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冬の日におくる

エンド後/マナ ネル メロダーク

 エールをひと息で飲み干すと、いつもより乱暴にグラスをカウンターに置き、マナは、ものすごく静かな声で言った。
「あの方、もしかしたら馬鹿なんじゃないかしら」
 マナの隣に腰掛けたネルは、エールのひと口目を飲んだところだった。
 前を見つめたまま、わあー、久しぶりに来たよ、と思った。マナが本気で怒っている時の声だ。横目で様子を伺えば、肘をついて手の甲に顎をのせたマナの横顔は、ぴりぴりと青白い電気を放っているようだ。やっぱり来ていた。
「あの方ってどの方かなあ」
 ネルはとっさに、すっとぼけた調子でそうきいた。秘儀・一瞬だけ問題先送りであった。
「神殿で手伝いをして下さっている、あの背の高い方のことです」
「誰だろう……ああー……もしかしてメロさん? そうかあ、びっくりだなあ。メロさんのこととは、お姉さん、ちっとも気付かなかったよ」
 のん気な調子でそう言いつつ、内心で本当にびっくりした。メロさんへの冬至節の贈り物を、散々悩みながら二人で選んだのはついこの間のことなのに。喧嘩したのかな。普通に心配するのと同時に、むくむくと好奇心も湧いてくる。身を乗り出し、さっきよりは熱心に、きいた。
「メロさん、今度は何したの?」
「してくれないの。真面目な話を」
「無口はいつもじゃないの?」
「そういうんじゃなくて……最近、二人で話そうとしてもすぐに……」
 マナの頬に赤みがさした。ネルは一瞬、もしやエッチな話かなあと思い、微妙にどきどきした。だが次にはマナの眉がすーっと吊りあがる。単なる思い出し怒りのようで、ネルはやっぱり微妙にがっかりする。マナはくるりと向きなおった。
「もうっ、ネル! どう思う!?」
「んー? 何をだい?」
「ご自分のことに関するすっごく真面目な話をしてる時に、ぐうぐう寝ちゃうのって、なんだと思う!? 夜はそんなだし、朝は起きたらもういないし、昼には捕まらないし、一体なにをしてるんだろう!」
 ネルは、まじまじとマナを見つめた。
 アーガデウムは消滅し、ネルたちには穏やかな冬が訪れた。
 遺跡の町となったホルムは、いよいよ平和を取り戻しつつある。町を去っていった探索者たちがおり、なんだかんだで居ついた者がおり、新たな商売を始めた者がいる。その中でメロダークは――ネルの予想では、最も町にとどまりそうになかった彼は――傭兵ではなく神官さんとして、神殿で暮らすようになった。ありがたいことに。きちんとしているようで頼りなく、慎重なようで無鉄砲なこの親友の側に、メロダークが(おそらくは)ずっと一緒にいると決めたことは、ネルにとって大変な『よい結末』で、あとは子供の頃の約束通り、マナのために花嫁のベールを縫うだけだ。縫うよ、縫います、三日もらえれば花嫁衣装だって縫ってみせるよ! ところがすべてが落ち着いた今頃になって、マナは奇妙な、そして猛烈な照れを発揮して、メロダークと自分が恋人同士であることを、「全然違います、絶対そんなじゃありません!」とがんとして否定するようになったのだった。なんでだね。
 この件に関しては一度、ネルはパリスやキレハと真剣に議論をしており、養い親のアダやホルムの信者の手前、恋人同士で同じ宿舎を使っているのは体裁が悪く、それで必死でなって隠しているのだろう、というそれなりの結論は出ているのだった。それにしても探索中にはあれだけあからさまであった癖に、なんだって今更探索者仲間の自分たちにまで、二人の仲を隠そうとするのか。もしも恥ずかしいというならば、その羞恥心は今までどこに眠っていたのか。ひばり亭の二階の廊下でキスしている時などにもっと発揮されるべきではなかったのか。だがその時、カウンターの一角で激論を交わす三人の後ろを、ベロベロに酔ったおじさんが「俺は全然酔ってねえぞ、酔っ払ってるとか絶対そんなじゃねえからなあああ!」と絶叫しつつ他の人たちに運びだされていき、それを見送ったネルたちは全員同時に「ああ、あれか……」とつぶやいたのだった。
