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小さな川が流れるところ

グッドエンド後/マナ メロダーク

 強いて言えば、メロダークは横顔まで無口なのがいい、ということになるのかもしれない。
 探索中は時々、ホルムが平和になってからしばしば、マナはメロダークの顔を理由もなくぼんやりと眺めることがあった。視線に気づいたメロダークに「なんだ」と問われることもあったが、そのたびにマナは笑って首を横に振った。こういった感情を適切な言葉にするのは難しい。大河の流れや森の木漏れ日や澄んだ湖水に映る雲を好ましく思うのと同じように、マナはメロダークの伏せた目や鼻の輪郭や、本人はよく知らずにいるであろう耳の形や、意志の強そうな口元や、眉間に刻まれる皺が好きだった。
 その日、二人で酒を飲んでいる最中に会話が途切れたときも、マナは男の横顔をじっと見つめていたのだった。いつもと違うことがあった。視線に気づいて顔を上げたメロダークが無言で少女を見返し、そのまま目をそらさなかったのだ。
 それまで二人の間にそういうことが一度もなかったにも関わらず、あ、この人は私に触れたいと思っている、マナはそう直感した。
 マナは立ち上がったが、男を拒絶するのではなく、情欲を煽るような動きであった。床であぐらをかいていたメロダークも、ゆっくりと立った。
 狭い部屋の中で向き合うように立った二人は、口をきかなかった。
 向かい合ったままじりじりと後ずさりして、部屋の隅まで追い詰められていく間、マナは上気した顔に楽しげな笑みを絶やさずにいた。
 ふわふわと酔っている。実際、妙に楽しかった。マナが右に行くそぶりを見せると、メロダークの体も右へ動く。左に揺れると左に踏み込む。踊りか鬼ごっこのようだ。白い服の裾が揺れてふくらはぎをくすぐる。見つめ合ったまま、後ろへ、後ろへと下がっていく。背中が壁にぶつかった瞬間、マナは声をあげて笑ったが、メロダークは笑わなかった。両手を壁について身をかがめ、キスをした。
 重なった唇はすぐに離れたが、二度目は深い口づけになった。ぐいと体を寄せた男の靴がマナの足の間に割り込んできて、強く壁を蹴った。乱暴なその音にマナがびくりとしたとたん、メロダークの唇が離れて、キスが終わった。
 メロダークの上半身が倒れこむように傾き、熱い額がマナの肩口に押し当てられた。突然、マナの酔いが冷めた。はしゃいだ気持ちが霧散して、とんでもないことをしてしまったのに気づいた。メロダークの呼吸が荒い。普段は冷静な男が芯から熱くなっているのが伝わってきて、マナの体から血の気が引いた。
「わ……私」
 と、マナはか細い声で言った。
「……ち……違うんです……あの……ごめんなさい」
「なぜ謝る?」
 メロダークの唇がうなじをかすめ、耳朶に触れた。
「マナ、俺は」
 そうささやかれた瞬間、マナはメロダークを思い切り突き飛ばして、逃げ出した。



