枕の話3


 六時ちょうどに目が覚めた。
 顔に当たる朝日がひどく眩しい。カーテンを閉めずに眠ったことを思い出した。
 布団の中から手を伸ばしたメロダークはテーブルの上を探り、六時五分にセットしてある携帯のアラームを切って、それから起き上がった。乱雑に布団を畳んで壁際に寄せる。

 熱いシャワーを七分、洗面所で十分、身支度に五分。狭い台所でコーヒーとシリアルを用意し、居間に運ぶ。
 ほとんど物のないがらんとした部屋に、ベランダの窓から差し込む朝日が満ちている。テレビをつけるとアナウンサーが桜の開花情報を伝えていた。
 いつもと変わらぬ朝の風景であった。いつもと違うことといえば、ベランダのカーテンが開いていることくらいだ。彼以外の人物の痕跡はなく、人の気配もない。昨日のあれは夢だったように思える。
 いや、実際夢であったのに違いない。
 テーブルの前であぐらをかいたメロダークは、ステンレスのスプーンでシリアルをかき混ぜながら、大きくあくびした。一体どういう幻覚だったのかと呆れる。枕なしで寝たせいか、疲れがひどい。それにしても警察まで呼ぶとはどうかしすぎだ。馬鹿馬鹿しい。
「何が枕の精だ」
 吐き捨てるようにそうつぶやく。メロダークが口を閉ざすのと同時に、押入れが勢いよく内側から開いた。
「おはようございます、メロダークさん! すみません、寝過ごしてしまいました!」
 明るく元気のよい少女の声が、室内に響き渡った。
 押入れの上段から後ろ向きに枕の精が下りてくる間、メロダークはスプーンを手にしたまま、ぼんやりと青空を見つめていた。テーブルの向かいに着席することによって、枕の精は暴力的にメロダークの視界に割り込んできた。
「おはようございます、メロダークさん」
 頭が深々と下がり、また持ち上がる。夕べもそうであったが、かなり礼儀正しいのであった。
「初日から寝坊とはありえないことですね。お恥ずかしい限りです。お目覚めの前に朝食をご用意しておくつもりだったのですが……申し訳ありません、慣れ親しんだ押し入れではありますが夜に一人で占領できるのは初めてのことで、興奮のあまりついのびのびと寝過ごしてしまいました。でもご安心ください、晩はご馳走を作らせていただきます!」
 メロダークはそっと、テーブルの上に置いていた携帯電話を取った。カメラを起動し、手首だけを動かしてしゃべり続ける自称・枕の精に向ける。目の前には確かに少女がいる。しかし長方形の画面には少女の姿はなく、がらんとした室内が広がっているだけであった。メロダークはそろそろと携帯を傾けた。小さなディスプレイの中では、フローリングの床の上に見慣れた枕が落ちていた。
 昨夜、窓ガラスに映っていたのと同じ光景であった。
 もう一度自分の目で少女を見る。身なりは妙なものの、ごく普通の人間だ。いや、
 ――影がない。
 そう気づいた瞬間、メロダークは思わずうなり声をあげた。携帯電話をパチリと閉じる。
「お前は、あれか」
 と言った。
「幽霊のような物か」
 枕はゆっくりと瞬きした。
「ゆうれい、ですか。……枕。ただの枕では、ご不満でしょうか」
「……いや、そこは別に構わんが」
 喜ばせるようなことは何も言っていないのだが、枕はぱっと笑顔になった。夕べは髪や肌の色や奇抜な服装ばかりに気を取られていたが、こうして朝日の下で見ると、整った顔立ちをしている。やたらと特徴が多い割に印象が薄い、不思議な雰囲気の少女であった。
 ――元からそう個性のある枕でもなかったからな。
 そう思ってから、メロダークは自分で自分にうんざりした。
 ファンタジーは嫌いだ。
 ファンタジーはきらきらと輝く目で彼を見つめている。
「よかった! それでは今日から頑張って恩返しをさせていただきますね!」
「いらん」
「えっ!」
「いらん。……そもそもだ、枕だか幽霊だか知らんが恩返しというのはあれだ、罠にかかったのを助けたとか、傘がどうとか地蔵がどうとか、そういう話だろうが。ありもしない恩を返される筋合いはない。大体私は人から感謝されるような……」
 メロダークは言葉を途中で切ると、テーブルの下の空っぽの掌に視線を落とした。両手をくるりと返し、握り締める。
 顔を上げると、こちらをじっと見つめる枕と目があった。枕は優しく微笑し、諭すような調子で言った。
「メロダークさん。失礼ですが、枕は寝具です。罠にかかったりしませんよ?」
「物の例えだろうが!」
 思わず声が大きくなる。枕が怯えた。いかん落ち着けと自分に言い聞かせ、メロダークは座り直した。この枕としゃべっていると、どうも調子が狂う。
「とにかく、恩返しなど必要ない。帰れ。どこへなりとさっさと失せろ」
 枕が首を横に振った。
「帰れ」
 枕がそっぽをむいた。
 メロダークは嫌な予感がした。
「……まさか帰りかたがわからんというわけではあるまいな」
 そっぽをむいたままの枕の両肩が、びくっと揺れた。
「おい!」
「だ……だって私はただの枕ですから、自分で決められることなんてあんまりないんです。とにかく、恩返しがすむまでは帰れません。帰れない仕組みなんです」
 メロダークは口を開き、また閉じた。頭を抱えたが、すぐに立ち上がる。壁の時計がいつの間にか七時を指している。遅刻だ。
 上着と鞄をつかんで慌てて玄関に向かったメロダークの後を、枕が追って来た。見送りのつもりらしい。一瞬、腕をつかんで外に叩きだそうかと思ったが、堪えた。どんな子供であれ、もう二度と傷つけたくはなかった。
「会社に行く。夜までには帰れ……帰れるように努力しろ。部屋の物は自由に使っていいが、火には気をつけろ」
「お任せください! お留守の間に小人の靴屋くらい働きます!」
「何もするな。帰れ」
 どんと胸を叩いた枕にそう言い捨てて、返事は待たず、部屋を出た。
 マンションの廊下に出て鍵をかけようとしたところで、これでは自称・枕の精を閉じ込めることになってしまうと気づく。だが枕とは外出するものなのだろうか。そもそも幽霊や妖怪の類なら、壁抜けやら開錠やら、超常現象的なもろもろが可能なのではあるまいか。数秒の逡巡の後、メロダークは再び扉を開けた。居間にむかって声を掛ける。
「おい、もし外出するならここに鍵を……」
 畳んだはずの布団が再び敷かれている。布団の上にごろんと腹ばいになって、両足をばたつかせながら嬉しそうにテレビのリモコンをいじっていた枕が、慌てて起き上がった。
「ち、違うんです! これはあの、一度! 一度でいいから皆様が枕や布団で寝たり起きたりしているあのテレビ番組を、最後までじっくり見たいと思っておりまして!」
 そんな番組はないだろう。