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夜が

グッドエンド後/メロダーク マナ

 夜。
 夜が。
 夜へ、夜に、夜を。


 様々な言葉を組みあわせてみるが、どれも夜というひと言に振り回され、最後まで言い終えることができない。思考が立ち止まって先へ進めず、足踏みしている。日没後。日暮れを待って。宵に、晩に、夜。
 昨日の夜。
 今は真昼だ。
 夏へ向かう日差しは昨日よりも強さを増して、じりじりと照りつけている。森に入った時には彼の上に落ちていた木陰は、太陽にあわせていつの間にか場所をかえていた。日差しを浴び続けていたせいで、背中が熱くなっている。薬草を入れた籠を引き寄せ、草むらから身を起こす。うんと腰を伸ばしたついでに、木の根元に密生したクルカを発見した。近づいていってしゃがみこみ、柔らかな葉を摘みながら、馬鹿げている、と真面目な顔のまま思った。実に馬鹿らしい。小僧でもあるまい。朝になって昼になったのに、まだ昨日の夜のことばかり考えている。
 樹上で鳴いていた鳥が、葉を揺らして飛び立った。森の側の街道を、荷馬車が通っていく。がたごとという車輪の軋みと蹄鉄が路面を蹴る音に男たちの笑い声が重なり、それもやがて北へ、小川のせせらぎの向こうへと遠ざかっていった。去年、怪異の最中に訪れた時には、もっと静かな森だった。夜種が消えて平和になった証拠だ。あの頃はこんな風になるとは考えもしなかった。こんな風に平和な。こんな風な。夜を。夜に――。
 クルカの葉をまとめて籠に放り込んだあと、メロダークは膝から草や土を払い落とし、立ち上がった。
 彼からはだいぶ離れた場所に座り込んだマナは、ぼんやりと物思いにふけっているようだった。薬草を探しているようには見えない。さぼっている。
 少女の上にも木漏れ日が落ち、薄いヴェールのように、風で頭上の木々が揺れるのにあわせて、ちらちらと影が揺れていた。夜に、と思った。肩に白い髪が落ちて、爪の跡を隠している。夕べ。
 視線に気づくどころかこちらの考えが聞こえたかのように、マナの背がいきなりぴんと伸びた。勢いよく振り返り、彼が見つめているのを見ると、真っ赤になってうつむいた。
 メロダークは草を踏み、少女の方へ近づいていった。マナは右手に青々とした草を握りしめている。「見せてみろ」と言ったが、返事がない。彼がしゃがみこむと、マナの全身が固く緊張した。
 手を伸ばし、膝の上の小さな手を開かせた。一瞥して「葉の形が違う。それは薬にはならん」と教えた。マナは目を上げなかった。
「あっ……そうですか。わ、わからなくて……」
「わからなければ、私に聞けと言っただろう」
 少女の右の手首には彼がつかんだ跡が、輪のような痣となっていた。見るからに痛々しげであったが、奇妙なことに、彼女を傷つけてしまったことへの後悔や罪悪感はなかった。しばらく痛むだろう、傷が癒えるまで五日か七日か、冷静にそう思っただけだ。親指の腹で赤紫と青の痣を擦った。当然、取れない。その代わり、夕べもそうだったように、マナの肌を這う自分の指の動きにあわせて、メロダークの体の同じ場所に、さざ波が走った。強い快感を伴う不思議な感触だった。組み合わさった骨、柔らかな肉、闇に白く浮かぶ滑らかな肌、汗の香り、彼のそれとはまったく違うマナの体が、まるで自分の一部であるように感じた。それで、己の体に触れるときと同じように無造作に、しかし幾分は力を加減しつつ、少女の手首をつかんだままじっとしていた。そうしながら、いつも冷静な心のある部分では、一夜のことでもう亭主面だ、と自分自身に憮然とした。
「あの、痛くありません。大丈夫です」
 マナは言い終えてから、それが夕べと同じ言葉だと気がついたようだった。
「あ――」
 と、つぶやいて、耳まで赤くなった。
 メロダークは咳払いし、少女から手を離して立ち上がった。


