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海のこと

グッドエンド後/マナ メロダーク



 神殿の空き部屋の窓辺に並んで座り、大河を見ながらおしゃべりをするうちに、いつの間にか眠っていた。
 目覚めた時には高かった日が傾いている。
 頭の下に男の膝があって、ずっと膝枕をしてくれていたようだ。慌てて起き上がると、メロダークは無言でもぞもぞと膝を動かした。申し訳ない気分になる。謝ると、大丈夫だ、考え事をしていた、と素っ気ない言葉が返ってくる。
「何を考えておられたんです?」
 そう尋ねると、メロダークは穏やかな大河の流れに目をやった。沈黙のあと、言った。
「海のことを」





 雑踏にごったがえす市で、西シーウァから来た行商人が珊瑚や真珠の装身具を並べている。精巧で高価な商品の間に白い骨のような巻貝があって、それを手にとって眺めていると、行商人が笑顔をむけた。
「美しいでしょう。シーウァの海から来た貝です。あちらでは女神様の衣のようだと……よろしければお持ちください、巫女様」
「あっ、ごめんなさい。買いもしないのに……」
 謝罪して貝を置いたが、いいえこれは売り物ではございません、だからどうぞ遠慮なさらずにと押し付けられる。
 先日の戦争のこともあって、一目で神殿の関係者とわかる自分には気を遣っているのだろう。そんな風に考えてから、メロダークの影響を受けていることに気づく。以前の自分なら何も考えず無邪気に、与えられた物をただ受け取っていただろう。

 自室の窓辺に立ち、持って帰った貝殻を光にかざした。大小の細かな突起があり、殻口は薄紅色だ。アークフィア大河では見たことがない不思議な形と色で、表面は陶器のようだがそれよりもずっときめ細かい。小さな螺旋を飽きずに眺めていたが、ふと、そういえばユールフレール島は海に面しているのだな、と思った。
 神殿軍にいる間、メロダークは何度も海を見たのだろう。
 マナは一度も海を見たことがない。




