グッドエンド後/メロダーク マナ
1
目を開ければそこもまた暗闇だ。
目覚めたメロダークは混乱する。
ここがどこで今がいつなのか、とっさに思い出せなかったのだ。眠りが深すぎたせいでまだ夢の中にいるような気がする。前後もわからぬまま起き上がろうと手をつくと、すぐそばで衣擦れの音がした。耳元で女の声がささやく。
「待って、まだ待って。今、明かりをつけます」
2
ともしびはアークフィア神殿でしか教えない魔法の技で、キューグの巫女であるテレージャはもちろんハァル神殿で魔法を習得したメロダークも使うことはできず、それを知ったマナは、俄然、張り切りだした。
「それじゃあ、私が教えて差し上げます」
きっぱりとそう宣言する。
ひばり亭の昼食の席でのことで、メロダークは焼いた鳥肉を噛みちぎりながら、嬉しそうなマナを見やった。教えて差し上げましょうか、ではないことが意外だった。万事に控え目なマナには珍しく強引に出たと思う。
「……では頼もう」
「ええ、ぜひ!」
礼拝堂で日没後に待ち合わせの約束をしてから、マナは機嫌よく帰っていった。神殿まで送って行きたかったが、ついででない見送りはマナが許してくれないのもよく知っているので、メロダークは我慢した。
ユールフレールの大神殿では貴人のそばに四六時中護衛の兵士が控えており、メロダークは少女に対してそのようにしたいのだった。マナはまったくそんなことをされたくないので、メロダークは手もなくしょぼくれるしかない。
大河神殿では信者がやるべきことやってはならぬことすべてが決まっていた。ところが今はやるべきことどころか何をすればマナが喜ぶのかもよくわからない。
――ハァルは信仰するのに楽な神だった。
以前のメロダークがきけば激昂しそうなことを、今のメロダークは平気で考えたりもする。
帰依されたマナは戸惑っているが、帰依したメロダークの方も試行錯誤の毎日なのである。
礼拝堂の長椅子に腰掛けたマナの、傍らに置いた杖の先に、魔法の明かりがすでに灯っている。
光の球体は袖の長い巫女服をまとった小柄な少女の姿を柔らかに青白く照らし、並んだ長椅子の下や部屋の隅や高い天井にわだかまる夕闇を、一段濃い漆黒に染めていた。
入ってきたメロダークに気がつくと、マナは杖を振って明かりを消した。とたんにすべてが灰色に変わった。回廊を照らす夕暮れの残照に、彼を待つ少女の髪と服だけがぼんやりと白く光っていた。
「消さずともよかろう」
「いいんです。今のは、練習。久しぶりなので」
「いつもは使わんのか」
「ええ、蝋燭と油で事足りますから」
向かいに腰を下ろした彼に、マナがにこりと笑いかけた。何か知らんがずいぶん嬉しそうにしていると思い、メロダークも嬉しくなった。お互いに相手がしゃべりだすのを待って、しばらくの間向き合ってそれぞれの笑顔でただにこにこしていた。マナが先に口を開いた。
「ともしびは神官になって最初のうちに教わる、一番簡単な魔法のひとつなんです。メロダークさんはまだ大河の神官ではありませんが、大神殿で修行をお積みになっていますし、もうこの神殿の方ですから」
「……まあ、一応はそうなるか。ただの下働きだがな」
「私、厳しい先生なんですよ」
両手で杖を握りしめ、ぐっと胸を張った。威厳がないのでわかりにくいが、威張っているらしい。
「そうか」
「子供たちにも怖がられています」
「……そうか」
神殿の普段の様子ではあまりそういう風には見えなかったのだが、反論はしないでおく。
「ですから、今日は覚悟してください。この魔法を使えるようになるまで帰しませんからね」
厳しくも怖くもなかったが、教え方は確かにうまかった。一通り説明をきいて呪文を教えられただけで、メロダークは詠唱に成功した。焦点具として使った杖の先に青白い光が灯る。
暗闇の中でああだこうだと呪文を教えられている間に、二人とも椅子から身を乗り出していたようだ。
明かりが灯ると、メロダークが一瞬狼狽したくらい近くに、マナの顔があった。丸い額や花びらのような薄い瞼や、なめらかな頬に落ちる睫毛の繊細で複雑な影や、うっすらと開いた柔らかそうな濡れた唇や、そういう物を彼は見た。マナは男の狼狽に気づかなかった。メロダークの灯した小さな光球を見つめながら、ゆっくりとまばたきをした。
「……一度で」
なぜかがっかりしている。
ともしびから目を上げて、そこでようやくメロダークの顔がすぐそばにあることに気づき、ぎょっとしたようだった。弾かれたように上体を起こし、メロダークから距離を取る。慌てたせいかやけに大きな声で、言った。
