枕の話2

 
 十分もしないうちに最寄りの警察署から、パトカーのサイレンは鳴らさずに、二人組の警察官が来た。
「知り合いってことはないんですね?」
 自室の扉の前で待機していたメロダークは、警官の言葉に首を横に振り、玄関を開けた。
 布団が畳まれて壁際に寄せられ、床に落としたコンビニの袋はこたつ兼用のテーブルの上に置かれていたが、室内の変化はそれだけだった。
 少女は先ほどと同じ場所に座っていた。ドアが開いた瞬間、ぱっと笑顔になったが、メロダークに続いて制服姿の警官たちが入って来ると、今度は不安げになった。元から子供に甘いメロダークは一瞬少女に同情したが、それは態度には出さなかった。
「……説教してから、家まで送ってやってくれ」
 そう言いながらメロダークは振り返った。
 部屋を覗き込んだ警官たちはなんの反応も示さなかった。
 しばらくして、
「いないね」
 と言った。
 メロダークが片眉を上げた。
「あんた、通報してから部屋を離れたの? その間に逃げたんじゃない?」
 彼らは二人とも、冗談を言うようなタイプには見えなかった。呆然と立ち尽くすメロダークを置いて、警官たちはユニットバスと押入れの中を確認し、カーテンと窓ガラスを開けてベランダに出、懐中電灯で周囲を照らした。その間ずっと、少女は部屋の中央におとなしく正座したまま、バタバタと動きまわる彼らの様子を伺っていた。
 部屋に戻ってきた警官が、窓ガラスを閉めながら、言った。
「お隣に行く足場もないなあ。街路樹も飛び移るには低いし」
「……そこに」
 メロダークが少女を指差すと、警官たちが彼女を見た。
「枕がどうしたの?」
「……」
 メロダークがなおも言い募ろうとしたとき、夜空を背負ったベランダの窓ガラスに、明るい室内の光景が映っているのが目に入った。がらんとした部屋の中に、スーツ姿のメロダークと、二人の警官が立っている。メロダークが指差した先には、彼が愛用している、三年前にニトリで購入した枕が転がっていた。
 視線を室内に転じると、メロダークの指の先で、ちょこんと座った少女が、神妙な顔で彼を見上げていた。

 まあまた同じ子が来たら連絡するように、パトロールの警官にも注意するよう伝えておくからと言い、近くの派出所の番号を残して、警官たちは引き上げていった。おっさんのいたずら通報と思われても仕方がないような状況であったが、特に叱られもしなかった。
 彼らは出ていき、部屋にはメロダークと少女が残された。
 メロダークは深呼吸をしてから振り返った。
 少女は申し訳なさそうな顔をしていた。
「申し遅れましたが、私、他の方には見えないと思います。というか、見えなかったですね」
「……」
「深層世界を漂う普遍的無意識の集合体としての概念的枕ではなくて、あくまでメロダークさん個人の枕の精ですから。すみません、そもそも枕の精自体の認知度も相当低いもので……神話レベルまでいかずとも、せめて小豆あらい程度に有名ならよかったのですが」
 少女は言葉を切った。近づいてきたメロダークが、目の前にどかりと座りこんだせいだった。メロダークの視線を臆することなく受け止めた少女は、次に彼が手を伸ばした時もそれを避けなかった。メロダークは少女の頭を撫でた。ごくごく普通の頭であった。カーテンが開いたままの窓ガラスを見る。ぎょっとした。枕をつかんで振り回している自分の姿が映っていた。
 なんだこれは、と思う。
 視線を動かす。頭をぐりぐりと撫でられながら、少女は少し恥ずかしそうにまだ彼を見つめている。嫌ではないらしい。身長差のせいで見下ろす格好になる。大胆に露出したなめらかな肩や胸元はこの距離で向かいあうといささか扇情的すぎる眺めであったが、そんなことより白い薄手の服の胸元で揺れるリボンは、メロダークの記憶のどこかを刺激した。
「……あっ、あのう。メロダークさん」
 わかった。
 枕カバーだ。
 彼は端の部分に濃い紫色の飾り布がついた、白い枕カバーを使っていた。少女から手を離して立ち上がると、メロダークは壁際に詰まれた布団に近づいた。端を引っ張って床に敷く。掛け布団を広げる。そこに枕はなかった。押入れを開けて、冬布団と毛布とこたつ布団も出した。やはり枕がない。押入れの下段にも枕が紛れ込む余地はない。
 メロダークは沈黙した。
 振り返ると、枕を名乗る少女が彼をじっと見つめている。メロダークの言葉なり行動なりを待っている風情であった。
 窓ガラスを見る。そこには枕が落ちている。
 メロダークは無言でスーツを脱いだ。全部を脱いだ。トランクス一枚になると、布団に潜り込んだ。「あっ、お休みになるなら私が必要ですよね? おまかせくださ」手を伸ばしテーブルに置いたリモコンを取ると、部屋の明かりを消した。暗闇の中で布団を喉元まで引き上げる。
 寝てしまおう。
 混乱しつつも冷静な判断であった。
 明日も会社だ。