 *



 オハラからもらったシーウァの酒がいけなかったのかもしれない。
 部屋で二人きりになったのがまずかった。
 夕暮れのひばり亭がやけに静かだったせいだ。
 巫女としての自覚が欠けていた。
 女としての慎みすらなかった。
 メロダークは決して認めないだろうが、あれはマナの方から誘ったことで、そもそも一時の気の迷いがあったにせよ、メロダークが本当にああいうことをしたいと思っていたのかどうか――最後のこの考えは、マナを心の底から滅入らせた。
 大体マナを主と仰ぐ彼がこちらの誘いを断れるわけもなく、あの二人きりの親密な空気の中で、メロダークの様子がいつもと違うと気づいていたくせに、好奇心と悪戯な気持ちから彼を煽り立ててしまった。つまり悪いのは、自分だ。馬鹿。
 あの一件から数日、マナはメロダークと顔を合わせることを徹底して避けていた。落ち込むマナとは対照的に、メロダークは毎日を変わらぬ態度で淡々と過ごしているようであった。
 戦場暮らしの長かった男は、ホルムの誰とも違う特徴のある歩き方をする。礼拝のない日の午後、中庭のベンチに腰掛けて本を読んでいたマナは、廻廊の方から近づいてくるメロダークの足音に気づいた。やけにきびきびとした足取りで近づいてきた男は、マナが別の用事をしている時はいつもそうするように、彼女から少し離れたところで足を止めた。
 マナはメロダークに気付かないふりをして、膝の上の本に視線を落とし続けていた。頬が熱くなっている。嫌だ、と泣きたくなった。きっとまたみっともない赤い顔になっているのに違いない。これでは先日のことをはっきりと覚えていますしずっと気にしていますよと宣言しているようなものだ。ページに添えた指が少し震えていた。
 ――このまま気付かないふりをして、部屋に帰ってしまおうかしら。
 切羽詰まった気分でそう思った時、背後で、ぐぇ、と声がした。
 ぐぇ?
 振り向くと、メロダークが灰色のアヒルを抱いていた。
「メロダークさん!」
「……晩飯に鳥鍋を作ろうかと」
「神殿の敷地内で殺生は禁止ですよ」
 メロダークは驚いた顔になった。
「離してあげてください」
 そっと地面に置かれたアヒルは、足と羽根を束縛していた紐から解放されると、ぐぇ、ぐぇ、と悲鳴を上げつつよたよたと神殿の奥へ逃げていった。ここで離さないでください、という言葉がでなかったのはマナがまだ動揺していたせいだ。
「……オーセルで安く売っていてな」
 決まりの悪そうなメロダークの顔からすぐに視線を逸らして、マナは何気なさを装った口調で言った。
「あちらに何かご用だったのですか?」
「家を見に行っていた」
 メロダークはマナの戸惑いを気にする風もなく、彼女の隣にどっかりと座り込んだ。清潔な身なりをしていつもより元気そうにすら見えた。赤い顔で居心地が悪そうにもじもじするマナの方は見もせずに言った。
「ホルムの町からは離れたところがいいかと思ってな。ひばり亭に来ていた行商人から、オーセルに売り家があるときいたのだ」
「あちらに引っ越されるおつもりなんですか?」
「……相談した方が良かったか」
「相談? なぜです? メロダークさんがお決めになったことなら、私からは何も」
「そうか」
 メロダークはなぜか安心したように息を吐いた。マナの視線に気づくと、珍しく歯を見せて笑った。
「ま、あまり急ぐこともないと思ったのだが……じっとしていられなくてな」
「そうですか」
 ひばり亭に馴染みきっているように見えたのだが、そうでもなかったのかしらんと思いつつ、マナは相槌を打った。
「子供の頃に住んでいた家は、近くに川があった」
 と、これも珍しく昔のことを口にする。
「正確には川ではなく用水路だったのだが……だからか知らんが、俺は水の流れる音が聞こえると、落ち着くのだ」
「ああ、それは……オーセルは村のそばに綺麗な川が流れていますものね」
「……それで俺は、お前も、もしかしたら俺と同じなのではないかと」
