スタート前/ウェンドリン
赤ちゃんの名前はウェンドリンでしたが、これはお父さまのカムールではなく、お母さまがおつけになった名前でした。
男ならキャシアス、女ならウェンドリン。
これはお母さまがまだお母さまでもホルムの奥方さまでもない、おさげの女の子だった時分から、いつか生まれる自分の赤ちゃんにつけようと決めていた、大切な大切な名前なのでした。
「ウェンドリンちゃん、ウェンドリンちゃん」
お母さまが呼びかけると、赤ちゃんはきゃっきゃと笑います。
この赤ちゃんは、ホルムの丘に積もる雪のような白い肌と、アークフィア大河の波頭の飛沫のような銀の髪と、東の空を染める朝焼けのような赤い目をしておりました。お母さまは、なにもかもがかわいくてたまりません。頬や、手や、膝や、お腹や、いろんなところにキスをして、「かわいい、かわいい、私の赤ちゃん!」優しくそうおっしゃると、赤ちゃんは、笑いながら小さな両手を打ち合わせるのでした。
ウェンドリンは本当によく笑う赤ちゃんでした。一人の時でも、大きな窓から差し込むきらきらした光や、ふわふわと揺れるカーテンを見て、にこにこと笑っています。
不思議なことに、ウェンドリンのいる部屋の窓には、いつもなら大河のそばを離れない水鳥たちがやってきて、並んで歌を歌うのでした。
お城の人たちは、ウェンドリンさまは大河の女神のお気に入りなのね、と言い合いました。
そうです、この赤ちゃんは、他の赤ちゃんとは違って、大河からやってきたのです。
白い肌や赤い目を見て、この子は妖精の末裔じゃないかと噂する人たちもいました。でもお母さまにとってウェンドリンは、かわいくてたまらない自分の子供だったのです。
ある夜、お母さまは部屋の窓を開けまま、眠っておしまいになりました。
窓辺のゆりかごでぐっすりと眠っていたウェンドリンはふいにぱちりと目を開けました。
お外で、ばさばさと音がしたのです。星空が黒くかげったかと思うと、その影は鳥の形になりました。窓辺にとまった鳥は、赤ちゃんのゆりかごを覗き込みます。
ウェンドリンは親指をしゃぶりながら、目を丸くして、鳥を見つめています。
鳥と赤ちゃんの目があいました。
でもこの鳥は、ホルムの森や大河に遊ぶ、愛らしい鳥ではありません。鳥は、小さな女の子の顔をしておりました。それに小さな子どものような胴体を持っておりまいた。それなのに肩から先は羽根なのです。腿から下は鳥なのです。ミルドラさまが気まぐれに、子供の体をひきちぎり、鳥の羽と脚をくっつけたような、おそろしい姿の化け物です。
ところがこの半人半鳥の怪物が、そうっと首を伸ばして赤ちゃんの顔をのぞき込むと、赤ちゃんは楽しそうに笑いだしました。それだけでなく、お母さまやお父さまにそうするように、「うーう? うーう?」と呼びかけすらしたのです。 魔物はじぃっと赤ちゃんの真紅の眼を見つめていましたが、やがて大きな羽根を広げて飛び立ち、夜空へと消えていきました。
翌朝になって、お部屋の掃除に来たメイドさんが、大きな茶色い羽根を一枚見つけたのですが、それがあんまりにも汚い色で、なんだかべたべたして嫌な匂いがするので、「おお、いやだ!」とつぶやいて、ごみ箱にぽいと捨ててしまい、それきりでした。お城の人たちは、不思議な鳥の化け物が赤ちゃんに会いに来たことなど、何も知りませんでした。
*
……あんまりにもながいあいだ床に伏せていたせいで、その女の人の骨や肉は、すっかり脆くなってしまっていました。もう二度と起き上がることはないでしょう。
このお日さまがささない地下の町では、着る物も、食べる物も、土の器も、人間も、ほろほろと崩れていきます。特に女の人たちは、赤ちゃんを産むと、すぐに死んでしまうのです。
その女の人は、赤ちゃんを産んでからずっと寝たきりでしたが、それでもこの小さな町で、とても大切にされていました。普通なら病人が口にすることのできない川で釣れた魚も、太った鼠も、大きなキノコも、女の人は特別に食べさせてもらっていました。なぜなら彼女は、ずっと待ち望まれていた、体に何の変異もない、美しい赤子を産んだからです。
赤ちゃんがお腹にいるあいだ、生まれてくる子供の名前をおんなの人はずっと色々考えて、でもその子は名前をつけることすらできず、すぐに取り上げられてしまったのでした。
その人は、どんなに泣いたことでしょう! 御子を生むための大切で高貴な一族です。名誉なことではありました。みんなが彼女を誉めました。でも女の人は、赤ちゃんを両手で抱き上げて、そのかわいい顔に頬ずりできれば、ただそれでよかったのです。
女の人は赤ちゃんのことを考えました。
毎日、毎日、考えました。
