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微睡む五月

エンド後/マナ メロダーク

 夜、眠れない。
 訪れる人の増えた春先のホルムは神殿の仕事も忙しく、マナが自室に戻れるのは深夜を過ぎてからとなるのも度々で、疲労を考えれば寝台に横たわったとたんたちまち意識を失ってもおかしくはなさそうなものなのだが、さあ眠るぞ、もう休んでいいのだと目を閉じればかえって意識は冴え渡り、まんじりともしないまま夜明けを迎えることになる。不眠を自覚してからというもの、その傾向はさらにひどくなり、数えてみればもう十日、眠れぬ夜が続いていた。
 ――変なことになっちゃったな。
 窓から射しこむ月明かりを眺めながら、狭い寝台の上でぱたんぱたんと寝返りをうち続けていたマナは、諦めて起き上がった。今夜もまた眠れそうにない。椅子にかけておいた長衣を取り上げ夜着の上に羽織り、そっと部屋を出た。自室の扉を音がせぬように気をつけて閉め、静まり返った冷たい宿舎の廊下を、忍び足で神殿の方へと向かう。メロダークの部屋の前に差し掛かった時には息を殺し、何事もなく通り過ぎた後ほっと胸をなでおろしたが、安心するのがまだ早かった。背後で勢いよく扉が開き、部屋からメロダークが出てきた気配があった。
 一瞬、気づかないふりをしてそのまま行ってしまおうかと思ったが、さすがにそういうわけにもいかない。第一無視しても断ってもどうせついて来るのだから、結局は同じことだ。ひと呼吸で観念し、諦めて振り向くと、廊下にのっそりと立ったメロダークはすでに部屋着に着替えていて、いや、見あげれば瞼は完全に持ち上がっていないし服にはなんだか皺が寄っているしで、どうやら平服のままで眠っていたらしいのだった。
「メロダークさん」
 思わず咎める声が出たが、男は返事をせずに近づいてきた。
「お休みになっていてください」
 メロダークは大きくあくびした。目を閉じたままむにゃむにゃとつぶやく。
「俺も眠れんのだ」
「……どうして嘘つくんですか」
「すまん」
 そこで謝られると、う、と詰まってしまう。
 おおむね頑固な癖にところどころで素直だ。


