グッドエンド後/マナ メロダーク
十月、かねてから宣言していた通り、テレージャとヘロデン教授が指揮する調査隊はついに大図書館へと突入した。
壁を埋め尽くす粘土板、巻物、羊皮紙や牛皮紙の書物、パピルスの束、石板、銅板――見渡すかぎりに連なる書籍の列――アルケア帝国が全土から収集したあらゆる知恵と知識、大神殿によって検閲されていない古代の記録の数々は、考古学者や魔術師にとって文字通り宝の山だったが、この山を征服するには莫大な労力と時間が必要であった。
用意周到なヘロデン教授によって、少し前からホルムの町にはひと目でそれとわかる学者や学僧の姿が増えており、調査隊の面々が本拠地としているひばり亭などは西シーウァから大学が一棟引っ越してきたような有様になっていた。これまで様々な人間を受け入れてきたホルムの町は、古文書の解読に燃える青白い学者たちをも、探索者や観光客や兵士たちと同じように迎え入れた。
外から来た人間ばかりではない。テレージャと面識を持ち古代語が読めるホルムの人間は揃って古代図書館の文献の解読と目録作りに狩りだされており、その中には当然メロダークも含まれている。
マナは、つまらない。
ホルムが平和を取り戻して一年、ひばり亭に居ついたメロダークは、神殿に顔を出すのが新しい日課となっていた。最初のうちはマナが戸惑いを覚えるくらい近く、数度の言い争いのあとはほどほどの距離で、どちらにしても離れることなく、ずっとマナのそばにいる。
それなのに最近はメロダークが来ない。
寂しい。
会いたい。
いくら調査隊が忙しいといっても、三日に一度しか来てくれないなんて、いくらなんでもあんまりだと思う。
だがネルに不満をこぼしたところ、「えっよくわからないや。三日に一度って多くない?」という明朗きわまりない返事をされて、どうやらあんまりだと思う気持ちこそがあんまりなわがままらしいのだった。目に見えて落ち込んだマナはネルにわぁごめん! と謝られたものの、ひそかに、そしてしっかりと反省した。愚痴は言うまい。
それでマナは愚痴の代わりに、礼拝堂で祈りの時間を持つとき少し長めにメロダークの無事と平穏を願うことにした。メロダークはよく神殿を手伝ってくれていることだし、多少マナが贔屓をしたところで、アークフィア様は不快に思われまい。ついでに祈り終えたあと、二人のこれからについて神殿のベンチに腰掛けたままぼんやりと夢想するのが、マナの新しい日課となった。
寡黙な男の横顔を思い浮かべれば、勝手に甘いため息が漏れる。
――もっと、ずっと、一緒にいられればいいのに。
熱心にそう思う。
祈りのあとに愛する人と二人で過ごすことを考えるとき、いつも決まってマナの頭に浮かんでくる光景があった。
白い霧に包まれた小さな島の小さな小屋だ。晴れることのない不思議な霧だ。そこに、大切な人と二人だけでいる。薄暮に光る自分の(いや、誰かの)白い手や、釣り上げた魚を見せた時のメロダークの(そうではない誰かの……馬鹿げた話だ、メロダーク以外の恋人などいないのに!)笑顔や、暗い寝台の上で自分を呼ぶ声。愛と安らぎに満ちた幸福な日々。立ち込めた深い霧は彼女と恋人を外界のあらゆるものから遠ざけ、二人の暮らしを守ってくれる……。
マナはその小屋での毎日を、自分でも戸惑うくらい鮮明に具体的に思い描くことができた。見たこともない風景をこんな風に想像できるのはなぜなのか、今のマナには皆目見当もつかなかった。お前は大切なことを忘れている、誰かにそう言われても、マナは戸惑うだけだっただろう。ただこの空想とも夢とも記憶の断片ともつかぬ不思議な情景が、マナの心を暖かく照らし、幸福な気持ちにさせることだけは確かだった。
