部屋の扉を開け、ユリアさんが入ってきた。
頭の芯にまだ夢の痺れが残っている。ホルムでは見たことがない服、被り物、髪形、香り――この人は一体誰だろう?
なぜわたしもアイリ姉さんも、この人を知り合いだと思っていたのだろう。
「こっちに来ないで」
わたしが言った。
ユリアさんは唇を微かにゆがめた。
アイリ姉さんはまだ自分の部屋で眠っているのだろう。わたしが大声をだせばすぐにでも駆けつけてくれるはずだ。でも――ただ――たとえわたしが助けを求めたとして、怯えた声をあげたとしても、ユリアさんの『おかしさ』が、アイリ姉さんに伝わるようには思えなかった。
ユリアさんが一歩前に出て、わたしは一歩後ずさる。背中が閉じた窓にぶつかり騒々しい音を立てる。ユリアさんの長い衣の裾が大きく割れて、日に当たったことがないような白い足が覗いた。まるでアイリ姉さんみたいに白いと思い、そのとたん、背中に虫が這いまわるような嫌悪感をおぼえる。アイリ姉さんに似た人なんか知らない。いらない。姉さんは姉さんだ。世界で一人だけのわたしの大事な姉さんだ。
勇気を振り絞ってきいた。
「あなたは誰なんですか?」
「そう怯えるな……妾はただの巫女よ、なんの力も持たぬ」
ユリアさんは足を止めない。ゆっくりと近づいてくる。わたしはユリアさんから目をそらさず、壁に背をつけたまま横へ移動する。
「アイリには退屈を紛らわしてもろうてな。それにちとした期待もある……虚しく終わるかもしれんが、ま、この無限の中では失望も一興よ」
「何を言ってるのかわかりません」
この人はもしかして魔女なのだろうかと思った。まさかアイリ姉さんが……何かの……何かを……「やめろやめろ。ほんにつまらん娘じゃ」ユリアさんがひらひらと手をふった。笑い声をあげる。窓に手をかけるとふりむいた。部屋の隅まで来ていたわたしは、びくりと体をこわばらせる。
「失われし王女よ」
「わたし、そんなんじゃないです。石人とか! 王女とか! わたしはチュナです! ただのチュナです!」
「ほう、ただのチュナか。しかしそなたをただのチュナでいさせるために、周りは随分苦労しておるようじゃな。妾から見てもおおごとじゃ」
「た……大変なことなんか……」
「この場所では、アイリもそなたの兄も随分つまらんのう」
心臓が鞭で打たれた家畜のようにびくりと跳ねた。何を言ってるんだろうと思う。二人は立派な兄さんと姉さんだ。お酒も飲まないし喧嘩もしないし毎日仕事が終わればすぐに帰ってきてわたしの話をきいてわたしをかわいがってくれる。二人はわたしの誇りだ。二人のことをバカにされて腹が立つ……侮辱には死で報いろと言ったのはユリアさんだ……腹を立てなければ……でも心臓がどきどき言っていて、怒りではなく恐怖のために目がくらむ。なぜわたしはこんなに不安なんだろう。なににこんなに怯えているんだろう。心配なんかいらないこの場所で。
この場所……。
(心配なんかいらない)
わたしは誰にそう言われたのだろう?
「あなたは誰ですか?」
ユリアさんは窓に手をかけたままわたしを見下ろしている。窓の隙間から洩れる日の光がユリアさんの髪に睫毛に目に踊っている。そのきらきら輝く光をわたしはどこかで見たことがあると思う。
「……あなたは……」
自然にこぼれかけた言葉と一緒に唾を飲みこんだ。
それをきいちゃ駄目だと本能が告げている。もっとずっと子供だったころ、帰りを待ちながら(誰の?)路地裏でいつも近所の子供たちと遊んでいた……白墨で石畳に丸く線を引き、皆で環になって押し合って、白い線を踏みこせば負けだ。わたしは自分の足が白墨の線にかかっているのに気づく。ごっこ遊びとは違う、この先に行ってはいけない。でもわたしはアイリ姉さんを呼ぶかわりに、とうとうそれを口にしてしまう。
「ここはどこなんですか?」
ユリアさんが笑った――これまでの馬鹿にしたような笑みとは違う、満足げな微笑だった。
「よう問うたな。ここはお主の夢の中よ」
おかしいな。
アイリ姉さんはお料理が大の苦手だったはずだ。黒こげのパンを平気な顔でかじってる。わたしがご飯の用意をしてると覗きこんで魔法だねえこりゃなんて言う。靴のまま寝台にあがっちゃ駄目って怒るたびに、不思議そうにしてた。
お家賃を払いに行ったはずなのにパリス兄さんが大家のお婆さんに謝ってる。もうちょっと待ってくださいだって。いやあ二カ月分に増やしてやろうと思って途中確かに一年分まで増えたんだが、サイコロってのはどこに転がるかわかんねぇもんだなあってもうほんっとバカ兄貴! アイリ姉さんもなに笑ってるの!
