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多分私も一匹の犬

グッドエンド後/マナ メロダーク

 ある時は蛇でありまたある時は小鳥であった。
 自分がタイタスの後を追っているような気がして心配になったが、私はタイタスではない。マナだ。マナ。
 
 ――私はマナ。

 それだけははっきりと覚えていた。
 自分の名前だけは忘れずにいる。
 私の名前はマナ。
 だがマナを名乗る自分が誰なのかはわからない。わからないまま、早春に雪を割り、頭をもたげる花となった。白い蕾がほころべば淡い赤色を帯びた花弁となった。
 どう、私、綺麗でしょう?
 誇らしげに風へと顔を向ける。
 陽光が遮られた。
 覆いかぶさるように膝をついた男が手袋をはめた手を伸ばし、彼女の周囲の雪と土をざくざくとかきわけると、細かな根を傷つけぬよう気をつけながら、引き抜いた。
 植物では、身動ぎすることも敵わない。大地を離れた彼女は悲鳴をあげたが、男は平気だ。持っていた土の器に彼女を移すと、大きな鼻で彼女の香りをかいだ。

 ――花は嫌だわ。

 気がつくと、強い足を持つ狼となっていた。白い毛並みが銀の月に輝く。草を散らし、森の中を駆けた。遠吠えは冴え冴えとした夜の空気を揺らした。自由だった。
 私は、マナ。
 それだけは忘れずにいた。
 だがある日、兎の匂いを追いかけた森で、罠にかかった。人間と鉄の香りにあっと思った次の瞬間、落ち葉の下に巧妙に隠されていた網の四方が跳ね上がり、空中にぶらさがっていた。狂ったようにもがいたが、硬い鉄芯のロープで編まれた網は、爪も牙も通さなかった。
 やがて森の奥から黒い服を着た猟師がやってきた。猟師はナイフも刀も持たず、変わりに彼女を傷つけず縛る頑丈な縄だけを持っていた。
「……手間をとらせる」
 おそれることなく彼女を見つめ、そうささやいた。
 マナは怒り狂った。

 ――獣なんて、つまらない。

 ぽうんと跳ねて、銀色の魚になっている。少女の爪のような小さな鱗が全身を覆っている。船が近づくこともできない沖まで泳いで泳いで、大海原には果てはない。
 夜になれば星が輝く夜空と波がきらめく海は混ざり合い、うねる漆黒となった。銀色の魚は、冷たい波をくぐり抜け、幸福な気持ちで泳ぎ続けた。エンバーが見守るこの場所で、彼女は自由だった。
 マナ。私はマナ。
 名前だけははっきりと覚えている。
 つまり己の魂の形を崩さずにいるということだ。
 何かが後をつけていると気がついて、体を慌ててくねらした。背後からぐんぐん近づいてきた黒い影が彼女の上に覆いかぶさるように広がって、その大きな魚が口を開けると、海水と一緒に小さな銀色の魚はたちまち大きな魚に飲み込まれてしまった。
 腹の中は、暗く、温かく、静かだった。
 彼女のためにしつらえた寝室のようなその場所が、マナは気に入らなかった。柔らかな肉の壁にぶつかると、ぽうん、ぽうんと跳ね返される。肉の壁は柔らかく痙攣し、そのたびに彼女を飲み込んだ大きな魚が苦痛を感じているのがわかった。それなのに口を開こうとしない。
 ――もう! 痛いのなら、吐き出せばいいのに!
 それでマナは今度は小さな泡になり、魚の口の端からうまくするりとこぼれでて、海面に向かって上がっていった。
 他の幾百の泡にまぎれてふわふわと浮かぶのは楽しかったが、その快感もひとときだった。男は波となってマナを追いかけてきた。波に飲み込まる前に、マナは翼を広げて空に飛び立った。いつの間にか日が高く登っていた。青の天地が反転した。
「マナ」
 砕け散りながら波が彼女を呼んだ。
 マナは返事をしなかった。太陽に向かって飛んだ。

