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麦を踏む火

神殿軍侵攻前 / メロダーク マナ

 少女の体がまだ大人になりきっていないせいで不安になる。青い麦を踏みにじっているような気持ちになる。苦痛ばかりを与えている気がする。しかし他の方法を知らない。自分が快楽を与えられているのかを確認するために、神殿の香が残る長い髪をつかんで後ろにひき無理やり顎をあげさせてから、ああしまったこうではなかったと思う。こんな方法で抱いている女の顔を見ようとするのがおかしいのだ。あの村で仲間たちから女は馬ではないんだぞと笑われたのを思い出す。場末の娼婦ですら腹を立て、銅貨を顔に投げつけるだろう。しかし神官の娘は、髪の毛をつかまれたまま笑ってみせる。青ざめた顔に脂汗がにじんでいる。見ているこちらが苦しくなるような無理のある笑みだ。手をさしのべて私の頬に触れ、それこそまるで場末の娼婦のように「動いても大丈夫ですよ」という。「大丈夫です」大丈夫なわけはないとわかっているのになぜかわからないふりをして私は頷き、彼女の背を草の上に押し当てる。乱暴な動きに悲鳴の形に彼女の口が開き、声もなくゆがみ、血の気の引いた顔の中で苦痛をこらえて何度も歯を立てた唇だけが赤く染まっている。このまま苦痛が限界を超えたらどうなるのだろう、死んでしまうのだろうかと思う。彼女の苦痛は私の快楽となって全身を駆ける。

 初めになぜ彼女が逃げなかったのだろうと思う。
 最初の時に私は酔っていたせいもあるが乱暴きわまりなかった。さっきまで料理があった卓上に少女の体がのっていることに面白さを感じて笑っていたような気もする。冷たい腹から滑らせていった指が女の部分に触れたとき、彼女が浮かべた恐怖と狼狽の表情がどれだけ私を興奮させたか! 聖職者が巫女を抱くのはユールフレールの神殿では当然決して許されない行為だ。しかしここはユールフレールではなく、この地の私は神官ではなく、少女は巫女だが憑代として用意されただけの器に過ぎない。器になんの苦痛があろう――違う、違う、そうではない、酔った傭兵が劣情を抑えきれずに手近な女を抱いたというだけの話だ。
 二度目のときにはなぜ声をあげて助けを呼ばないのだろうと思い、三度目には少女の立場では己の汚れを公にできないと気づき、しかしそんなことは多分最初からわかっていたのだ、さもなければ臆病な自分がこんな卑劣を行うまい。
 行為を繰り返しながらこれは単なる肉の欲だ、酔いのせいだ、好奇心だと様々に己に言い訳をしたのだが、そのうちにそうではないことに気づいた。これはあの麦畑での出来事の再現なのだ。だから毎回私は酔わねばらならないし、少女は苦痛に声を上げねばならないし、地面に組み伏せられた彼女の上で私は達さねばならない。

 宿に帰ると、ネス大公の甥が笑顔で私を迎えた。
「メロダークさん、このあいだの鉄、すごく上等なものだったらしいですね。ネルさんとガリオーさんが喜んでいましたよ」
 私が沈黙していると、アルソンはマナの具合をきく。
「今日はマナさんと行かれたんですよね。マナさん、体調はどうだって言ってました?」
「……どうだろう」
「早く回復してほしいなあ。僕ね、槍で二段を突く技を覚えたんですよ。これで先頭はお任せ下さいってなもんですよ」
 わくわくした表情で話し続けるアルソンを見ていると、純粋さはなんと限られた人間の特権なのだろうと思う。この青年は、突然住居や村が焼かれることも、姉や妹が兵士に追いかけられ犯されることも経験しないまま大人になっていくのだろう。そしておそらくは村人たちを焼くことも、泣きわめく少女を犯すことすらしないのだろう。ついさっきまで私が汚していた少女のことを、アルソンはまるで聖女でも語るように熱く語っている。密偵である私に親しげな顔で笑いかける。私はひどい疲労を覚える。