「お上手にできましたね、メロダークさん!」
「……なぜ落胆する」
「えっ? ら、落胆というわけではないのですが」マナの頬が赤くなった。「あっという間に終わってしまったので。なんというか、寂しいな、と。朝までとは言いませんが、もう少しゆっくり二人でいられるかと」
あまりにも率直すぎる言葉で、メロダークは表情には出さず、内心で三歩よろめいた。
「そういうことを言っていると」
思わず口走った。
「そのうち、良くないことが起こるぞ」
マナが怯えた。
「どういうことです!?」
相手が俺でなければ勘違いするだろうが、馬鹿者、と心の中で説教する。
またうろたえさせると良くないので、これは黙っていた。
用事はすんだ、では帰ろう、また明日。というのが正解なのだが、なんとなくぐずぐずしている。マナの方も同じらしくて、お茶でもいかがですかと誘われる。
「こちらへどうぞ」
先に歩きだしたマナが廊下の途中で振り返り、「あのう、足音をなるべくさせないでくださいね」と言ったので、つまり行く先は食堂ではないようだった。
案内された先は神殿の居住区で、火の気のない厨房に二人で忍び込む。明かりをつけずにマナは戸棚のあちこちを探り、やがて皿に入った焼き菓子を取り出した。
つまみ食いである。
「すみません、お客様と信者さんにはいつでも食事をおだしできるのですが。メロダークさんはお手伝いということになっていますので」
しきりに恐縮しながら、慣れた手つきで扉に細い薪を立てかける。一方で外に通じる裏口は、開いた扉の前に石を置いて閉じないようにして、メロダークの隣に戻ってきた。
「こうしておくと、誰か来た時に時間が稼げるので、裏口から逃げることができます」
ひそひそと駄目なことを教えてくれる。
「……よくやっているのか」
「そんなにしょっちゅうじゃないですよ! それに今はエンダがいますから。お行儀のことを叱らなきゃいけないので……叱る立場なので、こういうことは、あまり」
でも、久しぶりなので美味しいです、とマナが言う。
そうか、と答える。
果物のパイのようだが、暗いのでよくわからない。焼いてから時間が経っているせいで乾燥しすぎているが、確かに妙に美味しい。ぽりぽりとかじると、隣でも同じ音がしている。ホルムの森ではリスがこういう感じで並んで木の実を食べているな、とどうでもいいことを思いながら、食べた。
窓辺の木枠にも開いた裏口にも星明かりが染みている。風のない秋の夜だ。マナのおしゃべり(子供の頃から魚のパイが一番好きで二番目はプディングだ)に耳を傾けながら、廊下の気配に注意を払っている。探索中にも似たようなことはあったが、あれは命がけだった。夜種の巣で見張りを立てながら得体の知れない焼き肉やら卵やらを急いで掻きこむのは、食事ではなく単なる補給に近い。
「……俺もユールフレールで、厨房に忍び込んだことがある」
ふと思い出して言うと、マナの目が丸くなったのがわかった。暗い中で両目がきらきらと輝いている。
「えっ、大神殿で?」
「あそこには料理人がいて、兵士は厨房に立ち入り禁止なのだ。だが、料理を作りたいときもある」
「作る方ですか! えーっと、ええー……でもメロダークさんのお料理って……あの、火の勢いが強いし大きな音もしますから、こっそりは難しいですよね?」
「うむ。だからその時、火も包丁も使わない画期的な調理法を発明してな」
思わず自慢げに言ってしまう。
「それは困……す、すごいですね……ううう……ほんとに暗黒料理……あっ、でも、ともしびを覚えられたのですから、これからは安心ですね! 手元を照らせば材料の区別もつきますし」
これはどんな状況でも料理ができるというのが肝心なのだが、マナの言うことにも一理ある。なので、言った。
「お前がそう言うなら、なるべくそうしよう」
「よろしくお願いしますね。お役に立てて嬉しいです」
ほっとしたようにマナが言った。沈黙が落ちた。外に風が吹いている。メロダークが遠慮しながら三つ目の焼き菓子に手を伸ばした時、マナが「メロダークさん」と少し改まった口調で言った。
「私はメロダークさんのお役に立ちたいんです」
「……それは、俺がお前にやりたいことだぞ」
「う……わかっています。でもそれはそれでこれはこれです」
「そういうものか」