 神殿の正面から出て、大通りに面した石造りの階段を一段、二段下り、そこで座り込む。メロダークが隣に腰をおろし、大きくうなだれる。
 穏やかな春の夜で、闇の中鋭くなった嗅覚が、大気に溢れる甘い花の香りをとらえる。ホルムの春は清冽な大河と豊かな森の春だ。
 深夜の町に人影はない。
 この通りを松明と武器を持ち血走った目をした町の人たちが、武装して列を組んだ神殿軍の僧兵たちが、アルケア万歳と酔った声で唱和する火車騎士団たちが通り過ぎていったいくつかの夜を思い出し、いつもならホルムに戻った日常を感謝したくなるのに、今夜はなんだか心もとない、寂しいような気持ちになった。この平和とて、もしかすれば一時の幻かも知れぬのに、そう思ったのだ。
 だがメロダークの頭が肩の上にのってきて、物思いは中断させられる。
「メロダークさん。私のことは気になさらず、どうぞお部屋で」
 目を閉じたメロダークがもごもごと何かを言った。よく聞き取れなかったが、声の調子から大体、わかる。
「危ないことなんて」指を伸ばし、半ばまどろむ男の額に垂れた前髪を払ってやる。髪が伸びてきた。そろそろ切って差し上げないとと思う。「今のホルムには、何も」
 返事はなかった。肩に伝わるメロダークの呼吸は深く緩やかだ。神殿に越して来た当初は胡散臭い流れの傭兵、行く当てのない探索者という目で見られていたメロダークも、冬を越してようやく「神殿の神官さん」としてホルムの町に馴染みはじめたように思える。「神官さん」としての雑事はもちろん、敷地内の草木の手入れやら礼拝堂の修繕やら荷物運びやら力仕事は途切れることがなく、最近は神殿の外でも何かあるたび信者の人が呼びにきては男手として駆り出され、くれぐれも無理はしないようにと念を押しても例によって例のごとく「やれというならやろう」で、早朝から深夜まで一日を休む暇なく忙しく働いている。このうえ、自分のきまぐれな夜の散歩にまでつきあうことはない。護衛まがいの真似などせずにきちんと休んでくれたら、こちらとしても安心できるし気も楽なのに。とはいうものの、男がそういう性分だとマナも承知しているので、
「心配性」
 耳元に囁くだけにとどめた。
「強情。過保護。無理ばっかりして。言うこと全然きいてくれないんだから」
 黒い髪からは汗の匂いがする。夜風は生ぬるく、やがて来る夏の厳しさを予感させた。
 肩が疲れてきたので身じろぎすると、メロダークの頭が下がっていった。慌てて座り直し膝枕をしてやる。しばらく不自然な姿勢で頭を預けていたメロダークは、マナの手と両膝にうながされ、狭い石段に仰向けに寝転んだ。だがすぐに体の向きを変える。引き寄せられた下腹に顔を押し付けられ、あう、と息をとめたが、まあいいか、とすぐに力を抜いた。誰か来たらすぐにわかるし、そもそも誰も来ないだろうし。最近どうも警戒心というか羞恥心が薄くなっている気がする。柔らかく無防備な部分に感じる吐息や、腰に回された腕の感触も、今はもう馴染みの物だ。
 色々なことに慣れてしまっている自分に、これでいいのかな、とまた少し不安になった。
 メロダークの肩に手をのせる。無防備すぎる寝顔で、この人こそいくらなんでも油断しすぎなのではないかしら、曲がりなりにも外なのに、以前は決してこんな風にお休みにはならなかったと思う。彼も少しずつ変わってきている。その変化はもちろん悪い物ではないのだけれど。
 丸い白い月が南の空にある。雲はなく満天の星だ。夜空を見上げても、あの日天空に現れたアーガデウムがどれほどの大きさでどのくらいの高さにあったのか、マナはうまく思い出すことができなかった。多分、きっと、忘れてしまった方がいい事柄のひとつなのだろう。
 代わりにこの星空の下のどこかにいる、幾人かの仲間の顔を思い出した。長い間会っていない人がおり、もしかしたらもう一生会えないだろう人がいる。地下の遺跡を抜けた世界で出会った人々や獣たちも。ここにはいない。
 もういない――。
 男が身震いした。羽織っていた長衣を脱いでかけてやると、すぐに片手で突き返される。
「寝てるのか起きてるのかはっきりしてください」
 文句を言うと、のろのろとメロダークの頭が持ち上がった。起き上がるかと思ったが、膝の上で寝返りをうち、仰向けになっただけだった。自分を覗き込むマナの顔をぼんやりと見上げていたが、ようやく口を動かし、
「眠い」
 と言った。寝ぼけているので大したことを言わない。
「部屋に戻ってください」
「お前も来い」
「嫌です、眠くないもの」
 メロダークの指が伸びてきた。顎を捕らえた後、頬からこめかみにむかって滑っていく。二本の指が白い耳朶で遊び、
「強情だ」
 今度は自分が言われてしまった。
「嫌ですか?」
「神殿の中ならいいが外に一人では」
「じゃなくて、私が強情なの。あと、がさつなのも。あんまり考えずにしゃべるし。そそっかしいし、口うるさいし。それにすぐ怒るの……泣くのも」
 メロダークが沈黙した。
「いや、俺は」言いかけて口調がかわり、「自分で欠点だと思うなら、直せ」身も蓋もない正論がきた。
「……う……そ、そうですね。じゃあ、直します。あと……あと、夜に……ん……その、すぐに……夜……」
「それは構わん」
 メロダークが起き上がり、赤くなって目を伏せたマナと並んで座った。いくらか眠気の覚めた顔になっている。マナが膝にのせていた長衣を取ると、彼女の体を包んだ。
