枕の話1

現代パラレル/メロダーク マナ

 木曜日の深夜一時、仕事を終えて終電で帰宅すると、部屋に女の子がいた。
 メロダークの住居は駅から徒歩15分の築25年南向き、1DKユニットバスの実にぼろっちいマンションである。オートロックっぽさを漂わせるエントランスのドアは大胆に鍵が壊れていて、誰でも自由に敷地内に出入りできる。メロダークの部屋の玄関とベランダの鍵も粗末な物だったが、私物も少ない男の一人暮らし、屋上のない四階建ての最上階ということもあって、メロダークは防犯の必要性を感じたことがなかった。部屋にある高価な物といえば液晶テレビと何本かのダンベルくらいの物だ。
 女の子は、メロダークが朝敷きっぱなしで出ていった布団の上に、ちょこんと正座していた。
 片手に缶ビールとままかりの入ったミニストップの買い物袋を下げ、もう一方の手ではネクタイを解きかけて呆然と立ち尽くしたメロダークを見あげ、少女は三つ指をつくと、深々と頭を下げた。
「お帰りなさいませ、メロダークさん」
 メロダークの知らない少女だった。
 いや、それどころか国内でも国外でも、一度も会ったことがないと断言できる。
 長い髪は白く、肌の色はそれ以上に白い。ネグリジェめいた服の色も当然白で、大胆に開いた襟からは華奢な肩や鎖骨までが丸見えであった。胸元と長い襟には淡い紫色のリボンがひらめいている。コスプレ、という単語がメロダークの脳裏をよぎった。以前テレビすらない教会の食堂で、知人のテレージャからオタクとコスプレについて滔々と説明されたことがあった。
 頭を上げた少女の睫毛は髪と同じく白で、虹彩はカラーコンタクトとも思えない自然な赤みを帯びていた。
 何人ともわからぬ、不思議な容貌と雰囲気であった。
 メロダークはミニストップのポリ袋を床に落とし、鞄を肩に掛けなおした。
「……誰だお前は。ここで何をしている」
 メロダークが低い声でそう問うと、理不尽なことに、謎の少女は怯えた顔になった。
「あの、本当にいきなりで……メロダークさんを驚かせるつもりはなかったのですが」
 おそるおそる、そう言った。流暢な日本語で訛りはない。ずいぶん控え目な態度の不法侵入者であったが、不法侵入者らしく、妙なことを言った。
「私、枕なんです」
 メロダークには、隠し子を送り込んでくるような昔の恋人や、こういった悪ふざけをして喜ぶような悪友や、彼に身を託すしかない親戚や、年の離れた弟妹の世話を頼んでくる両親はいない。もう何年も、会社と自宅とスポーツジムの三箇所を行き来するだけの、淡々とした生活を送っている。ただ、私生活で親しい人物はいないが、仕事の上での少しの味方とたくさんの敵はいた。なので彼が思ったのは、どこかの会社が彼の住所を調べ、接待か罠のつもりでこの少女をここに送り込んできたのではないかということだった。馬鹿げた想像だが、生きていると往々にして馬鹿げたことが起こる。なぜなら世の中は馬鹿が回しているからだ。
「……つまり、風俗の出張サービスか?」
「ふっ……!? あっ……そ、そういう隠語ではなくて」
 少女はたちまち真っ赤になってうろたえた。そうすると、これまでよりも二つ、三つ、さらに年下に見える。メロダークに伝染するくらいの動揺ぶりで、彼が思わず落ち着けと言いかけたとき、少女がすっと背を伸ばした。こほんと咳払いをし、これまでとは違ってどこか誇らしげな顔になる。
「私はメロダークさんの枕……つまり、枕の精なのです」
「……枕の精?」
「はい! あなたが毎晩お使いになっておられる、ニトリで三年前にご購入くださった、半パイプ材半ポリエステル枕カバーサイズは43×63cm、洗濯オーケイ! 高さ、ふつう、な枕です。唐突で申し訳ないのですが、いつも大切に使ってくださっているあなたにご恩を返そうと、人間の格好になって参りました!」
 メロダークは部屋を出て、携帯電話で警察を呼んだ。