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大河の娘

竜の塔前 / アダ マナ カムール

 ホルムの夜明けは神官たちの目覚めの後からやってくる。
 まだ星の残る空の下、中庭の祭壇へむかうマナの後ろ姿を目にして、宿舎から起き出してきたアダは口元の中途半端な欠伸を微笑に変えた。
 少女の姿を目にする時、アダの胸には自分でも当惑するほどの誇らしさが溢れてくる。誇らしさの幾分かは少女を育てた自分への、聖職者らしからぬ自賛の念を含んでいた。河辺で声もなく泣いていた小さな赤ん坊が、こんなに健やかに成長するなんて、一体誰が想像できただろう? 赤ん坊だったマナを見て、当時ここに勤めていた巫女たちは口をそろえて言ったものだ――この赤ん坊は弱すぎます、きっとまともに育ちますまい。親は墓を建てる金を惜しんで捨てて行ったのでしょう――それにもしも生き延びたとしても、この目や肌ときたら、まるでできそこないではありませんか……。
 祭壇の燭台に火を灯していたマナは、アダの足音に振りむき、明るい微笑を浮かべた。
「おはようございます、アダ様」
「おはよう、マナ。今日は昼食を用意しておくれ。カムール様がおいでになるからね」
「領主様お一人でですか?」
「墓を参られるときは、いつだってお一人さね。葡萄酒も出しておいてもらおうかね。それと今日は市が立つ日だね……農家の人たちが子供を預けに来るだろうから、今は授業はやっておりませんと断って、預かれる人数なら適当に遊んでやっておくれ」
「わかりました」
 祭壇の前に立ち祈祷書を広げたところで、ふと思い出し、アダは言った。
「夕べは随分うなされていたようだね」
 軽い気持ちで口にしたのだが、マナはまるで打たれたように大きくたじろいだ。息を吸い、顔を伏せる。
「申し訳ありません」
「謝るこっちゃないさ。いや、なんで謝るんだね?」
「それは……ええっと……なんでもありません」
 かすかな恥じらいを含んだ少女の表情に、アダはピンと来た。
 ――なんだか知らないが、また悩んでるね。
 真面目なのはいいが、すぐに思い詰める癖がある。
 そのうえ悩みを口に出さない。アダの視線を受けて、うつむいたマナの頬が赤く染まった。唇がかたく結ばれている。二つの頃から変わらない、『言えません』ときの強情な表情だ。こうなったマナから悩みをききだすのは不可能だ。そうはわかってはいたが、それでも「どうしたね」と問うた。
 案の定、かえってきたのは石のような沈黙だった。
「あの遺跡のことかい?」
「……」
 ますます唇をかたく引き結んだマナに、アダはため息をついた。
 ――嘘がうまくないのもいいやら悪いやら……まったく、人を心配させる子だよ。
 なにか知らないがそう気に病みなさんな、くよくよしたっていいことはないよと言おうとして、やめた。
 どうせまた異変の数々について思い悩み、遺跡を暴いた己を責めているのだろう。その件については、アダはすでに自分の意見を述べていた――神々が入り口を作られた以上、そこはいつか誰かの手で開かれるべき場所だったのだと。『例えばあの洞窟を見つけたのがチュナのような子供たちなら、洞窟に巣食う夜種に引き裂かれてその場で殺されていただろうね。信心の足りないパリスやネルなら、苦悩はもっと深かっただろうよ。他の誰でもない大河の巫女のあんたがあの遺跡を見つけたのは、神々がホルムの町に施された憐みだよ。あんたの苦しみは、アークフィア様に全部お任せすりゃあいいのさ。不安も後悔も、大河は全部運びさってくれるだろうよ』……マナがその言葉にどれだけ納得したのかはわからないが、アダはそれ以上言葉での慰めを与えるつもりはなかった。マナは憐みを受けるのではなく与える側に立つ人間なのだから、苦しい時こそ人でなく神々に心をむけねばならない。この点に関し、アダは養い子を甘やかすつもりは一切なかった。
「悩み続けるのも傲慢さね」
 二人きりの朝の礼拝を終えたあと、閉じた祈祷書に手をのせ、アダは言った。
「アークフィア様は人間の解放と引き換えに虜囚となられたんだからね。そこのところを忘れちゃいけない」
 胸の下で両手を組んだまま、少女はうなだれた。長い髪が落ちて彼女の顔を隠す。消え入りそうな声でつぶやいた。
「もっと強い信仰が欲しいです……祈れば祈るほど、私は救いから遠ざかっていく気がします」

