた。これも夜のせいかもしれない。薄明かりの中を小走りに男に近づいていって、よろめきもつまずきもしなかったのに、「危ないぞ」とメロダークが自然に少女の手をつかみ引き寄せ、自分の腕をつかむよう促す。本当は大丈夫なくせに「ありがとうございます」と言いながら男の肘に手を絡めて静かな横顔を見上げ、互いの動作のあまりの自然さに拍子抜けする。ああ、なんだ、こんな簡単なことだったのかと思う。
「メロダークさん」
「なんだ」
「地下都市のことですけれど、少し調べてみたいことがあるのです。よろしければ明日、ご一緒できませんか?」
「いいだろう」
 短い沈黙の後、メロダークが口中で何かを小さくつぶやいた。
「え? なんです?」
 問い返すが返事がなくて、もっともこれはよくあることだ、いつも通りの傭兵だ。歩調を緩めたメロダークと身を寄せて歩きながら、もっと色々なことをおききしたいなと考えている。遺跡に関係のないお話をしてもいいのかしら。また首を突っ込むなと叱られる? でも知りたいことが沢山ある。胸がどきどきしている。しっかりと腕をつかんだまま、横顔を見上げ他愛のない話をして時折うつむき、この夕闇に感謝する。きっと今の自分はすごく締まりのない、恥ずかしい、みっともない顔をしているはずだ。こらえてもこらえても笑みが浮かんでくる。すぐに石造りの神殿が見えてくる。
 ホルムがもっと大きな町で、神殿がもっともっと遠ければよかったのに。



 *



 名前を呼んで欲しい。
 私の名前を。
 一緒にいて欲しい。
 こちらを見て欲しい。
 先日のように食事中に手を止め自分の方をじっと見て、うまそうに食べるなと言ってもらいたい。年頃の娘としてどうかと思うのだけれど、あれはすごく誉められたことになると思う。
 明日もあんな風に触れていいのかしら。
 一人横たわる寝台の上、目を閉じれば暗闇の中で欲望が膨れあがっていくが、前ほどに自分が汚れているとは感じない。なぜならあれは夢ではない。触れてもいいと許してくれた。
 肉体だけでは嫌だ、心だけでも足りない、両方を求めている、もしかしたらそれ以上を、だからあなたにも私の全てを欲しがって欲しい。
 私に、私が、どうか私を。