 靴底で麦が音を立てて折れる。
 刈り入れまではまだ遠い青い麦の穂を踏みにじり、私は女を追って走る。
 麦畑の周囲で松明を持った仲間たちが笑っている。
 逃げていく女の金髪が暗闇の中で炎をうけ輝いている。女の生まれた村が燃えているのだ。巨大な篝火の燃料は家々の屋根であり柱であり家畜たちであり、家に押し込められた村人たちである。風にのって悲鳴がきこえてくる。人間は焼かれて死ぬとき大声で叫ぶ。切られた時とは大変な違いだ。燃え上がる家々は空を焦がし、周囲には嵐のように絶叫が轟き渡っている。走りながら私は笑っている。酔いが回って死にたいくらいに楽しい。女は素足だ。すでに白い肌着一枚しか身につけていない。肩越しにちらりとふりむいた顔はまだ幼い少女のものだった。
 部隊長の酔った声が風にのって私の背を押す。駄目だ、駄目だ、メロダーク! 何しろ我々は極悪非道なメトセラ人なんだからな、犯したあと殺して殺したあと犯してやれ! 刃物は使うな、首を絞めろ、死ぬ瞬間にぎゅっと締まって気持ちがいいぞ! 小便をかけられるなよ!

「なぜ我慢しているんだ?」
 私がそうきくと、マナは頭をふった。
「我慢なんかしていません」
 強情な調子で言う。私は質問を変える。「気持ちいいか?」「ん……いいですよ」これも嘘だ。体は強風にあおられ必死で耐える若木のように震えているだけだ。私の下で寝台と一緒に少女の骨がきしんでいる。


 まだ熱の残る汚れたシーツに座り、部屋の窓から通りを見下ろしていた。歪んだ窓ガラスを通して、遠ざかっていく少女の小さな後ろ姿を見つめていた。白い髪が揺れている。通りをいく人々からは笑顔をむけられ、時折は丁寧に挨拶されていた。ユールフレールとは違い、ここでは神殿の神官は恐れられていない。災厄が続くこの町で、いまや少女は平和を取り戻す希望の象徴となっている。
 一階の酒場へ降りると、天秤の巫女が一人で酒を飲んでいた。あらゆることを忌憚なく口にする彼女は、私に気づくと、眼鏡のむこうからやけに冷たい目をむけた。通り過ぎようとした私に彼女の声がかかる。
「メロダークくん、一緒にどうだね?」
「……遠慮しておこう」
「遠慮なんか捨てるといい。仲間同士でそんなこっちゃあ、迷宮の怪物どもとはわたりあえんよ。我々に必要なのは信頼ですよ、連帯ですよ、協調ですよ」
 アルソンの真似だと気づくまで少々時間がかかった。あまりうまくない。白い喉を見せて酒を飲みほした彼女に酔っているのかときくと、「酔っているとも」という返事がかえってきた。
「酔わずに飲んでは釣り合いがとれんからね。――きみ、キューグの教えは知っているかね? 天秤の神にとって、悪とは均衡の崩れをさすのだよ。アークフィアはすべてを許し、受け入れ、慈しむが、我らが知恵の神はそんな馬鹿げたことはしない。際限のない許しは悪にとってもっとも居心地のいい苗床となる……おや……おかしいな……どうやら私は女は悪だという話をしているようだ。逆のことが言いたかったのだがな」
「今のお前は、均衡を欠くほど酔っているようだが」
「安心したまえ、酔いのせいではない。単にきみは私に絡まれているのだ……あの娘のことでね」
 振りむいた私が、冷たい声で言った。
「お前とは関係がなかろう」
 テレージャはまったくひるまず、椅子の上で私にむきなおった。長身で均整のとれた女らしい体つきだ。テーブルに片肘をついたその姿は、太古の女神像とよく似ている。怒りによって地上に火を放ち、人々を滅ぼす女神だ。
「ああ、関係がないさ。私が愛するのは古の歴史と滅んだ人々の記録であって、生きた人間の苦悩や煩悶には興味がないのだ。だがつまらないね。勇敢な少女が泣くのを見るのはつまらない」
「なんだって?」
 思わず発した問いかけは、彼女を苛立たせたようだった。彼女は初めて声を荒げた。
「まったく、きみという男は――! きみだって気づいているはずだ。彼女がきみの元へやってくるのは、快楽のためではないことを」
「……」
「いいかね、単なる愛やら欲望やらの話なら、男と女のことだ、私だって口を突っ込むような野暮はしない。いや、具合はどうだったかくらいはきくかね。そのくらいの下世話な好奇心はあるとも。しかしきみは……私の推測が間違っていて、きみが本当に単なる傭兵であったとして……それでも……それでも彼女は……きみは何を考えているのだ? きみの心はどうなっているのかね?」
 私は口舌によって生計を立てるものではない。沈黙によってすべてを受け流すことしかできない。いつもは他人に頓着しないテレージャの怒りは、テレージャが少女に向ける愛情の分、よく研がれた刃のように私の心をなめらかに切り裂いた。
「彼女は子供なのだよ、メロダークくん。もしかしたらきみと同じくらいにはね」


