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雪の町

エンド後/メロダーク ラバン マナ

 気持ちの上ではこの町にすでに碇を下ろしている。
 私は私の少女が暮らすこの小さな町に停留したつもりでいるが、感覚の方はまだそれに慣れていない。船着き場で耳に挟んだ、「下りの船がじきに出発する」という会話の断片に、逆だろう、自然にそう考え、しばらくしてから私の方が間違っていることに気付いた。
 ここはネス公国で人々の拠点は当然首都のナザリであり、西へむかうのは首都から離れ行く『下り』なのだ。私にとっての基準点はまだ大陸の最西端であるユールフレール島にあるが、この感覚もきっといつかは失われていくのだろう。
「このあたりは冬でも氷が張らんから、水路も陸路も楽だわな」
 河の半ばに停泊した大型船にむかう連絡船が――粗末な木造の小船だ――乗客を募っている。桟橋の途中で足を止め、ラバンが言った。
 見送りに来いと命じた彼が二人きりになったあと、口を開いた最初の言葉がそれで、次の言葉は「辺境の方だと冬に孤立しちまうところも多いからな。何があっても外からじゃわからねえ。結構、怖いぜ」だった。
「それだけ辺鄙な場所なら、何かが起きてしまえば、その時点ですでに手遅れだろう――外部が介入する余地がない」
 私がそう指摘すると、ラバンはからからと笑い声をあげた。
「ま、そりゃそうだ。見てわからねえのが一番の問題だわな」
 桟橋の上で列をなす、抱えきれぬほどの荷物を抱えた商人や、家財一式を載せたロバを引く巡礼らしい親子連れや、重たげな背嚢を背負った兵士たちの一団の間で、老剣客は目に見えて身軽だ。私が彼に持たされていた荷物は、片手で十分な革の道具袋ひとつであった。その荷物を私の手から受け取ると、言った。
「ホルムはそこまでの辺境じゃない。俺はここで冬を越したことはないが、冬も過ごしやすい、いい町だと思うぜ」
「……」
「あんたも元気でな。俺のこの町での用は、終わりだ。次に会うのがいつになるかはわからんが、縁っていうのは不思議なもんだからな。どこか思いもかけないところで、ひょっこり出くわすかもしれんよ」
 それじゃあな、と言い残して背を向けようとした老人を、私は思わず呼び止めた。
「何か話があったのではないか」
 振り向いたラバンは、どういうわけかひどく驚いた顔をしていた。
「……二人だけの話があったから、私を見送りに来させたのではないのか」
 我慢強くそう繰り返した。
「いや、ただの荷物持ちよ? 最初にそう言ったはずだけど?」
 老人の考えは、読めない。
 話でもなければ、さほど親しくもない私に大して重くもない荷物を持たせ、わざわざついてこさせる真似などしないはずなのだ。むっつりと沈黙した私に、ラバンは人を食ったような笑みを浮かべた。
「お前さん、まさか俺に説教されてえの?」
「……そういうわけでは」
 そう答えたが、自分でも意識していなかった後ろ暗い気持ちをずばりと指摘されたようで、内心ひやりとした。ラバンは肩をすくめ、ちょうどその時に船頭が声をあげ、小船の出発を告げた。ラバンは私から視線を外すと、「ちょっと待て、乗るよ、俺も行く!」と大声をあげた。飄々として軽口ばかりの老人のこちらを向いた横顔には、死地をくぐり抜けてきた剣士の厳しさが露骨に浮かんでいた。
「……俺は、マナのことであんたが何かを――」
 とっさに私がそう言ってしまったのは、この年上の探索者に対する信頼と甘えがあったのだろう。
 くるりと向きなおったラバンは、目を丸くして、次にぷっと吹き出した。
「おいおい、俺はあいつの父親でも爺さんでもないぜ」
 確かにその通りだ。馬鹿げた失言だったと思う。しかしラバンは顔から笑みを消した。
「まあ、それなりに古い昔馴染みではあるがな――メロダークよ、あの子の器は、お前さんが思ってるよりはずっと小さいぜ」
「……」
「強い奴が一人いると、どうしても周りは弱くなるもんだ」
 それを告げる老人の声は、彼には珍しく低く小さな囁きであった。次の瞬間、ラバンの顔にはまたいつもの、機嫌のいい笑みが戻っていた。固めた拳で軽く私の胸を叩く。
「それじゃあな、若いの。女は泣かすなよ――その時はよくても、後から面倒臭くなるからな」
 ふざけているのか真面目なのかわからぬその言葉を残し、マナの旅を助けた探索者の一人は、町を去っていった。
 満潮に乗った帆船が、帆を垂らしたままでゆっくりとホルムを離れていく様子を、私は桟橋からずっと見守っていた。灰色の雲と大河の間に白い雪が舞い、それもすぐにやんだ。
 私の生まれた土地では、雪は降らなかった。
 荒野では幾度か雪を見た。




