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聖なる 1

手紙イベント敗北時イフ/メロダーク マナ

  1

 首だけを持って帰りますかという兵士の問いに、メロダークは頷かなかった。
「探索者には妖術師の類も多い。何に使われるかわからん、死体を残していきたくない」
「では馬車で」
「いや、私が運ぼう。私なら発見された時に言い訳もきく。探索者仲間だからな」
 男たちの足元には白い体が倒れている。
 冷たい目でそれを見下ろし、口をつぐみ、だった、と心の中で言いなおす。
 タイタスの憑代も死んでしまえば普通の人間と違いはない。害のない、何もできぬ、ただの死体だ。子供の死体は見慣れている。良心の咎めは何もなかった。任務のためにずっと一緒に行動しつつ、気持ちのうえでは少女と距離を保ち続けていた。特別な思い入れはない。夢でうなされることすらないだろう。
 戦いに荒れた墓地もその向こうの大河も、ホルムの町のすべてが夕陽に赤く輝いていた。

 神殿軍の兵士たちが二人がかりで血に濡れた小さな体を抱え上げる。最後の一人は身を屈め、墓地のあちこちに散乱した彼女の道具袋の中身を拾い集めた。戦いの途中で誰かの剣が、少女が腰に下げた道具袋を少女の太腿もろとも切りつけたのであった。
 メロダークにも見覚えのある物があり、見たことのない物があった。探索中にマナが使っていた小さな杯、鉄のランタン、銀の短剣、青い石のついた装身具。兵士が最後に草むらから拾い上げた巫女装束の飾り紐は、彼女の血を滴るほどに吸い、べったりと黒く重く濡れていた。

 マナを説得できるとは思っていなかった。呼び出しに応じて彼女が来た場合、必ず殺すことになる。メロダークは最初からそのように部下たちに言い渡し、あらかじめ彼女の戦いの癖を教えてあった。実戦の経験もある兵士たちは、メロダークが年端もいかぬ小娘を臆病なほどに警戒している様子を笑わなかった。ただの娘ではない、タイタスの器だ。十分に準備していたにも関わらず、敵として対峙したマナは手強い相手であった。もしも彼女が仲間を連れて来ていたなら、殺されていたのはメロダークたちの方かもしれなかった。

 部下たちの後を追って歩き出したメロダークの靴底で砕けた墓石の破片が砂利のような音を立てた。
 墓地は踏み荒らされ、土も草も流された血に濡れている。魔法を使った激しい戦闘の痕跡は一目瞭然であった。この戦いの跡とマナの失踪と姿を消した傭兵と、三つを結びつけることは容易だ。しかし三つの点が結びついた先に、ユールフレールの大神殿があることに気づく人間はおそらくそうはおらず、気づいたとしてもできることは何もない。
 彼らは無事に任務を果たしたのだった。


  2

 密偵たちは崖を下り、人気のない至聖所を通り抜け、アークフィア大河のほとりへ向かった。河辺の岩陰には一艘の小舟が旅の荷物とともに隠し繋がれていた。兵士の一人が身につけていたマントを外し、それでマナの体を包んだ。数カ所を麻紐で縛る。慣れた手つきで静かに作業を進めながら、男たちは額に噴きだす汗を何度も手で拭った。秋だというのにホルムは異常な暑さであった。

 やがて夜が来た。
 メロダークは抱え上げた死体を小舟の底に投げ込んでから、自分も乗りこんだ。神殿軍の男たちはひっそりと別れの挨拶を交わした。世界の滅びを阻止する最後の切り札として、解放された町に隠れ続けていた彼らであった。
「どうかお気をつけて」
「お前たちも。本隊に何かあれば私は別に動く。その場合はエンドルの宿屋で合流しよう――ハァルの加護を」
「ハァルの加護を」
 死体をまたいで立ったメロダークは、艫綱が外されると、手にした櫂で岸を打った。小舟がゆっくりと動き出した。彼を見送る部下たちの姿は、ホルムの岸辺を囲む岩場の影の間で黒い染みとなり、すぐに夕闇と見分けがつかなくなった。
 空に月影はなく、満天の星の下、波は穏やかだった。舳先に灯を燈すことはせず、メロダークは暗い水の彼方を見つめていた。振り向けば低い場所にはホルムの港に篝火が、崖の上には神殿の燈火が揺れていたが、その光はぐんぐんと遠ざかっていった。



  3

 片手に岸辺を見ながら、小舟は西へと進んでいった。対岸は霧に霞み、波の音しか聞こえない。一人きりの静寂の中、舳先に腰を下ろしたメロダークは、死体を包むマントの端をめくりあげた。
 冴え冴えとした星明りに照らされ、少女の死に顔は安らかだった。生前には骨のように白かった少女の肌は、死んでしまえば他の死体と変わらぬ色味であった。