 死体を並べて目を閉じさせたのは初めのうちだけだ。途中からはわざと頭を蹴るようにした。こいつらの罪は死んだあともまだ消えない、そのくらい悪い連中だったのだ、だからこれを殺してもよかったのだと最初は必死でそう考えるようにした――眠れぬ夜に何度も繰り返すうちに本当にそう思えるようになった――そして信じるようになった。しかし心はまったく安らかにならなかった。当然だ、すべて嘘なのだから。泣きながら父親の死体に駆け寄る子供に、そんな罪があるはずもない。メトセラの傭兵として戦っていたころの方がまだましだった。教国は悪いが私は善く、私が行う悪により善なる故郷は救われる。善悪に疑いの余地はなに一つなかった。だが大河神殿は……善である彼らが命じる善である仕事は……。
 異教徒の傭兵として私は私の遠い同胞たちを殺し、裏切り者を吊るし、村を焼いた。大河神殿に身を移してからは、命じられたままに異教徒を殺し、異端者を吊るし、村を焼いた。いつでも鎚をふるえば肉がとび、刀をふるえば血がついた。
 考えすぎるのはいかんぞ、心を無にしなさい。ハァルはお前が器となることを望んでおられる――バルスムス殿はそうおっしゃられた。私は祈り、確かに雷神が私の苦悩を取り除くのを感じた。私の心を犠牲にすれば神殿の任務は遂行できる。少数の彼らを犠牲にすれば世界の平和は保たれる。


 町の大門が開いたときには、まだ朝焼けが雲の端に残っていた。
 門の外にはすでに薄汚れた格好の一団が列をなしていた。年齢や性別は様々だが、皆両手や背に大きな荷物を持ち、疲れ切った表情を浮かべていた。夜種どもに襲われ、住み慣れた村を捨てざるをえなかった人々だ。夜種たちは武装して隊列を組み指揮官を置いて村を襲う。人間の軍隊と変わらない――違いは交渉の余地がなく人質が効果を持たず、死体を始末せずにすむことくらいか。以前、雑貨屋の少女が彼らと共存の余地はないかと言っていたことを思い出す。そんな道はない。殺すしかないのだ。そして彼らを殺しても、失ったものを取り戻せないのは、人間同士の戦争とさして変わらない。
 カムール卿は積極的に難民の受けいれを行っている。砦と避難所の数は半年で目に見えて増えた。夜種からの被害に応じて税金を免除するという布告がすでに出ていて、これだけの怪異と凶作に見舞われながらホルム領の人々がまだ落ち着いて見えるのは、カムール卿の手腕によるところであり、自治裁量を認めるネス公国の柔軟性でもある。しかし内政としては正しいこの行為が、兵士の数を減らし財政を圧迫し、領地内に無法者と不審者を増やしている――防衛の要所としてはぬかりがすぎる。公子テオルと彼の配下の駐在は西シーウァへの牽制もあるのだろうが、残念ながら彼らを歓迎しないホルム伯との間に新たな火種と軋轢を生んでいるように見える。難しいものだ。
 路地に立つ私の側を通り、難民窟へ入り込んでいく彼らの列を見ながら、私はそんなことを考えていた。
 無事に西門をくぐりぬけきた人々の列を離れ、大きな袋を体の前後で下げた行商人らしい身なりの小柄な男が近づいてきて、目礼した。
「西シーウァから来た布はいかがです、旦那?」
 見知った顔だった。
「見せてみろ」
 男はしゃがみこんで手早く袋を広げた。私もその場に腰を落とし、無造作に束ねられた色とりどりの布を手に取る。
「お安くしておきますよ。神殿の巫女にどうです?」
「……不自然だろう。どんな理由をつけて渡すんだ」
「しかし少しは買って頂かないと、重くて仕方がありません。全部自前ですから捨てていくわけにも参りませんし」
「代金は神殿のつけになるのか?」
「メロダーク様の方から請求していただければ」
 ちゃっかりしている。すっかりなじみになった大神殿の連絡員は、近いうちに始まります、と低い声で言った。私はそうか、とだけ答えた。貧民窟から漂ってくる悪臭と人々の気配が、やけに強く大きくなった気がした。「声をかければすぐに町にいる人間は集まります。あとはメロダーク様が指揮を」大きな笑みを浮かべた口の上で、瞬きをしない黒い目がじっとこちらを見据えている。「バルスムス様がそれまでに憑代を押さえるよう……最悪の場合は死体でもよいと」
 光沢のある布地の手触りに、自然とマナの肌を想起した。私の手と指は彼女をすでに記憶してしまっている。