 自分を抱き寄せた男の手が胸元で動きはじめると、ああ、あれをするのだなと思い、緊張する。男への信頼とは別の部分で強い恐怖があり、どうしてもそれが消えない。マナの迷いを察したように、手の動きが優しく、しかし性急になった。
「まだ明るいから」
 服の裾に手がかかったので、小さな声で拒絶した。メロダークが言った。
「目をつぶっていろ」
「どうしてそうなるんです?」
 呆れて手を振りほどこうとしたが、片方の乳房を強くつかまれて、「ん」と息を止めた。体がぎゅっと縮こまる。痛いけれど、怖くない。変な感じだ。
「嫌。明るいと……見えるから、嫌」
「何が嫌なんだ」
 全部いいのに、肩口に唇を押し当てたメロダークがかすれた声で言った。背中がぞくぞくする。全部がいいというのなら、全部を許したくなってしまう。男の両目をそっと手で覆った。掌の下で睫毛が動く。目隠ししていた手を外すと、メロダークは両方の瞼を下ろしている。
「これでいいか?」
 大真面目にきかれる。
「ん……」
 しばらく見つめてから、指をずらし、鼻をつまんでみた。ひくひくと瞼が震えたが、目を開ける気配がなかったので安心する。
「開けちゃ駄目よ?」
「ああ」
 声がくぐもって、んあ、と聞こえる。
「最後まで」
「ああ」
「ずるしないでね」
「ああ」
「絶対ね」
 念を押してから手を離したら、メロダークが目を閉じたまま、ごく真面目に、「約束しよう」と言った。
 鼻や唇をあちこちにこすりつけられ、見当違いなところをつかまれたり、跡が残ったらまずいところに歯を立てられたりして、見えないのを言い訳に、いつもより乱暴に、いつもより遠慮なく、いつもよりあちこちを楽しまれてしまう。マナも途中から目を閉じ、真昼の部屋の、二人だけの暗闇の中、男の体をまさぐった。
 普段は乱れることのない男の呼吸が激しく乱れている。濡れたところに窓から差し込む陽光の温もりが落ちて、誰に見られているわけでもないのに羞恥に苦しくなる。膝を閉じると、男の手が内腿に滑りこみ、柔らかな女の部分を探りだした。奥まで潜り込んだ指の動きでマナが一度達し、二度、思い切り仰け反った背をすとんと寝台に落として、やめて、の合図に腕を叩いても、愛撫を執拗に続けられる。
 最後にくたくたになった体を抱え上げられて、寝台の端に腰掛けた男にしがみつく格好で交わった。
「おまえのここは――」
 いくつか、ひどく卑猥な言葉を囁かれ、それよりもっと卑猥な提案、いや、命令をされ、頬が熱くなる。
「いいか?」
 あえぐばかりで返事ができない。じれたように骨ばった指が下腹部に滑りこんで来る。内側に彼自身を収めたあたりを、指先で強く押された。男の腰を挟み込む太腿に力が篭り、爪先までがぎゅっと緊張する。
「あっ……は……そこ、押しちゃ駄目……中がぎゅって……や……駄目、駄目……」
「マナ。はい、と言え」
 行為の最中に拒絶すると、責めがひどくなることを知っているので――そういう風に自分に言い訳して――汗に濡れた男の首筋に夢中になってすがりつき、「はい」と答えた。涙が勝手にこぼれる。舌がもつれてうまくしゃべれない。嫌だ。嫌――。言葉に出さない気持ちが伝わったようで、男の動きが緩やかになる。急いでメロダークの耳に唇を押し当てた。
「いいのに」
「何がだ?」
「していいか、って聞かなくても。なんでもしていいのに」
「……馬鹿者」
 最初に約束した通り、律儀に目を閉じたままのメロダークの眉間に皺が寄った。不機嫌そうな声だったが、密着した体の全部で、一段、男が興奮を増したのがわかった。自分も同じように興奮しているが、そうと知られたくなかった。このことを、いつも嫌がっていると思われている。でもそうじゃない。ううん、本当に本当は、嫌なのかな? 行為の後、意味もなく泣きだしてしまうことが時々、いや、しばしばあって、その度にメロダークはひどく後悔した表情になり、彼女に詫びる。そうするとマナは、どうしていいかわからなくなる。
 嫌。嫌。ううん。嫌じゃないんです。
 きっと今日も愉悦のあとには、虚無を伴う後悔がやってくるのだろう。それでも今は柔らかな内側への刺激に満たされ、男の首筋にしがみついている。そのうち腰が勝手に動き出し、それを助けるように男が体を傾け、マナは、巫女にはふさわしくない熱い息を吐いた。





 背が高いから、いつも上から声が降ってくる。低い声。静かな声。
 行為の最中にはさらに低くくぐもったかと思うと、ぎくりとするような調子で跳ね上がり、懇願するような震えを帯びることもある。
 探索中に深い傷を負った時でも、うめき声すらあげなかったのに。
「あれはだな、我慢していたのだ」
 意外な告白に驚いて、マナは思わず男の顔を見なおした。
 桟橋に釣り糸を垂らしたメロダークは、胡座をかきくつろいだ様子で浮きを眺めている。マナはその隣に座り、まだ一匹も魚の入っていない空の桶の番をしていた。羊の群れのような雲が、のんびりと大河の上を流れていく。
「我慢、ですか」
「そうだ」
 それはまあ誰でも怪我をすれば痛いに決まっていて、当たり前といえば当たり前のことなのだが、当時は普段から鍛えておられる方は違うと感心していたので、少し戸惑ってしまう。そういえば足の小指をぶつけた時には立ち止まってしばらく空を見上げていらした、一時期のエンダはメロダークさんと会うたび下唇を思い切り引っ張るのを挨拶がわりにしていたけれど、あれも我慢しておられたのかなあと色々思い出すうちに、おかしくなって、くすくす笑い出してしまう。
「なんだ」
 メロダークが訝しげな表情をしたのがまたおかしくて、両手で口元を隠し「だって」と答えた。しばらくしてようやく笑いやみ、それから、表情を改めた。
「痛い、っておっしゃってくださればよかったのに。傷が深いときも黙っておられるから、とても心配していたんですよ」
「我慢できる痛みなのに、なぜ心配するのだ。わからんぞ」
 心配されて痛みが減るわけでもなし、と付け足される。
「今でもそうですか? 痛いときはそう言って……ううん、言わないと駄目ですよ」
「わかった」
 今ひとつピンと来ないような顔をしているので、「メロダークさんには我慢して欲しくないんです。痛みでも、なんでも」と言い添えた。
「……お前はいつも、他の人間とは逆のことを言うな」
「そうですか?」
「そうだ」
 メロダークは、なんだか嬉しそうな顔をしている。