ところで仕事を終えた夜、鍵をかけた自分の部屋でいつもの寝台に潜りこんだあとに浮かんでくる様々は、礼拝堂でのそれよりももう少し大胆で都合の良い代物だった。空想の中で私と一緒に暮らしませんかとマナはメロダークを誘ったり、メロダークの方から彼女を誘ったりした。もっともこの想像はそのうち身をかがめたメロダークがマナの頬に柔らかく口づけし、「お前から片時も離れたくない」とかなんとか歯の浮くようなことを言いだす流れになるので、そのあたりで恥ずかしさに耐えられなくなったマナは赤くなった顔を枕に押しつけ、じたばたするのだった。
メロダークが知ったら、阿呆か、と例の調子で言うところだ。
ホルムは平和で、神殿もマナも平和だった。
いつの間にか始まっていた初めての恋に、遅ればせながらマナは夢中になっていた。
*
「テレージャの魔物よけが効果をあげている。つまりまだ遺跡を怪物どもがうろついているということだ。放置しておくわけにもいくまい」
神殿の食堂の片隅でそう告げたメロダークの表情は、一年前を思い出させる厳しさだった。探索者時代と違って軽装ではあるが、身に付けた剣と鎧は相変わらずだ。夜種どもの数が減ったといえど、遺跡が危険なことに変わりはない。
「メロダークさんたちだけで大丈夫ですか?」
向かいに腰掛けたマナがそう言うと、メロダークは渋い顔になった。
「お前の手をわずらわせるまでもない、そう言いたいところだがな。魔物の数すらわからん。用心するに越したことはなかろう」
「あのあたりは、古い場所ですからね。タイタスの」その名をマナは、意識してさりげない調子で口にした。「……呪縛からこの地が解放された今になっても、古い魔法が残っているのかもしれません。テレージャさんにお願いして、一日同行させて頂いた方がいいかもしれませんね」
「そうだな。伝えておこう」
メロダークが卓上に置いた籠を、マナの方に滑らせた。蓋がわりに被せてあった布巾を取ったマナは、すぐにそれを掛け直した。
「これはお気持ちだけで」
「……もう一度確認してみろ」
マナはもう一度確認してみた。奈落の淵から這い出たようなどす黒い物体が邪悪な臭気を放っている。二度見ても新たな発見がなかったので、先ほどより容赦のない手つきで押し戻した。この一年で断り方だけはずいぶん上達した。
「お気持ちだけで」
メロダークはがっかりしたようだった。
「今日はうまく出来たと思ったのだが」
そう言いながら、周囲にぼんやりと視線を走らせた。いくつかのテーブルで歓談している町人たちや、皿を運ぶ下働きの老婆の注意がこちらに向いていないのを確認してから、テーブルの上に乗ったマナの右手に自分の左手を重ね、力をこめた。愛撫ともいえないただ無骨なだけの仕草であったが、うつむいた少女の頬は赤く染まった。食事を終えた信者の一団が席を立つまで、二人は黙ってそうしていた。
引っ込めた手を膝の上で行儀よく揃えてから、マナは言った。
「お会いできないと、落ち着きません」
「そうか」
「そうか、じゃないです。もっと一緒にいてくださらないと」
「……一緒にいないと、どうするのだ」
「どうもしません。私が寂しくてつらい気分になるだけです」
メロダークはなぜか真面目な顔になった。
長いあいだマナを見つめていたが、
「いかんな」
ぽつりとそう言った。まだ何かを話したそうな気配があったのでマナは彼の言葉を待ったが、それきり、メロダークは口を閉ざしてしまった。
*
そういうやりとりがあったにも関わらず、メロダークはまたしばらく神殿に顔を出さなかった。
ひばり亭に行っても会えない。オハラにそれとなく探りを入れてみると、調査隊は何組かに分かれて遺跡へ出入りしており、その中の一つの組を任されたメロダークは、早朝から深夜までを遺跡に篭って忙しく過ごしているようであった。
