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メロダーク、パイを焼く

竜の塔下層/メロダーク マナ

 人生には時折無駄に奇跡が起こるもので、その日の午後、ひばり亭の厨房の隅でメロダークが焼き上げたチョコレートパイは、こんがりと狐色に焦げ目がつき、バターとチョコレートの甘く完璧な香りを漂わせていた。職業的な事情から用心深く、生い立ちのせいで悲観的な男は、しばらくの間鋭い目つきで竈の中のパイを観察していた。円いパイは勝手に動き出すこともしゃべりだすこともせず、それどころか破裂することも異臭を撒き散らすこともないまま、静かに湯気と香気を放っていた。それでメロダークはいつもの無表情を崩さぬまま、竈からパイを出した。酒場に通じる厨房の出口に向かったが、スキップしなかったのは嬉しいときにそうする習慣がなかったからというだけの話だ。
 料理の腕前をなじられることも多いが、メロダークは自分が料理下手だとは思っていない。ただ失敗が多いだけだ。そして失敗の数が多ければ多いほど、成功した時の喜びは大きくなる。
 酒場に入るとカウンターにいた女将が
「薪は足しておいてくれた?」
 ときいた。
 メロダークが頷いたのを確認すると、オハラはまたすぐグラス磨きに戻った。パイには一瞥すらくれなかった。客に対し必要以上に興味を示さないのはこういった宿の主人として当然の心得なのだろうが、メロダークは正直なところ、いささかがっかりした。
「……女将」
「なに」
「腹は減っていないか」
 オハラがちらりとパイを見た。
「中身はチョコレートだ。チョコレートのままだ、間違いない」
 メロダークの説明にも関わらず、オハラはどちらかといえば冷淡な口調で言った。
「遠慮しておくわ。あいにくだけど胃が一つしかないから」
 先日作ったシチューのような物体がテーブルを溶かしたことを、まだ根に持っているらしい。メロダークはカウンターを離れ、他にパイを振るまえそうな相手を探して、周囲を見回した。地元の男や旅の行商人や船乗り、そしてもちろんメロダークのような探索者によって昼夜を問わず賑わうひばり亭であるが、晴れた午後の半端なこの時間、どういうわけか彼以外の客はなかった。
 がらんとした酒場に明るい日差しが満ちている。空気のせいなのか雲のせいなのか、このあたりの陽光は、荒野やユールフレールの海を照らす白々とした光とは違っていた。
 入り口に誰かの足音がきこえた。ひばり亭に入ってきた小柄な少女は外套のフードを取ると、がらんとした酒場をメロダークと同じように不思議そうに見回していた。どこか疲れた表情であったが、ぽつねんとたたずむメロダークに気づくと、会釈した。
「こんにちは、メロダークさん」
 はきはきとした声で挨拶する。遺跡から帰って来たところらしく、汚れた外套の裾は黒く濡れ、ほっそりとした体に斜めに掛けた道具袋からも水滴がぽたぽたと滴り落ちていた。
 神殿で暮らすこの探索者の少女について、メロダークは詳しいことを知らない。マナという名前だ。遺跡に通じる洞窟を最初に見つけた地元の子供の一人で、だから探索に参加している。この年頃の娘にしては物静かな方だ。それと巫女長の娘だという噂だった。大河神殿では聖職者の婚姻は禁止されているが、神官がいつの間にやら妻子のような者を持ち、神殿で一緒に暮らしているのもありがちな話ではあった。普段は特にやりとりもない二人であったが、エリオのノートの一件以来、マナの方ではこの無口で陰気な大男に親しさを見せるようになった。今日もためらいなく近づいて来る。少女のこの好意は友人を亡くした人間に対する巫女らしい気遣いだろうとメロダークは思っており、ただ仕事中いつもそうするように必要以上に人と親しくなることを避けているため、近づいてくるマナには自然とそっけない態度を取ることになる。
「地底湖に落ちてしまって。探索を途中で切り上げて来たんです」
 メロダークは少女を無表情に見下ろした。
「……」
「ネルもパリスも一緒に。足場が悪かったんですね。夜種と戦ったわけでもないのにへとへとですよ」
 マナの視線がメロダークが持つ皿の上で止まった。
 美味しそうなパイですね!
 と、口にして言ったわけではないのだが、まん丸になった目とごくりと唾を飲む喉の動きだけで十分だった。
 密偵としての心がけを忘れ、メロダークはとっさにパイの皿をマナの方へ差し出していた。
「食べるか」
「いただきます!」
 メロダークが言い終える前に、ひばり亭の天井まで響くような大きな声でそう言い、言ってからマナは赤くなった。
「ありがとうございます、ぜひ。あの、お腹が減っていて」
「恥ずかしがることはないだろう。空腹を感じるのは健康な証拠だ」
 メロダークは機嫌よくそう言ったが、あまり機嫌のよさそうな声にはならなかった。それでマナは、恥ずかしそうに肩をすくめた。


