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緑の下、星の下

竜の塔 / マナ メロダーク ネル


 ごらんあの白い子がマナだよ。



 薄暗い神殿の廻廊を抜け、広々とした墓地へ足を踏み入れると、太陽の光に目がくらむ。
 神殿の少女は片方の掌を額に当て、春にしては強すぎる夕暮れの日射しを遮った。墓地には今日はめずらしく人影がない。墓石の列はひっそりと静まり返っている。箒を後ろ手に持ち、崖の方へとぶらぶらと近づいていった。
 真新しい墓石の間には、若草がもつれるように伸び広がっている。随分と荒んだ光景だが、今の神殿には墓の手入れをするような余裕も人手もなく、物言わぬ死者はいつでも後回しだ。アダの許可を得て遺跡の探索が正式な日課となった今も、自分の我儘でなすべき仕事をさぼっているという後ろめたさは相変わらずで、荒れた墓地を前にマナの胸はちくちくと痛んだ。
 南から大河を渡ってくる今年の風は、腐ったようなひどい悪臭を含んでいる。夏のようにぎらつく太陽といい赤茶けた河の流れといい、この春はすべてが異常だ……多分これもまた、他の怪異と同じ根から出たことなのだろう――少女の考えはすぐにあの遺跡へとむかっていく。
 生真面目な表情の浮かぶ白い顔を伏せ、まるで魔法の焦点具であるかのように、無意識のうちに箒の柄を固く握りしめていた。
 暗闇から現れる夜種たちの前に立てば、いまだ恐怖に体がすくむ。
 そのせいで今日も、あの探索者の人に怪我をさせてしまった。もっと強くならなければいけない。ラバン爺は焦るなと言うけれど、いくら焦っても足りないくらいだ。なぜならあの怪物たちは、あそこからいくらでも溢れでてくるのだから――自分は遺跡へ行かなければならない――もっともっと深くへ――あの迷宮の奥底まで――。
 風が吹き、重く葉を茂らせた大樹の枝が頭上で揺れた。普段なら気にもとめないような葉のざわめきだったが、ふと顔をあげ、ぎくりとして足を止めた。
 日当たりが悪く砂利も途切れた端の一画には、身寄りのない人々のための共同墓が建っている。供えられる花もなく参る人もないその場所を、マナはいつも最初に、そして一番丁寧に掃除するようにしていた。誰からも顧みられることなく死を迎えた彼らの墓と、生まれてすぐに捨てられた自分の生い立ちとは、どこかで重なりあっているように思える。ただしそれを口にすれば、養い親や大切な友人たちを困惑させることもわかっていて、共同墓に眠る死者たちへの共感は、誰にも漏らしたことのないささやかな秘密のひとつだった。
 さっきは気付かなかったが、その共同墓の前に長身の男が佇んでいた。傾き始めた夕日に伸びた男の影は背後の大樹と溶けあい、天にむかって立つ巨人の影のように見えた。
 指先を組み合わせ静かにうつむいていた男が視線に気づくまでの数瞬、周囲から音が消えていた。
 心臓も多分止まっていた。
 大風になぶられ、息をとめ、目を見開き、唇をかすかに開いて、胸の底の奇妙なざわめきが全身に広がるのをただ感じていた。その夜、自室で寝台に横たわり、眠れぬままに何度も寝返りをうちながら、あの人を見た瞬間に自分を襲ったあの感覚は一体なんだったのだろうと、ずっと自問していた――結局、その激しい胸の震えの意味を理解できたのは、ずっとずっとあとになってからのことだった。

 男が振りむき、二人の目が合った。
 それで金縛りがとけた。
 消えていた周囲の音が――大河の水流と大樹を揺らす風のざわめきが戻ってくる。大きく息を吐き、男がじっとこちらを見つめているのに気付くと、思い切り動揺した。何か言わなければと思い、口を開いたが、
「あっ、あの……えっと――う……その、な、な、何を――ここで何を?」
 出てきた言葉はしどろもどろもいいところだった。
 男の眉が片方だけ上がった。視線が一度墓にむかい、再びマナの上に戻ってくる。
「……何をしているのか、と?」
 低い声に慌てて頷く。