 神殿の前を一旦通り過ぎたあと、思いなおして中へ入った。
 高くそびえた太い円柱の列が古い石の天井を支えている。
 信者たちの囁くような祈りの声が反響し、静かな波音のように神殿を満たしていた。粗末な祭壇には聖杯が飾られ、信者たちがその前に膝をついて祈っている。見慣れた光景だ。祭壇、聖杯、信者たち。大理石と花崗岩で築かれたユールフレールの大神殿の荘厳さや華麗さとは比較にならないが、集う人々の信仰心に違いがあるわけではない。神殿の清浄な空気はいつも私を安堵させると同時に、理不尽でやり場のない苛立ちを覚えさせる。
 小さいが手入れの行きとどいた中庭の前には、巫女の格好をした老婆が立ち、すすり泣く中年の女を慰めていた。老婆が身に付けた法衣は簡素で、地面に届く裾の部分は擦り切れ、ほつれている。ユールフレールなら下働きと間違われるような身なりだが、しかし彼女はこの神殿の巫女長で、マナと竜の子の養い親であり、バルスムス殿の古い友人でもある。ぴんと背を伸ばし胸を張った立ち姿には、己を厳しく律してきた人間に独特の風格と威厳がにじみ出ていた。女性の話に耳を傾け、静かに頷く仕草やまなざしは、驚くぐらいマナと似ている。少女がこの育て親に薫陶を受けてきたことは、一目すれば瞭然だった。大河の女神はもしかしたらそのために、この厳格で徳の高い女性をこの町に留め置いたのかもしれない。
 やがて中年の女は泣きやみ、繰り返し頭を下げると去っていった。巫女長は、おそらく次に話をきいてもらうために待ってた老人に声をかけ、ベンチに彼を座らせた。こちらへ――柱の影に立った私の方へとゆっくりと近づいてきた。私は彼女を知っているが、彼女は私を知らない。うつむいて通り過ぎるのを待っていたが、老婆は私の側で足を止めた。私の軽い会釈を巫女長は軽く頷いて受け止め、じっと私を見つめていたが、やがて「あの子は至聖所にいるよ」と言った。
「至聖所はそこの階段を下りた先だ……なんだね、面白くない。どうして用事がわかるのか尋ねないのかね」
「……」
「マナから話はきいてるよ」
 激しく動揺した私の反応を楽しむように、彼女はにやりとした。そうとしか形容のしようがない笑みだった。
「あの子を頼みますよ。女神様のご加護でなんとか人を助けることはできるが、自分の安全には頓着しなくてね。そうでなくちゃ巫女とは言えないが、養い親としちゃあ心配だ。体は大きくなってもまだまだ子供だしね」
 強烈に居づらくなって、私は軽く頭を下げ、いそいで巫女長のそばを離れた。もうマナの顔を見たいという気も薄れていたが、老婆の視線が背中に張り付いているのを感じて、私は階段を降りていった。