 普段は石のように無口だが、おしゃべり自体は嫌いではない。言葉には訛りがない。神殿軍にいた頃にそういう訓練をしたと聞いたことがある。どこから来た誰ともわからないように。今はもうどこにも行かない。マナの隣に座り、緊張感のかけらもない顔で大きくあくびをしている。
 魚を待つ桶の小さな水面が、陽光を浴びてきらきらと輝いている。しばらくすると丸々と太った野良猫が、物慣れた甘え声で鳴きながら、釣果を目当てに近づいてきた。メロダークとマナの間に割って入り、二人の膝に均等に頭をこすりつけ、猫なりのお愛想をしてみせる。柔らかな喉を撫でてやると指先が心地いい。メロダークは背中を丸めて両目を閉じ、うつらうつらしているようだ。マナの足首に頭を預け、猫も眠りはじめた。日差しは穏やかで大河は凪いでいる。明日もきっと晴れるだろう。

 眠っている男の肩にもたれかかろうとした時、何の前触れもなく、河の水面が音を立てて揺れた。ぎくりとして動きを止める。さざ波が輪となって広がり、消えていく様子を、怯えたように眺めていた。






 海の話をして欲しいと思う。
 もし尋ねれば、きっとゆっくりと、マナにもわかるように、知っていることのすべてを、なんでも教えてくれるだろう。

 波は大河と違うのですか?
 塩の味がするって、本当ですか? 塩にも色々ありますけれど、どの塩の味なのです? 波打ち際と陸から離れた沖のどちらがしょっぱいのですか? 魚たちは困りませんか? 泳ぎながら水を飲んでしまったら、大変じゃないですか! 体が勝手に浮かぶといいますけれど、それじゃますます魚は大変でしょうね!
 メロダークさんのお部屋から海は見えましたか?
 私が大河を愛するように、あなたも海をお好きでしたか?
 聞きたいことはたくさんあるのに、尋ねるのはためらわれる。ユールフレールの海、砂浜、岸辺は、彼のどのような記憶や過去と結びついているのだろう?
 書き物机の上に置いた巻貝を手にとる。
 マナが子供の頃、神殿に泊まった巡礼者から、これと似た貝をもらったことがある。耳に当てれば波の音がしますよ、と教えてもらった。貝はずっと海のことを覚えているのです。
 子供の頃と同じように貝を耳に当て目を閉じると、巻貝の奥から、小さく風が唸るような、波がざわめくような音が聞こえてくる気がした。
 大河の波音とは違う、くぐもった、呻き声のような響きだった。




 信者たちの姿が消えた夕暮れの礼拝堂で、蝋燭の芯を摘んで火を消していく。
 礼拝堂にいると心が落ち着くのは、ここが子供の頃から馴染んだ場所で、祈祷が習慣になっているからに過ぎない。祭壇には据え置かれた聖杯が鈍い色で輝いているが、聖杯は物に過ぎず、そこに女神はいないことを、今のマナは知っている。
 南の回廊へ足を向け、夕暮れの下に流れる大河を眺め、手を合わせぬまま、心の中で短い祈りを捧げた。
(今日も一日無事に過ごせました、アークフィア様。ありがとうございます)
 女神への祈りは、今は一方的な訴えではなく、親しい人との会話に似ている。あの怪異の後から、マナは女神に対して、何かを求めることがなくなった。
 今でも信仰には迷いがある。
 最近のマナは、これは自分が生涯抱えていく悩みなのだと諦めに似た気持ちで思うようになっていた。
 橙に染まる空を、ねぐらを目指す鳥たちが群れをなして飛んでいく。
 それを目で追いかけながら、先にある海を思った。
 秋の冷気を含んだ夕暮れの風が肌を刺した。