 しかしそうやって強情に、違いますから! と散々言い張ってきたマナの口から、今、ネルが己の耳を疑うような大胆な発言が、出た。ぷんぷん怒り続けるマナをじーっと見つめていたネルは、とうとう我慢しきれなくなって
「昼は神殿の手伝いをしてるんでしょ? 寝ちゃうって、どこで何してる時に?」
 そう突っ込んだ。
「だからそれは、お部屋で――」
 マナはぴたりと口を閉ざした。失言に気付いた瞬間、首まで赤くなった。
 あ、怒ってるの、忘れた。
 と、ネルは思った。
 狼狽しきった顔で空中に視線をさまよわせはじめた友人から目をそらし、エッチなやつぅーと内心でひとつ突っ込んでから、ネルは即座に話題をかえた。
「そういえば、今夜は来れそう? オハラさんがね、今年も夜明けまで店を開けるって!」
「そ、そ、そうね、うん、と、冬至節だものね……うん……今年は礼拝の後に忙しいか……ち、違うのよ? 今年は慰問で冬至節のお食事を配りましょうって、だからどうしても深夜を過ぎるし、夜忙しいのは、あのっ、わっ、私の個人的なことにゃにゃくて」
 舌を噛んだらしい。しばらくうつむいてぷるぷる震えていたマナは、立ち上がった。
「帰るの?」
「う、うん。あっ……あのねネル」
「うん」
「ありがとう。これ大事にするね」
 と、先ほどネルが渡した冬至節の贈り物の飾り紐を胸元に掲げる。これだけあわあわしても、そこは忘れないんだ! 嬉しくなったネルは、マナからもらった小さな櫛を手に取り、満面の笑みを浮かべた。
「うん! わたしも大事にするね。それとメロさん……」
 贈り物を喜んでくれるといいね……と続けたかったのだが、その名前をきいたとたん、マナは「あーっ!」と大きな声を出した。
「ごめんねネル、ちょっと私、炊き出しの準備を、メ――あのっ、あっ、神殿のお手伝いをされてる方と一緒にやる約束を……ま、ま、またね! パリスたちによろしくね!」
 ばたばたと騒々しくひばり亭を飛び出していく。
 ネルは手元のエールをちびちびと舐めはじめた。
 ――あんなに照れなくても、いいのに。
 うっすらと雪の積もった通りを遠ざかっていくマナは、右手と右足が同時に前に出ている。大丈夫かな、と思っていたら、やっぱり途中で転びかけた。体勢を立てなおし、後は普通に駆け出していく。背中が思い切り恥ずかしがっていた。
 真昼なのに薄曇りの空には、また粉雪がちらつき始めている。
 冬の日が落ち、神殿で酒場で家庭で、人それぞれの冬至節の祝いが始まる頃には、町は雪に包まれるだろう。
 ホルムに一年前と変わらぬ、平和な祭りの夜が訪れようとしていた。




 *




 神官たちが神殿に戻ってきたのは夜も更けた頃で、清掃と夜の祈祷を済ませた後には、マナはくたくたに疲れきっていた。
 だが肌を切るような冷たさの水風呂で体を清め、自室で夜着に着替えたあと、散々悩んだ末に、マナはメロダークの部屋へと向かった。
 ――だってなるべく早く、あのことをお話しておかなきゃいけないし、人に疑われるような変なことは昨日も一昨日もその前の晩もその前の前の晩……と、とにかく大体の夜はしていないし、今朝きつく申し上げたから、メロダークさんは今夜も私が来るのを起きて待っておられるだろうし!