 今度は男の眉間に皺が寄った。
 目つきの鋭さがいよいよ増した風であった。
 マナよりひと回り、あるいはもっと上に見える。小汚い身なりをしていたが、胸鎧だけはよく手入れされている。ホルムではこれまでについぞ見かけたなかった、だが今では町中をうろついている種類の人間だ。背中の大剣が、男が遺跡の探索者であると同時に、その腕を売る戦士であることを雄弁に物語っていた。
 ひばり亭に出入りするすべての探索者の顔を覚えているわけではないが、それにしてもこの人には見覚えがない。一度でも会ったら絶対に覚えているはずだ。
 ――ひどく目立つ人だな。
 そういう風に思った。心臓がまだ激しく脈打っている。
「祈っていただけだ」
 それがどうかしたのかと言外に問われた気配に、
「あっ……そうですか」
 と、間の抜けた相槌を打った。
 それから自分が物凄く馬鹿な質問をしたことに気付いた。
 墓石の前で手を組み合わせ頭を垂れているならば、それはそうだろう。祈っているに違いあるまい。
 墓地を通りかかった神殿の人間が参拝者にかける質問としては、まず無茶苦茶だ。
 赤面して箒を握りしめ、うろたえきった顔で男を見上げた。沈黙が落ちた。
「私の友人がここに葬られているようなので、祈っていただけだ」
 噛んで含めるようにそう言われた。
「……ご友人が」
 親しい人を亡くした人への慰めの言葉も、彼らの悲しみを和らげるための心の持ち方も、百通り、千通り知っている。子供のころから神殿で育てられてきたのだから、年は若くても巫女としては一人前だ。
 にも関わらず、次の言葉がうまく出てこない。沈黙し続けるマナに、男の目がどんどん不審げな光を帯びてきて、それに気付いたマナの混乱も加速した。
 ――え、あれ、な、なんで黙ってるの、私?
 焦りと動揺でまっ白になった頭の隅で、男が案外品のいい顔立ちをしていると思った。
 気詰まりな沈黙から男が目をそらし、やけに礼儀正しい声で言った。
「……それでは、失礼」
 背をむけた男が神殿ではなく町の城壁へと続く小道を去っていくのを見送りながら、マナはまだそのままの姿勢で固まっていた。うるさいくらいに暴れていた心臓が落ち着いてきたのは、完全に男が姿を消した後だった。
 箒を持ちなおし、墓石の周囲に散った大樹の葉を払う。なんのおかしなこともなくいつも通りですよという表情を浮かべていたが、段々顔が赤くなっていく。
 ――なんだか、なんだか……墓に祈りに来た方の邪魔をして、追い返してしまった……ような……気が……。馬鹿な子と思われてしまった……ような……。
 己のふるまいを振りかえってみれば、ような、ではなく、その通りなのだった。
 アダに見られていたなら、なにをやってるんだい、しっかりしなと叱られるところだ。
 頭を抱えて恥ずかしさをこらえたいところだが、あえて忘れることにして、てきぱきと掃除をした。身をかがめ、腰帯にはさんでいた布を手にして、墓石の汚れを拭う。墓に刻まれた一番新しい人の名はエリオだ。あの洞窟からマナが連れ帰った旅人の骨はここに眠っている。
 いつもより時間をかけて、丁寧に墓の周囲を掃除するあいだに、もうひとつ馬鹿なことをしたのに気づいた。
 さっきの人から、友人の名前をきき忘れている。
 共同墓で眠る人々の遺品は、彼らの死に関する記録と共に神殿に保管されている。滅多にないことだが、知人や家族を探す人々が神殿を訪れ、彼らの身内の死をこの場所で確認した際には、遺品を返すことになっていた。
 もしも彼が探索者でなくただの旅人で、宿場が並ぶ町の通りではなく外壁へむかったのがホルムを離れるためならば、彼の友人の遺品が故郷や遺族の元へ戻る機会は、永久に失われたことになる。
 笑いごとではすまない、これこそが本当にひどい失態だ。
 一気に血の気が引いた顔で、勢いよくふりむいた。
 町の西にそびえる外壁は黒々とした影となり、見張り塔には閉門を知らせる篝火が揺れていた。男が町を去ったなら、もう追いかけることもかなわない。