 ホルムの町に雨が降りはじめた。
 階下から煙のように登ってくる酒場のざわめきは、メロダークが扉を閉めるとすぐに聞こえなくなった。かわりに窓を叩く激しい雨音が部屋に満ちた。扉に鍵をかけたメロダークは、先に部屋に入ったマナの腕をつかむと、乱暴に寝台に引き倒した。酔いに濁った声で少女の名前を呼びながら、のしかかりキスをしたが、すぐに体を離した。驚いた声で言う。
「おい。熱があるぞ」
 マナはぼんやりと自分を覗き込む男の顔を見上げていた。
 額にのせられた大きな手が心地よい。確かに熱があるようだ。食欲がなかったのも寒かったのも神殿に帰りたくなかったのも、全部そのせいかとようやく気づく。
「そうかもしれませんね」
 口をきくのも億劫だったが頑張ってそう答えると、メロダークが舌打ちした。
「……お前の体のことだぞ。なぜ自分でわからんのだ。待て、薬を……」
 寝台から離れようとしたメロダークの服の裾をつかんで、「側にいてください」とねだった。熱のせいか、男の体温や息遣いを鬱陶しく感じる。そのくせ彼が側を離れてしまうのが嫌だった。
「メロダークさん」
 唇に酒の味が移っている。指でそれを拭った。
「しないの?」
「何をだ?」メロダークが口を閉ざし、「阿呆か」と言った。ぴしゃりとした口調で、マナは、むきになった。
「しましょう。私、平気です」
「寝ろ。雨が止んだら送って行ってやる」
「なんでしないんです? 私のこと嫌いだから?」
「寝ろ」
 勢いよく毛布を掛けられたが、同じくらいの勢いで、それを跳ねのけた。再び毛布をつかんだメロダークは、マナの顔を見て手を止めた。
「私を信仰するって言ったでしょう」
「マナ」
「メロダークさん、言ったでしょう? だから……なのに、私があなたのこと好きで、ただ好きなんじゃなくて、こんな風に好きなの、嫌じゃない? あのことをするの、嫌じゃない?」
 話を聞いてもらえないことに焦れて、大声を張り上げてしまう。熱のせいで抑制がきかない。なだめるように頭を撫でられたのがひどく不快で、毛布と同じようにその手を跳ねのけた。
 泣きたくなる。息を吐いたら涙がこぼれて、本当に泣き出してしまった。
 寝返りを打ち、枕に顔を押し付けて、押し寄せてきた自己嫌悪の波に飲み込まれた。勝手にやってきて熱を出して男の寝台を占領し、駄々をこねて泣いている。わがままだ、馬鹿のようだ、そう思い、自分が嫌になる。
「ごめんなさい」
 メロダークは無言で嗚咽しはじめた少女の背を毛布で包んだ。寝台の端に腰掛ける。
「すまん。いつも無理強いを……」
「違うの、いいんです……そうじゃなくて……私のことで我慢しないでください。メロダークさんにはもう苦しい思いをして欲しくないんです。一緒に……せっかく一緒にいられるのに」
 言いたいことが溢れてきて、ぐちゃぐちゃになってしまう。
「私は嫌だったんです。すごく。その時は嫌じゃなかったけれど……後になってから、ああ嫌だなって、それでメロダークさんも本当はそうなのかなって。違うの。メロダークさんじゃなくて、あなたとのことじゃなくて」
「マナ?」
 いつも冷静な低い声が、少年のような不安をむき出しに激しく震えた。怖がらせたことに気づいて苦しくなる。彼を不安にさせたくなかった。自分のことで苦痛を感じて欲しくない。助けを求めて宙に伸ばした手を強い力で握りしめられる。目を開けるとメロダークがじっとこちらを見つめている。あの時とは逆だ。
 シュウシュウと音を立てながら蠢く黒い蛇の間から差し伸べられ、つかんだ手の感触を、指に皮膚に骨に、今でもずっと覚えている。
 肉体を持つ人間だ。どこまで行っても体から離れることはできない。あの長い夢の中ですら、傷つけば肉が痛み血が流れた。
 黒蛇の渦から彼を助けだしたとき、どれだけ安堵しただろう。もしもあの時あの場所で彼を救えなかったなら、今はどんなに惨めで、辛く、苦しい日々だったろう。想像するだけで胸が苦しくなる。
 女神はこれと似た苦しみを、ずっと味わっているのだろうか?


