エンド後/テレージャ マナ
女の子とキスするのは好きだ。
抱きしめたらきゃーきゃー言われてピシャリと顔を叩かれて、膝蹴りされたり眼鏡に指が引っかかってずれてしまって痛ててててと悲鳴をあげて、そうかと思えばおとなしげな少女が躊躇いなく舌を絡めてきてえええそりゃあすごいねまあご馳走様。柔らかな唇、息と唾、指先の微かな震え、肌の匂い。粘膜で触れれば相手を何か理解できたような気がする。錯覚。いいじゃないか、錯誤を積み重ねなきゃ理解には到達できないんだから。幾日も経ってからふとしたことでキスのことを思い出し、互いに照れくさく微笑を交わすあの瞬間。
キスにまつわる何もかもがすごく楽しい。
第一女の子とのキスは、全然怖くないのがいい。男の子とはこうはいかない。あれもあれでいいけれど、女の子とのキスはまた別の物だ。
難しいことは何もいらない。女の子はみんな、かわいいねって囁かれながら特別優しく触られるのが好きなのだ。安心したい、気持ちよくなりたい、素敵なキスをして欲しい、求めるものは単純明快だ、うん、自分も含めてね。
マナとは身長がほとんど同じで、手をつかんで数歩近づくだけでキスができるから大変具合がよろしい。
乾いた唇を押し付けるだけの無粋なキスを終えて体を離すと、マナが静かに瞼を持ち上げる。
白い息の向こうで、睫毛も唇も月光に青白く震えている。
ご機嫌に酔っ払ったテレージャは、マナくんはかわいいなーといつも通りにのんきに気軽く言おうとしてやめた。冗談だと思われたら、癪だ。代わりにくすくす笑って、その声は真夜中の夜空にきえていく。
二人は広場にそびえ立つ石柱の側で足を止める。月は行儀よく雲の端に引っかかっている。
風に乗って通りの向こうから、かすかに喧騒が届いてくる。ひばり亭では今年もまた、冬至節を祝う宴会の大騒ぎが一晩中続いている。でも広場にはテレージャとマナの二人きりで、それはそうだ、ホルムがいくら平和な田舎町、冬至節の前夜といえども、こんな夜更けに外を出歩く不良巫女は自分たちくらいだ。
いや違うか。不良巫女が一人。清らかな大河の巫女が一人。
マナはいつだって真面目で優等生、誰に恥じることもない美しく気高い巫女様だ。怪異が落ち着き正義の英雄を廃業した今、聖女と呼ばれ、毎日を慎ましやかに過ごしている。この大げさなあだ名を、意外なことにマナは案外気に入っていて、「子供っぽいとは思うのだけれど、正直、聖女様って呼ばれるたびに嬉しくてぽーっとするわ」とある日いつも通りの冷静な表情でのたまったものだ。おいおいシーフォンじゃあるまいし、シーフォンはしょっちゅう魔王! という呼び名に興奮していたけれどまさかこんなところに彼の同志がいるとはねえと、軽い衝撃から立ち直ったあと、でもそれを喜んでるようじゃほんとの聖女にはほど遠いねとテレージャがからかえば、マナはそれこそ子供っぽくぷっとふくれてみせた。物静かに見えて、存外色んな表情を持っている娘なのだ。
吸い込む空気も頬をなぶる風も、月光に照らされた何もかもが、冴え冴えとした清潔な輝きを帯びている。マナの緩く波打つ金髪を掌で撫でてやりながら、困った聖女様だよ、とぼんやりと思う。
いかにも無口っぽい雰囲気が今夜は度を越している。千年も昔の神像みたいに静かな厳しい表情でテレージャをじっと見据えていて、怒っているのかなと不安になるくらいだ。もちろん怒っているわけではない。そんなキスくらいで。長いつきあいだ、顔を見ればそれくらいわかる。
――いやでも待てよ、実はそんなに長くはないのかな。春、夏、幻の都で過ごした寒い秋、冬、そして春。舞い散る花びらの下、揺れる髪をおさえ振りかえり満面の笑みを浮かべ、テレージャ、私もうあなたと背が並んだのよ、気づいてる? マナがそう言ったのは二度目、それとも三度目の春? この娘と会ってからどのくらいが経ったのか、自分がホルムの学者先生だの遺跡の教授だのと呼ばれるようになって幾月が過ぎたのか(聖女とはなんたる違いだろう。でも自分は姫様と呼ばれるのよりもこっちの方が好きだ)、まるで計算ができない。
まあいいや。数えるのなんてやめ、やめ。せっかくの冬至節の夜なんだから――。
考えるのをやめたテレージャは、冬至節の酔っ払いに相応しい、明るくはしゃいだ声をあげる。
