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魔術師の弟子

大廃墟前 / ネル テオル


 明け方の町を歩く。
 目的はない、単に目が覚めただけだ。

 小高い丘の上にある大河神殿にはすでに明かりが灯っている。大河に背をむけて森の方へと目をやると、岩山の中腹の館にも篝火が揺れている。兵士の宿舎があるからあそこは不夜城だ。
 しかしネルの足は自然と森へ――デネロス師匠の小屋へとむかう。デネロス先生の朝は早い。挨拶のついでに朝食の用意を手伝って、ついでに久しぶりに朝食を一緒に食べてもいい。デネロス先生のところへはとんと御無沙汰だった。
 庵は森の中にあり、森には迷宮がある。
 遺跡から湧き出た夜種どもが跋扈しはじめてから、デネロスの元を訪れる人は探索者ばかりになった。しかしネルは自分を探索者と思っていない。雑貨屋の娘兼魔法使い見習い入門者のつもりだ。もっとも用心のために手斧は腰に下げてきたし、このあたりの森をうろつく夜種が相手ならば、遅れをとらない自信はあるのだが。ネルはごく自然な手つきでベルトに挟んだ斧の位置を調整し、それから自分のやっていることに気付いた。
 これではなんだか、熟練の探索者のようだ。
 ネルは重たいため息をついた。
 ――いや、探索者じゃないとしてもさ、使いこまれた手斧を持ち歩いて、化け物を一撃でしとめる自信のある女の子って、客観的に見てどーなの?
 ……しかしデネロスから魔術師としての弟子入りをきっぱり断られ、そろそろひと月が経とうとしている。
 小さな子供のころからずっと、魔法使いになるのが夢で、それなりに一途に頑張ってきたつもりで、簡単に夢をあきらめるつもりはなかった。少なくとも、ホルムが昔のホルムだったなら、ネルは全力でデネロス先生にくらいつき、弟子入りさせてくれとごり押しで頼んでいただろう。
 しかしいまやホルムは、魔法を本職とする者や簡単な魔法を扱う者が集う町だ。毎日ひばり亭に顔をだし、遺跡の探索を行うネルは、彼らと自分の差を意識せずにはいられない。
(シーフォンくんなんて私より年下なのにすごいもんねえ。あーあ。でも魔女以外になりたいものもないしさあ。ほんと私って……)
 葉を落とした木々の間から、小鳥のさえずりが響きはじめている。じきに冬を迎える森の朝の空気は清冽だ。流れる川の側を通りかかったとき、ふと、子供時代には他にも夢があったことを思い出した。
『王子様と結婚する!』
 子供のときマナを相手にそう言った記憶がある。
 結構マジだった。
(……ほんっとーに私って……。もしや駄目な子? パリスのこと笑えないくらい駄目な子?)
 本気で落ち込みかけたとき、少し先で茂みが揺れた。
 音がきこえた瞬間に、ネルは間髪をいれずに帯から手斧を引き抜いていた。茂みの方へ向き直る。誰、なんて声はかけない。息をひそめた。
 東の空は白々と明け始めているが天球はまだ暗い夜に覆われている。二、三十歩先の場所に――木々の間に長身の人影があった。一歩、二歩、茂みを割ってゆっくりネルの方へと近づき、止まった。ネルは手斧を構えたままで目をこらす。細部はわからずとも知り合いならば判別できる、人間と夜種の区別もつく、そんな距離と光だった。
 誰かわかった瞬間、左右の手で手斧をお手玉しながら、「てててテッテッ」と叫んでいた。慌てすぎて舌がもつれる。刃物をむけていたと知られれば、今日の昼には処刑されていてもおかしくない相手だ。「テオル様!」ネス大公国公子殿下の名前を呼び、手斧は両手で背中に回して、遅ればせながら頭を下げた。