窓を開けば焼ける肉とお酒と腐った下水の匂いがまじりあって立ちのぼってくる。見おろせば路地には屋台のテントが色とりどりに連なりあっている。
じゃあここは一体どこなんだろう?
「――気づけた褒美に、ほんの少々、夢の外を見せてやろう」
ユリアさんが窓を引き開けた。
風が吹いた。
湿った黴の匂いが部屋の中に吹き込んでくる。
濡れた床にはアイリ姉さんが横たわっていた。
多分そうだと思う。
でもあれはアイリ姉さんじゃないとも思う。
だってアイリ姉さんはあんなに苦しそうな表情をしない。あんな変な汚い鎧みたいな服は持っていない。あんな風に汚れた顔であんな場所に倒れているわけがないし、第一わたしの部屋はパリス兄さんが家を建てるときにチュナの部屋の窓からは林檎の木が見えるといいな秋になれば食べ放題だぜ盛り上がるなあと言って裏庭に面した南に部屋を作ってくれた、窓の外には小鳥たちが集まる林檎の木の枝とそのむこうにお隣さんの屋根が見えているはずだ、なのに窓の外には暗い石造りの通路が広がっている。天井は見上げるほど高く、幅は馬車が通れるほどに広い。廊下の壁には淡い白い不思議な光が等間隔に灯り、彼方まで続いて暗闇の中に消えていた。アイリ姉さんはその薄闇の底、石畳の床に横たわっている。両手はぐったりと投げ出され、でもその右手に変な形の楽器が握られている――あれはなんだろうと思ってじっと見つめるうちにそれが楽器ではなく細い支えがついた弓で、支えには矢がすでにつがえられていて姉さんの指は引き金に掛けられていると気づいた。そこでようやく姉さんの頬や服の汚れも、姉さんの背の下に広がる黒い染みも、すべてが血なのだと気づく。
「アイリ姉さん!」
わたしは叫んで窓に駆け寄った。危ないことはしちゃ駄目だって言ったのに、あんなに何度も言ったのに、なんでそんなところで武器なんか持って倒れてるの!? 窓に辿り着く前にわたしはユリアさんに抱きとめられた。
「離して!」
もがくわたしをユリアさんがけだるい声で押しとどめる。
「黙って見ておれ。どうせ手出しはできん。しょせんは夢の中じゃ」
でも廊下の向こうから黒い影が近づいてくる。
最初は熊だと思い、次に牛だと思った。最後にそれが、巨大な斧を抱えた体は人間で首から上は牛の化け物だとわかる。そんなお化けなんているはずがない。だから体の大きな人が被り物をつけているだけだと思ったのだけれど、頭から飛び出した二本の角が天井の近くまで届いているのに気付く――天井は遥かな高さだ。あんな大きさの人間がいるわけがない。わたしはひっと声をあげ、ユリアさんの手にすがりつく。
「醜悪なものよのう――身震いがするわ」
ユリアさんが冷たい嫌悪の滲む声で言った。怪物はアイリ姉さんにむかってまっすぐに近づいてくる。斧をふりあげた。牛の頭は床の上の姉さんを見つめていて、ああ、姉さんが死んでしまう。帰って来ない――。
「アイリ姉さん……!」
わたしが叫んだ瞬間、姉さんの両目がぱちりと開いた。
体を丸めて跳ね起きた次の瞬間には弓を構えている。姉さんはろくに狙いもつけずに引き金を絞った。放たれた矢は化け物の右目に命中し、咆哮が轟く。斧はすでに降りおろされいたけれど、弓を投げ捨てた姉さんは横っとびに転がり、斧は石畳を叩いた石が砕ける音が響きわたり、砕かれた石が周囲にとび散る。通路の壁にぶつかった弓が固い音を立てて跳ねかえるのと同時にアイリ姉さんの体も反対側の壁にぶつかっていて、姉さんは壁を蹴って体を回転させ、起き上がる。
