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寝室の窓はもう閉ざされている 1

アーガデウム後/チュナ アイリ ユリア

 色んなことがあったけど、わたしたちはもう幸せだ。
 
 夕べは窓を閉めずに眠ってしまった。
 だから今朝は、林檎の木にとまった小鳥たちのさえずりと、風におされて窓扉がきしむ音、そして朝の柔らかな光で目を覚ました。
 両目を閉じて枕を抱きしめたまま、こういう朝もいいな、と思う。
 アイリ姉さんに優しく起こしてもらうのも好きだけど、自分で起きるとずっと気持ちがいいな。あまりにも気持ちがいいから目を覚ましたくないくらい。
 寝台の上で寝がえりをうち、まどろみを楽しんでいると、パンとバターの香ばしい匂いが階下から上がってくる。お腹が鳴った。うーん。そろそろ起きようかなあ。まだ寝ていようかなあ。
 階段をばたばたと、足音が駆けあがってきた。パリス兄さんだと思ったら、部屋の扉が乱暴に開いた。
「朝だぞチュナ! さっさと起きねぇと俺たち行っちまうぞ」
「うー、もうちょっと」
「朝飯食わねぇと片付かないだろ。ほれ、起きろ。よいしょっとぉ!」
 デリカシーのかけらもない掛け声とともに毛布をひっぺがされ、わたしはしぶしぶ起き上がった。手早く毛布をたたむパリス兄さんはいつもと違うよそゆきの上着を着ている。階段を下りながら先を行く兄さんの背中に「どうしたの? その格好」ときいたら、「今日からナザリだって言ったろうが」って返事がかえってきた。
 そうだっけ? 
 そうだったかな。
 パリス兄さんはしょっちゅう商売のことで家を空けるのだ。うるさいし心配性だし、別にいなくてもいいんだけどさ。全然いいんだけど、でも、ナザリに行けば二日は帰って来ないから、寂しいなって思った。
 食堂ではアイリ姉さんが朝ご飯の準備中だった。食卓には新しいテーブルクロスがかかっていて、曇りなく磨かれた銀の食器が並んでいた。東向きの窓から入ってくる朝日を反射して、まっ白い食堂の壁が、四角くきらきら輝いている。アイリ姉さんに「おはよう」って挨拶して椅子に座る。食卓にはご馳走が並んでいて、アイリ姉さんが鍋から豆のスープを注ぎ、わたしに手渡してくれた。わーい、これ大好き!
「おはよう、チュナ。いい加減一人で起きれるようにしないと駄目だよ」
 わたしの向かいの席に腰かけながら、アイリ姉さんがお小言を言った。
「今日はちゃんと起きてたんだよ」
「嘘つけ、寝てたくせに」
「本当だもん!」
「兄さん、早くご飯。船の時間に間に合わないよ――荷物はもう先に載ってるんだからね、荷物だけじゃ商談できないよ!」
「わかってるって」
 パリス兄さんは急いで朝食を終えると、ナプキンで口を拭って食堂を飛び出したと思ったら戻ってきた。
「じゃあ、行ってくる。アイリ、今日ひばり亭によってオハラさんによろしく言っといてくれ――チュナ、姉さんのいうこときいて大人しくしてるんだぞ。お土産買ってきてやるからな」
 返事を待たずに兄さんが大慌てでまた出ていく。玄関の扉が大きな音を立てて閉まるのを耳にして、わたしとアイリ姉さんは顔を見合わせて苦笑する。
「ほんと兄さんはいくつになってもおっちょこちょいで……過保護なんだから」
 アイリ姉さんが楽しそうに言って、手をのばし、わたしの顎に触った。
「スープがついてる」
 柔らかい親指の腹で、優しく顎を擦ってくれる。
 過保護なのはアイリ姉さんも同じだよ。こうやって甘やかしてもらうと、くすぐったくて恥ずかしくてでもすごく嬉しい。わたしから手を離したアイリ姉さんが視線をわたしの隣に動かして、笑顔のまま言った。
「ユリアさん、おかわりはどう?」
「そうしてもらうかの。妾は豆は嫌いだが、このスープはなかなかじゃ」
 女の人のけだるい声がした。
 わたしは頭を回し、声がした方を見た。
 わたしの隣には、長い髪に被り物をした綺麗な女の人が、頬杖をつき背をゆがめ足を組み、だらしなく椅子に腰かけていた。
 ――え?
 混乱する。
 深く深く混乱した。
 朝からお客様が来るとか夕べ誰かが泊まった話なんて、きいていない、誰も言っていない。いや、それどころか、ついさっきまで食堂には確かにわたしとアイリ姉さんしかいなかったはずだ。
 わたしの隣は空席だった。
 なのに今この瞬間、見たことのない女の人がいる。アイリ姉さんはわたしやパリス兄さんに対するのと同じ淀みのない手つきでスープ皿を彼女に渡した。
 え? え?
 どうなってるの? わたしが寝ぼけてるの?
 女の人はひらりとスープを飲み、思い切りとまどっているわたしを見つめた。――赤い目、白い肌――顔立ち自体もアイリ姉さんとよく似ている。でもアイリ姉さんよりずっと大人っぽくて上品で、アイリ姉さんよりもほんのちょっとだけ綺麗な人だった。
「人間というのはなかなかに我儘なものじゃな」
「……あのう、あなたは……?」
 席に座りなおしたアイリ姉さんが、少し困ったような笑い声をあげた。
「チュナ? ユリアさんだよ? あんたどうしたの?」
「よいよい。しょせん石人。夢見るが性よ」
 ユリアさんと呼ばれた女の人は、薄い微笑を浮かべた。
 わたしは椅子を蹴り、勢いよく立ちあがった。倒れた椅子が磨かれた床にぶつかって音を立てる。後ずさった――怖い。この女の人は誰? なんでアイリ姉さんは何も言わないの? わたしの家に勝手に入りこんできたこの人は誰?
 兄さんと姉さんがわたしに仕掛けたいたずらかもしれないと思いつく。
 でもそれじゃあなぜわたしはこの女の人がこんなにも怖いのだろう?
 この人はどうしてこんなすべてを見通すような目をしているのだろう。
「アイリ姉さ……」
 恐怖のせいで喉がつまる。助けを求めて姉さんの方を見ると、姉さんはまるでわたしの姿が見えないかのように、パンをちぎって口に運んでいた。テーブルからスプーンを取り上げると一筋垂れた前髪をかきあげて耳にかけ、スープを口に運ぶ。わたしはアイリ姉さんからそろそろと視線をそらし、そこにまた新しい恐怖を発見する。アイリ姉さんの背後の白い壁、パリス兄さんが絵でも飾るかなあって言ったら姉さんが暖炉の側だから煤がつくよって反対したまっ白いなにもない空間に、血みたいに赤い文字が走り書きされていた。あの壁にもさっきまで何もなかった、それは絶対だ、だって食堂に入ったらすぐに目につく場所だもの、それなのにスープを飲むアイリ姉さんの後ろには大きな字で――
 
