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茨姫

/顔2キャシアス×フラン

 1
 
 声は出していいとあらかじめ言われていたが何のことだかよくわからず、曖昧に微笑しただけだった。まだ子供だった。体よりは心のほうがずっと幼かった。
 召使いたちに与えられた大部屋で夜に明かりが消えたあと、寝台の一つに年上の女中たちが集まっている。衣ずれの音がして、ぴしゃりと肌を叩く音がする。彼女たちは彼らの話をしている。彼らがどんなふうに自分に触れ、自分がどんな風に彼らに触れたかを話す。昼間とは違う女たちの笑い声の淫靡さ、興奮を隠すくぐもったその話し声。厨房の隅に設置された、動物や魚の臓物を捨てるための鉄の鍋を思い出す。毎日その中身をゴミ捨て場に捨てて、鍋を綺麗に洗うのは、フランのような下働きの子供の仕事だった。夏場には鍋の肌は熱を帯び、湧きだした小蠅が飛びまわる。蓋を開ければ赤と黄色と黒色の混じり合いぎらぎらと光る臓物が、気が遠くなるような悪臭を放っている。……。女たちには背をむけ耳を塞ぎ頭から毛布を被って息を殺していた。別のことを考えていた。
「フランは子供だから」
 召使いの中でも歳の近い少女たちからは嘲るようにそう言われたが、それなら子供でいいと、馬鹿にされたことへの反発ばかりではなく、本気でそう思っていた。女中部屋の隅ではだけた白い胸元を見せ笑いあう女たちの揺れる影や、あるいは非番の日に町へ遊びに行ってきた兵士たちが広間の柱の側で輪になり、酒と白粉の匂いを漂わせ、歯をむき出しにして話す声、目つき、身振り、大人になればあのように卑しくなるのだ、そう言われて誰が喜ぶというのだろう? 誰が大人になりたがるというのだろう?