「アークフィア様が」
「女神が?」
「待っておられるの。忘却界で、タイタスのこと。し……信仰を……私がお祈りしても、だから、それは他の人と違う……」
 ごめんなさい、何を言っているのか、わからないですよね。男の手を握りしめたまま、そう詫びる。メロダークは無言だった。空いている方の手で、マナの涙を拭った。





 神ならぬ、人ならぬ――。

 人間の魂を喰らい、神話の時代から生き続ける河の娘が、今もまどろみの暗い淵で、この魂を待っている。かつて愛した男の魂を。

 注がれるまなざしは慈愛ではなく、差し伸べられた手は救いではなく、寛大な心は無私の愛ではない。
 万人にむけられた愛は万人の救いだが、一人に向けられた愛は、この不遜な物言いが許されるならば、一つの欲望と同じことだ。

 一人、町を見回すが一人、子供たちも大人も、この町だけではない、港から訪れる異国の人々の間にも、同じ髪も目も肌もない。女神はあらゆる人を平等に愛し、彼女の前ではすべてが等しく、生まれが見た目がどうあろうと女神の前ではお前の魂は他人となんの差異もないと教えられて育ち、礼拝堂で跪き祈るたびに安らいだ。ところが蓋を開けてみれば、忘却界の流れの中でどの魂も平等に裁かれ、食らわれ、救われ、消滅し、しかし自分一人、一人だけ、現世の浜へと打ち上げられる。
 女神に求められている。自分一人が違う愛を求められ、違う愛を注がれている。
 うずくまって目を閉じ耳を塞ぎ泣きだしたくなる。そうしたところで、別の人間になれるわけではない。魂を取り替えることはできない。どう信仰し、どう祈れというのだ?



 それなのに、同じ愛を同じように、自分を信仰すると言った人に注いでいる。





 いつものように、早朝に目覚めた。
 毛布の下で、汗に濡れた肌着が重く肌に張りついている。全身がだるく、かすかに頭痛がした。頭を押さえながら起き上がり、周囲を見回した。
 床の上にごろりと転がったメロダークは、毛布も掛けずに眠っている。ふらつく足を揃えて床に降りると、天井を向いて安らかな寝息を立てている男の横にぺたりと座りこんだ。メロダークはすぐに目を覚ました。マナの手首をつかみ、「まだ熱がある」と唸った。起き上がろうとした男の肩を押し、もう一度床に横たわらせる。マナはメロダークの胸に頭をのせた。
「じっとしていてください」
 そう命じると、メロダークが力を抜いた。いつもより熱い手を服の裾からくぐらせ、硬く鍛えた腹から胸元までゆっくりと滑らせていった。心臓の音がする場所で止めた。早朝の白い光が床の上に落ちている。それを見つめながら、「あのね」と、小さな声で言った。
「あの、夜のこと。嫌いじゃないんです」
 巫女のくせに大変なことを告白してしまったと思う。上目遣いに男の様子を伺ったが、メロダークはいつもの平静な表情のままだった。
「抱いていただくと、安心します」
「ああ」
 勇気を出して続けた。
「言いにくいことなのですが」
「なんだ」
「はっきり言って、時々、とても気持ちがいいです」
 意を決したうえでの真剣な告白だったのだが、メロダークの腹が大きく波打った。声を出さずに笑っている。
「……今、すごく真面目な話をしてるんですよ」
 さすがにむっとして頭を起こしたが、男は笑いやまなかった。
 マナは不機嫌になった。メロダークの側を離れて寝台に戻る。壁の方を向いて、毛布を体に巻きつけて目を閉じ、笑うなんてひどい、ぷんぷんと腹を立てていたが、そのままぐっすり眠りこんでしまった。
 次に目を覚ました時には、水挿しを手にメロダークが部屋に戻って来たところだった。メロダークに助けられて冷たい水を飲み、顔と首筋を湿らせた布でぬぐってもらうと、ずいぶんすっきりする。再び横たわったマナは、毛布の端から顔を出し、「ありがとうございます」とかすれた声で礼を言った。
「メロダークさんは優しいですね」
「全部、お前の真似だ」
「私?」
「俺が寝込んだ時の」
 寝台の端に腰掛けたメロダークはそっけない口調で言った。
「食べられるようなら食事を持って来る」
 マナは枕の上で首を横に振った。
「それより、側にいて欲しいです」
 毛布の端から出した手をそろそろと伸ばすと、ぎゅっと握ってくれた。メロダークが一度腰を浮かし、マナの近くに座りなおす。マナを静かに見つめていた。
「俺にはお前の悩みがわからん」
「……いいの。気にしないで」
「すまん」
 マナは頭を動かして、メロダークの膝に額を押し付けた。勝手な物で、熱が下がり始めた今は、人肌が恋しくなったのだ。喉を鳴らしながら眠る猫の気持ちがよくわかる。くっついていると安心する。
「ただ、どの土地にも神がいた。それぞれの土地に、それぞれの神が。俺にはわからん。だが、お前に会って、俺は……」
 ゆっくりとメロダークが言った。
「信仰の形は一つではない」
 マナは瞳だけを動かして彼を見上げた。神殿軍にいたころと比べると、ずいぶん穏やかな表情になった。大きな手でマナの頭を撫でてくれる。
「違うか?」
 違わない。ように思えた。
 マナは目を閉じ、安心して眠りに落ちた。



