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舟上で

忘却界 / マナ メロダーク



 低く垂れこめた鉛色の雲の下を、翼を広げた鳥がゆっくりと旋回する。

 少年は船尾に腰掛けた私の顔を見つめている。小舟の底に横たわる彼は、まるで棺桶に入った死人のようだ。
 灰色の空と真っ暗な水面が彼方の水平線でまじりあっている。
 風が強い。少年は風に掻き乱される髪をなおそうともしない。
 少年の髪も目も夜のように黒い。

――夜の闇は 悪を 隠しているから

 彼女がそう言っていた。

「故郷のために?」
「そうだ。俺は故郷のために戦っているんだ」
 少年は自分の胸の上で組んだ手を、心細げに見つめる。
「わからないな……なぜ?」
「なにがだよ?」
 少年は苛立ちを顔に出す。
「故郷は……大事な場所だ。俺を育ててくれて……守ってくれて……俺を裏切ったりしない……俺を待っていてくれる……俺が故郷を守らないと……何を笑っているんだよ?」
「ううん。笑ってないよ」
「笑ってたくせに」
 むっとしたようにそう言うと、少年は寝返りを打ってそっぽをむいた。それきり話しかけても返事をしてくれない。どうやら怒らせてしまったようだ。
 仕方なく寂しい気持ちで櫂を漕ぐ。もしかしたら笑っていたかもな、と反省した。馬鹿にしていたわけではないけれど、私は確かに笑っていたのかもしれない。だって少年と話していると楽しかったのだから。

 あの島で 彼女 と二人だけで暮らしていた日々は幸せだった。満ち足りて、守られ、不安がなかった。

 風と波に煽られ、小舟が大きく揺れる。
 白い水しぶきがかかり、少年がわっと声をあげて跳ね起きた。私は今度は大きな声で笑う。慌てた仕草が面白かったのだ。くるりと振り向いた少年の顔が赤い。
「俺のこと笑うな!」
 怒らせた。かなり本気で怒っている。でも駄目だ、それすらもおかしい。笑ったらいけない、笑いやまなければと思えばますますおかしくなってきて、両手で口をおさえて体を曲げ、笑いころげてしまう。
少年が立ちあがったはずみに、小舟がまた揺れた。体がふわっと宙に浮いて、私は笑い声のかわりに悲鳴をあげ、舟の縁にしがみついた。揺れがおさまったあとも心臓がどきどきいっていた。
 笑い声がきこえた。
 ふりむくと、少年が大きく口を開けて楽しそうに笑っていた。
 危なく水に落ちるところだったのに!
 私が真っ赤になって抗議すると、少年はますます笑いながら、「おあいこだ」といった。

 日が沈めば 彼女 のことを思う。
 柔らかく私を抱く腕や、清潔な肌の匂いを思い出す。
 今の私はちっとも幸せじゃない……はずだ。この舟はどこへ向かうかもわからない。少年と私は同じように不安で怖い。
 この舟にこの子が乗っていてよかったなと思う。
 一人じゃなくてよかった。幸せじゃないのに嬉しくなるのって変だな。それとも幸せじゃないから嬉しくなるのかな。
 揺れる小舟の上で少年が私にむかって笑いかけると私の胸は幸福ではちきれそうになる。
 少年と私は互いに腕を突きだして空中で並べる。
「あんたまっ白だな」
「そうかな。きみが黒すぎるんじゃないかなあ」
「俺の故郷じゃ普通だぞ……多分……そうだった気がする」
 日に焼けて固く筋肉がついた少年の腕と、青白く細い私の腕が並んでいる。同じものなのになんと違うことか。色彩の対比が面白いらしく、少年は今度は手を大きく広げ、私の膝の上に置いた。白くて丸い膝小僧が少年の手の影に隠れてみえなくなる。たわいもないやりとりなのに、ふと私は不安になる。
「痛いからやだ」
 そう言って私は彼の手を払いのけた。
「ええっ? なにが?」
 少年は目を丸くした。
「だってずっと痛くて嫌だったんだもん」
「だからなにが?」
 なんだろう?
 とにかく何かが――すごく痛いけれど痛さよりも痛みを感じる自分が悲しくてそれを伝えれば二人の(誰と誰の?)悲しみが増すだけだと思ってそもそもそんなことを考えるのが嫌で――でもそれがなんだったのか忘れてしまった。
 痛みや苦痛なんか覚えててもいいことはないはずなのに、思い出せないのがすごく悲しかった。
「泣くなよ。どうしたんだよ」
 少年が腰を浮かせておろおろと私の手をつかみ、手をおろし、座っては立ちあがる。心配させちゃいけないから泣きやまないとと思うのに、どうしても涙が止まらない。
「私のこと好き?」
 私がそう尋ねると、少年はとても驚いた顔になる。
「好きだよ。好きだと思う……でも待ってくれ、考えさせてくれ。俺は故郷を守らないといけないんだ、故郷の他に好きなものを作っちゃ駄目なんだ」 そんな理屈は変だと思うけど少年にとっては普通の理屈で私の理屈の方が変だという。