数日後、探索隊の人間を引き連れたテレージャが大図書館から発掘された大量の古文書と共に神殿にやってきたが、その中にもメロダークの姿はなかった。壺に入った巻物や粘土板も含めた古書の山は普段は閉鎖されている書庫に運び込まれ、当分のあいだここで保管されることになるようだった。
「本当は半端に移動させたくないんだけど、大神殿のお偉いさん方への手前もあってね」
声をからして男たちを監督していたテレージャは、作業が一段落つくとくたびれきった様子で椅子に腰掛け、マナが運んできた水を一息に飲み干した。
「後から何人か寄越して目録作りをやらせてもらうよ。迷惑をかけっぱなしですまないが、手が空いている時にでも手伝ってもらえるとありがたいな」
「それは構いませんけれど、テレージャさんは来られないんですか?」
「遺跡で何かあったときに戦える人間がいた方がいいからね」
マナはそこでようやく、メロダークが言っていた遺跡に魔物の気配がどうのという話を思い出した。ずっとメロダークのことばかり考えて、すっかり失念していた自分が恥ずかしくなる。
「そういえば夜種が出るというお話でしたね。私、お手伝いに行こうと思っていたのに」
「まあ、もう、大丈夫だとは思うがね。私が行くのも念のためさ。しかしメロダークくんには災難だったね」
「災難? 何かあったんですか?」
「何って例の怪我だよ。遺跡の守護者とやりあった時の」
ややあって、マナは低い声で言った。
「知りませんでした。それで、メロダークさんは――」
テレージャは周囲の人間の感情に驚くほど鋭いときと嫌になるほど鈍いときがあり、古文書に囲まれている今は、どうやら後者のようだった。
「元気だよ。今日は夕方から遺跡に入っていると思うよ、ヘロデン教授の隊と一緒にさ」
テレージャは眼鏡をかけたが、それは青ざめたマナの様子を伺うためではなく、部屋の端に乱雑に積まれた古文書を確認するためだった。
「待てよ、待て待て、あれはひばり亭に運ぶ分じゃないかな。誰かが札を付け間違えちまったんだな! くそっ、とんだ間抜けがいたものだ」
自分の背より高く積まれた古文書をじろじろと眺め回していたテレージャは、しばらくしてがっくりと肩を落とした。
「その間抜けとは私のようだ。ちょっと人を呼んで来る、開けておいてくれたまえ。嫌になっちゃうね、今日こそ寝台で眠れると思ったのに!」
愚痴りながらもきびきびとした足取りで、テレージャは書庫を出ていった。
*
寝台で一眠りした後、テレージャはマナの様子がおかしかったのに気がついたのかもしれない。さもなければネルかオハラか、あるいはチュナからマナの様子をきいたパリスあたりが気を回してくれたのかもしれない。
とにかく、翌週、古文書の目録作りのために、メロダークが一人でやってきた。
「メロダークさん!」
神殿に来ないどころか伝言のひとつも寄越さぬ男を心配しすぎてしょげかえっていたマナは、回廊にメロダークの姿を見つけたとたん、喜びの声をあげた。
冬の曇天の下、分厚い黒いマントを羽織ったメロダークは、最後に神殿を訪れたときより、ずっと青白く痩せて見えた。子犬のように駆け寄ってくる巫女を、微動だにせず見つめていた。
「お怪我をなさったそうですね。具合はどうです?」
足を止めたマナは、真っ先にそれをきいた。
「大丈夫だ」
「メロダークさん?」
「……治癒術なら私も使える」
久しぶりの再会にしてはいささか冷たすぎる声でそう応じてから、男は無言で右の手首を動かして見せた。魔法だろうと外科だろうと手当てのしづらい場所で、マナは思わず上目遣いになった。メロダークは目をあわせなかった。右手を下ろすと、テレージャから目録を作るよう言われて来たがこれは遺跡に入れない学者にでも任せておけばいいのになぜか私が選ばれた、怪我のあとの体調不良がなんのと言われたがばかばかしい云々、淡々とした口調であったが、言い訳めいた物言いをした。話が終わったところで、マナが言った。
「メロダークさん」
「……」