 胸中で言い訳したマナは、右手の甲で扉を叩き、左手で濡れた髪をそわそわと整えて――そこでようやく、自分が冬至節の贈り物を部屋に忘れてきたことに気づいた。
「開いている、入れ」という返事が戻ってくる。
 一旦引き返してもよかったのだが、マナはまだ昼間の不機嫌さを引きずっていた。  ――いいわ、どうせまた、祭日だからって浮かれるのは軽薄だって、いい顔をなさらないでしょうし。
 乱暴にそう考えて、ピシャリと気持ちに蓋をした。部屋に入って後ろ手に扉を閉めたマナは、その場で足を止めた。寝台の方には近づかなかった。昼間にネルと交わした、あの決まりの悪い会話のせいもあるし、寝台の上では真面目に話しあうのは難しいよねと実際的な反省もしたのだった。恋人同士で(と考えただけでマナは恥ずかしくなった)、同じ場所に横たわって、真剣な話をするのは、難しい。これはメロダークだけでなく自分のせいでもあるのだが……。
 メロダークはまだ神官服のままだった。寝台の上であぐらをかき、壁に背を預け、膝に乗せた書状に目を落としている。数日前、ユールフレールからメロダーク宛てに届いた書状であった。ぼんやりとした角灯の光に照らされて、難しい表情を浮かべていた。戸口に突っ立ったままでいると、しばらくしてメロダークが顔をあげた。視線が一瞬鋭くなるが、マナのうかがうような表情に、いつもの穏やかな眼差しに戻る。書状を丸めて手を伸ばし、寝台の側の書き物机の上に置いた。
「夕べのお話の続きなのですが」
 マナは毅然とした表情と声で、そう切り出した。
「あの、アダ様にはやはり私からお願いした方がいいと思うんです。この間のこともあるし、メロダークさんのことまだお怒りなんじゃないかなって」
「……何の話だ?」
 そういいながら、メロダークは足を動かして、寝台の端に腰掛けなおした。
「ですから、ユールフレールへお戻りになりたいというお話です。メロダークさんが神殿軍の方だということを、もう一度きちんと説明して……」
「それなら私から話しておくのが筋だろう」
 もっともらしい口調で続けられ、マナは内心で静かに腹を立てなおした。昨日も一昨日も散々話したのに、やっぱりちっとも覚えておられない!
「マナ」
「なんですか?」
「なぜそこに立っているのだ」
「……今日はここで結構です。座りたくない気分なんです」
 メロダークが、物凄く驚いた顔になった。マナは勢いよくひるんだ。
 ――普段は相変わらず、ほとんど感情を表に出さないのに、なぜこのタイミングでこんな無防備な顔をするのだろう。自分がひどいことを言ったような気がしてしまう。
「側に来るのは嫌か?」
「そういうわけではないですけれど……」
「それならよかった」
 そう言って、黙った。
 これもまた普段からすればかなり率直な言葉で、マナはますます怯んだ。
 よかったって、よかったって……。
 普段はさっぱりなくせに、どうしてこういつも、突然大胆なことを言い出すのだろう?