 直接顔をあわせたのは一度だけで、階上のテオルがネルたちを見下ろす格好だった。ネルは不機嫌丸出しなパリスを目線でなだめながら、マナとテオルのやりとりをきいていただけだ。その時にはわあなんか格好いいなあ楽しそうだし好きだなああいう人と思ったのだけれど、もちろんそれは遠くから見ての単なる感想だった。
 今のテオルはあの時と随分印象が違う。
 丈の長い肌着の上に銀糸の刺繍をほどこした薄い長衣をひっかけ、足元は皮のスリッパだ。寝室からちょっと出てきたよという格好で、両手を脇に垂らし、ぼんやりとした焦点の定まらない目でネルを、というよりネルのいるあたりにむけていた。声はきこえているはずなのに返事がない。
 ネルはそろそろと頭をあげて、手斧をごそごそと帯に束ねなおす。それでもテオルは何も言わなかった。
 何かがおかしい。
(……んんん? テオル様だよね。なんだろ……。ていうか寝ぼけてる? のかな?)
 テオルの両目は開いているが、魂が抜けたような表情だった。
 デネロス先生の庵は近く、領主の館は遠い。
 夜種も出る森の中にたった一人、武器も持たぬ部屋着姿でいるのはちょっとおかしくなかろうか。
(本当に寝ぼけてる?)
 テオルがばばーんと館の正面の扉を開け、「トイレ!」と大声で怒鳴ってからねむねむな表情でここまで歩いて来るところを想像し、思わずなごむ。
「探索者の娘だな」
「ひっ!」
 いきなり声をかけられ、飛び上った。
 テオルが腕を組み、鋭い目つきでこちらを見つめていた。いきなり目覚めている。さきほどまでの放心した様子は欠片もない。
「カムール殿の館で会ったな。こんな時間にこんな場所で何をしている?」
 まるでここが自分の庭で、外からネルが迷い込んできたとでも言いたげな口調だ。不信感まるだし。逆なのに。私が先に見つけたのに!
「えーと、その」さっきまで薄らぼんやりしてたのに何なのこの変わりようはと思いつつ、ネルは慌てた。ネルがテオルを発見したはずなのに、なぜか反対みたいになっている。 意識が戻ったテオルには迫力というか威厳がある。「目が覚めたので、散歩して、それで、ちょっと師匠のところへ行こうかなーっと」
「師匠?」
 ふとテオルの口調が変わった。
 ネルには彼がたじろいだように思えたが、まさかそんなはずはあるまい。
「魔術の師匠が……薬草師の先生がこの先に住んでいるんです」
 テオルの視線がネルの指先を追った。
 徐々に明るさを増す森の、川のせせらぎのむこうにある小さな小屋は見えたのだろうか。
 再び視線が戻ってきたとき、眼光は随分和らいでいた。にこりと微笑する。
「そうか。お前は魔術師か」
「……見習いの見習い、ですけど」
 ちょいちょいと指先で手招きされた。
 落ち葉を踏みしめ近寄っていくと、テオルが軽く腰をかがめた。
 顔が近づいてきて、わわ、となんとなく驚く。
 十字の傷痕はすぐ側で見るとひきつれ、他の部分よりも一段白くなめらかだ。痛そうだ。ラバン爺の左腕を思い出した。もっとずっと小さかった子供時代、ラバン爺の肩に触って「痛かった?」ときいたら、ラバン爺は笑って「昔のことだから忘れちまったなあ」と言ったものだ。でも痛かったことを忘れちまったりできるものなのかなあ。テオル様も忘れちまったりしてるのだろうか。
 テオルはごく真面目な顔で、「己もだ」と言った。
 打ち明け話をするように言った。
「実は己も、魔術師の見習いの見習いなのだ」
「えっ? ええっ? テオル様が? 殿下なのに?」
 ネルの驚き方がおかしかったのか、テオルは天を仰ぎ、大声で笑った。心底楽しそうな笑い声で、やっぱり結構好きだなあこの人と思ったネルは、同時にすごいことに気付いてしまった。
――そういえばこの人、王子様だよ!