「そうかもしれません。私は神殿を離れたことがありませんが、河の音が聞こえない場所で暮らすのは、きっと寂しいでしょうね」
「やはりそうか……うむ……そうだと思ったのだ。空き家は川のそばにあってな。裏は草地で林檎の木があって、これは毎年甘い実がなるそうだ。子供……いや……すぐにというわけでもないが……子供が遊ぶのにもいい場所だ」
「メロダークさんは子供がお好きですものね」
 オーセルで私塾でも開くつもりなのだろうか。メロダークはやけに力強い声で言った。
「そうだ、俺は子供が好きだ。俺は良い父親がどういうものかはわからんが、悪い父親にならぬよう努力できると思う」
 二人ともあまり口がうまい方ではないのだが、今日の雑談はなんだかうなぎのようで、ぐにゃぐにゃとしてどうにもつかみどころがない。私がぼんやりしているのがいけないのだろうかと思いつつ、マナはじっとメロダークを見つめた。この話が一段落したら、この間のキスのことをきちんと謝罪したいのだが。
「メロダークさんなら、きっと良いお父さまになると思います」
 とたんにメロダークが丸めていた背をしゃんと伸ばした。膝の上に置いた手をいきなり握りしめられ、マナは仰天した。
「な……なんです?」
「約束する。そうなるよう努力する」
 だからなぜ私にそれを言うんです、そうききかけたマナは、遅ればせながらメロダークがさっきから何を話しているのかに気づいた。
「あっ……! ち、違います! 違うんです! 待って!」
 マナはメロダークの手から自分の手を引き抜いた。
「メロダークさん! まさか私と、け、け、結婚なさるおつもりですか!?」
 メロダークが真顔になった。
「……酒の席でのことだったからな。ただの間違いとして、素知らぬふりで今まで通りにしても良かったのだが……」
「そっ、そうですよね! 間違い! その通りです!」
「……俺はもう、そういう風に自分を騙しながら生きたくはないのだ」
 のけぞりかけたマナに、ますます真剣な表情になったメロダークが、さらなる追い打ちを掛けた。
「それに、お前の信仰のこともある。ああいうことがあったあとで巫女を続けられるお前だとも思わん。数日、お前が苦悩している様子を見て、決心がついた。どんな責任も取るつもりだ」
 マナは立ち上がり、馬に乗ってホルムを出て、ヴァラコールあたりまで駆けて行きたくなった。誰もいない草原で羊やかわうそをかわいがりながら、残りの生涯を過ごすのだ。なんなら羊にはメロ、かわうそにはダークと名前をつけてもいい。反省の気持ちを忘れぬために。
 ――こういう人だというのを、すっかり忘れていた。
 今日までくよくよ悩んでいたマナだったが、メロダークに対する罪悪感が雪山を転がる雪球のように一気に膨れ上がった。自分が本当にとんでもないことをしてしまったと思うと、自然と声が大きくなる。
「ごめんなさい、違うんです! キスしたの、本当にそんなつもりじゃなくて。私、メロダークさんに悪いことを……」
「……悪いとか良いとか、そういうことではない。お前が俺をそういう風に求めるのなら、俺は喜んで応じるだけだ。巫女をやめるというお前の選択を後悔させないようにするつもりだ」
「だから……だから、それは違うんです!」
「何が違うのだ」
「私、あの時、メロダークさんとお酒を飲んでいて、なんだか楽しくて……そういうつもりじゃありませんでした。そんなじゃなくて、ただ、酔っていただけです」
「そんなはずはない」
 きっぱりとメロダークが言った。それからマナの顔を見て、今度はうろたえた声を出した。
「お前は、そんな理由で、ああいうことをしないだろう」
 マナは思わず目を伏せた。長い沈黙が続き、しばらくしておそるおそる顔をあげると、メロダークの顔からは拭ったように表情が消えていた。
「メロダークさん」
 メロダークは返事をしなかった。立ち上がって背を向け、何も言わずに去っていった。