10

 海の夢を見た。
 初めて見る海はアークフィア大河とそっくりだったので、安心した。彼方の水平線には、巻貝の襞と似た形の白い波が走っている。
 浜辺に並んで座り、焼いた魚を食べていた。木の串に刺さった大きな魚は美味しそうな焦げ目がついているのだが、これは海の魚なのだと思うとためらってしまう。ちらりと隣を見ると、彼女の恋人は、嬉しそうに魚を頬張っていた。美味しい物を食べている時の満足しきった顔なので、こちらもつられて幸せになる。
 思い切って魚にかじりついてみたら、ひどく塩辛い。あっ、やっぱり海はしょっぱくて、それに負けないよう魚もしょっぱいのだ! と興奮する。だがそれだけでなく、妙な匂いまでする。

 ぎゅっと眉を寄せた自分の唸り声で目が覚めた。
 目覚める途中から、鍋にぶつかる匙の音と一緒に、本当に魚の腐臭が漂っているのに気づいていた。これは夢ではない!
 出来たてのポララポを壜に移しながら、メロダークは機嫌よく、下手くそな鼻歌を歌っている。

 他の人の前では決して歌わないくせに、マナの前では平気で歌うのだ。



11

 窓辺に立った男に近づいていく。
 背伸びして黒い髪をかきあげ、露出した耳に貝殻を押し当てた。しばらくしてから、「ね、海の音ですか、これ?」ときいた。
「これは中に篭った空気が反響しているだけだぞ」
「……そうかもしれないですけど。海と似てるとか、似てないとか」
 少し考える様子を見せてから、メロダークは「貝殻に空気が篭った音がする」と頑固に繰り返した。「海は海で貝は貝だ。別の音だ」
 寝台に腰掛けて、隣を両手でぽんぽんと叩くと、男がそこに座ってくれる。膝にのせた貝をいじりながら黙って肩にもたれていたが、そのうちに物足りなくなり、脇腹をつついて注意を引いた。キスをしてもらう。キスをした。目を開けてから、きいた。
「海のこと。話してください。私は海を見たことがないんです」



12

 河口で大河の水と海の水は混ざりあう、とメロダークが言った。どこまでが大河で、どこからが海なのか、俺にはわからない。そもそもその二つを区別をする必要がどこにあるのだ? どちらにしても水はそこにあるのに。
 月の満ち欠けにあわせて、潮が引き、やがて満ちる。
 それが俺の知っている海のことだ。




end

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