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寝顔を見ながら

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 就寝前に口論になったのを、目覚めた瞬間に思い出した。
 とっさに伸ばした手は、すぐそこに横たわっている柔らかな体に触れた。
「マナ」
 ほっとしたせいで、思わず名前を呼んでしまったが、マナは目覚めなかった。彼女の眠りを妨げずにすんだことと、少女がここで眠っていること、二つの理由で安堵する。今の彼は、夜に一人でいることが好きではない。いつも隣に少女がいて欲しいと思う。


 少女の寝顔はいつも通りの安らかさだ。唇が薄く開いている。性欲とはまた違う欲望から彼女に触れたくなる。舌で深く口腔を探り、少女の唇の形や、真珠めいた小さな歯の厚みや、湿った頬の裏側や、彼の欲望に応じて敏感に震える舌の感覚を味わいたくなった。
 己の息がかからぬように気をつけながら、彼女の寝顔を覗き込んだ。
 ぐっすりと眠っているマナの頬に涙の跡が残っている。
 また泣かせてしまったと思い、嫌な気持ちになった。



 戦場の夢を見ていたように思う。
 戦場では時々、思いもよらぬ死を見た。
 屍肉を食らうはずのハゲタカが数羽、乾いた地面に落ちて死んでおり、空を旋回し食事の機会を伺う鳥どもがなぜここで死んだのか、少年にはさっぱりわからなかった。
 乾いた砂と岩の間を流れる細い川は、川岸に折り重なって倒れた死体から流れだす血のせいで赤く染まっていた。
 槍や矢を浴びて倒れた死体がむくりと起き上がりそうで恐ろしかったが、喉の渇きが我慢できなかった。身を屈め、頭からずり落ちる兜を押さえて、片手で水をすくい、夢中になって飲んだ。水は硫黄の匂いがした。敵の魔術師たちが炎を放ったのだ。少年の隣にいた兵士は、落下してきた輝く炎の塊を浴びて、絶叫しながら死んだ。死んだその兵士も彼とさほど歳のかわらぬ少年であり、少年が聞いたことのない言葉をしゃべる異邦人であった。肉の焼ける匂いに少年は恐怖し、あの魔法で焼かれるのは俺だったのかもしれないのだぞ、次は俺の番かもしれん、それでも彼が突撃したのは、背後から「行け、進め、止まるな、行け、殺せ、逃亡者は死刑ぞ」と太鼓の音とともに号令が掛かり続けたせいであった。
 今は静まり返った戦場で、仲間の遺体の上を流れた水を、己の乾きを癒すため、喉を鳴らしながら夢中で飲んだ。兜を脱いで身を屈め両手で水をすくいあげ口に運び、やがて乾きが満たされたとき、突然、胃に入っていた物をすべて吐いた。開戦前、荒野の岩陰で仲間とわけあって食べた干し肉は、消化されぬまま口から出てきた。
 痙攣する胃に合わせて嗚咽が漏れた。喉が痛い。自分の声が気持ち悪い。
 しかし吐瀉の間も膝を折ることはなく、周囲の様子を油断なく、怯えた目で伺い続けていた。



 忘却界を通れば魂は記憶を失うのだと信じていた。しかしすべてを覚えている。これはどういうことであろう。いや、忘れたことは思い出せないのだから、もしかしたら「忘れていない」と思うこれ自体が忘却の証拠なのかもしれない。
 そこまで考えて顔をしかめた。言葉遊びは嫌いだ。想像を巡らせることは苦手であった。それが己に関することならなおさら。
 夢を思い出すのはやめて、横たわるマナを見つめる。


 マナの左手は、赤ん坊のようにゆるく握り締められている。彼は以前、利き腕の側に女が横たわるのが不快だった。今はそうでもない。
 今日はマナは彼の右側で眠っている。
 安らかなその寝顔をじっと見つめながら、起きろ起きろ、と念じてみた。口中に胃液の苦い味が蘇ったようで、マナに接吻を与えてもらいたかった。
 本当に起きると困るので、すぐにやめた。
 危険とは程遠い穏やかな日々を送る今も、マナの勘は相変わらずの鋭さだ。一見すれば堅牢な石の壁の崩落を見抜くように、彼の心に潜む隠し事や逡巡を探り当てる。

 小さな掌には軽く曲げた指の影が落ちている。こんなに白い肌なのに、光に照らされてできる影はメロダークと同じ漆黒だ。少女の手の隣に自分の手を並べ、同じように指を軽く曲げてみた。マナの手の小ささやその繊細な形に、改めて感心する。二人の手の影がシーツの上で溶け合っている様子に安心した。


 彼女に触られると気持ちがいい。
 病人や老人や子供の扱いに慣れた大河の巫女の手は、彼にも穏やかに優しく触れる。穏やかな陽射しや優しい星の光のように。彼の髪や頬や首筋を愛撫する白い手は、夏でもひんやりとした清潔な冷たさだ。一度その手をつかまえて見つめていると、思いもよらぬ激しさで抵抗され、振りほどかれたことがある。赤面して両手を背に回した少女は、どうしたという問いに、目を逸らして答えた――汚いから、恥ずかしい。荒れていて。傷だらけで。
 メロダークには理解のできないことであった。
 マナが汚い?
 汚れなどはおまえには何一つ――俺に比べれば――俺のような者の手こそが――。
 彼がそう言うと、マナは驚いた顔になった。振りほどいた手を再び差し伸べて自ら彼の手を取り、その無骨な指に口づけをした。
 彼女に触れられると気持ちがいい。