 しゃがみこんだマナは、土に汚れた手で頭を抱え、うめいた。
「ああーっ、もう! なにしてるの、私の馬鹿!」
 紫色の夕闇がひろがりはじめた空には、地上の怪異から遠く離れた星々がいつもの輝きをはなちはじめていた。


 しかしこれまでの人生における大きな失敗が大体そうであったように、この時もまた、とりかえしのつかないことにはならなかった。
 翌日の朝、探索の用意を整えてひばり亭に踏みこんだマナは、探索者たちでごった返す店内をいつもよりも丁寧に見回した。
 窓の光も届かぬ壁際に昨日の男を見つけ、
 ――よかった。
 安堵の息を吐いた。
 だがすぐには近づかず、暗がりに立つ陰気な表情の男を、しばらくの間、慎重に探るように見つめていた。
 昨日のように不可解な動揺は湧き起こってこない。ただし心臓がどきどきいっている。でもこれは昨日の気恥ずかしさが尾を引いているだけだから、大丈夫だ。大丈夫――しかし勇気を出して数歩近づいたところで、顔を上げた男の冷たい視線に、う、と怯んだ。
「おはようございます」
 とまどいを振りきるように明るい声と笑顔で挨拶してみたが、返事がない。
「昨日墓地でお会いしましたね。探索者の方だったんですね」
 固い沈黙が戻ってくる。男の顔からは何の感情も読みとれなかった。見る人間によっては訓練された職業的無表情と評したかもしれない。だがマナから見れば、そびえる高い壁のような無関心の現れだった。
「えっ、と……あのですね」
 ううう、と怯みきった。
 住人のほとんどが大河神殿の信者であるこの平和な田舎町で、マナはずっと“あの神殿の子”で巫女長の養い子で大河の巫女として育てられてきた。穏やかな敬意、親しげな微笑、礼儀正しい挨拶、年長者からの好意と愛情の混じった眼差しその他諸々、境遇にふさわしい扱いを受けてきて、こういった冷淡な態度をとられた経験がほとんどない。
 落ち着かない気持ちのまま、胸の下で組んだ両手の親指を無意味にぐるぐると回転させた。胸騒ぎの理由はさておき、こうして改めて言葉を交わして、はっきりとわかったことがある。
 ――私、この人、苦手だなあ。
 物凄くしゃべりづらい。
 そう自覚したとたん、またしても緊張してしどろもどろになってしまう。
「私、昨日お会いしたときに忘れていて……うっかりして……共同墓に埋葬した方にはご遺品が……ご遺品を……つまり、その……お名前をうかがいたくて」
「メロダークだ」
 頭の中で素早く墓地の記録管理簿のページを繰ったが、心当たりがない。もっともあの墓に眠る死者の大半には名前がない。獣や山賊に襲われて路上に倒れ伏し、あるいは波に洗われ大河の岸辺に打ち上げられた死者が、己の名を証明できる何かを持っているのは稀だ。
「メロダークさん、ですか」
 頷き、いった。神殿の仕事の話になって、いくらか冷静さを取り戻していた。
「メロダーク……メロダーク……わかりました。お名前のほうも調べておきますが、時間がある時にもう一度神殿にいらして、よろしければご遺品を確認なさってください」
 男がなんだか妙な目つきになっている。
「その方の持ち物がなにかあれば、故郷のご家族にお返しできればと。そうでなくてもあなたにお渡しできれば、その、亡くなられたメロダークさんもお喜びになるのではと」
「名が――」
「あっ、失礼しました。マナといいます。大河神殿で巫女をしております」
 自分なりに精いっぱい真面目な、大人っぽい表情を作り、素早くそう答えた。我ながらなかなか『ちゃんとした』雰囲気なのでは、ちらりとそう思う。これなら昨日のあわあわした失態がなにかの間違いだったと思ってもらえるのではなかろうか。
 長い沈黙のあとで、ますます妙な目つきになった男が言った。
「メロダークは私の名前だ」

 ホルムに起こった怪異は、大河や空気だけでなく人の流れも変えてしまった。