 神殿の前にマナがいた。
 白い長い髪もほっそりとしたその姿も、私は見間違えることがない。神殿に近づく大通りの途中で足を止め、その姿を遠くから見つめた。
 古びた毛織の外套を着込んだ少女は、神殿の正面の太い柱にもたれかかり、長靴に包まれた片方の足を所在なげにぶらつかせていた。外套の襟に顎をうずめ、時々何かを思い出したようにひっそりと微笑し、かと思えば真面目な顔で思いつめたように遠くを見つめ、ぱっと顔を伏せてまた笑みを閃かせる。友人と出かける約束でもあるのか、一人で何かを待つマナは、この寒さにすら気づいていないような、幸福で楽しげな表情と仕草であった。まだ年端もいかぬ町娘であることを久しぶりに思いだし、なぜかひどく悲しい気持ちになった。できれば顔をあわせずに神殿に入りたいと思ったが、道を変える前にマナが顔をあげ、私を見つけた。
「あっ、メロダークさん!」
 こちらが驚くような大きな声で叫ぶと、外套の裾をひるがえし濡れた階段を駆け下りてきた。
「お帰りなさい! さっき雪が降っていたんですよ、ご覧になりましたか?」
「いや――ああ――すぐに止んだな」
「ええ、すぐに止んだんですけれど、初雪を……嬉しいな、私、ホルムのちゃんとした初雪なのに、メロダークさんと一緒に見れなかったの、残念だなって思っていたんです! アダ様がね、今年は豪雪になるかもっておっしゃるんですよ。ホルムは河を通ってきた風が暖かくなって冷気を散らすから、普段はあまり雪が積もらないんです」
 弾んだ声でしゃべり続けていたマナは、不意にぴたりと口を閉ざした。両手を外套のポケットに突っこんだまま周囲を見回す。通りには人気がなく、私と少女だけだった。マナは二歩下がり、「えい!」と声をあげ、勢いよく、しかし柔らかに、私に体をぶつけて来た。動作が全て見えていたので、当然こちらはよろめきもしなかった。ぶつかったあと跳ねかえり、マナはたたらを踏む。肘をつかんで体を支えてやった。
「あ、す、すみません」
 赤面した少女から手を離し、「どうした」ときいた。
「今のは何だ」
「話をきいておられないから、えい、です」
 つまり上の空だった私に抗議のつもりで体をぶつけたらしいのだが、それで自分だけ転んでいれば世話はない。じっと見ているとますます赤くなって、気まり悪げに視線をそらした。
 ……よくわからん。わからんが、手袋を外し、頭を撫でてやった。泳いでいた視線が戻ってきて、目をあわせにこりと笑う。髪の毛の冷たさに少女が随分長い間外にいたことに気付く。こんな寒い日に外で待ち合わせをするなど、馬鹿げている。おそらくネルかパリス、さもなければテレージャあたりだろうが、待ち合わせの相手が来るまで中で待っていろと言おうとした。しかし今、少女への命令を言葉にすると口調がきつくなりすぎる気がして、私は結局黙ってマナの肩を抱き歩き出した。マナはいつものように従順に私と歩を合わせて階段を上がった。神殿の中に入り回廊の柱の影で立ち止まった時には、マナは心細げな表情を浮かべていた。
「メロダークさん」
 と言った。
「ラバン爺は何か……何を?」
「いや」
 マナが私を見つめたまま、唇をかたく結んだ。口にしてはいけないことを口にしようとしているようで、その一瞬の表情にこちらもわずかに緊張するが、マナは結局、いつものように言葉を飲み込んだ。誰に対しても、そう、私に対してすらいつも遠慮と逡巡がある。
 あの子の器は、お前さんが思ってるよりはずっと小さい……。
「マナ」
「はい」