 思い出せ
 
 
 
 
 アイリ姉さんがスプーンを置き、顔をあげてわたしを見た。
「チュナは今日どうする?」
 わたしはスープ皿の底にこびりついた豆をパンの皮ですくいとる。姉さんのスープはおいしい。茶色く固いパンの皮は水気を吸ってわたしの指先で柔らかく潰れた。
「姉さんはどうするの?」
「オハラさんのところに行って、挨拶して注文をもらってからお店に顔を出して……今日は夕方まで店番かな」
「じゃあ今日は姉さんと一緒にいる」
「よし、じゃあそうするか!」
 アイリ姉さんは笑顔で立ちあがった。わたしは姉さんが身支度をしているあいだに厨房でお皿の片づけをした。使われた形跡のあるスープ皿が四枚あって、おかしいなあと首をかしげる。うちの家には三人しかいないのに。アイリ姉さんが味見でもしたのかな?
 でもこんなにスープを縁の上までいれる味見なんかあるかなあと考えているうちに頭の中がぼんやりと白く霞んできてわたしは考えるのをやめた。
 何も悩む必要なんかないのを思い出したのだ。
 この場所には心配なんて存在しないのだ。

 また窓を開けて眠ったみたいだ。
 今朝もまた、ちゃんと一人で目が覚めた。
 もっとも、昨日とは違って快適な目覚めとは言い難かった。窓の外には大風が吹き荒れていて、小鳥の声は聞こえないし、突風に煽られた窓はギギギギバタン! ととんでもない音をたてていた。ずっと前からこの窓はこの調子で、パリス兄さんに蝶番に油をさしてもらう約束をしているのだけれど、パリス兄さんはどうも忘れっぽい。
 もっとも仕事が忙しいから仕方ないのだけれど。
 アイリ姉さんと二人で朝食をとったあと、今日はアイリ姉さんが髪を結ってくれた。姉さんの指は素早くて正確で、仕上がりはまるで髪結いさんに頼んだみたい。終わってからぎゅーって抱きついて、「ありがとう姉さん!」って言った。アイリ姉さんは笑いながらわたしの背中を優しく叩いて、「どういたしまして」って答えた。姉さんは美人で器用でほんとに素敵。ちょっとがさつなところはあるけど……でもこの髪形はアイリ姉さんとお揃いで、わたしはいつも姉さんの妹でよかったなあと思うのだ。
 アイリ姉さんと手をつないで家を出たときには、もう風の勢いはおさまりかけていた。
 小さな風がいたずらにわたしの髪を揺らし、わたしは顔にかかる前髪をおさえる。今日は姉さんに結ってもらってよかったな。
 大通りの角の家の前に人だかりができていた。槍を持った兵隊さんも何人かいて、わたしは怖くなってアイリ姉さんの手を握ったのに、アイリ姉さんは「ちょっと見ていこう、なにかあったみたい!」って言った。もう!
 近づいたら、すぐに何かがあったことはわかった――それが悪いことなのも。赤いレンガ造りのお屋敷の扉は大きく開いていて、べっとりとした生臭い匂いが外まで漂っていた。入り口の前には衛兵さんが立っていて、遠巻きな人の輪ができていた。
「物取りだってよ」「盗賊が」「皆殺し」「大風のせいで悲鳴が」「こんな田舎でねえ」「血まみれで」
 皆が囁き合っていて、断片的な言葉の端々がパズルのピースのようにぴしりぴしりとわたしの悪い予感を埋めていく。わたしは痺れたようになってアイリ姉さんの手を固く握りしめていたけれど、やがて姉さんの手を引いた。
「姉さん、もう行こう、怖いよ」
「待って、もうちょっと見ていこう。殺されたのが知っている人なら大変だ。何が起こってるのか、最後まで見届けないと」
「アイリらしい物言いじゃの」
 後ろからこの場にはふさわしくない、くすぐるような笑い声がきこえて、わたしとアイリ姉さんは振りかえる。人の輪から外れたところに、小柄な、髪の長い女の人が立っていた。
 女の人の赤い目がわたしを見つめている。
 …………。
 なーんだ。ユリアさんか。
 小さい子みたいに手をつないでいるのが恥ずかしくなって、わたしは慌てて姉さんから手を離す。ユリアさんは微笑を浮かべたまま近づいてきて、わたしの隣に立った。