 真新しい墓石が列をなした墓地を抜ければ、眼下には赤く染まった大河が広がる。河の上を渡ってきた春は、淀みと腐りの匂いを含んでいた。墓地で祈りを捧げたあと、カムールはすぐに立ち去らず、アークフィア大河を無言で見おろしていた。やがて振りむき、後方に控えていたアダに言った。
「昨日ナザリの大公閣下から使者がきました。遺跡は解放し、民間の探索者をいれることになるでしょう」
 アダは無言で一礼する。
 新しい墓の下にはホルムで生まれ育った兵士たちが眠っている。この数週で、随分たくさんの住人たちが死んでいった。次は無記名の墓石が増えることになるのだろう。数週間前、マナが洞窟から持ち帰ってきた旅人の骨を受け取ったとき、アダにはすでに予感があった。三十年前の戦争と同じように、また死者が列をなすことになるという予感だった――巫女を長く続けると、嫌な勘ばかりが鋭くなる。
「また怪我人と死者が出ることでしょう。巫女長様のお手をわずらわせることになりますが、よろしくお願いします」
「もちろんですとも。この通りの老いぼれですが、全力を尽くさせて頂きますよ。人も金も足りちゃいないのが苦しいところですがね」
「今のホルムには、足りているものなど何もありませんよ」
 婉曲な援助の依頼を、カムールは柔らかく一蹴した。
「イナゴの通り道から外れていた農地でも、作物が育たずに黒く枯れていくそうです。夏の麦の収穫は期待できますまい。遺跡からこの怪異を払う何かの手掛かりが発見されればよいのですが」
 カムールらしい慎重な言い回しだった。
「大河神殿の予言者たちは皆が皆、遺跡の内部に原因ありと告げております。すぐに解決するとも思えませぬが、遺跡を探ることは無駄にはならんでしょう。これだけ同じ神託が揃ったのは、三百年前、荒野に魔王が生まれた時以来ですじゃ」
「マルディリアのその後を考えれば、ぞっとしませんな。シーウァから勇者が現れたように、神々がこの地にも英雄を遣わしてくださればと思いますよ」
「アークフィア女神がきっとお助けくださいますとも」
「アダ様の信仰心が羨ましい。私にはどうしても、神々は人に残酷すぎるように思えてなりません……失礼、こんな場所で言うべき言葉ではありませんでしたな」
「なんの、あたしだって証がなけりゃぁ信仰が揺らぐ不信心者ですよ」
 丘の上の墓場から下り、回廊を通って神殿の中へ入ろうとした時、先を行くカムールが足を止めた。中庭でマナが五、六人の小さな子供たちと鬼ごっこをしている。目隠しした子供の周囲を、他の子たちが囃し立てながら駆け回っていたが、鬼の子供はゆっくりと手を叩くマナを難なく両手でつかまえ、笑い声が弾けた。カムールの視線がマナの上にとどまっている。
「そういえば、遺跡を最初に見つけたのは彼女でしたね」
 カムールの声には何の含みもなく、アダはそのせいでかえって緊張する。
「育て方が悪かったのか、やんちゃな子でね」
 しかし遠い目をしたカムールは、アダの想像とはまったく違うことを言った。
「ホルムがこんな時にとお思いになるかもしれませんが、死んだあの子が……いや、たとえ血の繋がりがなくとも子供の一人でもあればと――最近頻繁にそう考えるようになりましてね。何度か養子の話も出ていたのですが、ぐずぐずと先延ばしにする間に妻も亡くなってしまった」
 アダはありきたりな慰めの言葉を口にしなかった。仲のいい夫婦だったし美しい赤ん坊であった。――アダは彼の妻と子両方の死を看取り、墓に骨を納めた。
 カムールの赤ん坊の死と神殿の階段でマナを拾いあげた二つの出来事は、アダの中では分かちがたく結びつき、ひとつの激しい胸の震えとなって記憶されている。
 運命がほんの少し違えばマナは領主の子供として育てられていたのかもしれないと思い、しかしこの想像はアダを不快にさせた。神々に対してはもちろん、カムールにも亡くなった彼の奥方にも、そしてマナに対しても、あまりに礼を欠く考えのような気がしたのだ。
 しゃがみこんだマナに目隠しをしようとして、子供たちが大騒ぎをしている。彼らから逃げ出したマナは、数歩進んだところでアダとカムールに気付いた。足をとめると表情を改め、カムールにむかって丁寧に礼をする。普段アダに見せるよりも、ずっと大人びた表情と仕草だった。
 ――転んで服が破れたの鍋に虫が飛び込んだの、すぐ泣きべそをかく子供のくせに、いっぱしのふりをするよ――アダはにやりと笑い、すぐに表情を引き締めた。カムールの横顔にわずかに浮かんだ称賛の表情を見て、またぞろマナを誇らしく思う気持ちが鎌首をもたげたのだった。アダは自分の感情にぴしゃりと慌てて蓋をする。傲慢に見栄に虚栄に、いくらでも悪への道は続いている。
「マナさんは立派な後継ぎですな。羨ましいことです」
「なんの、まだまだ修行の足りない半人前ですよ」
 カムールは笑い、巫女長殿はお厳しい、と言った。
 