「んふふー、キスしてやった」
マナはようやく瞬きをする。
「ええ、したわね」
そう言ってため息をついた。
不意打ちのキスの後にしてはまったく面白くない反応で、テレージャをむっとさせるには十分だった。マナの前髪に指を絡め、くいと引っ張ってやる。
「なんだよ可愛くないなあ。まえはきゃーきゃー言ってたのに」
「それやめてテレージャ。引っ張らないで。キスで? あなたにキスされて騒いだことないけれど」
「うーっそだぁ、騒いでた、騒いでた。最初の頃はねえ、キスするたびに『ああびっくりした!』って言ってました」
「そんなの言ったことないな」
「口ではね。目です。目で言ってました」
そういえばいつからちゃんと目を閉じるようになったのかな。前はずっと両目を見開いていてそれもなんだか面白くて、すごく居心地悪くてどきどきしたのに。そう思うテレージャの前で、マナがそっと目を伏せた。長い睫毛の影が落ちたせいか、瞳にさっきより冷ややかさが増したようで、心臓が嫌な感じにどきりとする。
なんだよそんな顔するなよ。やめろよ。私のこと嫌がらないで。だからテレージャは、ますます酔っ払いらしい崩れた笑い声をあげ、目の前の娘にぎゅっと抱きつく。寄りかかり全部の体重を預ければ、ちゃんと両手で抱きとめてくれたので安心する。よかった怒ってない。よろめいたマナの背がオベリスクにぶつかる。二人とも分厚い外套を羽織っているから、子熊が身を寄せ合っているようなものだ。くっついていれば温かい。
「テレージャ」
マナが言った。酒で熱くなった耳元に声が心地いい。名前を呼ばれるのは好きだ。マナに呼ばれるのは特に。
私は女の子が好きなんだよな、改めてそう思う。強くそう考える。いや、そもそも女の子が嫌いな人間なんているのかね? しかもその子がこんないい子なら。
「テレージャ――そろそろ戻った方がいいんじゃない。自分で歩けるうちに」
「マナくん、理屈が合わないな。我々は酔いざましに散歩に出たんだぜ。酔ったまま戻っちゃ意味がない」
「帰ろう」
「嫌だね、断る」
いつもは我儘を言えば宥めるように背を撫でたりとんとんと叩いてくれるのに、マナの両手が背から離れ、するりと脇に垂れた。それ以上は動かない。テレージャに抱きしめられたまま動かずにいる。
なんだよ意地悪。
火照った頬を寄せればマナの頬も案外熱い。人目があろうとなかろうと、抱擁をすれば即座に「やめてテレージャ」と叱咤され、その怒りが本気じゃないのが嬉しくてついつい繰り返し抱きしめてしまう。なのに今夜のマナは無言で、苛立ちの気配すら見せず、口を閉ざしたままでいる。
今日のマナはちょっとおかしい。
いつもより綺麗でいつもより冷たい。
両腕に力を込めながら、抱き返してくれないがないのが怖くてたまらない。ホルムに到着したあの春の日を思い出している。自分は自由だ、行く手を阻む物は何一つない、あるならば打ち倒すだけだという無鉄砲なまでの決意と勇気は、この小さな田舎町の季節が過ぎゆくたびに段々と影を潜めすり減って、その代わりに得たのは数年先まで遺跡を調査していくための慎重さと、発掘の責任者としての分別と、神殿を訪ねれば笑みを浮かべた娘がいつもそこにいるという穏やかな喜びと引き換えのこの臆病さだ。
マナの肩に顎をのせ、両腕の中のほっそりした体をふざけたように左右に軽く揺さぶりながら、
「キスされるの嫌かい?」
ときいた。
「なんでそんなこときくの」
「んー。今まできいたことなかったし。嫌ならやめようと思った。今。突然」
ひと息置いてマナが言った。低い冷たい声だった。
「なら、嫌よ。こういう風に酔うたびにキスをされるの、すごく嫌」
ざっくりと傷ついた。
そのままだと一生開っぱなしのぐじゅぐじゅした傷になると直感したから、「マナくん」名前を呼び、彼女の表情を確認すらせず強引に顎を捕らえ唇を押し付ける。
マナの体が微妙にこわばっているのに気づいて泣きそうになる。柔らかく開いた唇に混乱する。