「私のこと、避けておられましたよね?」
正面からの質問を、メロダークはマナの予想通り、正面から受け止めた。マナの目を見て頷いた。
「まあ、そうだな。避けていた」
神殿で育てられた孤児は深々と息を吐いた。怒るでもなく、文句を言うでもなく、ただうつむいた。
メロダークが言った。
「だが、会えて嬉しい」
「わかってます」
「そうか」
「見ればわかります」
「……そうだな」
「それで、どうしてそんなことを? 何かあるならはっきりおっしゃってください」
メロダークは真面目な表情を崩さなかった。
「考えたのだ」
「ええ」
「お前はどうも自己犠牲が過ぎるというか、すぐに流されるところがある」
「……そんなこともないと思いますが」
「それはお前の美点だが、裏返せば弱いところでもある。現に今も、私といつも会っているせいで、情が移りすぎている」
マナはさすがにむっとした。
「変な風におっしゃらないでください。情なんて知りません、ただあなたのこと好きなだけです」
「いや、そうだ。それで、先のことを考えるなら、お前のために少し距離を置いた方がいいと思ったのだ」
沈黙の後、マナが言った。
「すみません、意味がよくわからないのですが」
「……これ以上どう説明しろというのだ」
メロダークは苦虫を噛み潰したような顔になった。左手に持った厚い帳面を抱え直し、
「書庫に案内してくれ」
と言った。
「書写台も準備してありますけれど、大丈夫かな。十年ぐらい使っていないそうなので」
「今日は破損だけ確認して、作業は明日からだ。それと、神殿の方で人手が必要なことはあるか。パリスが竈のことを何か言っていたが……」
「それはいいんです、先週もう修理して頂きましたから」
マナは先に立って歩き出した。久しぶりに顔を見たのといつもの調子のやりとりのおかげで、すっかり元気を取り戻していた。目録を作る間は神殿に通ってくれるらしいのも嬉しかったが、メロダークが突然自分を避けはじめた理由は釈然としないままだった。それでマナは、リボンを揺らしながら振り向いて、鬱々とした顔で後をついてくる男にきいた。
「その、距離を置くとかいうの、もう終わりにしてくださるんですよね?」
「……」
「お会いできないと、寂しくて、嫌だな。メロダークさんのことばかり考えてしまいます」
「それだ」
「どれです」
メロダークが黙ったので、マナはまた前を向いて歩き出した。書庫の扉が見えてきたところで、用意してきた言葉を読み上げるような、やけに平坦な調子で一息に、メロダークが言った。
「今はお前も俺に構っているが、そのうち、他に好きな男ができた時に、あれは時間の無駄だった、そう思うようになる。だからこれからは、なるべく会わんようにしようと思ったのだ」
マナが足を止め、勢いよく振りむいた。
初めての大喧嘩になった。
物の見方も考え方も、楽観からはほど遠い。自分にとって不都合で不快な仮定を冷静に冷酷にいくつも重ね、未来を見る方だ。そういうメロダークの思考の癖を十分にわかったうえで、それでもマナは、傷ついた。
「他に好きな人なんてできません!」
書庫には昼間近づく人もいないので、自然と声も大きくなる。メロダークの方はいつもの冷静な態度を崩さずにいた。
「……それは、わからんだろう」
「わかります」
「先のことなどわからん」
「じゃあ、でも、そんなのメロダークさんだって同じじゃないですか」
「俺はそういうことにはならん。だが、お前はわからんだろう」
ひどく頑固にメロダークが繰り返した。自分の気持ちを疑われたのが辛いのとか、メロダークがまた信じている物に裏切られるつもりでいるのとか、全部がごちゃごちゃになって悔しいのと悲しいのと腹が立つのとで、とにかく胸がいっぱいになる。大体、普段あんなに無口な癖に、一度しゃべりだすと案外弁が立つのはずるいと思う。マナが必死で言葉を探しているあいだに、メロダークは口論などしていないかのように黙々と古文書の札と持ってきた帳面を見比べていて、その様子にもますます腹が立った。