 欲望は多分、それほど悪いものではないのだ。

 一滴の水が乾きに染みて、ひとたびひとところが濡れればあとはもう乾くことなくさらなる飛沫を、流れを、天が割れ雨が降り注ぐようにと、ひたすら貪欲に求めるだけだ。







 そして今いるここが、欲望の底だ。
 横たわった男の胸に額を押し付け、ぬめる指で彼の首筋に触れる。
「メロダークさん」
 そのように名前を呼んだつもりが、枯れた喉からは吐息と一緒に掠れた音が漏れただけだった。
 石の床に横たわった男の顔は真っ白だ。
 回廊の途中に置かれた篝火は赤い光と黒い影を周囲に落とし、両目を閉じた男の顔を安らかな眠りについた人のように見せかけている。疲労のあまり覚束ない指先で、男の首筋の太い血管を探す。錯覚かと思うほどのかすかさで脈打っている。まだ生きている。でもそれも多分じきに――。男の血に赤く染まった長衣が重く体にまとわりついてくる。
 マナは泣きながらメロダークの肩を抱く。意識を失った男をすぐそこにある死から庇うように。考える。これだけ出血していては、私の技では追いつかない。アダ様に、巫女長様にお願いしなければ。すぐに違う、そうではないと思いなおす。こここがホルムではなく太古の都であると思い出す。巫女長も他の神官も女神を祀る神殿すらない、神々に見捨てられた傲慢の都だ。だから私がこの方を癒さなければならないのだ。
「ごめんなさい」
 泣きながら傷だらけの鎧に包まれた彼の体をさする。胸元に手を当てるが集中できない。力の流れは掌にとどまらず、拡散し遠くの暗闇へと逃げていく。焦点具を……私の剣はどこに行ったのだろう? 篝火が燃える音は相変わらずなのに、周囲がさきほどよりも暗さを増したようだ。少女もまた、ここに至るまでの戦いで傷つき、血を流しすぎている。手探りで冷たい濡れた石の床の上を探すが見つからない。両手を使いたいが、右手しか動かない。魔将の槍で抉られた左の肩はもう駄目になっている。
 獣面の神官を切り捨てた時、背に刺さったそのままに剣を捨ててきたことを思い出す。それでは杖を……杖……道具袋はどこに行ったのだろう? 重い剣帯と予備の短剣は?
 嗚咽と一緒に謝罪の言葉を吐き出す。
「ごめんなさい」
 聖塔のどこかから女たちの悲鳴がきこえた気がした。
 列柱の回廊は静寂に包まれている。周囲をまさぐっていた指が、ようやく、男の足元に短剣を見つける。魔力が満ちたそれを右手に握り締め、男の側にまた這い寄り、胸元に額を押し付ける。癒しの呪文を唱え始める。男の背に広がる血溜まりは、その間もじわじわと広がっていく。魔法の残照に火照る体が重い。自分を癒すのはもちろん後だ。後回しだ。こんな体など――。
 途切れ途切れの詠唱を続けたが、いつもの『開かれる』感覚が起こらなかった。暗闇の中に取り残され、見捨てられた絶望が湧き上がる。
「アークフィア様」
 女神の名を呼んだ。これまでの生涯で何百、何千、いや何万と繰り返してきた女神への祈り、願い、つまりは己の欲望を満たしてくれという熱い勝手な言葉をまた吐き出す。
「お願い――今……お願いです。どうか、お願いします。この人の命をお助けください。お願いですから」
 返事はなかった。
 意識が途切れた。
 目を開けると、また男の胸の上に倒れていた。
 指を動かし、ぼんやりと彼の手を握りしめるが、固い大きな手はもう冷たくなりはじめている。以前に懐かしい町で、この手に触れられた。ずっとこうして、こんな風に、彼にすがり、その手に触れたかったことを思い出した。彼が彼でなくなった今は、いくらでもその欲望を満たすことができる。もう一度目を閉じれば、楽になれる。とても楽に。
 マナはのろのろと男の体から離れると、短剣を杖代わりにして体を支え、なんとか立ち上がった。
 振り向けば地上は遥かに遠い。石段のあちこちには血の染みと兵士たちの死体が倒れている。男と二人、さまよい続けた古代の都は、霧のような雨にけぶっていた。度を越した疲労に虚ろになった両目で足元に横たわる男の死体に目をやり、次に聖塔の奥へとさらに登っていく階段の先を見上げる。
 帝都を見下ろす人工の山の頂上には、白い小さな神殿が佇んでいた。血まみれの大河の巫女は、短剣を手に歩き出した。もう行く手を邪魔をする魔将も儀仗兵も神官もいない。片足を引きずりながら階段を上がり始める。
 私はまだ戦える。そう思う。口を使って短剣の鞘を払い投げ捨てる。固いなめし革でできた鞘は、乾いた音を立てて階段を転げ落ちていった。