 崖に急な角度でつけられた階段の先にある至聖所は、神殿よりもさらに広く、古い建物だった。神殿とは違って、列柱が支えるテラスと階段は、南に広がる大河に続いている。大河にむかって膝をつき、数人の若者たちが祈りを捧げていた。丸めた背中から彼らの真剣さが伝わってくるようで、ここが特別な場所なのだとわかる。マナは一番端に跪き、両手をあわせていた。
 祈りおえて立ちあがったマナは、まだ真剣な表情のままだった。ふりむいて、階段の側に立った私に気付くと、はっとして立ち止まった。そして私をいつも戸惑わせるあの笑顔になった――「メロダークさん、どうしたんです?」
 なぜ笑みを浮かべることができるのだろう。なぜ近づいてくるのだろう。なぜ逃げ出さないのだろう? 彼女のまなざしには私への怒りも憎しみもない。
 私はいつも言葉を持たない。考えを問われても考え自体を持たない。私は器だ。大地に血を注ぐための道具だ。彼女も自分が古代の邪悪な皇帝の器であると知れば、こんな風に生き生きと語り・考え・微笑むのをやめてしまうのだろうか?
 神殿から階段を下りて人近づいてくる気配があって、マナはそっとそちらを見た。
「外を少し歩きましょうか?」
 至聖所は立ち話をする場所ではない。ここで人々は大河の女神に供物を捧げるが、ホルムの町では若者が己の職業への献身を誓う場所ともなっている。マナの祈りも、恐らくは彼女の将来のことなのだろう。
 夕暮れの大河のほとりを歩く彼女の横顔は、今までになく落ち着いているように見えた。
「ずっと私には、自分の信仰に対する疑いがあって」河の流れにかき消されるような小さな声だった。「アダ様は自由に楽しく生きればそれでいいとおっしゃるのですが、私はどうしてもそれでは足りないような気がしていました。でも、あの洞窟を見つけて、皆さんと遺跡へ行くようになって、夜種を……それだけではなくて、人も……私、随分殺したり傷つけたりしました」
「必要なことだ」
 私が即答すると、マナは生真面目に頷いた。
「ええ。そうです。誰かがやらなければいけないことです。だから私は、神殿の中で跪いて祈るより、人々の槍や盾となるような……裁きの司になれればいいなと思ったのです。違うかな。なるべきだ……ううん、これも違いますね。……ただ、なりたい、と」
 私の表情をマナは誤解したようだった。裁きの司についての説明を始めた。私は黙って彼女の話をきいていた。大神殿でも時折見かけたことがあるが、その称号を持つ神官は、傷だらけの鎧を汚れた外套で覆う屈強な戦士たちだ。辺境で命を落とす者も多い――孤独で危険で、信仰心だけが支えとなる。だがそれも、ある意味で彼女に似合いの未来であるように思えた。
 未来――彼女の話を遮り、「今日訪ねたのは」と言った。彼女が自分の口をおさえた。
「あっ、すみません。私、自分の話ばかり……何か用事があって来られたんですよね?」
 しかし言葉が続かなかった。舌が痺れたようになってしまう。
 じきにこの町は占領されると言いにきたのだ。ユールフレールの大神殿がお前の身柄を求めていると伝えに来たのだ。世界にとってはそれが一番いいことだから、お前を幽閉するという。俺はお前を連れに来たのだ、俺はいつも大義のため己を犠牲にしてきた、だから同じことを誰にでも、そう、お前にも強いるのだ……。
「……町を出る予定はないかとききに来たのだ。なるべく長く離れる用事はないかと」
 マナが足を止めた。彼女の背後で血のように赤い夕焼けが大河のさざ波を照らし、輝き、一面を赤と金に染め上げていた。すべてを焼きつくす炎のように赤い世界が揺れている。女の髪が銅のように輝いている。熱と光と女の姿はいつも私に劣情を催させ、凶暴に血を滾らせる。震える手の甲で彼女の頬に触れた。マナは不安げに私を見つめている。
「ありません。でも、なぜです?」
「なければ……ないのなら」ここから逃げ出せという言葉は言ってはならない、神殿に対するあからさまな謀反だ、私がそれを口にすることはありえない。しかし逃げろという一言を口からださないようにするには、大変な努力が必要だった。触れているマナの頬が熱く火照っている。私の熱がうつったかのようだ。
「なんでもない、気にするな」
 下ろしかけた手を、マナが捕らえた。私の手を裏返し、自分の頬に当てた。さっきまで臆病に私の手の甲が触れていた場所だった。私の手をつかむ小さな掌には、驚くほど力がこもっている。
 なぜときいたのは私ではなく彼女だった。
「なぜメロダークさんはいつも怖がっているのですか?」
「えっ?」
「もっと触れてくださっても大丈夫です。夜でも……昼でも……私は少しも怖くないんです。本当に大丈夫ですから、遠慮はなさらないでください」
「いや、それは……しかし……」
「テレージャさんが、メロダークさんは子供だと言っていました。自分のしていることがわからないくらいの子供だと」
 頬にそえた私の手をおさえたまま、マナが低い声で言った。
「私、メロダークさんが私にされることなら、何も怖くはないのです」