 ホルムに入っていくらも経たぬうちにこの少女に目をつけたのは、密偵として培われた勘もあるが、彼女の方から声を掛けてきた幸運もあった。二人が知りあったのはエリオの死が原因であったことを思うと、亡き友人は死んでなお見事に役目を果たしたともいえる。

 マナが生きている間、メロダークは彼女をただの少女として見ることがなかった。白子であることも、大河で拾われた孤児であることも、強力な魔法の才能を持つことも、よその時代、よその土地なら大した意味を持たなかったであろうが、ホルムではそのすべてが少女が『神帝記』に記されたタイタスの器であり、古代の皇帝の似姿をした憑代であることに結びついた。異形、と少女を警戒した最初の気持ちのままここまで来た。そう思う。
 メロダークは指を伸ばし、少女の冷たい頬に触れた。

 探索中に一度だけ抱いた。
 誰にも話していないことであり、マナも恐らくは同じように他人には話さず秘密にしていたはずだ。
 もちろん男女の間での意味合いではなく単なる抱擁であったし、更に言うなら単なる成り行きでもあった。

 その日彼らは地下の宮殿を探索し、引き返すには深くまで進みすぎていた。簡素な寝台がいくつも並んだ鍵のかかる部屋を発見して、そこで一夜を過ごすことに決めたのだった。
 メロダークは、深夜、隣の寝台の少女のうなり声で目覚めた。悪夢を見ていることはすぐにわかった。激しい苦痛を感じているような、拷問を受けている捕虜の声のような、異常な苦痛の滲む声であった。壁にかけたランタンを取り少女を照らすと、薄い毛布を握りしめたマナは顔を歪め、激しく首を振っていた。額には汗が浮かび、ぎゅっと寄った眉の下で、閉じた瞼がひくひくと震えていた。
「……おい」
 声をかけても目覚めず、仕方なく肩に触れた。乱暴に揺さぶられてびくりと目を開けたマナは、一瞬、そこがどこかわからなかったようだった。手が空中をもがき、彼の手を捕まえて握り締める。それが己を加護する父親の手であるかのようにすがり、荒く息をしながら彼を見つめていたが、しばらくして意識がはっきりしてくると、「あ――」とうろたえた声をあげた。
「いや……」
「もう起きろ」
 彼が命じるとマナは体を起こしたが、彼の手をつかんだままだった。
「や……こ……怖い……」
「夢でも見たか」
 重ねて問うと、マナはこくりと頷いた。
「か、体……胸を……、……んく……刃が、首に……こ……怖かった。私、生きてるのに、……も、も、物みたいに……バラバラにされて……や……すごく、い、痛くて……」
 途切れ途切れに漏れる声は、体と同じようにがたがたと震えていた。涙ぐんだ少女はいつもよりずっと幼く見えた。
 いつまで経っても震えが収まらぬ。哀れに思ったのは、時間が夜更けでさっきまで眠っていた彼の気が緩んでいたせいだ。もう一人の仲間がぐっすりと眠りこんでいたせいもあるだろう。
 まだ年端もいかぬ小娘だ。己が憑代であることも知らぬ。望んで器となったわけでも、夜種との戦いに巻き込まれたわけでもあるまいに……様々な思いが胸中に飛来し、気がつくと身を乗り出し、少女の華奢な体を抱きしめていた。汗に濡れた肌はひんやりと冷たかった。マナの体が固くこわばった。困惑と恐怖が入り混じる吐息に、少女が男に抱かれた経験がないのを知った。激しくあえいでいた少女の呼吸がやがて整い、メロダークの腕の中で、力が抜けていった。その頃にはメロダークの方も冷静さを取り戻し、馬鹿げたことをしてしまったのに気づいた。
「……落ち着いたか?」
 そう言って、腕を解いた。
 夢の恐怖が続いていたせいか、マナの体はかすかに彼の両手が離れるのを惜しむ素振りを見せた。自分から抱き締めたくせに、大河の巫女が、そう思い、その一瞬メロダークは少女を激しく嫌悪した。神殿軍での長い禁欲生活は男に不寛容な潔癖さを与えていた。マナは敏感に彼の拒絶を感じ取ったようであった。不自然なくらい勢いよく体を引いて、彼から離れた。
「す、すみません。ありがとうございます、落ち着きました。あの……怖い夢を見て……捕まって体を切断されてしまう夢を……すごく怖くて、体が動かなくて、声もでなくて」
 しどろもどろになって夢の説明を始めた少女を遮り、
「……場所のせいかもしれんな」
 そう言った。
 邪悪な場所と魔力に敏感に体が反応したのだ、やはりこれは憑代なのだ、冷ややかにそう思う一方、抱きしめた柔らかな体の感触や少女の匂いを、彼の体は勝手に反芻していた。
 マナは羞恥の表情でうつむき、まだ震えの残る白い手を持ち上げた。自分の体が無事であることを確認するかのように、そっと首筋をなでた。