 昼夜を問わぬひばり亭の騒々しさにも、大通りを闊歩する武器を腰に下げた探索者たちの姿にも慣れた。これが今のホルムだ。すでに起こった変化を嘆いても仕方がない。神々ですら流れた星を天に戻すことはできないのだから。外から訪れた探索者たちにも見知った顔が増えてきて、彼らのそれぞれとも親しくなりはじめているものの、昔馴染みの三人でいれば、やはり一番ほっとする。例えそこが夜種が跋扈する遺跡の中であっても、ネルとパリスといればくつろいだ気持ちになれる。
 崩れた岩の上に腰かけたパリスは、略号だらけの実にわかりづらい自作の地図に目を落とし、時折唸り声をあげている。その足元にしゃがんだネルは、両膝で小さな石鉢を抱えこみ、洞窟で採取した薬草をごりごりと擦り潰していた。
 戸口で見張りに立ったマナは、自分の左腕をじっと押さえている。さきほど取り逃した夜種を警戒して暗い通路の先を探るように見つめる一方で、室内の二人の会話に耳を傾けていた。床に置いたランタンは三人の若者にぼんやりとした明かりを投げかけ、古ぼけた石の壁の上には、炎のゆらめきにあわせて彼らの影がちらちらと踊っていた。
「建物の作り的によー、絶対まだ先があると思うんだけどよ。あの扉がなあ。錠が特殊だから手持ちの道具じゃ無理なんだよなあ。帰ったらフランちゃんと相談してみるわ」
「えっと、領主様のところの女中さん? なんで?」
 ネルの言葉にパリスが人差し指を曲げてみせる。
「ええっ、そうなの!? 意外だなあ。あんなに小っちゃくてかわいいのに」
「いや、大きさ関係なくね? 本職そっちだと。結構腕いいぜ」
「パリスとどっちが?」
「オレが上」
「即答した!」
 くすりと笑ったマナに、ネルがちょいちょいと手招きした。
「マナさんや、薬できたよ。塗ってあげるからこっちおいで」
 無言でパリスが立ち上がり、見張りを交替する。ひんやりと冷たい床の上にぺたりと座ると、にじりよってきたネルが脇に手を回し、胸当ての紐を外すのを手伝ってくれた。上衣を脱がして肌着を肩までめくりあげたところで、ネルがぎゃっと声をあげた。
「なにこれ、どーなってるの!」
 背後から夜種の一撃を受けた左肩は、熱を帯び、黒い果実のように不格好に膨れあがっていた。
「見た目ほど痛くないよ。骨は無事だし」
 言い訳するようにそうつぶやいたが、ネルの手が患部に触れると、喉の奥から変な音が出た。上半身を曲げて、悲鳴を押さえこむ。
「マナ! もうっ、やっぱり痛いんでしょ!?」
「お前変なとこで我慢するよなあ」
 戸口の方からパリスの呆れた声が飛んでくる。
「ていうかよ、どうせばれるんだから黙ってる意味なくねえ?」
「そうだよ、痛いときは痛いっていう! ないしょにしてても治らない! かえって手間なんだから!」
 そろってまったくの正論で、何ひとつ反論のしようがない。ネルが膏薬をすりこみ始め、滑らかなネルの手が動くたび、激痛が肩どころか背中と頭の芯まで届く。鼻の奥がつんとなった。痛い。痛い痛い。
「……あのね、最初の日にこの上の洞窟で……遺体を見つけたじゃない。二人とも、覚えてる? あの白骨で青いマントの……側に手帳が落ちていて……」
 気を紛らわすためにしゃべり始めてみたが、声が震えている。
「その方のお友達が……偶然、この町に来ていて、あの……手帳を……お渡しできたんだ……けど」
「ふうん? 誰?」
「メロダークさん。あの、傭兵の」
「あー、メロさんね。アルソンくんがちょっと仲いいよね。そうなんだ。すごい偶然だねえ……で、だけどって何?」
「うん、偶然……けど、あの方……私、少し苦手……」
 一瞬、ほんの一瞬頭の中で何かが引っ掛かった。だがネルが持っていた布を包帯代わりに肩を固定しはじめ、新しい刺激と痛みに頭が真っ白になる。
「痛てててててて! 痛い痛い痛い」
 離れた場所からあがった悲鳴に、ネルが驚いて顔をあげた。パリスがすごい表情になっている。
「えっ、なぜパリスが!?」
「だって顔が痛がってね? なんかつられて……痛いよな!? その顔、今すげー痛いよなマナ!?」