赤ちゃんは人の骨のような白い肌と、虫の燐光のような銀の髪と、流れる血のような赤い目をしていました。赤ちゃんを見ると、誰もがみんな涙を流しました。赤ちゃんの姿は、ずっと伝えられている、始祖帝その人に生き写しでした。誰も見たことがないような、とても美しい赤ちゃんでした。
白い民は、ただ、ただ、泣きました。この御子が、地下の苦しい暮らしから、彼らを解き放ってくれるのです。本当の太陽を見ることができるのです。新しい帝国で、彼らは正しい血を受け継ぐ高貴な人々として、地上の人々にかしずかれ、幸せに暮らしていけるのです。
でも女の人は、赤ちゃんを美しいとは思いませんでした。
この子が自分を救ってくれるという期待すらしませんでした。
太陽も新しい暮らしもどうでもよかった。
女の人にとってその赤ちゃんは、かわいくてたまらない自分の子供だったのです。赤ちゃんは、女の人の胸から引き剥がされたとき、るああ、るああと泣き声をあげました。
お母さん! お母さん! そう呼んでいたのです。
……ある晩、女の人が藁のお布団の中で目をさますと、四角い窓に、奇妙な鳥がとまっていました。鳥ですって? どこから迷い込んだのでしょう! でも、その鳥は、確かにそこにいたのです。
人間の顔と胴を持ち、鳥の羽根と脚を持つ、汚らしい異形の化け物ですが、女の人は驚きませんでした。魔の力が強すぎる白い民は、けものの体を持つ者や、人の腕を持たない者も、たいして珍しくなかったのです。
女の人は身動ぎもせず、じぃっと鳥を見つめていました。窓にとまった異形の鳥も、女の人を見つめていました。
ほろほろと命を崩した女の人は、もう口をきくことができませんでしたが、真紅の眼は何かを語りかけるようでした。もしかしたらこう言っていたのかもしれません。
――ああ、羨ましい。私にも、あなたのような羽根があればねえ! そうすれば、私の赤ちゃんに会いに行けるのに!
鳥はしばらくすると、小さな窓から飛び立ちました。
ごうごうと流れる地下の川のほとり、いびつな建物が身を寄せあう都市の上には、空のかわりに、黒い岩盤が広がっています。偽物の天すれすれをかすめるように飛んで、異形の鳥は暗闇の中へと消えて行きました。
翌日には、女の人は死んでいました。
町は固い岩盤の上に立っています。白い民には道具もなく、力もなく、この岩を掘ることができません。だからこの町には、お墓がありません。始祖帝は、彼らがこの町を離れることを恐れて、この人たちに魔法を教えなかったのです。ひとりひとりが誰にも負けない強い魔力を持ちながら、魔法を知らぬ人たちは、病や害虫や鼠の群れや、飢えや暗闇に怯えながら、獣のように暮らしていたのでした。
女の人の死体は、綺麗に清められたあと、これまでの他の死んだ人と同じように、地下の川に投げ込まれました。
これが白い民のお弔いでした。
水柱があがり、死体は、あっという間に濁流の渦に巻き込まれました。
*
ゆりかごの中の赤ちゃんは、窓から差し込む日の光の暖かさに笑いました。
髪の毛を撫でて頬をくすぐる南風の感触に笑いました。
生まれてすぐに母親から引き離され、暗く冷たい地下の河を流されてきた赤ちゃんにとって、見るものすべてが楽しく、美しかったのです。
お母さまは赤ちゃんを抱き上げて、両手でそうっと揺らしながら、優しい声でおっしゃいました。
「ウェンドリンちゃんは、暗い夜でも怖がらないのね。なんて勇敢な子なんでしょう! あなたを産んだお母さまは、一体、どんな方だったのかしら!」
そういうことを考えることができたのは、この人もまた、自分の赤ちゃんを亡くしたことがあったからです。お母さまが産んだ最初の赤ちゃんは、お父さまそっくりの目とお母さまに似た鼻と口の、元気で愛らしい男の子でしたが、その子は生まれてすぐに死んでしまいました。
赤ちゃんがいなくなった時、お母さまはただ、ただ、泣いて、泣きました。毎日、毎日、泣きました。
でもウェンドリンちゃんのおかげで、また笑うことができるようになったのでした。
笑いながら、お母さまは赤ちゃんの頬にキスをしました。
「キャシアスちゃんが生きていれば、あなたとどんなに仲良くなったでしょうね!」
*
これが小さな赤ちゃんと、二人のお母さんのお話です。
*
人の顔をした鳥は、迷宮のような墓所を、死んでしまった昔の都市を、ごうごうと滝の落ちる洞窟を、暗い夜の森を抜け、尖塔を持つ堅牢なお城でいっとき羽根を休めたあと、また飛び立ちました。流れる大河の上を、飛んで、飛んで、どこまでも飛びました。
悲しい声で、鳴きました。
それは人間の声でも鳥の声でもない、しわがれた、不思議な声でした。
なぜなら恐ろしく見えるこの鳥も、まだどんな言葉を使うこともできない、小さな赤ちゃんだったからですよ。
end