竜の塔 /マナ メロダーク
薄暗い神殿の廻廊を抜けて広々とした墓地へ足を踏み入れると、太陽の光に目がくらむ。
マナは片方の掌を額に当て、春にしては強すぎる夕暮れの日射しを遮る。真新しい墓石の並ぶ墓地は、今日はめずらしく人影もなく、ひっそりと静まり返っていた。
箒を片手に大河を見下ろす崖の方へと近づいていく。日当たりが悪く砂利も途切れた端の一画には、身寄りのない人々のための共同墓が建っている。供えられる花もなく参る人もないその場所を、マナはいつも最初に、そして一番丁寧に掃除するようにしていた。誰からも顧みられることなく死を迎えた彼らの墓と、生まれてすぐに捨てられた自分の生い立ちとは、どこかで重なりあっているように思える。それを口にすれば、養い親や友人たちを困惑させ、悲しませることはわかっている。だからこの共同墓に眠る死者たちへの共感は、誰にも漏らしたことのない、ささやかな秘密のひとつだった。
南から大河を渡ってくる風は、春らしからぬ腐った悪臭を含んでいる。ぎらつく太陽といい赤茶けた河の流れといい、今年の春は天気までも異常だ……すぐに異常の原因となった遺跡へと、考えが流れていった――うつむき、無意識のうちに箒を固く握りしめ、それを焦点具に見たてて集中していた。暗闇から現れる夜種たちを見れば、すぐに体をがすくむ。もっと強くならなければいけない。ラバン爺は無理をするなと言うけれど、多分多少は無理をしないと駄目なのだ。なぜならあの怪物たちは、自分があの洞窟に踏みこんだことによって目を覚まし、あふれ出て……。
風が吹き、重く葉を茂らせた大樹の枝々が、頭上で音を立てて揺れた。普段なら気にもとめないような風の音だったが、ふと顔をあげ、ぎくりとして足を止めた。
さっきは気付かなかったが、大樹の下に人がいる。
長身の男が共同墓の小さな墓石の前でうつむいていた。傾き始めた夕日に伸びた男の影は背後の大樹と溶けあい、天にむかって立つ巨人の影のように見えた。
指先を組み合わせ静かにうつむいていた男が顔をあげこちらをむくまでの数瞬、周囲から音が消えていた。
心臓も多分止まっていた。
大風になぶられ、息をとめ、目を見開き、唇をかすかに開いて、胸の底の奇妙なざわめきが全身に広がるのをただ感じていた。その夜、寝台に横たわり、暗闇の中で何度も寝返りをうちながら、あの人を見た瞬間に全身を襲ったあの感覚は一体なんだったのだろうと、ずっと自問していた――結局、その激しい胸の震えの意味を理解できたのは、ずっとずっとあとになってからのことだった。
男がこちらを見て二人の目が合った。
突然周囲の音が――大河の水流と大樹を揺らす風のざわめきが戻ってくる。大きく息を吐き、男がじっとこちらを見つめているのに気付くと、思い切り動揺した。
「あっ、あの……えっと――その、な、な、何を――」
舌がもつれてしどろもどろになる。
男の眉が片方だけ上がった。視線が一度墓にむかい、再びマナの上に戻ってくる。
「……何をしているのか、と?」
低い声に慌てて頷く。
今度は男の眉間に皺が寄った。
目つきの鋭さがいよいよ増した風であった。
マナよりひと回りかひと回り半歳上に見える。無造作に髪を伸ばし、小汚い身なりをしていたが、胸鎧だけはよく手入れされたあとがあった。ホルムではこれまでついぞ見かけたなかった、だが今ではどこにでもうろついている種類の人間だ――背中の大剣が、男が遺跡の探索者であると同時に、その腕を売る戦士であることを雄弁に物語っていた。
ひばり亭に毎日出入りするマナもすべての探索者の顔を覚えているわけではないが、それにしてもこの人には見覚えがない。一度でも会ったら絶対に覚えているはずだ。
――ひどく目立つ人だな。
そういう風に思った。心臓がまだ激しく脈打っている。
「祈っていただけだ」
それがどうかしたのかと言外に問われた気配に、
「あっ……そうですか」
と、間の抜けた相槌を打った。
それから自分が物凄く馬鹿な質問をしたことに気付いた。
墓石の前で手を組み合わせ頭を垂れているならば、それはそうだろう。祈っているに違いあるまい。――墓地を通りかかった神殿の人間が参拝者にかける質問としては、まず無茶苦茶だ。
赤面して箒を握りしめ、うろたえきった顔で男を見上げた。沈黙が落ちた。
「私の友人がここに葬られているようなので、祈っていただけだ」 噛んで含めるようにそう言われた。
「……ご友人が」
親しい人を亡くした人への慰めの言葉も、彼らの悲しみを和らげるための心の持ち方も、百通り、千通り知っている。子供のころから神殿で育てられてきたのだから、歳は若くても巫女としては一人前だ。そのつもりだったが、次の言葉がうまく出てこない。沈黙し続けるマナに、男の目がどんどん不審げな光を帯びてくる。
――こういうときなにを言うんだっけ? なんて言ったらいいんだろう? え、あれ、な、なんでわかんないの私?
まっ白になった頭の隅で、男が小汚い格好とは裏腹に、案外品のいい顔立ちをしていると思った。
気詰まりな沈黙から先に男が目をそらした。やけに礼儀正しい声で言った。
「それでは、失礼」
背をむけた男が神殿ではなく町の城壁へと続く小道を去っていくのを見送りながら、マナはまだそのままの姿勢で固まっていた。うるさいくらいに暴れていた心臓が落ち着いてきたのは、完全に男が姿を消した後だった。
かたく握りしめていた箒を持ちなおし、墓石の周囲に散った大樹の葉を払う。なんのおかしなこともなくいつも通りですよという表情を浮かべていたが、頬はまだ赤く染まったままだった。
ひどい失態だった。
もしもアダに見られていたなら、なにをやってるんだい、しっかりしな、と叱られるところだ。
頭を抱えて恥ずかしさをこらえるかわりに、唇を噛んでてきぱきと掃除をした。身をかがめ、腰帯にはさんでいた布を手にして、墓石の汚れを拭う。墓に刻まれた一番新しい人の名はエリオだ。あの洞窟からマナが連れ帰った旅人の骨はここに眠り、このように名前は刻まれている。
いつもより時間をかけて丁寧に墓を清めながら、マナは自分がもうひとつ馬鹿なことをしたのに気づいた。
さっきの人から、友人の名前をきき忘れている。
この墓で眠る人々のいくつかの遺品は、彼らの死に関する記録と共に、神殿に保管されている。年に数度は行方知れずになった家族や知人の死を疑う人がこの神殿に訪れて、そういうときには死体を見せるかわりに、記録や遺品を点検してもらうことになっていた。 ――もしも彼が探索者でなくただの旅人であったなら、友人だという人の遺品が故郷や遺族の元へ戻る機会は、永久に失われたことになる。
はっとして立ち上がったが、男が去ってからは時間が立ちすぎている。再びしゃがみこむと、マナは今度こそ頭を抱えて小さく泣きそうな声でうめいた。
「……ああーっ、もう! なにしてるの、私の馬鹿!」
そろそろと紫色の夕闇がひろがりはじめた西の空には、これだけは怪異の影響を受けていない金色の星が、いつもと変わらぬ輝きを放ちはじめていた。