「そうだよ、痛いんだから、ううう、わ、笑わせないで! パリスの馬鹿!」
「なんでだよ!」
 びりびり震えるほど痛いのとパリスがおかしいのとで呼吸がおかしくなる。息が詰まってもう駄目だと思ったときには、ネルが手当てを終えていた。「はい、おしまい」という声にこらえていた涙がこぼれた。苦痛のせいか笑いのせいかわからない。解放された腕を抱え、肩を上下させて必死で息を整える。ネルが背中をさすってくれる。
「応急手当だからねー。無理に動かしちゃ駄目だよ。それで、帰ったらアダ様にお祈りしてもらうこと」
 息を吸い、吐き、頷いたが、自分がアダに癒しの技を頼まないだろうこともわかっていた。心配させることも手をわずらわせることもしたくない。だがそれは口にせず、着衣を直して「ありがとう」と笑った。肩の熱い痛みは相変わらずだが、背や二の腕を侵す鈍い痺れの感覚はなくなっている。
「でも珍しいね。誰かが苦手とか、マナがそういうこと言うの」
 ネルは自分の手を拭い、調合の道具を片付け始めている。何にしても仕事が早い。道具袋にすべてをしまうと、マナの右隣に座りなおした。膝を抱えてマナの方をむく。
「そうだね。言うのも、思うのも、多分あんまりよくないんだけど」
「いいんでない? だってそれってさ、ちょっと余裕が出てきた証拠じゃない?」
「余裕?」
 意外な言葉に瞬きする。
「うん。人のこと気にする余裕。マナさ、最近ずっと遺跡のことだけでいっぱいいっぱいだったでしょ?」
「でもいいのかな。余裕なんてあって」
 ぽつんとそうつぶやくと、ネルが柔らかく肩をぶつけてきた。
「いいと思うよ。わたしはいいと思う」
 ネルの両目に明るい微笑が浮かんでいる。大丈夫だよといわれているようで、本当の本当に大丈夫な気持ちになってくる。
「ん……そうだね。ネル」
「なんだい?」
「ありがとう」
 二人で顔を見合わせてにこにこしていたら、
「ていうかよ、小汚いおっさんだから嫌なんじゃねえの?」
 戸口にしゃがんだパリスが、全力で身も蓋もないことを言った。
 

 木箱の蓋を両手で持ち上げれば、探し物はすぐ見つかった。
 汚れた衣類や錆びの浮いた装身具や穴のあいたなめし革の胴着が納められた一番上に、ぼろぼろの手帳がある。つい先日、この遺品入れの中に、マナが自分の手で収めた物だ。この箱の蓋を開けるのはひと月ぶりで、あれ以来身元のわからぬ死体はホルムでは発見されていない。春の異変で亡くなった人々は、全員が町の住人だった。彼らは自分の名を刻まれた墓石の下、血のつながった親族や友人の涙を受けた地面の下で、安らかな眠りについている。
 遺品入れの傍らに膝をつき、取りだした旅人の手帳を、マナはじっと見つめていた。
 あの日洞窟の暗闇の底に、手帳と骨は等しく沈黙していた。その光景も随分遠い。小鬼の群れを目にして感じた身が凍るような恐怖も、夢中で振り回した錫杖の重さも、パリスの怒号とネルの悲鳴も、チュナの小さな手の温かさも。ほんのひと月前のことなのに、あれから十年も時が経ったようだ。ホルムの町は変わった。そしてマナも。
 水と血と土で膨れた手帳の表紙をそっとめくり、かろうじて読める筆跡をたどる。アーガデウム、警告、使命……地上の太陽が見たかった。乱れた筆跡にも並ぶ言葉にもひどく不安を煽られるが、それはこの手帳の持ち主が辿った運命を知っているせいだろう。この人が迷うことなく忘却界を抜け、光差す天界へ到着していればいい。ぼんやりとそう思ったが、いつものように胸の内で祈りを唱える気にはなれなかった。
 天井近くに開いた小さな明かりとりの窓から差しこむ光に、ひとつの言葉が浮かびあがっている。
 冷たい石の床に膝をつき、それが聖典の一部であるかのように、熱を帯びた眼差しで広げた手帳を見つめていた。
 アーガデウム。
 その言葉が目を焼き胸を刺す。
 アーガデウム――。
 石柱に刻まれたその言葉。
 意味もわからぬひとつの言葉が、なぜこんなにも恐ろしく、同時に心惹かれるのだろう?