 望遠鏡の向こうには暗い島があって私はその島が怖い。でも同じものを見たのに少年の顔は輝いている。

「俺はスナークを狩るんだ」
 目が覚めたら少年は、大きな刀を両腕で抱いている。日焼けした顔からはこれまでの子供っぽい不安げな落ち着かない表情が拭い去られたように消えていて、かわりに眉間に微かな皺が寄っている。
「そうすれば故郷を守れる――俺は皆の役に立ってるんだ」
 私は櫂を漕ぐ手を休めて少年の顔を見つめる。分厚い刃を皮の鞘でくるんだ刀は大きくて不格好で、少年は刀の重みで昨日までとは違う座り方になっている。鉄でできた柄は少年の指の形にかすかに窪んでいて、彼がそれに費やした時間を容易に推測させるから、私はその刀が嫌いだと口に出して言えない。きっと刀と少年は私と少年よりもずっと長いあいだ一緒にいたんだ。櫂を持ち直してなるべく軽い口調で「スナークってなあに?」ときく。
「スナークは……スナークさ。ならあんただって、ネルってなんだよ」
「えっ? なあにそれ」
「知らないよ。でも昨日の夜、そういってたじゃん」
 だけど知らないものは知らない。困ってしまって沈黙すると、少年は唇を尖らせて刀を舟の上に置いた。いつもの少年が戻ってきてくれたので私はほっとする。
「寝ながら言ってた。泣いてた」
「夢の話でしょう? そんなの……そんなのわかんないよ」
「でもそいつのこと一生懸命呼んでたんだぜ。俺のことは呼ばないくせに」
 少年は怒りを含んだ声で言う。
 なんで怒っているんだろう。しばらく考えてから「やきもち?」ときいた。
 本気の本気で怒らせてしまった。寝転がって曲げた腕で顔を隠し、口をきいてくれない。寂しいな。腕の下に見える耳たぶが真っ赤になっている。

 すべてはここに 流れつき 消えていくと彼女は言っていた。
 では流れずに私の中に残るものはなんだろう。

 少年は島が近づくにつれてスナークの話ばかりをするようになった。

 スナークを狩れば故郷は救われると繰り返すけれど、故郷がどんな場所なのかは教えてくれない。
 私は時々泣いてしまう。けれども彼はもうどうしたんだときかない。
 鞘から刀を抜き、鈍く輝く刃を灰色の空に掲げてうっとりと見つめ、「スナークを狩るんだ」と言う。
「泣くなよ、だから泣くなよ、スナークを狩れば皆が喜んでくれるんだ。俺は皆の役に立つんだ」
 少年は私の方をちっとも見ないで熱狂的な口調でそう繰り返す。
 私は皆じゃない。
 その刀を河に投げ捨ててくれればいいのに。

 島には恐ろしい怪物がいたと彼が言う。
「スナークだ! 見つけたぞ!」
 暗闇にむかって少年は金切り声でそう叫んだ。
 私は小枝を握りしめ立ちすくんでいた。お祈りをして(でも誰に?)少年を助けなきゃと思うのだけれど私には何も見えなかった。彼を熱狂させるものが何も見えない。彼が戦っているものが何なのかわからない。少年が刀を振るうたび、液体が飛び散る音だけが響く。ぐしゃりと音がして、私の顔にも生温かいものがかかった。

 そして灰色だった空から灰色の雲が姿を消して、まっ白なまっ白な太陽の光の下に 倒れた おばあさん や おんなのこ が 赤い血を

 とてもとても赤い血を

 彼がスナークと呼ぶ彼らを殺してから少年は私のことが見えなくなった。小舟の上で両腕と両足で刀を抱え、ずっと震えている。私の声には答えずに、ただひたすらスナークを倒さなきゃと呟いている。小さな舟の上で私は彼に触れる、私は彼を叩く、でも彼は私を見てくれない。暗い夜の闇のような目は私の顔を見つめない。
 私は泣きながら櫓を握る。私は次の島へ向かわねばならない。二人でいるのに一人でいるよりずっと孤独だった。櫓を漕ぐ手を休め、水面を覗きこむ。さざ波の上に私の姿は映らなかった。

 私はもうこの河の流れに打ち捨てられたのだ。
 少年の中には私はいない。

 ひと漕ぎするごとに、この旅が終わりに近づいているのを予感する。

 灰色の空と暗い水面の間には生ぬるい風が吹き、大きな翼を持つ鳥が頭上を旋回する。
 鳥は いとし ひと! いとし ひと! と私のかわりに声をあげた。



end

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