 動揺して目をそらし、さっきよりあやふやな声で言った。
「ではなくて、ですね。昨日も一昨日もそのお話の途中で私を……その、お眠りになられたじゃないですか」
 口ごもったせいで、なんだか物凄く何かされた感じになってしまう。違うのに、とマナは慌てた。会話の途中でぎゅーっと抱きしめられて、そのまま眠られただけなのに。
「大事なお話なのでそれはちょっと……だから今日は、その、ここでお話するんです」
 メロダークが平手で軽く、寝台の空いた場所を叩いた。
「何もしない。来い」
 う、と思った。
 こういう約束の言葉に弱い。
 信じないのは駄目かな、と思う。結局そろそろと近づいて行き、、たっぷり距離を開けて、寝台の端に座った。メロダークの視線を頬に感じながら、続ける。
「あの、メロダークさんのお気持ちも、おっしゃっている意味もわかります。でも、巫女長のアダ様から書状をお送り頂ければそれですむのではないかと思うのですが……それで、私からアダ様にお話しておきたくて。それはメロダークさんが説明してお願いするのが筋なんでしょうけれど、今のアダ様は本当にお怒りになっておられるから……」
「ああ。私も先日から巫女長とは話をせねばと……しかし巫女長殿は、何をあんなに怒っておられるのだ?」
「……」
「さっぱりわからん」
 マナは太腿の上で組んだ手の親指を無意味にぐるぐる回しつつ、耳まで赤くなってうつむいていた。
 この方、本当に、もしかして馬鹿なんじゃないかしらと思う。
「……を見られたせいだと思います」
「何っ?」
「この間の晩に、回廊でメロダークさんが……私と、その……あ、あんなところで甘えた私が悪いんですけれど……」
 蚊の鳴くような声で囁くと、メロダークが眉根を寄せた。
「さっきのことだが」
「え?」
「何もしないといったが、気が変わった」
 もしかしたら元から意志が弱かったのかもしれないが、最近はますますひどくなっている。伸びてきた手を一度だけ振り払い、だがその後は拒絶のそぶりすら見せず、従順に目を閉じ体を委ねていた。唇が離れると息を吐き、メロダークの肩にぽすんと頭をのせた。
 冷え切った耳と髪に触れ、背中を下りてくる大きな手は温かい。
 メロダークへの気持ちで、頭が、いや、体全部がいっぱいになってしまう。穏やかで執拗な愛撫だ。目を閉じたままでいるせいで、他の感覚が敏感になっている。匂いや体温や感触や、声。声――。
「マナ」
 低い声でメロダークが名前を呼んだ。背筋がぞくりとする。その感触に溺れてしまうまえに、急いで言った。
「ユールフレールにはお行きにならないでください」
「……」
「一度この町を離れられたら、もうお戻りにならないような気がして、怖いんです」
「必ず戻ってくる」
「メロダークさんがそのおつもりでも、何があるかわかりません」
 手が背中から腰へと滑る。
「ん」
 小さく声をあげて、体をさらに密着させた。瞼の裏に光が渦をまく。ちかちかと星が飛ぶ。……。
「やめてください」
 小さい声で言うと、ぴたりと手が止まった。
「しかし」
 未練がましい声とともに、指が敏感な部分を一筋、マナの昂ぶりを確認するように横切ったが、体を引き離して起き上がり、立ち上がって乱れた服を直した。心臓がひどく早く脈打っている。馬鹿、と自分に言った。
「行かないでおこう」
 ふりむけば、寝台に横たわったままのメロダークが、眠気の漂う表情でこちらを見つめていた。薄明かりの中で両目だけが光っている。
「ユールフレールには戻らない。戦士団からの除籍の件は、おまえが言うとおり、巫女長殿に書状でとりなしてもらうのがよかろう」
「メロダークさん」
 ふと不安になった。