すべての動きにリズムがあって、滑らかに動作が連続していた。
酒場ではなくこの場所で、アイリ姉さんが踊っている。
姉さんの手にはいつのまにか白色に輝く短刀が握られていた。怪物が斧を打ちおろす。姉さんは逃げない。鋭く細められた赤い瞳にわたしが見たことのない獰猛な光が浮かんでいる。唇の端がめくれあがってまるで微笑しているようだ。しゃがんだ姿勢のまま地面を蹴り、低い姿勢で怪物の足めがけて飛びかかった。
やめて、やめて、やめて、とわたしは絶叫する。
どうして逃げないの?
危ないんだから逃げてよ! 姉さんが死んじゃう!
「見や」
わたしの体を両手で絡め、物憂げにユリアさんが言う。
怪物の太い足と交錯した瞬間アイリ姉さんの手がひらめき、怪物の足首から血が噴き出した。アイリ姉さんの全身が赤く染まり、姉さんがはっと息を飲んで反射的に顔を拭った。怪物が苦痛の叫びをあげ、その声がうぉんうぉんと石の壁に床に天井に反響し、無茶苦茶に振り回した斧が、足を止めた姉さんの横腹にぶつかった。
わたしのあげた悲鳴とアイリ姉さんの絶叫が重なりあう。わたしは目を閉じ耳をふさぐ。
「見や」
またユリアさんの声が命じた。
「嫌だ、見たくないよ……!」
「あれがおぬしを『ただのチュナ』とするためにアイリが支払う代償ぞ」
ぼきぼきという何かが折れる音がして怪物の絶叫にアイリ姉さんの悲鳴が絡まる。
「そんなこと頼んでない。わたし頼んでない。そんなのちっとも嬉しくないよ! わたしはただ……兄さんたちが……」
「ただ? ただ、そなたのために日々を送り、そなたが満足するように生きて、そなたのために人生を捧げてほしかった、か? アイリもそなたの兄も、どうやらそのような暮らしは望んでおらんかったようじゃがのう」
「違う! そんなじゃない! ただわたしは兄さんと姉さんが……無事に帰ってきて……皆で平和に過ごせたらって……」
あの屋根裏部屋で、空っぽの寝台を背に窓を大きく開け、外を眺め続けていた夜を思い出す。狭い路地を見下ろし、吹きこむ風に震えながら毛布を体に巻いて兄さんの無事な姿を待ち続けたあの夜も、寝台に倒れこんでわたしを強く抱きしめたアイリ姉さんの体からむせるようなお酒と血の匂いをかぎ取ったあの朝も、大河神殿に跪きどうか兄さんと姉さんが怪我せずに帰ってきますようにと祈り続けたあの昼も、がらんとした部屋で小さなパンを噛みしめたあの夕暮れも――どの瞬間だってわたしは不安に押しつぶされそうで悲しくて辛くて寂しくて、でも兄さんも姉さんも『大丈夫、帰ってくる』という言葉しかくれなくて、それでもわたしは、
「兄さんと姉さんの『全部』をわたしのために使ってほしいなんて、一度だって思ったことないよ!」
「ならば、見や」
三度命じるその声にわたしは顔をあげる。
異形の怪物は頭上にアイリ姉さんの体を掲げていた。両腕と片脚をその毛むくじゃらの手に握りこまれ、怪物の手がゆっくりと動き、アイリ姉さんの伸びきった腕や脚と繋がる体が不自然な角度で――回転を――見たくない――お願いだからこんな光景を見せないで。体が震えて揺れていて、呼吸がうまくできなかった。アイリ姉さんはもう悲鳴を上げていない。
いつのまにか部屋も窓もすべてが消えていた。わたしは石の冷たい廊下にへたりこみ、怪物がまき散らす恐ろしい悪臭とむせかえるような血の匂いをかぎながら、涙を流してアイリ姉さんを見上げている。ぽたり、ぽたり、血が姉さんの体から落ちてくる。
ユリアさんの声が背後から聞こえた。