嫌だったのか。ふうん。まあそりゃそうだな。聖女。だものね。真面目だもの。メロダークくんは振られたのかな。彼がホルムを去っていく時、挨拶はしたけれどそういう話はしなかった。あの時は彼らは彼らで私は私さ、親しい人間のそんな事情に首をつっこむことはないなんて高潔さを気取っていたけれど、なんのことはない単にきくのが怖かったのだ。どこか晴れ晴れとした表情をした彼の、行く先も分からぬ旅路の無事を祈ったその時すら、私の考えていたことときたら、ああキューグよ、唇ではあなたの名を唱えながらこの胸の底にはひとかけらの理性も公平さもない、ただ理不尽な嫉妬だけだ、メロダークくん、その手で、きみは、彼女を、抱いた、のかね? 気持ちいいだけじゃないキスをした? 満足した? 満足させた? 思い出すだけで今も悔しさと恐怖に胸が震える。
掌をマナの細い首に這わせ、髪の生え際に指を差し込み、顔の向きをわずかに変えさせる。深い口づけも拒絶されない。
そうだ、何も考えなくていい。女同士じゃないか。女の子とのキスは好きだ。ただそれだけだ、意味なんかあるはずがない、自分に何度もそう言い聞かせ、何かを考えたり感じる資格すらない。酔ってるせいで心も体も抑制がきかないんだ。出会ってから何度も何度も、酔っ払うたびにこうやって、いや酔っていなくてもキスしたくなるたびに酔ったふりをして、繰り返し、繰り返し。
「キス魔」
耳元でマナが囁いた。
「いいじゃないか。女の子にキスするの好きなんだ」
何度も言った台詞をまた口にして、両腕を解いて側を離れた。オベリスクにもたれたまま呼吸を整えているマナに、真面目な顔を向ける。でも口調は明るく軽やかに、そのつもりだったけれどなんだか泣きそうな声になった。
「ごめん。もうやめる。そんなに酔ってないんだ、実は。だから言われたことはちゃんと明日も覚えてる。明日からもうこういうことはしない」
口を閉ざせばやけに寒々しい沈黙が落ちた。咳払いして「ほんとさ」とつけ足す。これは明るい口調で言えた。切り替えは早い方だ。自分でも嫌になるくらい。だからこの言葉は本当だ。本当に明日からはキスもしないし抱きつきもしないしもう平気、うん、細かいことなんか気にしやしないさ、気持ちよければそれでいいんだ。楽しくないことを無理にする必要なんてない、ただそれだけの話だ。
片手の指先で唇を拭い、巫女長様が、とマナが言った。「いいえアダ様が」とすぐに言いなおす。
「この前、おっしゃったわ。もしも私に好きな人がいて、その方が望むなら、神殿をいつ出てもいいんだって。ただ時々は赤ん坊を連れて顔を見せに戻って来ておくれって。私を拾った時から、女の子は成長すればいつか妻になり神殿を離れていくものだと――私もずっとそう――テレージャ?」
「うん」
「私、聖女って呼ばれるの、すごく好きだわ。そう呼ばれるたび心の底からほっとする。私の出自がなんであれ、今の私は誰が見ても清くて正しくて、巫女としては間違っていないんだって。誰からも責められなくて――みんなに尊敬されて――そういう風になりたいと子供の頃からずっと思っていたから」
「馬鹿らしいよ。きみはきみさ」
思わずそう答えると、月光を集めたような青ざめた顔に、マナが硬い微笑を浮かべた。
「ありがとう。でもいいの。もう間違ってるって言われていい。色んな人に色んなこと言われても、大事な人たちが傷ついてもいいわ」
そう言って両手を伸ばし、テレージャの外套の襟をつかむと乱暴に引き寄せて、目を閉じる暇も与えずキスをした。
冷たい、乾いた、恐怖に震える唇で、膨れ上がる不安の苦い味がする、気持ちよさどころか一片の楽しさすらない、間近に見開いた両目にはただ荒れ狂う嵐のような激しい愛情だけが宿っていて、キスを終え、マナが体を離した。一歩後ずさるとテレージャの目を真っ直ぐに見つめ、震える声で告げた。
「明日また。また明日に。明日からは言い訳なんかせずに、たくさんキスしてね」
身を翻し、ホルムの広場を神殿へ向かって駆け出して行った。
一人残されたテレージャはしばらくそこに立ちすくんでいたが、やがてさっきまでマナが寄りかかっていたオベリスクにもたれかかった。ひんやりとした滑らかな石柱に頬を寄せた。耳朶が熱い。心臓がひどく速く脈打っていた。濡れたような月の光を受け、広場の石畳にはオベリスクの影が、長く黒々と斜めに伸びている。まるであちらとこちらを分ける一筋の河の流れのようだった。
――今、二人で跳んだ。
そう思い、テレージャはそっと目を閉じた。
end