 自分はまた我がままを言ってしまったのだろうか? この柔らかな魂を持つ人に、間違った道を指し示しているような気がして、時々不安になる。
 明日の朝も早い――躊躇しているとメロダークが手を伸ばし枕元の角灯の蓋に触れ、留め金を弾いた。小さな金属音とともに蓋が落ちた。完全に暗くなった部屋の中で、彼女の恋人が彼女を呼んだ。
「マナ」
 その声を頼りに手探りで寝台の上を進み、熱い体に触れた。




 *




 今日もまた、目を覚ましたのはメロダークが起床した後だった。寝台が軋み、熱が遠ざかっていく気配に目を覚ます。
「私、メロダークさんの寝顔を見たことがない」
 マナは瞼を下ろしたまま、掠れた小さな声で囁いた。夜明け前の一番暗く、一番冷え込む一刻であったが、体には熱が残っている。毛布は暖かく、室内を密やかに歩きながら身支度を整えるメロダークの気配とともに、半ばまどろんだままのマナを、ひどく安心させた。体も心も幸福に満ち足りており、世界は単純かつ明瞭であった。
「そうだろうな」
 長衣を羽織りながら近づいてきたメロダークが、枕元に腰を下ろした。
 毛布から覗く少女の髪を手で整えてから、額に口づけをした。一旦身を離して下衣の裾を止め、またマナの上に体を屈めて、今度は頬にキスをして、それから帯を締め、耳の側にキスをし、着衣を整える合間合間に、そうやって首から上のあちこちにキスをして、マナはまどろみの淵から呼び覚まされる。ここ数日、なんだかたくさん甘えられて、いつもより大事にされている気がする。伸びかけた髭が頬を擦り、痛い、と囁いた。
「嫌か?」
「ううん……でも恥ずかしい」
 メロダークが身を起こす気配があった。
「何が恥ずかしいのだ。誰もいないのに」
 両目を閉じたままで、マナは唇をとがらせる。だって恥ずかしいのに。二人きりだとか、人前だとか、そういうことは全然関係なくて、つまり――つまり、と言葉にしようとしてもうまくいかないのだが、強いていうなら、自分の気持ちが表に出過ぎている、と思う。人に見せるべきでない心の内側が、すぐに彼を探す視線や、名前を呼ばれれば自然と浮かぶ笑みや、血の色を透かす白すぎる肌を通し、外に漏れ出している気がして、恥ずかしい、居たたまれない。ずっと大声で、気持ちを叫んでいるような物ではないかと思う。世の中の恋人たちは、皆こんなに恥ずかしさをこらえているのだろうかと真剣に悩んだりもする。
「怒るな」
 こめかみを親指の腹で撫でられ、こういうところにだけ察しがいいのにまた恥ずかしくなった。寝返りを打って背を向けようとすると、
「嫌か?」
 もう一度同じ言葉を、メロダークが言った。
「嫌って?」
「俺がだ。俺がおまえの側にいることや……こうして触れること、全部。いつも恥ずかしがる」
 マナは驚いて目を開けた。メロダークの生真面目な顔に寂しげな色がちらついているのに気づき、慌てて身を起こした。
「全然嫌じゃないです。そんなの、そんな風に考えたら嫌です」
 メロダークがマナの手を取る。何かを握らせた。起き上がったマナが掌に視線を落とすと、そこには白い小壜があった。温かみのある陶磁は柔らかな曲線を帯び、壜の口は蝋と細い紐とで厳重に栓がしてある。
 寝台の端に腰を下ろしたメロダークが、微笑した。
「冬至節の……」
「えっ……あ、ありがとうございます」
 とっさにそう答えるので精一杯だった。冬至節に親しい人同志で贈り物をする風習は、ネス以外では廃れていると知っていたこともあって、この贈り物は完全な不意打ちだった。少女の小さな手にすっぽりおさまる大きさの小壜は、娘たちを喜ばせる香水や香油の入れ物とも風情が違っており、振っても音もせぬ分厚い陶磁の中に何が封じられているのか、マナにはまるで見当もつかなかった。
