蝶のたわむれ

/タイタス10世

 
 1


 光もなく闇があり、言葉もなくただ闇があった。




(できそこないか)

 そのように言われた。

 それが私にとって唯一の言葉だった。

 舌を伸ばせば冷たい水があったので、それをべちゃべちゃと舐めて暮らしていた。石で固められた玄室の真上には偶然地下水脈が通っており、そこから滲んできた水であった。これがなければすぐに死んでいただろう。
 水を舐め、石扉の隙間や四隅から入り込んでくる小さな虫を食べた。
 心の中では(できそこないか)その一言を呼びおこし、撫でまわし、繰りかえし、巻きもどし、思いだし、ためつすがめつしていた。
 それを自分の名前と決めたのは、物には名前が必要であると本能で知っていたせいだ。

 “知”っていた。
 ――自分を取り囲む石のひとつひとつはすべて違うものであり、それぞれがそこに置かれた確たる理由があり、重なりあう石がこの部屋を部屋として成立させるのにどのような役割を担っているのかを、直感により“知”っていた。考える時間はいくらでもあり、それしかできることはなく、私は生まれつき知ることに長けていた。石と空気がなぜ・どのように・どこまでが違うかを、こぼれた水が形を変えて空気に溶ける理由を、私という生き物の体の柔らかさと硬さを、すべての意味を“知”ることは容易だった。私は砂粒のひとつひとつを見分け、それがなぜその形でそこにあるかを理解できた。部屋と空気と水と私の肉体と虫のすべての本質を同じ物として認識もした。あらゆるものの差異と同一の両方を同時に理解できた。
 私は世界の一部であり世界は私の中にあった。


 2


 時々は夢を見た。

(母は美しい娘であった。幼少期の名残を残したすらりとした若木のような体の腹だけが不釣り合いに膨れていた。
 世界樹のように年老いた魔女の命令によって、牢から引き出された罪人が大河のほとりの岩棚の上に寝かされた――熟練した刑吏どもの手によって、罪人の手足は鎖につながれ、腹からは皮だけが切り剥がされ――やがて天空から舞い降りてきた鳥たちは、むき出しになった薄紅色の新鮮な臓物の上に停まり、無遠慮についばみ、喰い散らかし――八匹の黒い鳥が八方に腸を飛び散らせた。
 岩棚に上がった魔女は、この占いを見学するために建てられた、貴人たちのきらびやかな天幕の群れを振りかえり「生まれる御子は帝国を滅ぼすでしょう」と宣告した。
 風に舞う七色の旗の下で、母は美しいその眉をわずかにひそめただけだった。それだけで事足りた。
 魔女はその場で捕らえられ、腹からは丁寧に皮だけを切り剥がされ、痩せた体は岩棚につなぎとめられた。
 集まってきた八匹の黒い鳥が、八方に腸を飛び散らせた。
 呼ばれてきた新しい魔女は「生まれる御子は帝国を巨大にし、八方を公平に統治されることでしょう」と告げた。
 母は血のように赤い弓なりの唇をわずかに微笑させて満足のしるしとし、父は新しい魔女に褒美を与えた。
 母の胎内にいる私は、このような外界の馬鹿騒ぎからは遮断されていた。羊水にたゆたい、時折感じるのは腹をなでる優しい母の手と、母よりはずっと乱暴に、しかし愛情が熱のように伝わる父の手と、その二つの感触だけだった。)


 3


 彼らは――私を温かな母の手と胸から引き離し、この墓へと送りこんだ誰ともわからぬ彼らは――己の手を汚さぬまま私を殺すつもりだったのだろう。


(できそこないか)
 そのように言われた。


 時折石の扉が開いて男たちが入ってきた。
 彼らは痙攣する私を見下ろしていた。
 声がした――。
「正当なお世継ぎですぞ」
「まるで気違い沙汰だ」
「できそこないです」
「だが血は確かに」
「穢れに過ぎぬ」
「犬の交わり」
「最初から」
「姉弟で」
「子が」
「罪」