 最近の自分は本当におかしい。あの背の高い人のこともそうだし、現実としか思えない夢のことも……それに……それに……遺跡に対するあの得体のしれない熱烈な使命感。
 ネルに見抜かれた通りだ――だが気づかれてはいない――ずっと気づいて欲しくない――これはまだ知らぬ恋への夢想や、名もなき死者たちへの共感のような、子供じみた甘く柔らかな秘密ではない。遺跡に対する気持ちはそのようなものではない。洞窟を見つけた朝以来、マナの心はともすればすぐに遺跡へと向かっていく。あの洞窟、暗い遺跡、その奥に多分(必ず)存在するさらなる迷宮。逃れたいという恐怖と近づきたいという欲望、背反する二つがすべてを圧倒し、胸の中で激しくせめぎあっている。
 手帳を見つめる赤い瞳は紗がかかったように曇り、薄く開いた唇からは冷たい息が漏れる。深い眠りの中にある時のように、胸がゆっくりと上下していた。
 アーガデウム。輝くようなその言葉を見つめていると、蘇るはずのない記憶が……庭園の木々のざわめきが……空に輪を描く星々が……永遠の都……永遠の……。
 ……いつのまにか地面にむかって傾きはじめていたマナの肩が、開きっぱなしだった遺品入れの蓋にぶつかり、がたりと音を立てた。白髪の少女は、弾かれたように顔をあげた。再び静まりかえった倉庫の中に、自分の心臓の音がやけに大きく響いている。
 額に汗が浮かんでいた。
 理屈にあわない罪悪感が胸に広がっていく。
 紅潮した頬を乱暴にこすると、手帳を胸に抱き、急いで立ちあがった。


 中庭に建つ鐘楼塔の地下は、倉庫を兼ねた祭具室になっている。重い扉を開けて外へ出ると、洞窟から帰還した時と同じように、自然と安堵の息が漏れた。地面の上に立つとそれだけで安心する。日の当たる大地は人間の場所だ。
 朝の光に満ちた回廊を抜け、神殿の裏へ、男と待ち合わせた墓地へとむかっていった。
 メロダークは今日もあの共同墓の前に佇んでいた。軽い会釈にはかたい沈黙が返ってきたが、マナもそろそろ、この男の寡黙さに気付き始めていた。手帳を渡し、少しだけ肩の荷がおりたような気持ちになった。二人きりで会話を交わすのももう三度目で、落ち着いた気持ちで改めてその顔を見てみれば、
 ――小汚いおっさんである。
 慌ててその感想を頭から振り払った。パリスの馬鹿。
 ページを最後まで繰り終えて、メロダークの目はわずかに暗さを増したようだった。手帳を閉じると、
「マナといったな」
 と、いった。
 名前を覚えられていたことが意外だった。自然と背筋が伸びる。
「はい。ご遺体はひと月前に滝の洞窟の奥で発見しました。その時にはもう白骨に……弔いの場には私も参列して、お祈りさせて頂きました」
「……これはたしかに私の友人の物だ。お前が拾ってくれていたのか。感謝する」
 あいかわらずの静かな声だったが、これまでとは少し違う風にきこえた。
 大切なお友達だったのかな、ちらりとそう思った。
「お渡しできてよかったです」
 そう答えたあと気恥ずかしくなって黙り、大河からの風に揺れる髪を押さえて、うつむいた。普段は星々と木々しか見守る者のない共同墓の前に、無言で肩を並べていた。
 しばらくしてから、あれっと思う。
 自分でも意外なことに、こうして二人でいるのが嫌ではなかった。沈黙はどこか心地よい。
 ――もしかしたら、そんなに苦手じゃないかも。
 そっと横目で見れば、うつむいて祈りを捧げていたメロダークがちょうど顔をあげたところで、また目があうが先日のような奇妙な胸騒ぎは起こらない。ほっとする。
「メロダークさんは傭兵なんですよね」
 そうきいてみた。
「今日よろしければ、遺跡にご一緒して頂けますか? ラバン爺――いえ、信頼のおける冒険者の方から、これ以上深く潜るならば、本職の方を同行するようにと助言されていて」
「……」
「あっ、そうか、えっと……雇わせてください。報酬は」当然払えるようなお金がない。言葉につまるが、すぐにいい案を思いつく。「遺跡で換金できるような物を見つければ、それをお取り頂くというのでどうでしょうか」