 *



 数日は変わりなく過ごした。
 メロダークはひばり亭の酒場で学者や商人から遺跡絡みの仕事を請け負う合間に神殿に来て何か手伝いはないかと尋ね、マナの方も神殿の用事がすめばひばり亭に顔を出した。メロダークとマナは普通に挨拶をして普通に会話をし、普通に別れた。
 ただこういうことは後からじわじわ効いてくるもので、二人の会話からはこれまでの気安さや楽しさがすっかり影を潜め、マナも最初の『いつも通り、普通に』という決意が薄れてくると、段々、顔を合わせるのが気まずくなってきた。メロダークの横顔には出会った頃のような陰鬱さが漂うようになっていたが、これもマナにはどうすることもできないことだった。
 しまいにはカウンターの向こうのオハラに
「メロダークさん、最近、元気ないわね。日のあるうちから部屋に篭もりっぱなしじゃない」
 と言われて、マナはようやく、改めて自分がやってしまったことを思い知らされた。
 ――傷つけた。
 つまり、そういうことだ。好きだからキスをしたのだとメロダークは思っており、違う、と言ったせいで傷つけたのだ。自分は(メロダークにも再三告げているように)決して立派な人間ではないが、それはそれとしてメロダークが苦難の末に見出した光が、結局欲望のままに他人を利用して恥じない人間だったというのは、あまりにも残酷すぎるのではないか。
「病気ならちょっと困っちゃうのよね。うちは宿屋だし……葡萄酒で良かった?」
 オハラの声に我に返ったマナは、うなずきかけた頭をぶんぶん横に振った。
「今日はお水だけ」
「……飲まないなら何か頼みなさいよ。ここは酒場だし」
 渋い顔になったオハラは、マナがメロダークの様子を見に行くと告げると、即座に機嫌を直した。肉もパンもいつもより厚めに切ったチキンサンドを用意してくれる。
「ああいう頑丈な人って体に自信がありすぎるから、何かあると、案外すぐにころりといっちゃうのよねえ」
 と、マナを震え上がらせるようなことを言った。