「信じてくださらないんですか、私のこと」
「信頼の問題ではない。それとは別の話だ」
マナが黙りこむと、ずっと横顔をむけていたメロダークがようやく彼女の方を見た。マナの両目に涙が溜まっているのを見て、ぎょっとしたようだった。
「おい」
狼狽したのがわかる。帳面を放り出して、マナの方へ近づいてきた。
泣いてしまった自分も嫌だし、話がうやむやに終わってしまうのも嫌だったので、マナは急いで本棚の裏側に逃げ込んだ。
「来たら駄目!」
大声で言うと、メロダークの足音がその場に止まった。マナはその間に涙を拭いた。メロダークに慰められたら簡単に自分の気持ちが変わってしまうことも知っていて、それも嫌だった。
しばらくしてメロダークの声がした。
「……夕食までに終わらなかったな」
「……ん……」
「今日は泊まらせてもらう」
客人用の部屋はすでに用意してあったのだが、マナは黙っていた。
「巫女長殿に挨拶してくる」
メロダークが書庫を出て行った。慰められたくないと思っていたくせに、メロダークがあっさりと行ってしまうとさらに寂しくなる。心は面倒なものだ。
背中を本棚にぎゅっと押し付け、そのままずるずるとしゃがみこんだ。こういう風にすぐに泣いたり怒ったり、私が感情に流されるところがお嫌で、だから気持ちも信用できないと思われるのかな、と悲しくなる。寒々とした部屋の中で、マナはしゅんとして膝を抱いた。
*
夜が更けたころ、扉が控え目に叩かれた。寝台に潜りこんでうとうとしていたマナは、その音に飛び起きた。扉を開けると、廊下の冷気と一緒に部屋着姿のメロダークがするりと部屋に入り込んでくる。
昼間の口論などなかったかのように、マナは男の口づけを受けた。
無言のまま寝台に導かれ、服を脱ごうとした手を押しとどめられる。
俺が、とメロダークが言った。
俺の――。
男の手が紐を解くと、羽織っていた長衣が軽い音を立てて滑り落ちた。肌着を脱がしながら肩甲骨の下を撫でられる。素肌に熱い手が触れるとそれだけで息が苦しくなる。
「こういうことを、ですね」
男の手に気をとられながら、マナが言った。
「していますから」
「なんの話だ?」
「昼間のお話の続きです」
「……ああ」
「だから、えっと、メロダークさんとはこういうことをしましたから。もう他の人は好きになりません」
きっぱりと断言すると、メロダークが伏せていた顔をあげた。表情の見えない寝室の薄闇の中、瞳が光っているのだけがわかる。昼間とは違う切羽詰まった低い声が言った。
「俺はお前の物だ。だがお前は俺の物にならなくていい」
マナはメロダークの額に触れた。乱れた男の前髪を優しく指で梳き、彼が好むように首筋から耳朶へと唇を這わせた。馴染んだ汗の匂いがする。皮膚の味ももう覚えた。
「メロダークさんのおっしゃること、時々、わからないな」
「……そうだろうな」
そっと胸を押すと、マナの意図を呑み込んだのか、メロダークは素直に寝台に仰向けに倒れた。
マナは男の上に馬乗りになった。しばらく見下ろしていたが、屈みこんで唇を重ねる。男の口は乾いている。獣の匂いだ。教えられたように唇を割り舌を絡め、熱が融け合うまで口腔をまさぐっていた。顔を離して呼吸を整える。男と見つめ合ったまま、
「わからせて」
と言った。
わからせて。
あなたの心を。あなたの気持ちを。私が女であることを。あなたが男であることを。あなたと私が同じように、頼りなく、弱く、ただの人間で、でもそれを恥じる必要など何もないことを。
「マナ」
暗闇に男の声がした。
体の中をえぐられるのにあわせて息が震える。
「マナ――」
手を伸ばし、自分を組み伏せた男の顔を探った。