 大河神殿では身寄りのない子供を引き取って育てるのが義務となっていて、痩せ細った赤ん坊が泣く姿は巫女たちには見慣れた光景だった。
 神殿に拾われた子供たちが同じ神殿で成人となることは滅多にない。孤児たちが新しい両親と炉端を得るよう神殿では八方に手を尽くすし、たとえ巡り合わせが悪く引き取り手に恵まれなかったとしても、職人に弟子入りできる年齢になれば、子供たちは自分から神殿を去っていくことがほとんどだった。
 しかしアダはマナを拾った最初から、この子供を神殿で――自分の手元において――聖職者として育てようと決めていた。周囲はそれを白子に対するアダの優しさだと考えたようだったが、(あれは単にあたしのわがままだよ)当時を振り返り、アダはそう思う。
 西シーウァとの戦争で傷ついたホルムの町が、ゆっくりと癒され始めた頃だった。町を囲む外壁は以前よりも高く、強く、修繕され、魔法の炎で溶かされた神殿の鐘楼は新しい物に取り換えられた。親を亡くした子供たちは成人して新しく子供を作り、焼かれた草原には青々と草が生えそろい、兵士たちの兜は磨かれ、新しくよみがえりつつある町の中で、領主の長子が誕生した。長いあいだ待ち望まれた嫡子の誕生は、平和のうちにすべてが順調に整い、進んでいく象徴のようでもあった。
 町中の祝福を受けた赤ん坊はしかし、ひと月もたたぬうちに息を引き取った。
 アダの祈りも手当ても、デネロスから届けられた薬も、赤子の命を引きとめるのに何の役にも立たなかった。
 領主の館から神殿への帰路を行くアダの胸中には、苦い悔悟と悲しみと怒りが暗く重く渦巻いていた。
 赤ん坊を聖水で清め祝福を与えたのはたった数週前のことだ。奥方がひと針ひと針丹念に縫った産着も、伯爵が設えさせた子供部屋も、召使いたちの用意した玩具も、すべてに意味がなくなってしまった。
 神々は命を与え、奪う。
 その手の御技はなんのためらいもない。
 しかしこんな風に即座に散らす命をお与えになるのはなぜだろう? 己の務めを果たし人々のために尽くす領主夫妻に、こんな苦しみを負わせられる意味がどこにあるのだろう……。
 早すぎる死への自責の念は、神々への不信と結びつき、大雨に打たれる水面のようにアダの心を騒々しくかき乱していた。
 白昼だというのにホルムの町からは人の影が消えていた。
 領主の館の小さな死はまだ告げられていないはずなのに、まるで喪に服しているかのような静寂が町中を包んでいる。
 強すぎる日差しは、周囲を平坦な白さで染め上げていた。
 裏から宿舎へ入ろうとしたアダは何気なく至聖所の方を見下ろし、そこで足を止めた。アークフィア大河に面した至聖所の石段に、灰色の染みのようなものがあった。
 アダは疲れ切った顔をのろのろと上向けた。鳥の影かと思ったのだった。天球は不思議な深い青色に染まっており、そこには鳥どころか雲の一片すらなかった。視線を戻したアダは、その染みがもぞもぞと動いたのに気付いて、はっと息を飲んだ。
 疲労のためにもつれる足を急がせ、崖の階段を下りた。至聖所を抜けて河縁にたどりついた時には、完全に息が切れていた。アダは自分の目が信じられなかった。石段の上には黒く濡れたゆりかごがぽつんと置き去りにされており、汚い布に包まれた小さな赤ん坊が、むずかるように手を動かし、かすかな泣き声をあげていた。
 赤ん坊の声には力がなく、肌の色も髪も異様な白さだと気づいたのは後になってからだ。その瞬間はこの赤ん坊が生きているということしか目に入らなかった――そして結局、大切なのはその一点だけではなかろうか。後はすべて些末に過ぎない。
 神々は理由なく命を奪い、また与えたもう。
 濡れた至聖所の階段に膝をつき、アダは赤ん坊を抱きしめた。服と布を通して、小さな心臓が命を刻む熱と音が伝わってくる。気がつけばアダの頬は熱く濡れていた。
 