 時折は夢を見た。

 夢の中で私は宙に浮き、果てしなく広がる真っ黒い大地を見下ろしていた。
 大地はひび割れ、二つに裂け、そこから獣たちの呻き声が空へむけて響く。大地の裂け目から地上へ漏れ出でるのは声だけではなかった。硫黄と火と血と獣と糞の匂いが白色の煙とともに地上へと噴き出し、やがて地鳴りが響き、地面の下から馬車の群れが駆けのぼってきた。御者は甲冑をまとった骸骨で、それぞれが片方の手で手綱をとりもう一方の手で鉄の大鎚を構えていた。馬はどれも黒く蹄は金でありたてがみは炎となって燃えていた。骸骨の操る馬車が均した後を、分厚い斧を手にした牛頭と馬頭の軍団が上がってくる。軍団は列となり、黒い大地を埋めた。
 やがて彼らに担がれた黒い神輿が姿を現す。
 そこには黒い顔をした裸の女が乗っていた。女の股間からは蛇のような男の性が生えてその太股に絡んでおり、女の指は黒い血に濡れていた。しかし彼女は種撒く者であると私は知っていた。
 ……。
 …………。
(恐ろしくはないか)
 夢の中の私の頭に声が響く。
 私は固唾を飲んでこの亡者どもの列を見下ろすだけだ。
(奈落からやってきた者どもだ……彼らはこの地上を滅ぼすだろう……彼らの手から帝国を救えるのはおまえだけだ)
 私は答えない。
 答えるべき言葉を持たぬ。
 帝国とはなんなのかを知らぬ。
 やがて声は消え、私は暗闇の中で目覚めた。

 私はこの世界を動かす術を知っていた。
 私にはしかし言葉がなかった。
 言葉がなければ術は表に現れず、私はにじみでる地下水を舐めるだけの無力なできそこないにすぎない。
 
 ううううーん
    ぐるーん
          どう どう

 さらに深いどこかからは、時折重い音が響いてきた。そんな時には、部屋全体が振動していた。目を閉じてその唸りに体を委ねた。生まれるまえに胎内で私を取り囲んでいた温かな羊水のようであり、羽虫の群れるざわめきのようでもあった。あれは私を殺しにくるのだと思い込み、恐怖に駆られて部屋の中を這いずり回ったこともある。部屋の中央には石でできた巨大な箱が置かれており、私は狂ったように叫びながら、その石の箱の周囲をぐるぐると回った。
(できそこないか)
 胸中でそう呟き、気持ちを静めた。
 それ以外恐怖から逃れるすべを何一つ知らなかった。
 石の部屋、体を圧迫する空気の重み、石の隙間から滴る冷たい水、時折壁と床の間を通る虫、私自身の体、それだけが私のすべてだった。(できそこないか)私は自分にそう呟いた。恐怖は私の心を踏みつぶし、押しつぶした。自分を取り囲む石の壁の全てを壊し、逃げ出したかったが、そのようなことなどできるはずもなく、失禁して声にならない声をあげ気絶し、意識を取り戻すと再び同じ恐怖に押しつぶされ、涙を流した。
 
 できそこないか、できそこないか、できそこないか、できそこないか、できそこないか、できそこないか。
 
 体の中には器官があり、それは外と内をつなぐ。
 小便はうまいが少ししか舐めてはいけない。
 大便は口にいれることすらいけない。
 足の長い虫はまずく、足の短い虫はうまい。
 体を石で擦ると血が出るがそれは舐めてはいけない。
 汗はいくらでも舐めていい。
 涙はいくらでも舐めていい。

 できそこないか。

 
 
 ぐるーん    うううう
 
   どう  どう  どう
ううん うん



 ある日、石の部屋が揺れた。
 ず、ず、と音を立てて石が動き、私は怯え、いつものようにぐるぐると箱の周囲を駆けまわった。
 石の壁は動きを止めず、やがてそのむこうにぽっかりと“無”が現れた。壁は扉であり扉のむこいにはまた石の部屋があると、その時私は初めて知った。“無”は虫よりも大きく私よりも大きく、光り輝いていた。網膜を焦がす耐えがたい痛みに私は絶叫した。箱の背後に逃げ込み少しでも苦痛を軽減しようとした私の体を“無”はその巨大な手で軽々と捕らえた。
 
 ……。
 …………。

 できそこないか。できそこないか。できそこないか。


 “無”は床に押し付けた私の鼻先に皿を置いた。

 皿はこれまでに与えられた物とは違う、甘い香りの漂う食べ物で満たされていた。一口舐めればあまりの甘さに全身がとろけるようだった。夢中になって口に運び、椀の底にこびりついた残滓を舐めとり、満足した次の瞬間、胃袋の底に熱い塊が叩きつけられるような衝撃を覚えて私は体を折り曲げた。たったいま食べおえたばかりの食事をすべて口と鼻から吐きだした。私を囲んでいた空気がどこかに消えてしまったようで、息を吸っても肺には何も入ってこない。焼けるような熱さと痛みが喉を痙攣させ、空気を求めて私は短い指で自分の喉をかきむしった。え、え、え、え、と声をあげ、全身を痙攣させながら、自分の吐瀉した物の上を転げ回った。
 そのとき“無”が空間を震わした。
「できそこないか」