 返事がない。こんな曖昧な報酬では駄目かとがっかりしかけた時、メロダークが言った。
「お前はここの巫女なのだな。なぜ遺跡へ行く?」
「えっ?」
「町の平和のためか? それこそ本職の探索者たちに任せておけばいいことではないのか?」
 二人の頭上で、重く茂った木の枝が風に揺れた。
 まだ若い緑の葉が舞い落ちる。
 ただの傭兵がどうしてそのようなことを気にかけるのだろうと思った。メロダークの声の底に潜む棘に気付き、マナはかすかに眉をひそめる。
「怪異に苦しんでいるのは信者の方々ですし、眠り病にかかった子供たちの中には、私の大切な友人の身内もいます。それにここは私の町です。信者のために尽くすのも、故郷のために戦うのも、当然のことではありませんか?」
 非の打ちどころのない理由だ。皆がそうだと信じており、マナも自分にそう言い聞かせてきた。神官職につく人間がこう言えば、誰もが微笑を浮かべ、うなずき、お偉いことですと誉めてくれることだろう。それに神殿の人間が、日々の務めを投げ出して遺跡へ赴こうとするならば、これ以外の理由を持てるはずもない。
「生まれ育った故郷のため、か。立派なことだ」
 男の声は、今や聞き間違えようのない、尖った嘲笑を含んでいた。一歩後ずさり、距離を取ると、険しい目でメロダークを睨みつけた。
 なぜこんな言い方をするのだろう? どうしてこんなことを言うのだろう。まるで私が……まるで嘘をついているかのように。
 メロダークの目には冷ややかな光が浮かんでいる。
 信仰、奉仕、自己犠牲――見栄えがよく汚れのない諸々の言葉と感情に覆われた心の奥底に潜む、遺跡への激しい執着を見通されたように思った。膝が震え、頬が熱くなった。動揺はすぐに怒りへと形を変えた。
 ――なんなの、この人。
 メロダークからもう一歩遠ざかる。気持ちを落ち着かせようと大きく息を吸い、吐いた。
「……私は自分の生まれを知りません」
 巫女らしい冷静な口調になるよう努めたが、うまくいかなかった。
「赤ん坊の頃、神殿の前に捨てられていたそうです。巫女長様に拾われて、ここまで育てて頂きました。子供の頃から私はこの町で、一度も心細い、寂しい思いをしたことがありません。どの人も孤児である私に親切でした。巫女長様にも、ホルムの町の人たちにも、私は大きな恩があります。外から来たあなたにはわからないことです」
 睨みつけ、もう少し何か言ってやろうとしたが、何も思いつかなかった。怒りのせいか視界がぼやけている。瞬きしたが元に戻らず、自分が涙ぐんでいるのに気付いた。結局無言で一礼すると、踵を返した。
 いま口にしたのは全部本当のことだ。嘘ではない。私が遺跡へ行くのはチュナちゃんのためで……町のためで、ただ人々の役に立ちたいと……ただ自分のしでかしたこの不始末に片をつけようと……。
(アーガデウム)
 数歩も行かないうちに、草を踏む柔らかな足音が後をついてきた。
 ――この人、ほんとになんなの!?
 血がのぼったままの頭で、そう思った。
 歩幅が違うので何の苦もなく追いつかれる。左の肘をつかまれ、強引に振りむかされた。肩から首筋へと痛みが走り抜け、短く悲鳴をあげる。
「……わけがわからん」
 とまどった声が降ってきた。振り仰げば、メロダークが困惑を露わに少女を見下ろしていた。
「なんなんだ、お前は」
「そ」
 それはあなたのことですと言おうとしたが、口を開けたら嗚咽が漏れて、慌てて言葉を飲み込んだ。涙がとまらない。真っ赤な顔をして、固く結んだ唇を震わせ、ぼろぼろと泣いた。昨日は痛みと笑いで泣いて、今日は痛みと怒りで泣いている。
「は、は、は」と、いった。「は、放してください。そこ、け、け、怪我を……」
「怪我?」
「肩を」
 肘から離れたメロダークの手が、マナの肩をつかんだ。激痛に息が止まった。首筋を噛まれた猫の子のように、その場でぴたりと固まってしまう。上衣と包帯ごと肩に食い込む男の指を、こわばった表情でまじまじと見つめていた。
 ありえない光景だった。
 まったく信じられない。
 なぜ怪我をしていると伝えたその場所をつかむのか?