 ……公国の平和を乱す怪異の原因を突き止めたものにクリム金貨一万枚を与える。怪異をすべて解決した者には、騎士身分と所領、および英雄にふさわしい栄誉の全てを与える……。
 
 ネス大公から遺跡に関する正式な布告がなされてから三日もしないうちに、ホルムの町はひどく騒々しくなった。神殿にも紋章のない甲冑で身を固めた騎士たちやら、埃まみれの長衣に旅の守りだけを首から下げた僧侶やら、真っ黒に焼けた肌をした目つきのやたらと鋭い射手やら、要するに胡散臭い連中が列をなした。彼らは祭壇で祈りを捧げ、祝福を与えられた装身具を購入していく。見たこともない意匠の首輪を首に食いこませた男が転がりこんできて、呪いを解いてくれと泣いて頼まれたこともあったし、癒しを求める怪我人も訪れるようになった。――ホルムの地下に眠っていた遺跡は、いまや大きく開かれ、冒険の場所となったのだ。
 目が回るような忙しさの中で数日が過ぎたある夜、アダの私室をマナが尋ねてきた。
 ユールフレールへの書状をしたためていたアダは、思い詰めた表情で後ろ手で扉を閉めたマナを、別に驚きもせずに眺めた。要件も葛藤も大体予想できていて、とうとう来たね、という気持ちだった。
「どうしたね」
 アダがきくと、マナはぺこりと頭を下げた。
「アダ様、お願いがあってきました。忙しいのはわかっていますが、私、どうしても遺跡に行きたいんです」
「ああ、いいよ」
 アダはそう答え、羽根ペンの先を丁寧に拭った。インク壺の蓋を閉め、卓上を片づけてから振りむくと、マナはまだ戸口に突っ立ったままだった。ぽかんとした顔になっている。
「なんだね?」
「……いえ、あの、反対なさるかと思っていたもので」
「こっちはいつあんたがそれを言いだすのかと待ってたんだ」
 マナの表情からゆっくりと当惑が消え、かわりに笑みが浮かんだ。アダは少女に頬笑みをかえす。少女を手で招き、自分の前まで呼んだ。
「どうせ手伝いをよそから頼まにゃならんと思ってたところだよ。あんたには伏せておいたがね、信者の方にもう声はかけているんだ。神殿のことは気にせず、行っておいで」
「はい、アダ様」
「あんたが遺跡を見つけたことには意味がある――そう言ったのを覚えているかね」
 マナの手をとり、アダは続けた。
「神託によると、遺跡の内部にはこの災厄の原因があるらしい。最初にあたしが思っていたよりも、ずっと深い意味があるような気がするんだよ。あんたは巫女としちゃあまだまだかもしれんがね、それでも奇跡の技は探索者たちの助けになるだろうよ。行って、あんたなりの信仰を見つけておいで」
「でも、神殿から離れて信仰が深まるなんてこと、あるんでしょうか?」
「そんなもんさね。あたしなんざ、神殿の階段で信心の答えを見つけたくらいだ」
 マナは懸命に言葉の意味を考えていたが、アダの笑顔を見て、からかわれたと思ったようだった。
「……アダ様のご冗談、時々わかりづらいです」
「冗談じゃあないんだがね」
 体をかがめ、少女はアダを抱擁した。布地を通して、少女の心臓が強く脈打っているのを感じる。
「ありがとうございます――わがままをいって申し訳ありません」
「無事に帰ってくるんだよ」
 アダはかたく少女の体を抱きかえした。