「フランは子供だから」
 大人たちとはまるで違う調子で幼馴染みの少年が言い、その言葉にかちんと来たのは、相手が彼だったからだ。彼。彼――あの子、あいつ、坊ちゃま、キャシアス。キャシアス様。あの物静かな子。町の少年たちの輪から離れ佇む、領主様の一人息子。
「そんなの……じゃあキャシアスは大人なの?」
 正面からは答えずにわざとずれた反論をしたのは、子供だという事実を否定できないししたくもない、かといって胸を張り、そう、その通り、だから何? と堂々と聞き返すこともできない、曖昧な年頃だったからだ。
 季節は春で時刻は夕暮れ、二人は城壁の上に並んで腰かけ、ホルムの町を見下ろしていた。城壁のこの場所は館のどの窓からも死角になっており、内庭から見上げても大きく張り出した木の枝の影になっていて、もっとずっと幼い頃から、二人の秘密の場所だった。フランはもう女中服を与えられており、人前ではキャシアス様、と呼ぶようになっていて、キャシアスもそう呼ばれればもっともらしい顔で頷くのだが、二人のどちらにとってもごっこ遊びの延長にすぎなかった。キャシアス様、ホルム伯、こちらはカムール殿、ゼペック、客人の案内を。大人たちが夢中になってやる遊びだ。子供たちには馬鹿らしい。二人きりになれば昔通りにキャシアス、フラン、そう呼びあって祖父や父の真似をしてくすくす笑いあい、乱暴に小突き合って、厨房からくすねてきた焼き菓子を半分に分けて食べながら、時には言葉も交わさないままずっと肩を寄せあってただ並んで座っていた。
 この日もフランの膝の上には料理人がわけてくれた果物のパイが乗っていた。二つに割ったパイの皮の破片と赤いジャムがこぼれてエプロンを汚していた。
「俺は大人だよ」
 キャシアスが即座に答え、フランはくすりと笑う。キャシアスはまだ子供だ。背は自分より低いし、文字の読み書きも苦手だし、館の人々からは半人前扱いすらされていない。一方フランは、北館の廊下の掃除はもう彼女の仕事になっていて、冬の日に床を磨くのは辛い仕事だがそこが自分の責任のある場所だと思えば誇らしい気持ちになる。キャシアスが大人ぶることに少し安心もしていた。もしもどちらかが大人になったら、ごっこ遊びはもうお終いだ。それくらいは理解できる年齢でもあった。
 キャシアスは笑わなかった。その顔からはいつもよりも白く血の気が引いているように見える。若様は子供らしくない、かわいげに欠ける、無口すぎる、召使いたちにはそう評されることが多くて、でもフランには意味がわからない。子供はいつもにこにこしてなきゃいけないの? なんでもしゃべらなきゃいけないの? 大人たちへの少しの反感を胸にそう思う。余分なおしゃべりをすれば腹を立てるくせに。
 城壁の上に座ったキャシアスは、立てた膝を胸にひきよせて両腕で固く抱き、その膝に頬をのせていた。
「フラン」
 キャシアスは声変わりがすんだばかりだ。フランは少年の新しい声にまだ慣れていない。いがらっぽい低いその声はあまり好きではない。それどころか、しばらくしたらキャシアスの喉が元に戻り、甲高い澄んだあの声がまた聞けるのではないか、そんな風に考えてすらいる。少年が子供時代を終え、耳に馴染んだあの声は永久に失われたことに気付かずにいる。
「フラン――」