「眠れずとも横になっていた方がいい。体が辛いぞ」
 不眠の皺寄せは当然昼間に不意の眠気となって訪れて、しかし日中の眠りはいつも断片的だ。礼拝や食事の最中、ふと気が緩むたびに意識が飛び、気がつくと揺れる蝋燭の側で壁にもたれ、あるいは食卓で匙を握ったまま、短い眠りに落ちている。メロダークやアダが心配するのも当然の話なのだった。今もメロダークの一見すれば冷静なまなざしの底には、温かな気遣いと自分への心配が揺れている。先程まで彼の心配を面倒に感じていたのが恥ずかしくなる。こんな風にこんなところでまで、優しさに慣れてしまっている。
「ごめんなさい」
 思わずそう口走れば、メロダークが静かに言った。
「謝るな」
 確かにこれを謝罪するのもおかしい気がする。だからといってお礼を言うのもやはり少し違っていて、うまい言葉が見つからない。結局無言で肩を引き上体を傾けてもらい、近づいてきた首筋や頬にいくつか、短く軽い口づけをした。娘のしたいようにさせていたメロダークは、マナが体を離したあと、「ずっと考えていたのだが」と言った。
「何かの予兆ではあるまいな」
「予兆?」
「お前の不眠がだ。またタイタスの、いや、タイタスと繋がる何かの影響を受けているのではないかと」
 マナはゆっくり瞬きした。そういった可能性については一度も考えたことがなく、完全に予想外の指摘だった。男の顔を見上げ、しばらく考えていたが、言った。
「違うと思います。そういうのじゃないんです」
「気づいていないだけで――」
 自分が思っていたのよりたくさん心配をさせていたことに気づいて、申し訳なくなる。
「本当に。だって、えっと、眠れないのには心当たりが……自分でもわかっているんです」
「この前はさっぱりわからんと言っていた癖に。なんだ」
 あまり答えたくなかったが、黙っていると強い声で先をうながされる。
「マナ」
「……ただ不安なんです。その……春が終わってしまうのが」
 青白い月の光の下で、メロダークの眉間に深い皺が刻まれた。
「メロダークさんのせいじゃないですよ!」
 慌ててそう断ったが、一足遅く、メロダークが黙ってうなだれた。メロダークの膝を片手で揺さぶったが、顔をあげない。
「本当に、全然、これっぽっちも! むしろ逆です、逆。私が大丈夫なのかなって」
「同じことではないか」
 完全にそっぽをむかれてしまう。名前を呼んだが振りむかない。
「……そんなに拗ねなくても」
 ぽつりとつぶやいたらしっかり聞こえていたようで、「どうせ俺は」と耳を疑うような台詞を、大の男が口にした。本格的に拗ねた。
 さすがに閉口し、しかしそこまで悲しませてしまったのかしらと心配になって顔を覗き込めば、やはりそれなりに傷ついた様子だったので困ってしまう。しかし今度もまたごめんなさいと謝罪するのはおかしいような気がする。悩んでいると、メロダークが手を伸ばしてきて、短くも軽くもないキスをされた。
 唇が離れたあとは、石段に腰掛けた男の膝に抱かれる格好になっている。身じろぎすれば抱擁が一段強くなる。以前は特別だったはずの色々なことが、もうこんなにも当然になってしまったと思う。この平和も、自分の側が彼の居場所であることも、眠れぬ夜を一緒に過ごせることも、固く抱いてくれる腕も、ずっと側にいることも。
 馬鹿な自分はこの幸福にすぐに慣れ、一度慣れてしまったら、次はいつか訪れる変化がとても怖い。繰り返す夜と朝、留まることなく流れる時間の中で、日々の輝くような幸福が失われるのが恐ろしくなる。どうか変わらないでという願いに潜む虚しさもおそろしさもすでに知っていて、だからその言葉は口には出さず、恋人の背をできるだけの力で抱き締める。
「もしも何かの予兆であったとしても大丈夫だ、安心しろ」
「俺がいるから大丈夫だ?」
「そうではない。タイタスにすら打ち勝ったお前だ。乗り越えられぬ試練などあるはずがない」
 甘い気持ちをぴしゃりと断ち切るようにそう言われたので、ぽかぽか背中を叩いておく。
「……俺がいるから大丈夫だ」
「安心しました」
 時々、とメロダークが言った。
「自覚がないようだが、横暴だぞ」
「ん……じゃあそれも。春の間に頑張って直します」
「そういう風にせくから眠れなくなるのだ」
 メロダークが膝を崩しマナの体を懐に深く抱え込むように抱き直した。さっきよりも低い声で付け足した。
「すぐでなくていい。死ぬまでになんとかしろ」

 すぐにお説教をするんだから。人のこと子供だと思って。自分だって子供な癖に。鈍感。優しくして欲しい時に冷たいし、料理の腕も相変わらずだし、あんまり好きって言ってくれないし。
 お願いだから変わらないで。
 いいえ、どうかあなたの望むように変わっていって、私もきっと変わっていく、それでもずっとそばにいられますように。

 呼吸にあわせてゆるやかに波打つ男の胸にもたれ、強く確かな心臓の鼓動に耳を澄ますうちに、体から力が抜け、下ろした瞼が重くなっていく。
 ようやく訪れた微睡みの中で我知らず男の名前を呼べば、「ここにいる」、耳元に囁かれ、そうだ例えどれだけ時が経とうとも変わらぬ誓いはきっとあるのだと安心し、甘い香りのする春の夜から離れ、眠りの淵へと沈んでいった。



 この春もじきに過ぎる。
 やがて来る初夏、娘は花嫁になる。



end

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