髪。額、鼻筋。耳。頬、瞼。全部彼女が自由に触れていい場所だ。唇。
舌。
彼女の名前を呼ぶ器官。
メロダークの口の中に二本の指を差し込む。男の腰の動きが止まった。「舐めて」かすれた声で命じると、冷たい指に熱い舌が絡みつく。下では男に犯され、上では男を犯している。男が口のすべてを使って、従順に、執拗に、夢中で彼女の指を愛撫しはじめた。「歯を立てちゃ駄目」ゆっくりと指を前後させる。「もっとよ?」空いた方の手でメロダークの右手をつかんだ。怪我の跡がどこかはわからなかったが、手首や掌を優しく撫でると、メロダークがその手を握り返してくる。口からふやけた指を引き抜くと、メロダークが彼女の名前を呼んだ。
呼吸を整えながら、メロダークがマナの片方の膝を持ち上げた。のしかかられて、「あ」と声が漏れた。いつもなら声をこらえるのだが、今日はそうしなかった。快感をこらえることもせず、メロダークの腰を太腿で抱いた。
「気持ちいいのか」
直接的な物言いに、「うん」と頷く。
「うん。おかしくなるの」
「お前がおかしくなると……」
「嫌?」
「俺もおかしくなる」
マナは笑った。
「いっぱい、なって」
「後悔するぞ」
男がひどく憂鬱な声で言ったが、少女は気にしなかった。
水滴がぽつりと水面に落下するように、指がうなじに触れた。冷たい指先だった。
メロダークに背をむけてとろとろとまどろんでいたマナは、その冷たさで目が覚めた。頭を動かそうとしたら、「こちらを見るな」と耳のすぐ後ろで声がした。まだ半分眠っていたせいか、メロダークではなく別人の声のように聞こえた。全身の肌が粟立つ。
背後に横たわっているのが、情熱を交わした恋人ではなく、他の誰かであるような気がしたのだ。振り向こうとしたが、振り向けない。背後から伸びた掌が彼女の首をつかんだ。十本の指が首筋に食い込む。
忘我の快楽の最中、あるいは絶頂の一瞬、メロダークはマナを乱暴に扱うことがあって、だが男の熱狂がこのように有無をいわさぬ暴力の形で彼女に向かうことは、今まで一度もなかった。
いや、とマナは悲鳴をあげようとしたが、押し潰された喉からは息が漏れない。ひきつった唇の隙間から唾液が泡となってこぼれただけだ。
「私の」
耳元で掠れた声が囁いた。メロダークの声ではなかった。男かも女かもわからない声だが、聞き覚えがある。
それが誰の物でもない自分の声だと気づいた瞬間、マナの背筋は凍った。
「私の体だ」
その言葉は否応なしに、少女の記憶に眠るあの男の姿を呼び覚ました。もがくが体が動かない。泥の中のようだ。指がますます強く喉に食い込んでくる。心の中で叫ぶ。
――私の体は私の物です。
――誰の物でもない。
――この魂も。
唇はこわばり、喉は狭まって息すらできない。暗闇の中で、自分の腕と手が白く光っているのが目に飛び込んできた。そこが崖の縁でもあるかのように、寝台の端を強く握りしめている。落下する。小人の塔でロープから離れた手が、メロダークと共に転落したあの崖が、アーガデウムの崩落の瞬間が、今までに体験したいくつもの落下の恐怖が突如蘇り、暗闇に投げ出された自分の体がが今この瞬間、奈落へと落下しているように錯覚した。
「メロダークさん!」
あのときと同じように、その名前を絶叫した。
「昨夜、うなされていたな」
椅子に腰掛けて髪を結っていたマナは、きょとんとした顔をメロダークに向けた。
「そうですか? ひさしぶりに朝までぐっすり眠れたのですが」
「名前を呼んでいた」メロダークはなぜか少し言い淀んだ。「……俺の」
「じゃあ、夢でも見ていたのかも」
少女の指がくるくると器用に動いて、艶やかな白い髪を整えていく。最後にリボンを結び、毎朝の日課を終えた。櫛や鏡を片付けると、着替えたばかりの服が乱れるのも気にせず、まだ裸で横たわったままのメロダークの隣にぽんと寝そべる。