メロダークは戸惑ったのだが、感情は声に出ず、むしろ困惑した時にはいつもそうなるように、ひどく冷ややかに響いた。マナはそれですっかりむきになったようだった。
「そういうものです。だから今日、魔法をお教えできてすごく嬉しかったんです。最近はメロダークさんから何かしていただくばかりでしたから」
「そこは気にしなくてもいいのだが……」
マナがさらに何か言いかけた時、扉に立て掛けた薪が音を立てた。廊下に誰かがいる。一旦開きかけた扉が薪のせいで引っかかり、途中で止まった。
マナの行動は迅速だった。素早く身を翻し、皿を戸棚に入れると、裏口から外へ飛び出した。メロダークもそれに続く。
静かな夜の中、マナの後を追った。逃亡経路はあらかじめ決まっているらしくて、建物の傍らを駆けるマナの足取りに迷いはなかった。完全な常習犯だ。メロダークの口の中にはまだ甘い菓子が残っていて、走りながら飲み込んだ。逃げてはいるが正直逃げるほどではないなとも思っている。叱られるより呆れられる気がする。雇われてまだひと月もしないのに、お前は何をやっているのだという話だ。
しかし鎧をつけずに走るのは、ずいぶん楽だ。革の長靴なので足元も軽い。
マナは邪魔にならないよう服の裾を両手で持ち上げて走っている。野原で遊ぶ子供のようだ。
振り向いたマナが、「メロダークさん」と小さな声で彼を呼んだ。「メロダークさん!」
「なんだ」
「楽しいですね!」
足を止めずにそう言い、また前を向いた。少女の髪とリボンが、華奢な肩と背中が、服の裾から覗くほっそりとしたふくらはぎが、笑い声のように弾んでいる。
探索の間には見たことがない背中だった。
3
それが大体一年くらい前の話だ。
一年が長いのか短いのか、メロダークにはわからない。神殿軍から離れたメロダークは、アークフィア神殿の下働きとなり神官見習いに昇格し、そして今日、神殿をくびになった。
久しぶりに戻ってきたひばり亭の昔となにひとつ変わらぬ小さな部屋で、抜いた剣を胸元に構え、呪文の詠唱をはじめる。
神殿軍を退役するときには覚えた魔法を今後は使わぬよう宣誓させられて、これは形骸化した儀式ではなく実際に年に数度は処罰者がでた。ではアークフィア神殿では? 神官服と身の回りの品を返すときには何も言われなかったが、駄目に決まっている。
剣の切っ先に熱も匂いもない魔法のともしびが生まれ、寝台しかない狭い部屋は平坦な明るさに満たされた。メロダークは昨日までとは違う気持ちで、その光球を見つめた。
簡単で害のない魔法だが、他の大きな魔術と同じように、自然の理を曲げる技であることに違いはない。タイタスが神々から盗んだ技を、タイタスを糾弾する神殿が平気で利用しているというわけだ。神殿は汚い。当然そうだ、ずっと知って、知りつつそこで手を汚し続けてきた。
――それで神殿を糾弾する俺は、そこから何を盗むのだ?
鳥籠に小鳥でも追い込むように、剣の先から壁の高い位置に掛けたランタンの中へともしびを移し、呪文の詠唱を終えた。偽物の月が室内を照らし、メロダークは剣を鞘に戻した。
そしてこれでやるべきことはすべて終わり、時間稼ぎももうおしまいだった。
メロダークは壁の方を向いたまま、密かに息を吐いた。大きく息を吸って吐く。
振り向くと、寝台に腰掛けたマナは、相変わらず静かな表情のまま、彼を見つめていた。ほっそりとした両手を組んで膝の上に置いている。外套は脱いで、椅子の上に畳んであった。
「……暗い方がいいか?」
メロダークが尋ねると、マナは首を横に振った。小さな声で言った。
「メロダークさんの顔が見える方がいい」
見られているのを意識しながら、メロダークは少女のそばへ近づいていった。剣帯を外していつものように寝台の下に置いたが、ぎくしゃくとした動きであった。
隣に腰掛けると、マナがぴったりと腕を押し付け、彼の肩に頭を乗せた。メロダークが右手でマナの左手を握り、ひんやりとした髪の毛に鼻をうずめた。メロダークは彼女が体を洗って来たことに気づいた。これから行うことが自分にとっては聖域への橋を破壊し少女を自分のもとに引きずり下ろす行為であるのに、マナにとっては喜びと優しさに属する出来事であるのに思い至り、一瞬、ひるんだ。溺れる人の口から喉へと水が流こむように、いくつもの不安が溢れてきて、息が苦しくなる。満足させられるだろうか? 怯えさせずにすむだろうか? 後悔させないだろうか? 幸福にできるだろうか? 今よりもずっと幸福に? 本当に、少女が求めるように、愛情をわかちあうことが?