 細い三日月には薄い雲がかかっていた。ひばり亭の屋根が見えてきたころ、背後から「旦那」と細い声がきこえた。
「……そこの角を曲がった先で。鍵屋でお待ちしております」
 私は後ろを振り向かずに歩き続け、角を曲がる。細い路地がつづら折りに続いていて、錆を吹いた鍵の形の看板が見えた。細い扉を押し、薄暗い部屋の中へ入った。低い天井の中央に火のついたランタンが下がり、壁がはがれおちごみの散乱したみすぼらしい室内を頼りない炎で照らしていた。高い位置に一面だけついた窓には黒い布が張ってあった。
 その部屋の中に、例の小柄な密偵が立っていた。ただし今日は一人ではない。三人の若い男たちが一緒だった。服装はばらばらだが、雰囲気は一様だ――堅苦しく、真面目で、大義のために命を投げ出そうという気迫に満ちている。私が大神殿式に十字を切ると、彼らはいっせいに同じ動作を返したが、私を見る目はどこか冷ややかだった。彼らを代表するかのように、密偵が口を開いた。
「今日、例の娘かその遺体をメロダーク様がお連れになるかと思い、この場所を用意したのですが……探索者たちが抵抗した時のために、人間も」
「……」
「随分と親しげなご様子でしたね。このあいだお求めになった布の成果でしょうかね」
 冗談めかした口調だったが、目は剣呑な光を放っている。
「娘に見えてもタイタス一世の憑代だ。当然、お忘れのはずはないでしょうが……バルスムス様の命令は大神殿からの勅令だということも」
「軽口が過ぎるぞ」
 自然と凄む声がでたが、密偵は肩をすくめただけだった。振り向いて、卓上を示した。紙と筆記用具が用意してある。
「手紙を書いて頂けこうと思いまして。呼び出せば、後は私どもで捕らえますよ。わかっております、あの娘は寝食を共にして一緒に戦ってきた仲間なのでしょう? 情をうつすなという方が無理だ。ましてや抱いた女……おっと、そんな目で見ないでくださいよ。しかしね、最初神殿からは他の人間にやらせるように言ってきたんですよ。それをメロダーク様がよかろうと言ったのは私だ。死ぬにしても生きるにしても、あの娘の今後を考えれば、せめてもの情けじゃございませんか?」
 男がなめらかな手つきでインクの壺をあけ、鵞鳥羽根のペンの先を浸す。
 身のこなしと匂いは密偵のそれだが、まだまだ隙は多い。部屋にいる若者たちにしても、実戦経験がないのは丸わかりだ。熟練した兵士たちはバルスムス殿に呼び戻され、本隊に組み込まれている。おそらくこの計画に関しては、私が一番の戦闘経験者で熟練者なのだ。
 今この四人を殺し、死体を始末したうえで他の連絡員に虚偽の報告をいれれば、少なくとも数日の猶予はできるだろう。マナを連れて逃げるだけの猶予、戦乱を避け、西シーウァも大神殿も力が及ばぬ彼方へと逃げるための猶予……。
 密偵がひょいと思いついたような口調で言った。
「そうそう、エリオ様の例の恋人ですが、無事に尼僧院で出産されたそうですよ。赤ん坊はエリオ様そっくりの男の子だったとか。エリオ様のご友人の口添えがあったときかされて、泣いて喜んでおられたそうです」
「……」
「大神殿もどうかしておりますな。たとえ式がまだだったとはいえ……メロダーク様がいなくなれば――おっと失礼、いなければ、エリオ様の奥方様は、赤子を抱えて路頭に迷うことになっていたでしょうよ。まったく世知辛いものですなあ」
 私は密偵の手から羽根ペンを奪い取った。
 広げられた紙の上に身をかがめる。
「手紙は書くが、私が行く。お前たちに任せるのは不安だ」
「時と場合に応じては……」
「構わん。わかっている。これが初めてではない。親しくつきあっているのも、神殿の命令があったからだ。女でも子供でも、これまでに私がどれだけ殺してきたと思っているんだ?」
 密偵は何も言わなかった。だが私が短い文章を書き終えペンを置くと、微かに安堵の息を吐いた。