「いや――」
 かすれた声が出た。身をよじり、人を呼ぶために本当の悲鳴をあげようとした時、低い声が耳を打った。馴染みのある言葉、節回し、抑揚であった。
 メロダークは右手でマナの肩を押さえ、目を閉じて、低い声で祈りを捧げている。アークフィア女神ではなく、雷王ハァルの名を呼んでいた。
 祈りを終えると、そっと手を離した。
 マナは熱を帯びた自分の肩を押さえる。涙はもう止まっていた。
「あなたは、神官?」
「修行中だ。落ち着いたか?」
 鼻をひとつすすりあげてから、頷いた。
「あの……す……すみませんでした。取り乱して。ただ、町を……そんなつもりではないんです。故郷を守るなんて、本当はそんな立派なことではなくて、ただ……私……」
「いや、こちらこそすまなかった。あれは違う。お前を責めたわけではない」
 ほとんど聞き取れないほど低く、くぐもった声だったが、本格的にばつが悪くなって、じっとうつむいていたマナはその言葉に気づかなかった。
 涙が乾いたあとの目元がひりひりする。泣いているところを見られてしまった。ものすごく、しっかりと。しかも相手は自分と同じ神官で、苛烈さと厳しい克己で知られる大神ハァルの信仰者だ。今までの自分のふるまいを思い返すと、どんどん恥ずかしさが増していく。先日までの気まずさなど、この瞬間に比べれば子供の遊戯のようなものだ。沈黙に耐えきれなくなって、とうとう、か細い声をだした。
「私、なんだか馬鹿なことばかりしていますね」
「……」
「最初にお会いしてからずっと」
 返事が戻って来ない。長い長い沈黙が続く。目をあげてメロダークの表情をうかがうのに、心の中で短い祈りが必要だった。
 ――アークフィア様、どうか勇気を。たとえ本物の馬鹿を見る目で見られていたとしても、この方を恨まずにすむよう、私の心を強くしてください。それと、あの、気が挫けて泣いてしまいませんように。
 そこまで祈ってさすがに心配になり、(つまらないことをお頼みして申し訳ありません、でも私には大問題なのです)大急ぎでそうつけたしてから、勇気を振り絞ることに決めた。一、二の三で顔をあげようと思う。
 息を吸い、心の中で、一、と数えた瞬間に、「マナ」と名前を呼ばれた。
「は、はいっ!」
 勢いよく顔をあげれば、想像とはまるで違うメロダークの顔がある。黒い目がまっすぐに、静かにマナを見下ろしている。
「待っているのだが」
「え? えっ? 何をですか?」
「お前が、行こう、というのをだ。お前は私の雇い主だ」
 言葉の意味を理解するまで時間がかかった。まだ赤いままの頬をこすり、本当にあんな条件でいいのだろうかと思ったが、それを確認するより先に、傭兵が穏やかな声で言った。
「他の探索者たちがそうするように、取り分は山分けでいい。友人が世話になった恩もある。お前がお前の故郷を守るのに、しばらくのあいだ、手を貸そう」
 かたくこわばっていた少女の体から緊張と不安が消えていく。次の言葉を口にするのに、もう勇気は必要なかった。
「ありがとうございます!」
 弾むような声でそういうと、メロダークがわずかに頷いた。

















 ごらんあの白い子がマナだよ。いさましい姿でつわものどもの先に立ちきょうも遺跡へおりていく。あれがホルムの町の大河の巫女だ。あの娘は女神アークフィアにおつかえしてまちの平わのためにたたかっていると思ってる。みんながそうだとおもってるだけど本とはそうじゃないぜんぜんちがうかんちがいならくのたいもんをひらくためつくられたしろいむすめがおりていく。ちのそこへ。
 ちのそこへ。

 ちのそこへ。



end

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