「よくわからん」とメロダークが言い訳のようにつぶやいた。「……何を贈ればおまえが喜ぶのか。俺はホルムの人間ではないから、おまえの好みもわからんし……」
「そんなの。嬉しいです、すごく。でも、ど、どうしよう……あの、私もメロダークさんにお贈りしようと、新しい部屋履きを……ああ、私、ほんとに馬鹿だな! ごめんなさい! ちょっと待っていてください、取って来ます!」
「後でいい。マナ」
「でも、今。今、お渡ししたいです!」
 寝台から滑り降りた少女の体を毛布ごと抱き、メロダークが自分の膝の間へ引き寄せた。横座りになった体を思い切り抱きしめられて、息が苦しくなる。
「メロダークさ――」
 少女の肩にメロダークが額をのせ、「そのままでいい」と囁いた。
「もう十分、色々な物を与えてくれた」
 深い息が肩口に落ち毛布の隙間から滑りこむ。マナはごそごそと毛布から腕を出し、男を抱き返した。呼吸に合わせて微かに波打つ固い背中に手を回し、しばらくそのままでじっとしていたが、ようやく気がついた。きいた。
「どうかなさったんですか?」
 そう言ったとたんマナを抱く男の手に力がこもり、はっとしたあと、あ、本当に何かがあったんだと確信し、マナは内心で激しく狼狽した。
 メロダークは顔を上げぬまま「何でもない」と言い、マナがじっと待っていると、「アダ殿には……」と言ってから、また黙った。しばらくして手を緩め、マナを抱擁から解放した時には、メロダークはもう落ち着きを取り戻していた。一見すると冷ややかな表情が貼りついた男の頬に、マナはほっそりとした手を添えた。
「動揺はしないつもりでいたが、駄目だったな」
「メロダークさん」
「バルスムス殿が亡くなったそうだ」
 息を止めた大河の巫女から視線をそらさず、肩書きだけはまだ神殿軍戦士団の一員である男が、ゆっくりと続けた。
「ユールフレールからの書状で知った。ネスとの……あの戦の際、テオル公子と一対一の戦いとなり、魔術に倒れたことは、俺も前から知っていた。その後すぐに回復したという噂も――だが実際には、連合軍がズーエから撤退する前に、すでに亡くなられていたそうだ」
「アダ様は――」
「まだご存知ない。しかし将軍として僧兵として、数々の武勲を立てられた方だ。近いうちに大神殿から神殿宛てに、正式な通告があるだろう。……おまえには恨みもあるだろうが、俺にとっては……」
 メロダークはそこで言葉を切った。長い沈黙が落ちたが、メロダークが言うべき言葉を探しているのがわかったので、マナは身じろぎもせずに男の顔をただ見つめ続けていた。
 メロダークは恨みという簡単な言葉を使ったが、マナの胸中はもっと複雑だった。バルスムスと顔を合わせ会話を交わしたのは少しの間だけであったが、その一刻の間に、神殿で育てられた少女の胸中には、『戦将』への敬意と無骨な人柄への好意が芽生えていた。一方でバルスムスはもちろん、故郷の町を焼き、庇護すべき信者たちに刃を向け、マナの顔見知りの人々を殺し、罪もない老魔術師を――ネルが師と仰ぐデネロスの庵を、無残に焼き払うことを命じた、憎い敵軍の将でもあった。研磨された宝玉が光の当たり方によって違う輝きを放つように、誰もがそうなのかもしれないが、恨みがある、嫌いだ、そういった平坦な一色の感情で塗りつぶせるような人物ではない。大河神殿の信徒として、尊敬すべき神官であり僧兵であり、アダの大切な旧い友人であり、マナを捕らえよ、殺せと命令を下した張本人であり、そしてメロダークにとっての恩人であった。
「これで俺がユールフレールに戻る理由もなくなった。バルスムス殿に一度、信仰のために死ぬことは容易だ、そう言われた。信仰のために生き続けることはより困難な道だと」