 テレージャが私をなじる声が耳に蘇る。
(彼女は子供なのだよ――きみと同じくらいには)
 彼女は間違えている。私はもちろん子供ではない。神殿軍の密偵として、何をすべきか心得ている。私はただ己の任務に従うだけだ。私が子供だったのは遠い昔の話だ。

 昔、昔、まだ子供だったころ、私は麦畑で青い麦を踏みながら女を追いかけ、犯して殺した。死体は裸のままで樫の木に吊るした。ぎいぎいと揺れる女の体には私が凌辱したあとが残っていた。女を吊るす手際のよさを私は父親のような部隊長に誉められた。徒歩で入った村を馬に乗って去りながら私は背後を振りかえり振りかえり、なぜあの女は逃げたのだろうと思っていた。逃げださなければああやって吊るされずにすんだのに。仲間と一緒に炎に焼かれて死ねたのに。荒れ果てた麦畑が風に揺れていた。部隊長が振りむいて、知っているかと私に言った。まだ青いうちに踏まれれば踏まれるほど麦は強く実るのだ。お前のおかげでいい麦が育つだろうよ。我々がやったのはいいことだ。

 夢の中、真夜中の麦畑を私が走っていく。
 ごうごうと村が燃えている。手にした松明にも同じ炎が揺れている。あちらでもこちらでも炎が蠢いている。部隊長や同僚たちの狂ったような笑い声はもうきこえない。おそらく彼らは役目を果たし、血に濡れた手をたらし酒に濁った目を伏せて、それぞれの故郷へ帰っていったのだ。
 麦畑の真ん中で、私はようやく女に追いつく。思い切りその背を突き飛ばすと、彼女はあっけなく倒れこむ。肩に手をかけ振りむかせれば、それは大河の巫女だった。
 組み伏せられた白い髪と赤い目の少女は、息を弾ませ私を見あげている。さっきまで苦痛にひきつっていた彼女の顔に、いまはただ幼い真摯さだけが溢れている。両腕を私の首に投げかけて頭を引きよせ、酔っぱらった私の耳にも間違えようのないはっきりとした声で告げた、「私もあなたを愛しています」。その瞬間、毎晩私を苦しめ続けていた人々の絶叫がやむ、炎が爆ぜる音が消える、木が燃えて石が焦げ肉の焼ける匂いがうせる、絶命の瞬間に女の肉体が痙攣する感触が、部隊長と仲間たちのひび割れた恐怖の笑い声が、煙が立ち込めた夜空が、お父さん! お父さん! という子供の泣き声が、その子供の首が地面に転がる音が、私を血で汚し続けたハァル神への怒りが、すべてが、すべてが消え失せて、彼女と自分しかいない空白のただ中で私は自分がついに解放され救われたことを感じ安堵の涙を流して彼女を強く抱きしめ私もお前を愛していると言おうとしたその瞬間、足の裏でぱきりと麦が折れる音がした。

 あの日私は靴底でまだ青い麦を踏みつけ、ぱきぱきと音を立てて麦は折れた。あれから長い時が流れた今になって気づく。あの時の私は何百、何千の青い麦を折り、同時に私の心は何百、何千、粉々に砕け散り、踏みにじられ、朽ち果てた。あの麦畑は実りを持たず、心にも愛は育つまい。私は麦を踏むものであり、私は踏まれた麦なのだ。


end

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