 完全に目がさめてしまった。
 マナも起きればいいのにと思うが、こうして少女の無防備な寝顔を見つめているのも悪くない。
 夜の冷気が満ちている。毛布の中は温かい。自分の腕の中でマナが安らかな眠りを得ていることに、強い幸福を感じる。



 雑踏に一人でいる少女を見ると不安になり、不安は時には怒りに似た形をとる。一人で何をしている、危ない、何かあったらどうするのか、そう叱りつけたくなる。実際にそれを口に出すことも度々あった。少女は笑って小言を受け流すが、彼がずっと不機嫌なままでいると、戸惑い、憂い、今日はとうとう泣かせてしまった。二人で過ごす穏やかな時間が、今夜は気まずい沈黙となった。



 廃墟ではそのような心配をしたことがなかった。怪物どもの相手を少女一人に任せ、その場を離れることすらあった。神殿で育ってきた少女は、戦場ではひどく機敏だったし、万事につけて勘がよかった。子供のような娘にしんがりを任せるのも、先頭を行かせるのも、いつしか当然のことになっていた。少女が軍属でないことを残念に感じたことまである。マナへの信頼は万全であった。
 そんな娘が町中に一人でいて、危険などあるはずもないのだ。ではこの不安は何かと思えば、結局、少女が護衛などいなくても平気だと気づき、ついて来なくてもいいですよ、どうか私を一人にさせてください、あなたは必要ないのです、そう言われることが怖いのだろう。


 乏しいはずの想像力がこういうときだけよく働く。
 華奢な背中が、自分の呼びかけを無視して遠ざかっていく。長い白い髪が揺れている。少女の足取りにはためらいはなく、別れの逡巡や悔悟を匂わせる物は何もなかった。大河神殿の信徒に溢れたユールフレールの大通りに一人取り残された彼は、小さくなっていく少女の背、彼を拒絶するその背を追いかけることもできず、立ちすくんでいる。
 嫌な光景だった。
 そうなったらどうするかな、と思った。俺はどうするだろう。十分にありえる話であった。少女が離れていったあとの自分を考える。
 空白。
 何も思いつかない。
 何かあるだろう、と焦る。
 両目を閉じて想像してみた。
 空白。




 戒律を守るのは容易だった。
 大河神殿の戒律は彼の本能にまで及び、それを守ることは(正直に言おう)とても楽しかった。飢え乾き、肉体を傷つけ、快楽を罰し、時には生命をすら意志の力で投げ出せと命じる戒律は、彼を暗く楽しませた。自らの肉体と意思を厳しく律するのは苦痛ではなかった。いや、苦痛であるがゆえに快感であった。
 今は彼を縛り繋ぐ戒律の鎖はない。
 我慢しろとマナは言わない。
 それどころか、我がままを言え、と叱られることすらある。
 難しい。と思う。


 そういえば、マナは彼が食事を待つことすら許さない。
 お腹が減っているなら先に召し上がってください、真剣にそう怒る。そのくせマナは彼が来るまで食事に手をつけない。
 それとこれとは話が違うんです、私はただ食事をご一緒したいと思っているだけです、でもメロダークさんは。メロダークさんが食事や色々な事を我慢なさるのは――。
 マナの怒りや悲しみが彼にはよくわからない。ただ少女のその感情が、彼のための物であることは理解できる。
 なぜ俺のために泣くのだ。



 今度こそマナを叩き起こしたくなった。すまんと謝罪したくなる。
 マナが自分を許してくれることを確認したくなる。
 これもやはり我慢した。
 許しは甘い果実であり、彼の口には合わなかった。



(あなたには魂がない)
 自分に欠けている物を思う。
 眠っている少女の頬に触れるかわりに、その寝顔を記憶に刻みこむようにじっと見つめていた。いつか少女が自分の元から去ったあと、記憶の中の少女を、かりそめの己の根として生きていけるように。


 マナの寝息が止まった。
 ぎゅっと眉が寄る。
 ああ起きるな、と思った次の瞬間、ぱちりと目が開いた。



 マナは、自分を覗き込むメロダークの顔をぼんやりと見つめていた。まだ半ばは夢の中だ。
 ごそごそと手を伸ばし、彼のうなじに手を置いて、頭を引き寄せた。自分の肩口にメロダークの額を押し付けると、「もう、また」と寝ぼけた声で唸った。
「駄目よ。いつも言ってるのに」
 眠たげな声はあからさまないらだちを含んでいる。
 まだ怒っている。
 なんだかわからないまま、すまん、と謝ろうとしたが、それより先にマナが言った。
「怖くなったら起こしてって。すぐに起こしてね。駄目よ、一緒にいるのに、一人で怖がるの」
 何の気遣いも含まぬ無造作な口調でそれだけを言い終えると、マナは彼の額にひとつキスをし、またひそやかな寝息を立て始めた。



end

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