 長い沈黙のあと、メロダークはそう語り終えた。メロダークの胸に、マナはそっと頭を預けた。男の心臓はマナには馴染んだ速度と力強さでゆっくりと脈打っていた。悲しみ、苦しんだいくつもの夜、この命の脈動に触れていた。忘却界のあの少年と、今のメロダークを繋ぐ一本の線上に、少年を救ったバルスムスがいる。
 男の悲しみを我が身に染みさせるように、じっと身を寄せ心臓の音に耳を傾けていた。
「一緒にお祈りさせてください――バルスムス様の魂のために」
 マナがそう言うと、メロダークはゆっくりと息を吐き、そうしてくれ、とつぶやいた。




 *




 冬至節の翌日、ホルムは抜けるような青空となった。
 夜を越して昨日より力を取り戻した太陽は燦然と輝き、ホルムを一面の白銀に染めた雪は、昼過ぎには路面のあちこちでぬかるみに変わっていた。
 夜が明けるまでひばり亭のどんちゃん騒ぎに参加していたネルは、かすかに二日酔いが残る頭を抱え、カウンターに向かっていた。
 災厄やら戦争やらが全部解決した後の祭日に、ホルムの住人たちは気合いが入った酔っ払いぶりと盛り上がりぶりで、地元出身英雄ご一行様の看板を背負ったネルとパリスが途中で抜け出すことなどとうてい不可能だったのだ。と、お母さんには説明して許してもらった。でも今日の店番は代わってもらえなかったので、お母さんには色々お見通しの気もする。いいや、夕べはすっごく楽しかったから。
 二階の吹き抜けから転落しかけた(最終的には、した)パリスとエンダの大騒ぎを思い出し、頭痛も忘れてにこにこしていたら、冬日を浴びて輝くオベリスクの向こうに、仲良く連れ立って歩くマナとメロダークの姿を発見した。いつものように前を行くマナが、振り返り振り返りメロダークに何ごとかを話しかけ、メロダークはこれもまたいつものように笑みも見せずに少女の後ろを歩いていたが、おしゃべりに夢中になったマナが水たまりに踏みこみかけた瞬間、その腰を抱えあげるようにして引き止めた。マナがじたばたと動き、解放された。メロダークに礼を述べているらしい背中が、またしても大変照れている。
 やがてメロダークは広場を離れ、通りを東へ去っていった。残されたマナは元気よく、今度は足元に注意してぬかるみを避け、雑貨屋に向かって走ってきた。庇の影が落ちた暗い店内に踏み込んできたマナは、寒さと照れとどちらのせいかわからぬ、真っ赤な頬になっていた。
「こんにちは、ネル! 冬至節おめでとう!」
 弾んだ声と笑顔に、ネルもぴょこんと椅子から立ち上がる。
「やっほーマナ、冬至節おめでとーう!」
 カウンター越しに右手を差し出し、頭の上でパチンと打ち合わせる。元気よく挨拶を終えてから、ネルは「喧嘩は終わったの?」ときいた。
「喧嘩?」
 一瞬きょとんとしたマナは、ぱっと後ろを振り向いた。先ほどメロダークに抱きとめられた水たまりが、このカウンターから一目で見渡せるのを確認した。ネルの方に向きなおった時には、頬の赤味が一段と増していた。
「べ……別に喧嘩してたわけじゃなくて、私が勝手に一人で怒って……あ、あのね、言っておくけど、メロダークさんは……えっと、そう! アダ様が転びかけた時だって、ああいう風に支えてくださるのよ?」
 すごいところを引き合いに出してきた。
「……マナさんや、前から思ってたんだけどね、そこまで照れなくてもいいんだよ?」
 ぐっと言葉に詰まったマナがまた全力で否定するかと思いきや、どういう風の吹き回しか、小さな声で、
「だって、恥ずかしいんだもん」
 と言った。きょろきょろと目を泳がせたあと、思い切った声で「だからって、別に……メロダークさんのこと、き、嫌いなわけじゃないんだよ」と、そこまで言ってみせる。「むしろその逆で……す……好きすぎるから、ほら」
 わわっと仰け反ったネルは、全力で、照れた。
 こいつはすごいぜ!