 擦れた声で少年は二度、少女の名前を呼ぶ。西日を浴びて白い髪が金色に燃えている。フランの胸はつい最近膨らみはじめたところだ。去年の暮れには初潮を迎え、娘になった。今は衣類に擦れただけで痛む乳房に苛立っている。年上の女中たちから散々に女の体について聞かされているから、己の体の変化に怯えたりはしない。しばらくすればおさまるよ、大きさが足りないならいい人にかわいがってもらうんだね、女たちのその言葉を信じ、前半分だけを気にとめて後ろの部分は聞き流し、唇を噛んで痛みに耐えている。まだ子供だ。本当に子供だ。だから少年の両目の輝きに気付かない。夕日とは別に燃えている赤い瞳が理解できず、無防備な表情で彼を見つめている。
「キスしていい?」
 ほとんど唇を動かさずにキャシアスが言った。低い声だった。
 言葉の意味が理解できるまで少しかかった。
 沈黙の中で、キャシアスは視線をそらさず、フランの答えを待っている。意味を理解し、同時に選択権が自分にあると気づいた瞬間、少女はパニックになる。
「えっ……あ、あのっ……え? えっ?」
 赤面してしどろもどろになったフランに、キャシアスはいつものように助け船を出してくれない。怖いくらい真剣な目で、フランの返事を待っている。
 久々に再会した親族が交わす挨拶のキスではなく、子供を産んだ母親に周囲が与える祝福のキスでもなく、騎士が貴婦人に捧げる礼儀作法のキスでもない。わかっている。もしもそういうキスが欲しいなら、こんな風には告げないだろう。キャシアスが求めているのは――欲しているのは――もっとありふれた、ごく普通の、男と女が交わすキスだ。
 そう気付いたとたんに怖くなる。
 フランは顔を伏せ、真っ赤になって、いやいやをするように首を振る。口からでたのは、
「嫌――」
 ひどくきっぱりとした拒絶の言葉だった。まるで悲鳴のように響いた自分の声に、フランはひどくびっくりした。思ったこととはまるで反対の言葉を言ったのも、勝手に口が動いたのも初めての経験だった。
 どうして嘘の拒絶は、あんなに強く響くのだろう?
 本当に嫌な時は小さな声しか出ないのに。
 やっぱり嫌じゃない、と言おうとした――言えなかった――顔をあげると、唇をかたく引き結び、怖いような顔をした少年が、城壁から滑りおりるところだった。少年の耳たぶは赤く染まり、両目には涙が浮かんでいた。普段は軽々と登り降りする城壁なのに、着地に失敗して尻もちをつき、だが無言のまま姿勢を立てなおすと、館の方へ駆けだしていく。
 あ、と叫び声をあげ、フランも立ちあがる。
 果物のパイは足元に転げ落ちる。
「待って、キャシアス――」
 少年は振り返らない。その背が遠ざかって行く。
「待って!」
 傷つけた、と思った。
 キャシアスは勇気を振りしぼってそれを言ったのだ。不器用で、プライドが高くて、欲しいものを欲しいとは素直に言えない性格だ。いつも黙って我慢している。わかっていた。わかっていたはずなのになんであんな風に拒絶したんだろう? あたしの方がお姉さんなのに……でも……だって……駄目じゃなかったのに、本当は全然駄目じゃなかったのに……。
 キャシアスを泣かせてしまった。
 城壁の上で立ちすくみ、エプロンを握りしめ、気がつくと、泣いていた。告げられた気持ちを拒絶したのは自分なのに、自分の勇気が、告白が、欲望が、親しい人から踏みにじられたような気持ちになっていた。館の主塔の向こうに赤い夕陽がぎらぎらと光っていて目を開けていられない。
「ごめんなさい……ごめん……違うの……ごめんなさい……」
 ぼろぼろと泣きながらそう繰り返していた。
 鼻をすすりあげ、服の袖で乱暴に顔を擦り、明日謝ろう、そう思った。ごめんなさいって言おう。怒っているだろうからすぐには口をきいてもらえないと思う。でも謝ろう――そしたらそのうちにキャシアスもわかってくれる。だって友達だもの。許してくれる、謝ったら絶対許してくれる……。