「夢に見るのか」
「しょっちゅう。お会いできない時は、特に」
「……遺跡では年の割に大人びていると思っていたが、そうでもないな」
「メロダークさんだって。もういいお歳なのに、全然子供じゃないですか。時々、私、自分の方がお姉さんな気がします」
メロダークが呆れるのではなく傷ついた顔になったので、マナは意地悪をやめることにした。口の横にキスをした。
「そういうところも、好きです」
メロダークの機嫌は直らなかった。
「そんなつもりはないのだろうが」
メロダークがまた言いかけて黙ったので、マナは指で男の顎をつつき、先を促した。固い髭がもう伸びていて、毎朝のことだから男の人は大変だなと思う。
「お前と……お前と一緒にいると、時々、俺がこれ以上近づくことを拒んでいるように思える」
男の顎を触っていたマナの指が止まった。
「違うか?」
すべてを許したつもりでいたマナは当然驚いて、だが即座に否定することはなぜか躊躇われた。しばらく考えてから、マナは答えた。
「拒んでいる、というのとは違うのですが。少し怖いのかもしれません」
「裏切りが?」
その返事があまりにも早かったため、あ、メロダークはそれを恐れているのだな、とマナは気づいた。それでマナは、故郷と神殿軍とを裏切り、裏切られ、信頼を何度も踏みにじっては踏みにじられることを経験してきた男をぎゅっと抱きしめ、紙の一枚も間に入らぬぐらい体を密着させた。
「そうじゃなくて、あなたが男の人だから」
考えてからメロダークがため息をついた。
「それは……俺にはわからんな。一応言っておくが」
「はい」
「お前の方が強いのだぞ。剣でも魔法でも」
「……そういうのは、あまり関係がないと思うのですが。怖いというのは体の力とか強さとかそういうのじゃなくて……ん……もっと、いろんなこと」
マナは男の胸元にぴったりと額を押し付けた。
ずっと二人でいたい。
例えば外界から隔絶された小さな島に、二人で暮らすことを夢想する。誰からも傷つけられず傷つけることもない二人だけの世界は、甘く幸福なことだろう。
その一方で、触れ合っても融け合うことなく、並んで立ち続けることを考える。多くの命を奪いこの町を傷つけたすべての原因が自分にあるとはもう思わないが、自分があの災禍の一因であったのは確かだ。ようやく平和を取り戻したこの町で、始祖帝の器であった自分が神殿軍の密偵であった男と共に、それでも幸福になることを考える。
――お前によって救われた。
メロダークはそう言ったが、本当は逆なのだ。ひばり亭や神殿の人の輪の中でメロダークがくつろぐ姿や、影のない彼の表情を目にするたび、マナは自分の心の傷が癒やされていくのをはっきりと感じていた。
男の帰依すら彼女を救っていた。メロダークにとっての光であるのは、困難なようで楽な道であった。メロダークの思う光とは、迷い、悩み、傷つく弱いマナではなかった。信じられていると思えばやすやすと、そのような自分を装えた。
信仰を捧げたメロダークがマナの物になったのではない。信仰を捧げられたマナがメロダークの物になったのだ。
――でも私は、私のままで、一緒にいるのがいいな。
あの日、メロダークの横顔を見上げてマナはそう思い、それで、二人はそのようになった。
男の心音を肌で感じていると、心も体も安らいでいく。抱き合ったままもう一度眠りにつきたいが、そろそろ朝の礼拝の時間だった。メロダークの背中に回した手に力をこめ、マナは小さな声で言った。
「こうしていると温かいですね」
メロダークが彼女の頬に頬を重ねた。伸びた髭に肌をこすられて、マナはくすくすと笑いだした。
「どうした」
「痛くて」
「ああ……すまん。なんだ、何がおかしいのだ」
「空想のようにはいかないな、と思いまして」