 頂上の神殿にはこれまでのような扉がなかった。列柱の間の通路には、少女を歓迎するかのように花びらが撒かれていた。さきほどまで咲いていた花を摘みとり、たった今散らしたかのような不思議なみずみずしさで、マナが踏みつけた端から花びらは黒く滲み、漂う香と混じりあって甘く強く少女の鼻腔を満たした。
 通路の突き当たりは小部屋になっていた。
 金銀の祭器が乱雑に詰めこまれた宝物庫のような部屋には祭壇と水盤が置かれている。ここがこの神殿の最奥であり、聖体を納める場所だとわかる。
 部屋の奥の寝台には、白髪の巫女が座っていた。
 立てた膝の上に顎を載せ、大した興味もなさげな瞳で、近づいてくるマナを見つめていた。背後に開いた窓の向こうには曇天が広がっていた。マナによく似た女の白い顔には何の表情も浮かんでいない。視界が揺れて、突然女が遠くなった。膝と腿に鈍い痛みが広がる。足を滑らせて倒れたことに気づいたが、もはや立ち上がることができない。手をついて最後の力を振り絞り、なんとか首だけを持ち上げ、寝台から己を見下ろす長い髪の巫女を見やった。顔立ちは若いが両目は年老いている。知恵長けた者の額と無邪気な眉を持つ女は、冷ややかに、血と汗に汚れたぼろ布のような少女を見下ろしている。
 その顔を見つめるうちに涙が滲んだ。
 ――ここは皇帝家の神祖を祀る神殿、聖域……。
 こんなはずではなかったと思う。
 ここには始祖帝の霊があると思い、確かに自分は呼ばれたと思い、だから彼と二人、無謀な血路を開き、ここまで来たのだ。
「あなたはタイタスではありませんね」
 わかりきったことを口にした。
「幻都の巫女よ。タイタスはどこにいるのです。始祖帝の霊を探して私たちは……ここへ……ここに彼の魂があるものと……彼を倒し、故郷を救うために……私は……」
 涙のせいで喉が詰まる。倒れた拍子に短剣がどこかへ行ってしまったことに気づく。自分もまた、死にゆくところなのだろうか。無力な愚か者だ。このような美しい都を築き、偉業を成した皇帝とはなんとは違うことか。巫女にはさぞかし滑稽に見えていることだろう――不死も魔力も神々の知恵も、ただこれだけはと信じていた神々からの守りすらない、何もない、自分には何もない……。
「お願い」
 子供のように泣きながら懇願した。
「私……私……来たんです。ここへ……私の我儘で。回廊に大事な人が……彼を助けてください。あの人が傷つく理由もないのに……私が……私に……」
 目の前の女がアークフィア女神その人であるかのように、巫女ではなく不信心者であるかのように、自分ではなく彼女の言葉なら高きへ届くかのように、血に濡れた手を伸ばし、震える目ですがった。
「ごめんなさい。ごめんなさい、わかっていたんです、皆を危険に晒すと。最初からずっと……ごめんなさい……私、私はただ自分の欲望のために皆を……私……私は……」
 私よりも神々に近い人よ、どうか私の言葉をきいてください。信仰への確信は祈れば祈るほど遠のいていく。愛は心地よい、人々の笑顔は喜ばしい、生まれた町を守りたい、人よりも多く危険に身を晒す覚悟はできている。だが結局、そういったすべては己を突き動かすこの欲望を満たすため、願いを叶えるための単なる代償として、いや、もしかしたら献身も奉仕も自己犠牲も、目をそらし続けてきたけれど物心ついて以来、自分を支えてきた信仰のすべては――。
 血と苦痛の中で絶叫した。

 巫女が寝台から滑り下りた。白い小さな足が磨きあげられたなめらかな石の床の上に降りる。肉体の重さを感じさせぬ動きであった。
 柔らかな声が問うた。
「退屈じゃ。そうは思わんか?」
 それが巫女の声だと気づくまで少し時間がかかった。人々の営みに退屈しきった神々のような、気だるく、優しげな響きであった。



 目を開いた。
 背中にひんやりと固い石の感触がある。甘く重い香が血の匂いを消していた。
 自分が石の寝台の上に横たわっていることに気づく。
 頭上から巫女の声が降ってくる。
「さあ、目をつむれ。現の夢を見せてやろう。夢の中で眠り、うつつを夢見るのじゃ」
 この古代の聖塔の頂上にある、どこよりも高い至聖所のどこよりも高い場所で、疲れ果てた体を石台に横たえて、まるで自分は生贄のようではないかと思う。人々の欲望を叶える代償に、神々へ捧げられる供物となって、巫女であるならそれに喜びを感じてしかるべきなのに、感じるのはただ純粋な恐怖だけであった。死と似た眠りが近づいてくるのを感じる。乾ききった唇を開き、必死で懇願する。お願いします、神殿の外には大事な人が、どうか彼を連れてきて、彼も一緒に運んでください。
 細く冷たい指が額に触れ、眉間を通り鼻筋をなぞり、唇まで降りてくる。
「眠りゃ。夢には一人で行くものよ」
 道理もわからぬ子供を相手にするように、巫女が低い声で笑った。



 瞼が下りた瞬間天井が消滅し、アーガデウムの空が見えた。
 天はあまりに高く遠く、青空が紺色に、紺が濃紫に、白い雲のむこう、青空の彼方の暗闇と星々まで、夢とうつつが混じりあい、自分の魂が昇っているのか沈んでいるのかわからなくなった。







 昔、昔、あるところに、一人の男の人がいて、その頃まだ人間は獣にちかくて、いや今でもそうなのかもしれませんが、まだ獣のような己を恥じることを知らず、人々は泥の中に生を受け、わけもわからぬままに死に、一時の快楽や怒りや欲望に身をまかせ、殺し、傷つけ、奪われ、苦しみ、ハァルがお定めになった自然の摂理の通りに、虫のように生まれては死に、生きては殺し、しかし赤子のように純粋に、神々を畏れ敬いながら生きておりました。けれども優しい男の人はその様子に胸を痛め、言いました。「彼らをこの手で助けてやろう、私は彼らを救うため、私の力を尽くしてやろう」と。



 それが最初の欲望でした。



end

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