 *



 メロダークは部屋に入ってくるマナを平然とした顔で迎えた。
 ただし、大体、ひどい目にあっているときほど冷静さを装う男なので、こういった見た目はちっとも当てにならない。窓辺に立ち、素焼きの水差しから手にした杯に水を注いでいる。マナの方には目もくれず、
「扉は開けておけ」
 と言った。
「また何かあると、お互いに困るだろう」
 意地の悪いところのない、いつもの淡々とした口調だった。一瞬動きを止めたマナは、上目遣いにメロダークを見ながら、そろそろと扉を閉めた。メロダークは黙って一息に水を飲み干し、もう一杯、注いだ。何の用かきかない。マナは小さな声で言った。
「最近、メロダークさんの元気がないってオハラさんが」
「……」
「……心配で。それとこの間のこと、きちんとお詫びしたくて来たんです」
「……ああ、そんなことか。お前はもう気にしなくていい」
 私が気にしなければ誰が気にするのかと思うマナの前で、メロダークは杯に口をつけた。窓の外を見ている。
「お前の気持ちはわかった。だから後は私の問題だ」
 杯をあけると、また注ぐ。
「でも」
「謝罪はよせと言っているのだ。馬鹿らしい」
「メロダークさん」
「……責めるような態度を取ってしまったが、考えればお前に非はない。こちらが勝手に勘違いしただけだ」
 言いながら飲み終える。また注いだ。
「大体、女のお前が謝るようなことでは」
 つかつかと近づいてきたマナが、メロダークの手から杯を取り上げた。鼻を近づけて匂いを嗅ぐと、思い切り怖い顔になった。
「やっぱりお酒じゃないですか! 飲み過ぎです!」
 メロダークは無言で杯を奪い返したが、マナが再びそれを取り上げると、もう抵抗しなかった。寝台に座りこんでうなだれた。マナは水差しがほとんど空になっているのを確認すると、杯の中身をそちらに空けた。
「なんですか、水みたいにがぶがぶと! それじゃ体を悪くなさいますよ!」
 神殿に運び込まれる泥酔者に対するのと同じように毅然とした態度でそう言ってから、はたと自分が謝罪に来たことを思い出した。
 つい勢いで説教してしまった。
 慌てて振り返ると、うつむいたメロダークは組み合わせた両手の指で青ざめた額を支えている。
「酔わんとやっていられん」
 吐き捨てるように言った。
「……ところが、酔わない。酒に強いのも考えものだ」
「でも、この間は酔っておられました」
「酔っていない。冷静だった」
「そうなんですか?」
「そうだ。お前と一緒にいる間は、いつも冷静だ。一人で考えている時間が長くなると、おかしくなる。ずっとお前のことを考えている」
 マナはメロダークの隣に腰を下ろした。うつむいた男の横顔は、垂れた黒髪と両手のせいでよく見えなかった。
 そういえばあの日、メロダークの横顔を見つめていた時にも、同じような胸のうずきを覚えたのを思い出した。今日のマナは酒を飲んでおらずはしゃいだ気持ちとは程遠かったが、視線に気づいたメロダークが顔を上げた時、男の頬を両手で挟み、キスをした。唇を離したあと、驚いた顔のメロダークが口を開くより先に「今日は酔っていません」と言った。
「では、なんだ」
 マナは少し考えこんだが、自分のこの気持ちがよくわからなかったので、正直にそのままを告げた。
「なんでしょう」
 メロダークが眉間に皺を寄せた。全力で怒り出しそうな気配があったが、マナはできるかぎり控え目につけ足した。
「もう一度キスしてくださったら、わかるかもしれません」
 メロダークは一度ではなく二度した。その後、何回か慎重に口づけを交わした。途中でメロダークがマナの膝の上からチキンサンドの包みを取って、うんと手を伸ばし、邪魔にならない場所に置いた。先日よりずっと冷静だったマナは、扉の向こうからは酒場の喧騒が聞こえているにも関わらずまるで気にならないこと、唇や舌の酒の残滓などわずかなはずなのに、完全に酔ったような気持ちになること、巫女としての自覚も慎みもほとんど役には立たないことに気づいた。
 メロダークの手を握ってみて、男が抵抗しないのをいいことに、指を絡めた。しっかりと握り返される。どきどきしてキスしたくなるがすでにしている。嬉しくてたまらなかったので、繋いだ手をぶんぶんと上下に動かした。
「メロダークさんは……手がとても大きいですね!」
「……もう少し真面目に考えろ」
「えっ、何をです?」
「だから、なぜ、お前が俺とこういうことをしたいのかをだ。おい、お前が言い出したことだぞ」
「そ、そうでしたね」
 口を閉じる前にまたメロダークがキスをしてきて、手を振りほどかれたと思ったら今度は覆いかぶさるような格好で抱きつかれる。マナは上を向いて、目をぎゅっと閉じたり、驚いた時にはぱっと開けたりした。
 そういうわけで、後は二人とも口をきかず、真面目に熱心に、ずいぶん長い間キスだけをして、マナはもうくたくたになってしまったのだが、抱擁を解くと寝台にうつ伏せに倒れこんだのはメロダークの方だった。マナも男の隣に、仰向けに寝そべった。寝台から飛び出した両足の膝から下をぶらぶらさせて、乱れていた服の裾をさりげなく整える。メロダークは顔を毛布に押し当てたまま、くぐもった声を出した。
「……なぜあんなことをしてしまったのか、考えていたのだが」
「はい」
「もうずっと女として見ている」
 恐れと怯えと熱の入り交じる声だった。マナはしばらくメロダークを見つめていたが、やがてその髪に触れた。癖のある黒髪をかきあげて耳の後ろにかけてやった。兜のせいで幾分形がいびつになった耳を露出させ、指先で優しくその形をなぞった。
 ――他の女の人が、ここに触ったこと、あるかしら?
 少女は、もしメロダークにそういう人がいたのなら、自分はその人のこともきっと好きだと思った。男の静かな横顔も、目や鼻や唇も、大きな手も肩も背中も、見ているだけで幸福になれた。いつでもメロダークの足音だけは聞き分けることができた。メロダークをメロダークたらしめているすべてが愛しかった。見ているだけで十分で、触れている間はただ幸福だった。
 恋についてはよく知らず、こういった穏やかな愛情を恋と呼んでいいのか、マナにはわからなかったが、この男を幸せにするためなら、神殿を出ることになっても後悔はしないと思った。
 大切なことを的確に言葉にするのは難しい。それでマナは、つっぷしたままのメロダークの耳に唇を寄せて、冷たい耳朶に優しくキスをした。


 *


 まだ日も高い昼のうちだったのだが、その後、二人はそのまま眠ってしまった。
 それで、緑の森の中を流れる小川のほとりにたたずむ、清潔で愛らしい小ぢんまりとした家と、その家を守るように枝と根を伸ばす、どっしりとした一本の古い林檎の木の夢を見た。




end


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