 小さなナイフでパイを六つに切り分ける。
 マナは受け取った皿の上のパイの一切れを、とん、とフォークで二つに割った。大胆な大きさのそれを、一口で食べる。向かいの席についたメロダークはそれとなくマナの様子を伺っていたが、大きく頬張ったパイを何度か咀嚼した少女の目が突然きらりと光ったのを見て、大いに満足した。
「……どうだ」
 マナは返事をしなかった。味わうのに夢中で聞こえていないようだった。口いっぱいのパイをなんとか飲み込み、ふーっとため息をついてから、ようやくメロダークに顔をむけた。先ほどの疲労の影が消えている。
「メロダークさん! とっても美味しいですよ、これ!」
 もう一度、いやできればもう三度ほど言ってくれないかとメロダークが頼むまえに、マナは残りのパイに猛然と取り掛かっていた。こんな勢いで自分の手料理を食べる人間を見たことがなかったので、メロダークは新鮮な驚きに打たれて、マナを見守った。皿に落ちたパイのかけらまで残さず食べ終えるまで、マナは水を飲まなかった。
「ごちそうさまでした。すごく美味しかったです」
 メロダークはとっさに謙遜した。
「……今日はまあ、食べられる物ができたな」
「でもメロダークさん、前の時もその前の時も、竈じゃなくて焚き火で料理なさったじゃないですか。失敗はそのせいかも。だって本当に美味しいですよ、このパイ」
 彼の料理を一度ではなく二度味わって、これだけ肯定的なことを口にした人間も初めてで、メロダークはますます嬉しくなった。さすがアークフィア神殿の巫女だとまで思う。
「確かにそうだな。焚き火では火力が足りん。材料が手に入れば、また厨房を借りて何か作ってみよう」
「それがいいですよ。ぜひそうなさってください」
「うまくいくかはわからんが」
「私は料理のことはわかりませんが、繰り返し練習すればどんなことでも上達するものだと思います」
「そうだな。お前の言う通りだ。よし、もうひとつ食べろ」
「ありがとうございます!」
 マナの皿にいそいそとパイを取り分けてやる。なんという感じのいい娘なのだろう、次からはアークフィア女神に多めに寄進しようと心に誓う。
 マナは先ほどよりは余裕を持った態度で次のパイに取り掛かり、メロダークもようやく、自作のパイを口に運んだ。さくさくした層になった香ばしいパイ生地に、温かいチョコレートが甘く柔らかく馴染んでいる。
 うまい。
 おい、うまいだろうこれは。
 感動して顔をあげると、同じようにパイを食べているマナと目が合う。フォークをくわえた少女は嬉しそうに微笑んだ。美味しいですね、という顔をしている。
 ――もし無事に退役できれば、小料理屋でも開くか。
 それは今思いついたことではなく、苦痛に耐えねばならぬときにはいつも思い浮かべる夢であった。ただこんな平和な時に、逃避の手段ではなく漠然とした将来の目標として立ち現れたその夢は、いつもとは違う輝きを帯びているようだった。その証拠に、浮かび上がってきた料理屋のカウンターの端には、どういうわけか小柄な白い少女がちょこんと腰掛けており、メロダークを動揺させた。
 料理をここまで絶賛してくれる人間は初めてだが、無口な旅の傭兵と親しくなろうとする物好きに会ったのは、これが初めてではない。メロダークはそういった相手とは意図的に距離を取るようにしていた。汚れた密偵にとって、それはぎりぎりの誠実さの示し方であった。ただ今回のような任務の場合、探索者たちは互いに命を預けあう仲間でもある。あまり遠ざけすぎるわけにもいくまい。
 これはいつもよりずっと厄介な仕事かもしれん、ホルムに来て初めてそう思いながら、メロダークは残りのパイが乗った皿を、少女の方へ押しやった。
「これも持って帰れ。家族と食べろ」
「でもメロダークさんの分は」
「自分で食べるのもいいがな。料理は私の趣味だ。他人に食べてもらう方が嬉しい」
 マナはしばらくメロダークを見つめていたが、やがて、さっきよりは大人びた笑顔になった。
「では、遠慮なく。エンダもアダ様もきっと喜びます」
 濡れた道具袋から出した油紙で、マナはチョコレートパイを包んだ。
「そうだ。これ、よかったらもらってください」
 チョコレートパイを入れた道具袋から、赤い大きな林檎を取り出す。
「……うまそうだな」
「ええ、きっと! 昨日広場で買ったんです。食べずに取っておいてよかった」
 受け取った林檎の重みを確かめるように、右手から左手に投げた。彼の故郷にはなかった果物だ。
「プディングに入れてみるか」
 薄く切って重ねて焼いて、いや、いっそ摩り下ろしてしまうのも手か。あれこれ考えているうちに楽しくなってくる。そうだまたうまく焼けたらお前も食べてみろと言いかけた時、「メロダークさんは」とマナが言った。
「料理が本当にお好きなんですね」
「……まあ、そうだな」
「お笑いになるところ、初めて見ました」
 驚いてメロダークが顔をあげると、テーブルに頬杖をついたマナは無邪気な表情で彼の手の林檎を眺めていた。
「もっとたくさんお笑いになればいいのに。私、あなたの笑顔が好きです」
 メロダークが凝視していると、マナは不思議そうにまばたきをした。チョコレートパイが好き、林檎が好き、ホルムが好き、そういう当たり前のことを表明したかのように、照れた様子が微塵もなかった。
「どうしました?」
「……いや。なんでもない」
 メロダークはうつむいて、意味もなく林檎を掌でこすった。元から汚れのない艶やかな林檎の皮は、そうやっても曇ることすらなかった。

 気がつくとカウンターからオハラの姿が消えている。魚と香草のスープの香りが厨房から漂いだした。町の住人、行商人、船乗り、腹を空かせた探索者と密偵のために、女将が夕食の準備を始めている。窓から差し込む光はいよいよ輝きを増しているのに、ひばり亭にはいまだに彼ら以外誰の姿もない。これもまた、無意味な奇跡の続きかもしれない。マナは空の皿を前に頬杖をついたまま、目を閉じて黙りこくっている。満腹になったら今度は眠くなったようだ。メロダークは林檎を握ったままでいる。誰も彼を見ていないので、熟練の密偵ではなく少年のような戸惑った表情を浮かべ、安らかに眠る少女を見つめている。



end

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