 陽光となり、雨となり、神殿を支える柱となり、真っ白な蜥蜴となり、地面に開いた穴となり、蟻となり、小さな子供の持つ陶器の壺となった。
 男は雲となり、水溜まりとなり、神殿の柱に支えられる屋根となり、前足を素早く動かす黒い猫となり、さらさらと流れて穴を崩す砂地となり、蟻を誘う甘い蜜の流れとなり、蜜の溜まった壺を高く買う行商人となった。
 金貨となったマナは国の徴収人の手に渡ることで行商人から逃れ、だが男は金貨を集める皮袋となっていた。
 どこまでもどこまでも、訓練された一匹の犬のように、彼女を執拗に追いかけてくる。
 馬になれば轡となり、石畳となれば生い茂る草となった。
 瀬となれば淵となり、北風になれば西風となってつきまとう。
 東の最果て、ここより先には人が踏み込んだこともない小さな村で、マナはなんの変哲もない村娘になった。
 黒い髪と黒い目をした少女の服は、険しい東の山から噴きつける風をはらんで大きく膨らみ、はためき、ほっそりとした体にまとわりついた。
 魂とは難しいもので、マナは人間の姿になったとたん、あれだけずっと大切に覚えていた己の名前をたちまち忘れかけた。岩だらけの山の小道を、数匹の痩せた山羊たちを杖がわりの木の枝で追い立てながら、マナ――いや、マナの魂を持つ痩せた黒髪の村娘は――物心ついた頃からずっとそうしていたように、元はエルフの歌だという村に伝わる静かな歌を口ずさみながら、歩いていた。
 ごつごつした岩の間を、曲がりくねった細い道が続いている。彼女の村がある山麓ではなく、誰もいないはずの山頂の方から、人がやってくる気配があった。
 驚いて振り向いたマナの目に、細い道を下ってくる旅人の姿が飛び込んでくる。
 軽装の若者が山を降りてくる。茶色い髪を短く切り、このあたりの人々が被る刺繍のついた帽子を手にした若者は、山歩きには慣れているらしく、しっかりした足取りだった。
「マナ」
 と、男が言った。
 名前を呼ばれたとたんに、マナは自分がマナであることを思い出した。本人が名前を忘れても、覚えている人間がいる限り、魂は消えない。
「どこまで追いかけてくるんですか」
「どこにいってもひとつ輝いているからな。見つけるのは簡単だ」
 ずれた返事がわざとなのかそうでないのか、マナにはわからなかった。追い立てられなくなった山羊たちは、足を止めてべえべえと鳴きながら、気ままにそこらの草を食べ始める。山羊たちの間で立ちすくんだ少女の手から杖を取り上げて地面に投げ捨て、「さあ、帰るぞ」と、男が言った。穏やかだががんとした口調だった。
「……山羊を連れて帰らないと。お父さんと弟たちのために晩御飯の用意をしなきゃいけないし」
「お前の仕事は他にある」
「でも、嫌」
 このマナは、風が吹きすさぶ岩山の麓の小さな村に暮らす村娘だったので、とても頑固にそう拒絶して、それからとても率直に、神殿の巫女では決して口にだせないような率直さで、言った。
「どうしてずっと追いかけて来るんです? どんなにしても、私のこと捕まえてくれないくせに。そんな気もないくせに」
 茶色い髪の男が微笑した。マナの記憶にはない笑顔で、あ、これはあの人ではないんだなと思う。
「お前がずっと俺を捕まえているのだ」
「嘘」
「本当だ」
 男が手を伸ばし、両手でマナの前髪をかきあげた。
「これは本当のことだ。そろそろ戻って来い。俺はいつまでもお前を追いかけ続けてもいいが……」
 額に触れられると気持ちがいい。
 マナは突然、思い出した。
 ずっと昔、出会った最初の頃、いつまでも打ち解けられない冷たい人だと思っていたのに、夜種との激しい戦いのあとで、突然頭を撫でられたのだ。傷の手当てをしながら男は彼女の頭を撫で、「……あまり無茶をするな」確かそう言われたはずだ。そもそも男の人に頭を撫でられるのが初めてで、マナはとっさにどうしていいかわからず硬直し、でも一瞬で男は手を外しひどく辛そうに視線を逸らした。その時のマナは、なぜ彼がそんな風に自分を気遣ったのか、優しさを後悔した素振りを見せたのかわからなかった。
 思い出した。
 マナは目を閉じて、ああ、でもやっぱりメロダークさんがいいな、と思った。私はあのメロダークさんにそばに居てほしい。そのためには、マナはマナでなくてはならない。最初に会った時と同じ二人である方がいい。目を開けるとホルムの神殿の回廊にいて、大河の巫女は、メロダークに頭を撫でられていた。



 撫でられている間お利口な犬のようにおとなしくしていたマナは、メロダークの手が離れると不思議そうに聞いた。
「どうしました? なんで撫でたんです?」
「……別に理由はないが」
 メロダークはいつもの陰気な調子で言う。
「私にご用でも?」
「いや」
 そう言ったくせに立ち去ろうともしない。マナの前でじっと彼女を見下ろしていたが、しばらくしてから、「マナ」と彼女の名前をぽつんと呼んだ。
 用事は特にないが、構いたいらしい。
 というのがわかったので、マナは一歩近づいて、メロダークの肩にこつんと額を押しつけた。メロダークに構われるのは好きだ。メロダークがうつむいて、まるで花の香りを嗅ぐように、少女の髪に顔を寄せる。人気のない回廊の柱の影で、抱き合うでもなく、二人で身を寄せあってただじっとうつむいていた。
「マナ」
 メロダークがまた囁く。
 名前を呼ばれるのは好きだ。誰かに自分の名前を呼ばれることがこんなに『いいこと』だなんて、メロダークと会うまでは知らなかった。

 ――私が死んだら、メロダークさんはもう二度と私の名前を呼ばないのだろうか?
 
 もし呼んでくれたら忘却界まで男のささやきが届くような気もしたし、その一方で、自分が死んだら名前を二度と言わないで欲しいような気もした。実際にはそうもいくまいが――魂がこの土地を離れる時、マナという私を呼ぶ彼の声も同時に消えるなら、それが自分にとって最大の鎮魂となるようにも思えた。
 その考えをマナは口には出さなかったのに、メロダークがまるで承知しているとでも言うように、少女の額に唇を寄せた。彼女の名前を呼ぶのと同じように、ささやくような口づけであった。
 


 end

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