 朝の礼拝を終えるまで、いつもより長い時間がかかった。特別に祈るべきことがいくつか増えたためだ。
 一旦私室に戻ったマナは、すぐに支度を整えて部屋からでてくる。
 遺跡に入るということはすなわち夜種や太古の亡霊どもと戦うということだ。いくら慎重であったとしても、取り返しのつかない大怪我を負う危険はつきまとう。だがアダは、そういったすべてを含め、この探索に関する少女の決断には一切口を挟むまいと決めていた。マナはまだ子供だが、そろそろ自分の力で自分を作っていかねばならない時期に差し掛かっている。寂しいことだが仕方がない。マナは無力な赤ん坊ではなく、あれこれ世話を焼いてやれた幸福な時期はもう終わったのだ。
 しかしマナの姿を見たとたん、その覚悟はどこかに吹きとんで消えてしまった。
「薄着すぎやしないかね」
 いきなり小言が口をついてでる。
「遊びに行くんじゃあないんだよ。なにも甲冑を用意しろとは言わないが、もっと体を守るような格好をだね」
「……アダ様、慣れない防具をつけたら、動きが鈍ってかえって危険ですよ」
「ならもっと厚い上着を……持っていなかったんだっけね。お待ち、小遣いをやるからネルの家で買ってお行き」
 マナが困ったように苦笑しているのに気付き、アダはむっとした。最近の若い者ときたら、ちっとも年寄りのいうことをきかない。
「お怒りにならないでくださいよ。ラバン爺についてきてもらうから大丈夫です。ネルも一緒だし」
「大丈夫って、ありゃよぼよぼのじいさんじゃないか。頼りになるのかね」
「アダ様よりはだいぶお若いと思うんですけれど……」
 マナは脇に挟んでいた杖を握りなおし、では行ってまいりますね、と言った。
「ああ、気をつけてお行きよ」
 怪我をしたらすぐに戻っておいでという言葉だけはなんとか飲みこむことができた。
 神殿の正面まではマナの後ろをついていき、軽い足取りで階段を下りていくのを見送った。マナは通りの半ばで一度だけ振りむき、アダにむかって丁寧な礼をした。少女は終始無言だったが、アダの耳は、いってまいりますという聞きなれた養い子の声を確かに聞きとる。やがて頭をあげた少女は、神殿に背をむけ、もう振りかえることなく歩み去っていった。
 アダは階段の上で少女の背中を見送りつつ、マナを見れば胸にあふれるこの誇らしさはなんだろうと自問した。ホルムの町中の人間に知らせてやりたくなる――あの白い髪のほっそりとした娘をごらん、あの子は今から己の危険も顧みず遺跡へと赴くところだ。ネスは広く世界は果てがない、この世に美しい娘は多かろう、聡明な娘もいるだろう、働き者も優しい子も勇敢な少女もいて、多分彼女らはマナよりもずっと優れているのだろう。しかしあたしにとって何者にも代え難く、最も素晴らしいのはあの娘だ。あれはアークフィア様から授かり育てた、あたしの娘なのだと。
 少女の姿が角を曲がって完全に見えなくなってから、ようやくアダの眉間の心配そうな縦の皺が消えた。知らず知らずのうちに祈りの形に固く組みあわせていた両手をほどく。
「なんだい、つまりただの親馬鹿じゃないか」
 老婆は照れを含んだ口調でそうつぶやくと、踵を返し、静寂と涼気に包まれた神殿の中へと姿を消した。


end


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