 ぎゃーっと声をあげ、両手を頭の上でばたばたと振る。
「マナ! は、恥ずかしい! すっごく恥ずかしい。きいてるだけで死んでしまう!」
「えええっ、ネル、ひどい! ネルが言い出したのに! わ、私もすっごく恥ずかしいんだからね!」
「あれだよね、あんたが照れるのって、俺は酔ってないぞ! っていう、あれだよね!」
「なんで!? 私酔ってないよ!?」
 真っ赤になった二人できゃーきゃー大騒ぎになり、騒ぎすぎて息を切らしてようやく落ち着いて、その頃にはマナもカウンターの内側に回りこみ、二人並んで仲良く座り、揃って店番の格好になっていた。
 溶けかけた雪が、あちこちできらきらと輝いている。広場にいる人影は露天商の野菜売りくらいで、冬の祭りを終えたホルムの町は、まだまどろんでいるようであった。
 マナの長衣の胸元が、昨日贈ったばかりの飾り紐で止められているのにネルが気づくのと、外套の上からそれを押さえたマナが、はにかんだ笑顔で、「これ、ありがとう」と言ったのは、同時のことだった。
「私も今朝、あの櫛を使ったよ!」
 二人で顔を見合わせ、えへへ、と笑う。冬至節の朝は、毎年楽しい。
「あの部屋履き、メロさん、喜んでくれた?」
「うん……えっと、大事にするっておっしゃったから……多分」
「よかったねえ」
 少しの間を置いてから、マナはこくんと頷いた。ネルがまた照れかけたとき――わかったぞ、本人が照れて隠せば周りは平気だけど、本人が照れずにおおっぴらにすると周りが恥ずかしいんだ! 一緒だ、これはメロさんの裸と一緒だ! ――マナが何かを思いだしたように、
「そうだ!」
 と声をあげた。
 外套の裾を跳ね上げ、腰に下げた道具袋を探り、中から白い小壜を取り出した。
「実はメロダークさんから贈り物を頂いたんだけど、蓋が外れなくて……ネルなら開けられるかしらと思って」
「えっ、それは全然構わないけど……わたしが見てもいいの?」
「んんん、それは大丈夫だと思う。だってこんな壜の中に、私以外の人が見たらいけない物って入りようがないような……封をなさったのもメロダークさんなのに、開けてくださいってお願いするのも、なんだか悪い気がして」
 ネルは封蝋を爪で叩き、そこだけはほっそりとした壜の口に絡みつく紐を引っ張った。木片か石かを使って、中に栓をしているのだろう。熱して蝋を外してもいいが、中身が熱に弱い香水の類だった場合、メロダークとマナの二人ともががっかりすることになってしまう。
 一瞬悩んだが、針金だけと細いヘラがあれば綺麗に封が剥がせるかな、と思った。
 心配そうに見守っていたマナに向かって、「よし、いける! いいよ、まーかせて!」と元気よく宣言した。マナはぱっと笑顔になる。
「よかった! ありがとう、ごめんねネル」
「いいってことよ! ちょっと待ってて、すぐに道具を持ってくるから。今ここで、ちゃっちゃと開けたげるね!」



 *



 完成させるために本来必要な時間も材料も、それどころかホルム生まれの住人ならば当然のように持っている基礎的な知識すらなく、しかしそこは経験による創意工夫と天性の閃きと熱意と気力と火力によって補い、神殿の雑務の合間を縫ってあらゆる手段で醗酵を進め、人のいない早朝や深夜といった時間帯を狙って厨房と調理器具をこっそり使用するために睡眠時間を限界まで削り、途中で「味見が必要な段階は終了した」と確信し、その後も様々な滋味に富んだホルムの食材を手に入る限りぶち込んで、気がつくとなぜか量が激減していたのも「濃縮されたということだ」と前向きにとらえ、そうやって本人は簡単だったと信じているものの、実際は料理そのものへの冒涜ともいえる紆余曲折の末に完成した、郷土料理の一段高い次元の扉を開くことによってマナの笑顔を見たいという一途な気持ちを振り絞って完成した、世界に二つとない、メロダーク特製ポララポの、匂いも見た目もまあ本当にすごかったこと!

 飛び散った飛沫と悪臭が消えるまでの間、メロダークとマナは連れ立って繰り返しネルの雑貨屋を掃除に訪れ、次の春がやってきたときには「ホルムにはすべてが磨き上げられた、信じられないくらい清潔な雑貨屋があるそうだ」という噂が、ナザリにまで届いていたそうだ。


end

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