「苦しかろう。痛かろう。無傷であるのに己が身と骨が軋むであろう――その痛みこそが人の人たる証じゃ。それゆえ厄介なところでもあるがの」
涙でかすんでもう前が見えない。そのわたしの目に、頭上から降りてきた冷たい手が触れる。ユリアさんの右手がわたしの右目を、ユリアさんの左手がわたしの左目を覆う。女王のような威厳に満ちた声が、獣の咆哮を圧倒して響きわたる。
「さて、石人よ。夢見の司の妾が問おう。そなたは誰のためにこの夢をみておるのかの? 自分のために見ているのなら……ならばそろそろ……まだ戦い続けねばならんアイリのために、目覚めてやらんか?」
「め、め、めざ……目覚めたら? そしたら姉さんは助かるの?」
「妾も無力じゃ。確約はできん。だが、アイリの心は安らかになるであろうし、この先あの娘が行かねばならぬ険しい旅路も、ぐっと平坦にはなるであろうよ」
「ど、どうすれば……どうすれば……?」
遠くから「チュナ?」という声がした。
アイリ姉さんの声が。
わたしの後ろ、ユリアさんの後ろ、ずっと遠く離れたところで、姉さんが不安げにわたしを呼んでいる。何かがきしむ音がきこえた。それもまたアイリ姉さんの声と同じくらい耳慣れた音だった。わたしの寝室の窓の音だ。片方の窓扉の蝶番が錆びていて、開閉するたびにキィキィという音が鳴るのだ。パリス兄さんに直してよと頼んであって、パリス兄さんはまかせとけと引きうけてくれたくせにすっかり忘れているから、ずっとそのままになっている。
不安げな顔で窓辺に立つアイリ姉さんの姿が目に浮かんだ。
「チュナ……そんなところで何を……チュナ!? 危ないよ、何やってるの?」
振りむこうとしたわたしに、ユリアさんが鋭い声で叫んだ。
「馬鹿者、見るな。目を覚ましたければ振りむくな! そなたの姉は、目の前で今殺されかけておる女であろう!?」
その通りだ、目を覚まして怪物からアイリ姉さんを助けなくちゃ。でも背後から呼びかけるのも確かにアイリ姉さんの声だ。わたしは混乱する。夢から目覚めかけた一瞬、どちらが現実かわからなくなる時のように、前も後ろもどちらのアイリ姉さんも本物のように思えて――どちらを選べばいいのかわからなくて――わたしはユリアさんの手をおさえる。
遠くから姉さんが呼びかける。わたしの名前を呼び続ける。
「チュナ、こっちへ来て……あんた寝ぼけてるのよ……明日にはパリス兄さんがナザリから帰ってくるのに……お土産を買ってくるって言ってたでしょ? 綺麗な服かも……ううん、宝石かもしれないよ! それをつけて歩けば皆が振りむくような……チュナ……今日は姉さんと一緒にパイを焼こうよ。チョコレートをいっぱいいれてオーブンでこんがり焼きあげよう。パイの上に卵を塗るのはチュナの仕事だよ、姉さんがチュナみたいに上手に卵を塗れないの知ってるよね? ……髪を上手に結ってあげる……手をつないで一緒に歩いてあげる……チュナ……チュナ……」
頭を動かしかけたとき、わたしの躊躇を切断するようにユリアさんの声が響いた。
「石人よ、そなたの望みはなんじゃ?」
わたしの願いはいつでもひとつだけだ。でも……でも……。
骨が砕ける音がした。
アイリ姉さんのああ、あ、とかすれた声が降ってくる。
背後ではが同じ姉さんの声がすすり泣いている。
「チュナ、お願い……帰ってきて……戻ってきてよ……兄さんも姉さんも……チュナがいるから毎日頑張れるんだよ……ふりむいて……こっちを選んで……お願いだから……わたしたちレナ母さんと約束したんだよ、何があってもチュナを守るって」
アイリ姉さんが泣いている。