「言え、何を考えた。お前はいつも肝心なことを話さん。私に隠しごとをするな」
 口にしたとたん後悔した。またこんなに厳しい言葉になった。恫喝のようだ。そのようにしか話せない。マナは驚いたように私を見上げる。怯えを含まぬあっけらかんとした口調で、
「メロダークさんは時々、アダ様みたいですね」
 と言い、私を面食らわせた。
「……どういう意味だ」
「どういう意味って」
 誰もいない回廊の向こうに曇り空が広がっている。マナが手を伸ばし私の肩をつかんだ。踊りの稽古でもするかのように円柱と私の間にくるりと身を滑り込ませ、もう一方の手でも私の肩を捕まえて、顔を上げ爪先立ち、私の顎にキスをした。突然のことに驚いて固まっていると、
「と、届かない」
 と小さい声で言った。私はいそいで体をかがめた。唇に短い小さなキスを受ける。少女の唇はひどく冷たかった。
「すまん」
 気の利かなさと彼女を問い詰める言葉の厳しさのどちらを謝罪したのか、自分でもわからなかった。踵を下ろしたマナは白く曇った息を吐き、真面目な顔で私を見上げた。
「えっと……ん……ラバン爺は私にはあまり厳しいことを言わないのですが、男の人同士だと違うのかな、と思って。メロダークさんが元気がないように見えたから、ラバン爺と何かあったのかなと。つまり、今、そういうことを思っていたのです」
 すべてを説明し終えたかのようにマナは口を閉ざしたが、こちらはさっぱり意味がわからなかった。接吻の感触の残る唇に指で触れ、今のキスの意味を少女にきいた。
「……それと今のがどう関係があるのだ」
「関係ありません」
 なぜかむっとしたようにマナが答えた。
「ただ、元気がないのが悲しくなったから、キスをしたんです」少し考えてから、言い足した。「メロダークさんは……メロダークさんの方が、私よりずっと無口です。もっとたくさんお話してください。遠慮はなさらずに、なんでも」
 それで、と真面目くさった声を出す。
「だから、私も、遠慮をしません」
「……そうか?」
「そうです。キスしたいときにキスをします。という風に決めたんです。だから、今、キスをしました」
 言葉の意味をつかみかねている私に、マナが腕を回し、ゆっくりと抱きしめた。
「冷えておられますね。お部屋を暖めておきますね」
「これは、抱きしめたくなったのか」
「……違います。今は、メロダークさんが私にくっついて欲しそうな顔をなさったので、気をきかせたのです」
 察しの悪い私を叱るような口調で、言った。すぐに恥ずかしそうに微笑し、離れていこうとしたマナの腕をつかみ、今度は私から抱きしめた。
 そのようにしたかったのだ。
 寒風に晒された小さな体は氷のように冷たく、白い髪には冬の香りがした。


 長い抱擁を解いたあと、二人の体は先ほどよりも温もりを増したように思えた。赤くなったマナは私と視線を合わせぬまま、神殿の奥へと駆けていこうとする。
「マナ」
 慌てて呼び止めて、振り向いたマナに、私が言った。
「いい、部屋の炉は私が用意する。お前は出かける用事があるのだろう」
 マナはきょとんとした顔になった。
「用事? いいえ、何もありませんけれど」
 しかしあんなに嬉しそうに誰かを待っていたではないかと重ねて言いかけた時、しっかりと外套を着込んだ少女は、冬の雪空の下、この私の帰りを待っていたのだと気付いた。



end

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