「おはようございます――亡くなられたのはどなたです?」
 わたしの頭ごしにアイリ姉さんがそう尋ねる。
「さてな。それは妾が決めることではない。そこな石人ならわかるじゃろ」
 ユリアさんはわたしを顎でさす。相変わらず変なしゃべり方だ。石人ってなんなの、もう。いっつもわけがわからないんだから。姉さんが不思議そうな顔でわたしを見た。
「あんた、誰か知ってるの?」
「ううん……知らない」
 わたしは首を横に振る。だって……そんなの……知るわけがないじゃない。お屋敷から人の足音がきこえて、人々のざわめきが大きくなった。中から重そうな担架を二人で下げ持った衛兵さんたちが出てくる。担架の上にはもちろん誰かがのっていた。
 血の匂いがした。
 衛兵さんたちの行く手の人垣が自然に割れる。気がついたらわたしたちは人の壁の一番前にいて、衛兵さんたちと担架が目の前を通るのを眺めていた。担架の上にいるのは頭の禿げた男の人で、首から下には布がかけてあったけれど、大きく膨らんだお腹のあたりが真っ赤に染まっていて、もう死んでいるのは確実だった。口がぽかんと開いていて、小さな眼鏡をかけているのが変な感じだった。だってもう目は二度と開かないのに。わたしはアイリ姉さんの手にすがりつきぎゅっと目を閉じた。ユリアさんがわたしの隣にしゃがみこむ気配があった。
「なるほどなあ。しかしそなたはなぜあの男が憎いのじゃ?」
 面白がっているような声が耳に届く。からかわれているのを感じ、わたしは両目をかたく閉じたまま、怒った声で答える。
「だってあいつ、パリス兄さんたちに危ないことさせるんだもん! そのくせ兄さんも姉さんもすっごくバカにしてるし!」
「ほう、なるほど、兄や姉を侮辱されたか。それならいたしかたあるまい。屈辱はこの世で一番性質の悪い毒よ。死をもって雪ぐしかあるまいて」
「バカにされたら怒ればいいのに! いっつもへこへこして、ひどいこと言われても黙ってるんだもん、あのバカ兄貴!」
「ほうほう――なるほど、なるほど――まったく、そなたは妾の想像以上に」くすりとユリアさんが笑った。「――つまらん娘じゃのう」
 はっとして目をあげた。
 ユリアさんはもういなかった。人の輪はいつの間にか通りに散らばって消えていた。屋敷の扉を衛兵たちが締めている。アイリ姉さんが心配そうにわたしの顔を覗きこんだ。
「大丈夫、チュナ?」
 握りしめた手が汗でべたついている。わたしは手を離して自分の服の裾で拭いた。気持ちが悪かった。なんでだろう。窓を開けて寝ていたせいかな。
「悪かったね。まさか人が死んでるなんて思わなかったから……あんただけ先に行かせればよかった」
「ううん……いいよ」
「それにしても怖いねえ。盗賊だってさ」
「……」
「この町も治安が悪くなったもんだ。パリス兄さんが帰ってくるまで、戸締りには気をつけなきゃね。チュナもちゃんと窓を閉めて寝なさいよ? あんた昨日も今日も寝室の窓を開けたままで寝たでしょう?」
 わたしが黙っていると、アイリ姉さんはぴょこんと頭を下げて、お辞儀の格好でわたしを覗きこんだ。口元は笑ってるけど、目つきはすごく心配そう。
「ねっ、チュナ、今日はお店は午後から開けよう。ネルんとこに行って、チュナの新しい服を買わない? その服もだいぶ小さくなっちゃったものね。そうだ、お姫様みたいなドレスはどう? チュナの髪にあうような赤いビーズと金色の糸で刺繍した、さ」
「……いいよ、もったいないから」
「お金のことは気にしない! パリス兄さんもわたしも、チュナに不自由させないために働いてるんだからね。さもなきゃ死んだレナ母さんに怒られちゃうよ!」
「いいよそんなの! わたしは兄さんと姉さんが元気で、毎日無事に帰って来るならそれでいいの!」
 わたしが怒鳴るとアイリ姉さんはちょっと驚いた顔をしたけれど、すぐにわたしをぎゅっと抱きしめてくれた。
「チュナは本当にいい子だね。でもいいんだよ、わたしたちはこれが本当に」