メロダークが怪訝そうな顔をしたが、マナはそれ以上語らず、自分から男の頬にキスをした。
*
朝には神殿にやってきて昼まで目録を作り、神殿の人々と一緒に食事を取り、午後にアダやマナに頼まれた雑事を片付けてから、夕方までまた書庫で仕事の続きをし、ひばり亭に帰っていく。
規則正しい生活が続くうちに、遺跡に篭もりきりだったせいで青白かったメロダークの顔色も、だいぶ元に戻ってきた。
目録作りが終わりに近づいたころ、テレージャが神殿にやってきた。メロダークの作った書類を鋭い目つきで睨むように点検していたが、やがて笑顔になった。
「いやあいい調子じゃないか。メロダーク君は几帳面だから助かるね」
テレージャが外した眼鏡のつるをぱちんと畳み、書写台の横に立つメロダークとマナを見上げた。二人が仲良く並んでいるのに、なんとなく満足したような顔になった。
「さて、年が明けたら私とヘロデン教授はナザリの黒鳥宮で大公閣下のお目にかからなきゃならない。留守の間、探索隊の方は誰かに任せる必要があるわけだが――メロダーク君、頼んでいいかい?」
メロダークが眉間に皺を寄せた。
「……ナザリかネスの人間に任せるべきだと思うがな」
「そうかい? 国籍なんてどうでもいいことじゃないか。それとも、君、護衛として我々と一緒にくるかい? ナザリのあとは西シーウァの大学に顔を出す予定だから、少し長い旅になっちまうけどね」
突然の提案にメロダークよりもマナの方が狼狽したが、マナはそれを顔には出さなかった。メロダークは隣に立つ少女の方をちらりとも見ぬまま、即答した。
「行くわけがなかろう。例えマナの命令でも、俺は一生、この娘のそばを離れん」
マナはメロダークを振り仰いだ。両目を丸くして平然とした男の横顔を凝視していたが、ゆっくりと首筋から顔までが赤く染まった。羊皮紙の束をそろえて、テレージャはますます機嫌のいい笑顔になった。
「なるほど、なるほど。いや良かった。それなら探索隊の代表はメロダーク君で決まりだね!」
「……それとこれとは別の話だろうが。お前の一存ではなく、せめて教授や他の隊員と相談してからだな」
「そうしたって同じことさ。一番長く遺跡に潜って、一番前で夜種と戦って、一番無駄口を叩かず、一番うまく書類を作れるんだ。君、隊の中じゃ君が一番信頼されてるんだぜ。諦めて責任を全うしたまえよ!」
*
十二月、冬至節を前に探索隊は一旦長期休暇に入った。
遺跡から解放され、強い地酒でしたたかに酔っ払った学僧や学者たちは、ホルムの町が大学街であるかのように徒党を組んで徘徊し、そこかしこで迷惑な暴れ方をしてみせた。しかし過去一年の間に夜種の襲来と大神殿・シーウァ連合軍の攻撃を退けたホルムの町にとってもやしどもなど敵ではなく、町人たちは狼藉を働く彼らを、レンガ・材木・片手鍋・雑貨屋の娘の拳などにより、たちまちのうちに撃退した。
目の周りにあざを作った酔っぱらいどもは大河のほとりのアークフィア神殿に運びこまれ、年若く物静かな大河の巫女の手当てを受けることになった。巫女は年に似合わぬ巧みな治癒術で彼らの怪我を治療したあと、説教と一杯の水を与えてくれた。それでもまだ酔いが抜けずにもうひと暴れしようとした若者は、巫女のそばに控えていた黒衣の大男につまみだされることになった。
投げ出された石畳の冷たさにようやく酔いの覚めた学僧は、眼鏡をかけ直した。自分を蹴りだした大男がやけに見覚えのある顔と声だったのだ。
「メロダーク隊長じゃないですか。なんでこんなところにいるんです? 今日は休みですよ、発掘物の資料作りですか?」
隊長と呼ばれた男は、いつもの不機嫌そうな顔で、いつも通りのてきぱきとした指示を与えた――。
「私も休みだ。いいから宿舎に帰って顔を洗え。水を飲め。そして寝ろ。この神殿には迷惑をかけるな」
*
ホルムは今年も平和のうちに、冬至節を迎えた。
end