 2

 キャシアスが五年ぶりにホルムに帰ってきたその日、フランは町にはいなかった。伯爵家からの使いを兼ねてレンデューム郷へ赴き、そこで一泊したのだった。
 夜明け前に目覚め、朝食も取らず生家を出たフランに、弟は不満げな表情を隠さなかった。村の通りを早足に行くフランの後をついて歩きながら、「もうちょっとゆっくりしていけばいいのに。一年ぶりなんだから」と、もっともな文句を口にする。
 姉ちゃんとしゃべりたがってる奴も多いのに、そう言ってフランよりもずっと大きな手を掲げ、指折り数えはじめる。あそこの婆さん、二件向こうの家の爺さんも。子供時代によくかわいがってくれたおばさんは、朝には挨拶に来ると言っていた。修羅丸だってこんなに早く姉ちゃんが帰るとは思ってないはずだ……。
 きけばきくほどホルムへ戻るのが辛くなる。だからきっぱりと「もうやめて、ギュスタール。朝のうちに帰らなくちゃいけないんだから」と怖い顔で言った。この一年で体ばかり大きくなった弟は、フランの遥か頭上にある顔に不快げな表情を浮かべた。
「なんだよそれ。みんな姉ちゃんの家族みたいなものなんだぜ。血の繋がった家族より、伯爵様の方が大事なのかよ? 姉ちゃんはここじゃお姫様なのに、ホルムで召使いをやってる方がいいっていうのかよ?」
「そんな言い方しないで。今日は特別なの。騎士見習いに出ておられた若様が帰って来られるから」実際の帰省は昨日だったとは言わなかった。「おじい様のお立場も考えなさい。次の領主様がご帰還されるのに、使用人のあたしがここで遊んでいてはおかしいでしょう?」
「……一族の人間の話をきくのは、遊びなんかじゃねえ!」
 ギュスタールはかっとした声で怒鳴ったが、フランの小さな肩がびくりと揺れたのを見て、すぐに一転して恥じた表情を浮かべた。
「ご、ごめん姉ちゃん。そうじゃなくて……郷のみんなが姉ちゃんを待ってたからさ」
「ごめんね、ギュスタール。またすぐに戻ってくるから」
 フランが爪先だって手を伸ばすと、しょんぼりした表情のギュスタールが自然と頭を垂れた。小さな頃のように頭を撫でてやると、弟への愛情が胸に込み上げてくる。手を離し踵を下ろした。ギュスタールはまだ子供だ。おそらくは来年もまだ少年のままだろう。でもその次の年は、そしてその次の次の年になれば、もう頭を撫でさせてくれなくなるに違いない。
 ――男の子は少しのあいだに大人になる。
 そんな感慨すら、すぐに弟ではなく別の少年の面影に掻き消されてしまう。今のフランは気持ちも心も、たった一人に満たされていて、他の何かが入りこむ余地はなかった。
 キャシアスが離れていた五年の間、ホルムの町はなにも変わっていない。相変わらずの辺鄙な田舎町だ。フランの日々もフラン自身にも変わりはない。ホルムの城は少し変わった――奥方が亡くなり、カムールはふさぎこむことが多くなった。召使いの数人が暇を取り、館の中はひっそりと静まり返るようになった。寂しい静けさの中で、キャシアスの騎士叙勲はホルムで行うという噂がでるたびに、フランの頬は熱を帯びるのだった。
 キャシアス様が戻って来られる……。
 そう考えると胸の奥が痺れたように疼く。
 五年は長いが、仕事と鍛錬を繰り返すフランの日々は歳月の流れに削られもせず、その代わりに幼馴染みの少年に対する漠然とした感情は胸のうちで膨れ、堆積し、今でははっきりとした重みと熱を持つようになっていた。
 誰にも告げず、誰からもそれは恋だと告げられることはなかった。だがこれを恋と呼ばないならば、何をそう呼ぼう?
 ――キャシアスが帰って来る。キャシアスが……。
 ホルムの町へ近づくにつれて、太陽が東の空に姿を現し、急速に闇が晴れていく。見慣れた町の大壁もホルムの家々の屋根も、フランの目には輝きを帯びて見えた。
 城門の側で朝番に立つ顔見知りの兵士に挨拶をして木戸をくぐった。
 急ぎ足で白い朝日が落ちる中庭を横切っていく。西館の裏へと回ろうとしたのだが、途中で足を止めた。あ、と声をあげたかもしれない。
 城壁の上に、こちらには背をむけて、白い髪の青年が立っていた。朝靄に沈むホルムの町を見下ろし、ゆっくりと城壁の上を歩いている。
 五年前よりもずっと背が伸びた。
 キャシアス、と声をあげようとしてためらう。ためらわせるだけの男らしい背中だった。ご立派になられた……もうお互いに子供ではないのだ。キャシアス様と言わねばならない。だがそうやって躊躇している間に、城壁の上の人が視線に気づいたのかくるりとこちらをむき、立ちすくむフランを赤い瞳で見下ろす。少年時代には、拗ねたような、子供らしくない、そう揶揄されることも多かった表情は、五年経った今では、落ち着いた大人らしい静かな仮面となって青年の顔を覆っている。頬が熱くなり、心臓が強く脈打ちはじめる。両目にはなんの揺らぎもなく、もしかしてあたしが誰だかわからないのかな、フランがそう不安になった時――言った――低い男の声が呼んだ。
「フランか」
「……キャシアス様」
「久しぶりだな」
 再会に胸を弾ませるわけでなく、照れた表情を浮かべるでもなく、淡々とした礼儀だけがある声だった。少しだけ気が抜け、もっと大きく失望した。胸のどこかでは、特別な何かを……笑顔や、驚愕や、照れや、そういった自分だけが特別だと分かるような何かを期待していたのだ。
 子供の頃はよじ登り飛びおりた城壁を、今は急な角度の階段を使って下りてくる。
 近づいてきたキャシアスに、フランは丁寧に礼をした。
「お帰りなさいませ、キャシアス様。ご立派になられて……見違えました」
「ただいま。皆、かわりなくて何よりだ」
 キャシアスの視線はするりとフランの顔を通りすぎ、そのまま城壁の隙間から覗くホルムの町並みへと移動した。
「故郷はいいな。やはり安心する――フランは、今は?」
「え、あ……あたしは……あたしもかわりなく元気、です」
「そうではなくてどこを担当しているんだ? 以前と同じで掃除係?」
「あ……あっ」
 自分の勘違いに赤面し、キャシアスの無言の視線を浴びて、ますますしどろもどろになる。
「今はお掃除もしますけれど客室の係を、それとお館様の護衛を」
 その返事を最後まできかず、キャシアスは冷やかな横顔をむけた。もっと昔は……離れたころには……キスをしていいかと尋ねたあの少年はどこへ行ったのだろう?
 歩き出したキャシアスの後ろを、フランは無言で追った。これが新しい距離だと気づいた瞬間、泣きたくなった――キャシアスは城館に入ったあとも、一度もフランの方を振り向かずにいた。

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