(俺の中にお前を喜ばせるような物は何もない。お前も知っているはずだ。お前はそれを見た)
そう思っていたにも関わらず、メロダークは手をつないだままで寝台の上に少女を横たわらせた。マナは力を抜いてすべてを彼に委ねていた。メロダークが寝台の上に片膝を乗せて見下ろすと、小柄な少女の上に黒い影が落ちた。マナは拒絶どころか怯える素振りすら見せぬまま、安らかな表情で瞼を閉じている。
少女の胸がやけに規則正しく上下しているのに気づいて、メロダークは動きを止めた。
安らかすぎる。
「……マナ」
マナは、んん、と口の中で返事をした。
「おい。もしかして眠いのか?」
マナの瞼が重たく持ち上がりかけ、また閉じる。
「うん」
メロダークはさすがに呆れた。マナの肩をつかみ、乱暴に揺さぶった。
「起きろ」
「……無理。昨夜、ずっと寝れなくて。顔を見たら……安心……して……」
「おい!」
耳元で怒鳴ったが無駄だった。最後にマナの唇がおやすみなさい、と動いた。礼儀正しい。「起きろ!」寝た。
安らかな寝息を立てる少女を前で、取り残されたメロダークはしばらく呆然としていた。ここに至るまでの散々な苦悩やら口論やら緊張やら決断やらを思い出し、こんな大事な時に何を考えているのだ、と段々と腹が立ってくる。大体この娘は生真面目に見えてこういういい加減なところがあり、勇敢なのはいいが無鉄砲で、こちらを心配させておいて平気な顔をしている癖になんでもないところで傷ついてなのにそれを表に出さず、大体あの時もあんな手紙に呼び出されて一人でのこのこやって来たしそもそも俺を殺しもせずに許して、と八つ当たり気味にあれこれ考え散らすうちに、メロダークの肩から段々力が抜けてきた。さっきまで悶々と苦悩していたのが馬鹿らしくなってくる。
要するに、これが彼の心を捕らえた少女であった。
確かに彼女はハァルではない。
マナがかすかに身動ぎした。メロダークは部屋が寒いことを思い出し、いそいで毛布を掛けてやった。
枕元に座り、幸福そうに眠る少女をしばらく見つめていた。これから先、この寝顔をずっと見ることができるのに気づくと、妙に照れくさくなった。乱暴に毛布を引き上げて、マナの顔までを隠してしまう。
4
そして当然、出会った頃の思い出がある。
洞窟の湿った岩肌はぼんやりと光っている。最初は染みた地下水が入り口から差し込む光を反射しているのかと思い、次は発光性の苔でも生えているのかと思ったが、そのどちらでもない。岩肌全体がほのかに光を帯びている。古代の魔法の残滓を感じ取り、かすかに緊張する。
先頭に立った大河の巫女が足を止め、振り返った。まだ若い。子供といってもいいくらいだ。後続のメロダークたちに「少し待ってください」と言い、杖を両手で握ると呪文の詠唱を始めた。ともしびを呼んでいるのはすぐわかったが、そんなことはおくびにも出さず、いつもの無表情さを保ったまま、集中する少女の横顔を眺めていた。
現れた光を吸い込むように、赤い瞳が揺れていた。太陽の下では茶色だと思っていた瞳が実は暗い赤色で、薄茶色に見えた虹彩もやはり血の色をしているのに、メロダークはそのとき初めて気づいた。年には似合わぬ凪の大河のような静けさで、魔法の光をじっと見つめていた。風変わりではあるが美しい。メロダークはそう思ったが、すぐにその考えを胸の底に沈めた。
5
呪文の詠唱が終わると魔法の光球が生まれ、周囲の暗闇を払った。
その頃にはメロダークも短い混乱から脱出していた。なんのことはない、自分の家、自分の寝室、そしていつもの早朝だ。窓の外はまだ暗闇だったが、隣の部屋からは温かなスープの湯気が漂って来ていた。夜の間に冷えたせいか、着て寝た覚えのない毛布や毛皮が何枚も重ねて掛けられている。
頭上のともしびは、寝台に腰掛けて彼を覗きこむ女の優しい顔を照らしている。
「前にもこういうことがあったな」
とメロダークが言った。
「こういうことって?」
「お前が……暗闇の中にいる俺に、光を」
「そんなの、毎日のことじゃないですか。さあ、もう起きてください。朝食の支度ができていますよ」
そう言って笑ったマナが身を乗り出して、メロダークの頬にいつも通りの朝のキスをした。
end