 言葉があった。
 
 言葉とはなんと鼓膜に心地よいのか!
 熱さに内臓を震わせながら、空気を求めて口と舌を痙攣させながら、それでも私は自分の耳に届いた“無”の言葉を味わった。

 
 “無”は私の頭を硬い靴底で踏みつけた。耳が音を立て潰れた。
「おまえのせいで姉さんが」
 激しい痛みの中鼓膜に最後に滑り込んできた新しい言葉はまた私の中に染み込んでいく。
 おまえのせいで姉さんが。おまえのせいで姉さんが。おまえのせいで姉さんが。
 私は床に押し付けられていない方の眼球を動かし“無”を見上げる。地を這うことしかできぬ私には、“無”は高くそびえる壁のようだ――天空の巨人だ――美しい――輝く星のようだ。その星は高く足をあげると私の頭を蹴った。世界が破裂する音が響き、私は叫んだ。何も見えなくなり、口をあけると血がでた。
 “無”は去っていった。
 私はびくびくと痙攣しながら死にむかっていた。

 できそこないか。おまえのせいで姉さんが。

 
 
     ぐううーる うううう
             どううんどうううん

(あれがおまえの血と肉の種だ)

  どう    どう    ぐるーう 
 
(毒と力でおまえを殺そうとしたな。器がなければ余に見捨てられぬと考えたようだ。愚かなことよ――いくらでも器はある)


(受け入れよ)
 声が囁いた。
(始祖帝なる余の器となれ。できそこないよ、おまえには魔力が溢れている――余を受けいれれば、おまえはさらに強くなるだろう)

「ウケイレル」
 私が言った。
「コレヲ、オマエノ体トスルガイイ」

 そして私は、
 
 私は――。
 
 
 目覚めてもまだ全身が痛み、周囲は石によって囲まれていた。

 手を伸ばした。
  手を。

 足に力を込めた。
  足を。

「ウケイレル」
 喉を震わせ声が。

4

(墓所から出た10世が人を殺しまくるシーンがはいりますがシーン欠如)

 
「私の血も肉もおまえの体となったではないか」
 私は笑い声をあげた。喉が震え声が出るのは素晴らしい気持ちだった。肉体は世界の一部である。私はようやくこの場所を自分のものとできたのだ。
 始祖帝はかすかにため息を――肉体のない彼にそのような概念があればだが――ついた。
(手間のかかる。……それでおまえはこの帝国を余の助けなしに)
「できそこないか」
 私はうっとりと呟いた。
「できそこないか!」
 魔力は外にあり内にあり、すべてにあふれていた。
 
 燃え上がる白亜の宮殿を、うっとりと私は見詰めた。
 炎はすばらしい。すべてが黒い小さな塊に変化する。もちろんどの塊もそれぞれが違う由来を持ち違う精霊を宿らせる。だが限りなく似たものはそれゆえに等しい。
(おまえの帝国だぞ! やめろ! やめろ! まっぴらだ! おまえの宮殿を燃やすとは――!)
「そうか。私の帝国はこの通りだ。おまえはおまえの帝国を好きに治めるがよい」
 脳裏に響く絶叫は心地よかった。全身を雷で撃たれたような痛みが走ったが、あの糞尿をすする玄室の日々に比べれば、蝶のたわむれのようなものだ。
 目で命じれば、建物と人間を乗せた大地が割れ、剥がれ、天にむかって浮かび、空の果てへと消えていった。





(大量虐殺シーン入りますが空き)





 ある日大河のほとりに立った。

 水面に映った波紋に揺れる私の顔は、父とよく似ていた。
 ――なにができそこないか。どこが異形か。
 私は水の上へ立ち、笑いながら体を回した。波紋は私を中心にどこまでも広がり、足を運べば重なり打ち消し合い大河の果てへと消えていった。河の表面には靄とともに冷えた空気が流れ、死と炎の悪臭を打ち払う。淀みのない場所で己が起こす風を感じるのは気持ちがよかった。空はぬけるように青く、私は自由だった。
 足を踏みだせばつま先が触れた先から水が固まる。流れる水すら私が触れば死んだ。大河を歩き、半ばまで行くとふりむいた。焦土と化した黒い都が見えた。広大な都にはいまや生き物の影はなく人間の技もなく、私の手が触れなかった場所はない。すべては平等に黒く均されており、不公平などなにもなかった。あれは私の帝国であり、私はすべてを見事に治めている。しかし帝国の周囲を見回せば、黒い土のその先には緑が広がっている。
 なかなか壊しつくせないものだなと思った。


end