 夜に。丸みを帯びた乳房とは裏腹に、少年めいた肉付きの薄い尻や太腿が。肌の味が、場所によって微妙に違うと思った。溢れる水が。つばを飲むたびに上下する真っ白い喉が。こちらを見上げる目が。夜が。


 草むらに胡座をかいて座り込む。集めた薬草を籠の上で選り分けはじめた。遠くからマナの視線を感じるが、目を上げるたびに、さっと顔を背けらてれてしまう。考えてみれば、今朝から一度も、まともに会話すらしていない気がする。まさか当分この調子なのかと思い、さすがに辟易する。
「……なんとかならんのか、それは」
 とっさにそう口にしてしまう。
 今度はマナは視線を避けなかった。顎を引き、上目遣いに彼を見つめた。沈黙が落ちる。
「怖がるな」
 穏やかに言うつもりが、やたらと大きな、怒っているような声になった。慌てて口を閉ざし表情を消す。ますます怖がらせてしまったのではないかと思い、焦る。なだめるような言葉を掛けたいが、怖がるな、以外の言葉が出こない。口下手な男はしょぼしょぼと落ち込んだ。
 そのあいだにマナは再び目を伏せると、掌を彼の方にむけ、曲げた薬指の関節にきつく歯を立てた。淡い色の唇と、白い硬い歯の奥に、ちらりと口中が覗いた。含羞とともにぎこちなく、優しく、彼の体に触れた手や、彼の欲望に応じた唇と舌の感触がよみがえる。
 やがて唇から指を離したマナが、
「気持ちが」
 と、言った。
「ああ」
「きっと落ち着くと、そう思ったのです。夜……最近は夜になると毎晩……毎晩、ずっとメロダークさんのことばかり……苦しくて。だからもう思い切って打ち明けてしまえば、また眠れるようになるのかなって。それで……昨日の夜、それで、お部屋に」
 ふうっとため息をついて、マナは、まだ赤い頬を両手で挟んだ。
「かえってひどくなりました」
「意味がわからん」
「ひどくなったんです。つまり……朝からずっと、メロダークさんのことを考えています」
 まじまじとマナを見つめてしまう。少女は激しく狼狽したようだったが、彼をまっすぐ見返してくる。
「……そうか」
 結局そういうつまらない相槌を打ち、メロダークはマナから目をそらした。
 作業に戻ったが、気がつくと一度選り分けた薬草を指でかきまぜ、再度ごちゃ混ぜの状態に戻していた。
 小僧でもあるまいし。
 再びそう思う。強く自分を戒める。噛みあわせた奥歯に思い切り力を込めているのに、それでも頬が緩む。
 にやにやするわけにはいかん。だらしない真似は駄目だ。そうでなくても夜には随分だらしがない様子を見せてしまったのだから。
 うつむいて眉間に皺を寄せた彼の沈黙を、マナは違う風に解釈したようだった。
「私だって、ずっとこうだと困ります」
 泣き出しそうな声で言った。


 薬草で満杯になった籠を抱えて森を出ると、彼の後を追いかけて来る。白っぽい砂埃の立つ道で、木陰を抜けてくる少女の様子を見守った。ぎこちなく両足を動かし、いつもとは違ってそろそろと歩いてきたマナは、彼の隣に立つと、やはり彼を見ないまま、言った。
「夜に」
「うむ」
「昨日の夜。とても……」
 そこで黙った。
 いつまでたってもしゃべらない。真っ赤になってうつむいている。マナは普段は饒舌な癖に、こういう時にはしゃべるのがうまくない。


 ホルムに向かって、神官たちは並んで歩き出した。
 西の空がそろそろ赤みを帯び始めている。
 じきに日没だとメロダークは思った。今日もまた夜が来る。夜。日が暮れて。夜が。夜に。
 籠を持ち直し、空いた方の手で隣を歩くマナの手を握ると、少女は一瞬激しく狼狽し、だがすぐに自分からも力をこめて握り返してきた。
 今日からは、一人ではない夜が来る。
 メロダークは、すんなりと、そう思った。


end

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