わたしは顔に被さったユリアさんの手を握り締めた。
「……わたし……わからないよ……姉さんが泣いてる……」
「なんとまあ。涙がなんじゃ? おぬしの夢ではアイリは泣き崩れておるが、夢の外では血を流しておるのだぞ」
暗闇の中で、わたしは固く、固く目を閉じる。
みすぼらしい屋根裏の貸部屋と白い壁と林檎の木の裏庭を持つ小さな二階建ての家が、おしゃれな上着を着ていつも時間と仕事に追われていてわたしの毛布を畳む神経質な商人のパリス兄さんとだらしなくていい加減でバカで心配性でわたしを高く抱きあげるパリス兄さんが、姉さんの作ったまっ白いパンやスープが白いテーブルクロスの上に並ぶ食卓とわたしが作ったしょっぱすぎたり薄かったり濃すぎたりする鍋をわいわいと三人で囲む食事と、姉さんが買ってくれるお姫さまみたいなドレスと遊びに来たネルが姉さんと一緒に縫ってくれたスカートと、二つの記憶が重なりあい引き裂き合い、わたしは揺れる。どちらも大事でどちらも本当で、ただ――ただ――わたしは――わたしの夢はたったひとつだ。
「わたし……兄さんと姉さんに……無事に帰ってきてもらいたい」
閉じた目の底に紫色の光が揺れた。
「チュナ!」
そのとき背後からアイリ姉さんの絶叫が響き渡った。
「いつも帰ってきてって言ってたあんたが、どうして行ってしまうのよ!? ふざけるんじゃないよ! この役立たず!」
アイリ姉さんはいつも笑っている。面白そうな目つきをする。困った時には鼻に皺をよせる。ふくれっ面をしてみせる。うんざりしたようにパリス兄さんを蹴とばす。おっかない顔で私を叱る。
ああ、でも、姉さんは一度だってあんな風に怒りと憎しみのこもった声で私を呼んだことはなかった。
わたしはずっと兄さんたちに帰ってきてって言いつづけ、だって兄さんたちがいつかわたしを見捨てるんじゃないかって、わたしさえいなければパリス兄さんは危ないこともしなくていいしピンガーさんにもへこへこしなくてすむしアイリ姉さんだって酒場で踊る必要もなくてわたしがいなければと二人が思っているんじゃないかと、怖くて怖くて、毎日不安で――。
ユリアさんの手をふりほどき、わたしは後ろを振りむいた。
窓のむこうに誰かが立っている。
アイリ姉さんみたいな白い肌、長い長い白い髪。男の人なのにアイリ姉さんとよく似ている。
部屋の中は暗く逆光のせいで顔は影になっている。
男の人がわずかに頭を動かしたその瞬間、長い前髪の下で両目が赤く光った気がした。
誰かが――女の人の声が――小さく舌打ちして、言った。
「始祖帝め」――。
小鳥の声で目が覚めた。
階段をどたどたと駆けあがってくる足音がする。
「こらっ、チュナ、いつまで寝てるの!」
「まあいいじゃねえか、寝坊できるのは幸せな証拠なんだからよ」
「パリス兄さんはすぐにそうやって甘やかすんだから」
騒々しく大声でやりあいながら部屋に入ってきた兄さんと姉さんは、寝台の上で上半身を起こしたわたしを見て、驚いた顔で足を止めた。
「おー、起きてるじゃねぇか。ただいま、チュナ!」
「ありゃ珍しい」
久しぶりにパリス兄さんが帰ってきて嬉しくて、大きな声で「お帰りなさい」って言いたかったのに、喉から声がでなかった。涙が止まらなくて、呼吸がおかしい。アイリ姉さんの細い眉がきゅっと持ち上がる。
「どうしたの?」
いそいで近づいてきたアイリ姉さんは寝台に腰をおろし、わたしの頬にそっと手をあてた。姉さんの手は柔らかくてひんやりと冷たい。
「ね……姉さんが……」
「ん?」