 いやでも別に王子様というのはテオル殿下をずばりと指していたわけではなくてもっとふわーっとした王子様ーっていうか、そもそも王子様と結婚したいというのは子供の頃の単なる夢とか憧れで女の子なら一度は言うものだし、年齢がひと回り以上は離れていて王子様といえどもややおじさんだし、テオル様は結婚してるんですってよーとお母さんが言ってたし大体テオル様を好きとはいっても人間的に好きという意味であってラバン爺とかデネロス先生とかガリオーさんとか皆好きだしってわー全員おじさんだーってち、違う違う、断固としてあっちもこっちもそういう意味ではない、格好いいけど! テオル様は確かに格好いいけれど!
 意識しまいとすればするほど、がちがちに意識してしまう。
 わわわ、違う、ほんっとーに違うのに!
 なんなのこの『好きな人と一緒にいて緊張しちゃう』感じは!
 テレージャあたりがいればその心理状態についてひとくさり蘊蓄を垂れたあと、「つまりそれが思春期ってやつだな」と解説してくれたに違いない。
 一人で赤くなってじたばたしていたネルは、テオルが自分を面白そうに眺めているのに気付いて動きをとめた。
「そうだ、まだ見習いの見習いだ。扉を開く準備すらできていない。師匠には怒られる。困ったものだ」
「……怒られるんですねえ、貴族様でも」
「上に立とうとする人間こそ厳しく打たれるものだ。火と鎚で鍛えられねば、鉄は強くならん。人間も同じだ」
 そう言いながらテオルの手が髭をなでた。なんの根拠もなしに、その髭は手の逃げ場として用意されたような気がした。つまり髭が生える以前にはテオルは顔の傷痕を触る癖があったのではないかと想像したのだった。
話の方はよくわからなかったので、「そういうものですかねー」と正直に言う。
「そういうものだ」
「あっ、もしかしてここにおられるのも、魔術の練習ですか?」
 思いついてそういうと、テオルはこくりと頷いた。あーすごいなあ、一人で練習できるくらいなんだ。見習いの見習いじゃないよそれは。
「寝ぼけてらっしゃったんじゃあなかったんですねえ」
 思わずそう言ってしまい、あわわと口を抑えた。失言だ。
 しかしテオルはにこやかに笑っている。笑いながらネルの頭上に片手をかざした。ネルは思わずひゃっと首を傾げたが、テオルの手は少女の少し上で静止した。しばらくの沈黙。テオルはやがて小首を傾げた。
「魔力がまったく感じられんな」
 ときめきが吹き飛ぶ勢いで、落ちこむ一言だった。
「……だから見習いの見習いなんです」
 いじけた声でそう答えると、テオルの手が下りてきた。
 頭を優しくなでられる。
「ははは、残念なことだな――しかし夢を持つのはいいことだ。夢のない人間は泥と同じだ。火と鎚で持っても鍛えられん」
「……」
「お前は探索者として……古代アルケアの遺産を地上へ運び……立派に働いているのだろう? その調子で、この国のために鉄となれ」
 ネルは耳まで赤くなっていた。
 いいことを言われているような気もするのだけれど、手と頭の方に意識がいって、何も考えられない。
 と、と、ときめくなあ。
 さすが王子様。

 デネロスはやっぱり起きていた。
 炉にむかって腰をかがめ、鍋をかきまぜてる手をとめず、駆けこんできたネルに孫にむけるような笑顔をむける。ネルも祖父にむけるような笑顔を返して元気に挨拶した。
「おはようございまーす! 先生、私さっきすっごい方にお会いしたんですよ! 誰だと思います?」
「さてね、儂には見当もつかんよ」
「テオル様ですよ!」
 デネロスは眠たげな目を二、三度しばたかせた。
「……この間も会ったというとったじゃないか」
 ネルの感動はいまひとつ師匠に伝わらなかったようだった。デネロス先生に熱く語るのはあきらめた。後からマナに語ろう。熱く語ろう。デネロスはいつものローブの上から外出用のマントを羽織っていた。薬用の鉄鍋からは苦い匂いが湯気と一緒に湧き出している。
「早速ですまんが、留守は頼めるかね? 鍋から目が離せんのだが、急な用事ができて弱っておったところでな」
「ええ、ばっちりですよ。何かあればお手伝いするつもりで来たんですから。朝ご飯も用意しときますよ!」
 腕まくりしたネルはデネロスから柄杓を受け取った。鍋をかきまぜ始めてすぐに、これは復活薬だなあと思った。自分で調合した経験はないが、デネロス先生が作っているのは何度も目にしている。高価で貴重で手間がかかる薬だ。魔術師としては駄目! なのかもしれないが、高度な薬草の調合を頼まれるあたり、調合師としては信頼してもらっていることに嬉しくなる。
「そのうち透明になるから、それまで混ぜ続けてくれ。火からおろすのは完全に透き通ってからだ」
「はーい。でも先生、急な用事ってなんです?」
「なに、結界の様子を見にいこうと思ってな」
「それが急用なんですか? 結界がどうかしたんですか?」
「それを見にいくのだ。洞窟の周囲に作っておった結界が消えておる」
「ご一緒しますか?」
「いや、大丈夫じゃろう。動物か馬鹿な兵士が踏みつけたのかもしれん……そうでもなければおかしい消え方だ。今のところはその薬の方が心配じゃわい――ではすまんが頼んだよ」
 慌ただしくデネロスが出ていく背中を見送ってから、ネルは鍋にむきなおった。会話のあいだも一瞬も手は休めていない。
 結界の破れはテオルと関係があるのだろうかと思ったのは、一人になってしばらくしてからだ。だがすぐに頭をふり、その想像を打ち消す。テオル様が――この国のために鉄になれ、という王子様が――ホルムの町に悪いことをするはずがない。そのうち、鍋が泡立つこぽこぽいう音にあわせて、ネルは鼻歌を歌いはじめた。


end
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