(幸せだよと窓辺に腰かけた姉さんが言って片手をひるがえすと閃光が走り、向かいの壁に細いナイフが突き刺さっていた。てらてらと光る油虫がナイフに縫いとめられひくひくと痙攣している。パリス兄さんはまだ帰っていない。昨夜は腫れあがった頬と腕をおさえて帰ってきて痣だらけの体をアイリ姉さんに手当てしてもらいならがらいてぇいてぇと呻いていたのに今日もまた『仕事』に行ってしまった。心配でわたしは死にそうなのにアイリ姉さんまでが同じ『仕事』に行くと言いだして何が幸せなの姉さんのバカ! と思わず口走ったらアイリ姉さんが目を細めて微笑した。通りをすれ違う男の人たちが振り向いて口笛を吹く微笑だ、でもアイリ姉さんが口笛を吹かれるたびにわたしは泣きたくなる。「兄さんはバカだけど逃げ足は速いから大丈夫だよ。来なよチュナ、出かける前にぎゅっとしたげる。パリス兄さんがいてあんたがいて好きなことをしてるから、今のままでわたしほんとに幸せなんだよ。心配させてるのはわかってる、でもわたしがじっとしてられないタチなの知ってるでしょ。帰ってくるよ。必ずいつもあんたのところに帰ってくる。だからそんな顔せずに)

 うるさいくらいの小鳥の声で目が覚めた。
 頭が痛い。
 体が半分寝台から突きだしていたけれど、わざとそのまま寝がえりをうって、寝台からずり落ち、床の上に倒れこんだ。
 目を開けると、開いた窓が揺れていた。
 わたしは起き上がり、重い体をひきずって窓辺に近づくと、窓扉を閉めた。おかしいな。昨日はアイリ姉さんに注意されたから、ちゃんと戸締りして寝たはずなのに。アイリ姉さんが朝来て窓を開けたんだろうか……いや、そんなはずない。そんなことしても意味がないもの。
 なんだか嫌な夢を見ていたと思うのだけれど思い出せない。今日は一日休もうかな、と思う。
 階段を上がってくる足音がした。

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