「化け物に……暗いど、洞窟で、こ、こ、殺されて……」
「うん……夢を見たの?」
答えるかわりにわたしはアイリ姉さんの胸にすがりついた。しゃくりあげるわたしを姉さんがぎゅっと抱きかえしてくれた。痛いくらいにかたく、強く――夢じゃない。姉さんの匂いだって頬に触れるちくちくする布が濡れる感触だって両手で抱きしめた体の柔らかさだって、これが夢のはずはない。
「よしよし、大丈夫だよ。もう夢じゃないからね。パリス兄さんが留守だったから、心配だったんだよね」
「ただの夢だろ? 泣くほど怖いかぁ? ほれ、さっさと泣きやめ。お土産だぞ」
近づいてきたパリス兄さんがわたしの膝の上に軽い小さな茶色い包みを放り出し、わたしの頭を乱暴になでてくれる。姉さんと兄さんに挟まれて、ようやく気持ちが落ちつきはじめる。まだ涙はとまらなかったけど。
「アイリとお揃いだぞ。開けてみろよ」
アイリ姉さんが涙を拭いてくれる。わたしは包みを開けた。わたしの髪と同じ色の綺麗なリボンがでてきて、わあっ、と声がでた。兄さんと姉さんが顔を見合わせ、ほっとしたような微笑みをかわす。
「いまつけてあげようか? 朝ご飯のあとにする?」
「うん……いまお願い! ありがとう、パリス兄さん! 大好き!」
「気にいったか? ならよかった」
身をかがめたパリス兄さんの首に両腕で抱きつき、わたしは頬をすりよせる。薄暗い部屋の中で、くすぐったそうに兄さんが笑った。
寝台の上に座りなおし、わたしはアイリ姉さんに背中をむける。アイリ姉さんがざっとでいい? あとでちゃんとやってあげるからね、と声をかけてわたしの髪を持ち上げる。
閉まったままの窓の隙間から朝の光がはいりこみ、白い部屋の壁に一筋、光の線を投げかけている。
姉さんに髪を触られるのが大好き。
兄さんがそばにいると安心する。
わたしはパリス兄さんを見上げた。兄さんが青い目でわたしを見下ろしている。なにかが欠けているような気がしてわたしは首を傾げた。後ろでアイリ姉さんが笑い声をあげた。
「こーら、動かないの」
パリス兄さんがわたしの視線に気づいて、顎を触る。
「どうした、なんかついてるか?」
「……兄さん、顎の傷はどうしたの?」
「顎の傷?」
「小さい時についたっていう、顎のここにあった傷だよ」
困惑した表情でパリス兄さんが顎を――かすり傷すらない顎を――なでた。
「んん? なんだそれ、まだ寝ぼけてるのか? 俺ぁ傷が残るようなでかい怪我なんか、生まれてから一度もしたことがねえぞ」
「そうだよ、チュナ。傷なんかつくわけがないじゃない。ここはアーガデウムなんだから」
ふうん。そうか。そうだったかなあ?
わたしは視線を壁にむける。さっきまで一本の細い線だった光が今は歪んで見えた――白い壁に差しこむ光が大きな文字を描く。
思い出せ
「今日はウズラでスープを作ったからね」
アイリ姉さんが言った。
「ウズラ? それってなあに?」
「小さい鳥なんだけど、肉も卵も美味くてな。最近ナザリで養殖が流行ってるんだと。うちの店でも扱おうかと思って、試しに仕入れてきた」
「ほんとにあんまり頑張りすぎないでよ。わたしもチュナも、兄さんが元気で帰ってきてくれたらそれだけで嬉しいんだから……はい、できた! いいよ、チュナ!」
ぽんと背中を叩かれてわたしは振りむいた。
「ありがとう! アイリ姉さん」
アイリ姉さんは満足そうにわたしの顔を眺めていたけれど、やがて唇をかすかにゆがめて、笑った。
――ほんに退屈なことよ。
閉ざされた窓の向こうで誰かが呟いた気がした。
end