  4

 深夜を過ぎて夜空を覆う星が西へ傾いたころ、突然大河が荒れはじめた。風もないのに次々と波が立つ。潮の時間には遠く、見上げた空には雲ひとつない。夜の水上であるのにどういうわけか暑さが増したようで、すべてが不気味であった。
 揺れる小舟の舳先に座り込み、メロダークは櫂を手にじっとしていた。万が一転覆した場合は、死体を背負って川岸まで泳がねばならぬ。たとえ命を失ったとしても、少女の死体だけは仲間の手に渡さねばならなかった。この憑代のために町と国は荒れ、多くの血が流れたのだ。
 死体を引き寄せる。驚いたことに死体はまだ硬くなっていなかった。暑さのせいだとメロダークは思った。好都合であった。揺れる小舟の上で身をかがめ、腰のあたりを曲げるようにして、少女の死体を縛りなおす。死体を包むマントにぽたぽたと汗が垂れ、舟が揺れるたびにかかる水飛沫がその汗の滲みを消した。遺体が腐敗し、匂いを放ち、虫を引き寄せるのが心配だった。夏場の戦場では半日も経たぬうちに悪臭が耐えがたくなる。死体の匂いは獣や魔物を呼ぶ。
 岸についたら魔法で冷やすか。そう思いながら、少女の死体を両膝の間に抱えるように置いた。

 宮殿での一夜のあと、何事もなかったかのようにマナはふるまい、実際、おそらくは探索中の偶然の出来事の一つとして、すぐに忘れてしまったのだろう。己があのくらいの年齢だったときも、一つ一つの出来事は今よりずっと尖って心にささり、しかしその傷もすぐに癒えた。老剣士や公国の騎士らと楽しげに談笑する少女の様子を、彼はいつも視界の隅にとどめ、その動向に注意を払っていた――大河神殿の巫女。貧者や物乞いはおろか殺人者と盗賊にまで手を差し伸べる聖職者。大河から流れ着いた白子、魔術師としての稀有な才能、探索者たちをまとめて怪物どもに立ち向かう英雄の資質……。

 もう一つ、覚えていることがある。
 シーウァと大河神殿の連合軍が町を占領した後のことだ。計画通り早朝に門番を殺し内側から大門を開いた彼は、すぐにひばり亭へと戻った。そこから本隊とは連絡を取れぬまま、彼は占領軍によって出入りを禁止されたひばり亭の中で、不安にざわめく探索者たちと共に、静かに時間を過ごした。
 マナがひばり亭へ逃げこんできたのは、それから数日後だった。
 神殿へはバルスムス率いる本隊が真っ先に向かったはずで、そこから無傷で逃れてきた少女の強運に、メロダークはうっすらとした恐怖を覚えた。酒場で仲間たちに囲まれたマナはさすがに青ざめた顔をしていた。少女は他の探索者たちと同じように、暗い酒場の窓から外を眺め、埃たつ真昼の大通りを神殿軍の兵士たちが忙しく往来する様子を伺っていた。彼らが自分を探していることを知っているのか、マナの横顔はひどく緊張していたが、やがて、
「かわいそう」
 ぽつりとそう漏らしたのだった。
「神殿軍の人たちは、かわいそう」
 少女の左右を挟んだ彼女の友人たちが、きつい口調で何かを――無事もわからぬ彼女の養い親や、抵抗して殺されたという住人の名前や、彼らが彼女を探して昨日もこの酒場に来たことを言った。マナはうなだれたが、
「でも私は、あの人たちのこと、かわいそうだと思うの」
 普段からは思いもよらぬ強情さでそう繰り返した。メロダークはその様子を、少女たちの後ろから、ただじっと見つめていた。
 ――あの娘は――。

 東から奔馬のような荒々しさで押し寄せた暗雲が天を覆いつくし、雨が降りはじめた。
 夜はたちまち嵐に飲み込まれた。
 大波が押し寄せれば小舟は一枚の木の葉のように持ち上がり、高まりきった水が音を立てて崩れるのと一緒に水面まで落下した。櫂はもはや役に立たなかった。メロダークは小舟から振り落とされないように必死で船縁につかまっていた。少女の死体は背中に縛り付けている。
 ――俺が帰還しても、死体は河底に沈みましたでは、話にならん……。
 横殴りの風に舟が傾き、黒い水と白い飛沫が視界を覆った。雷が天の東西を横切り、嵐を白く切り裂いたかと思うと、雷鳴が轟いた。舟底が音を立てて何かにぶつかり、衝撃に体が浮かんだ。次の瞬間、メロダークは波間に投げ出されていた。水面に叩きつけられた体が、冷たい水の中に沈んだ。黒い水に白い泡が散る。己の見通しの甘さにひやりとし、本能で恐怖したが、次の瞬間、濁流が男の体を水面へ突き上げた。また雷鳴が轟いた。驚くほど近くに岸辺が見えた。
 夢中になってもがくうち、足が川底を捉えた。
 櫂を失った小舟は、いつの間にか岸の側まで流されていたようだった。すべてが幸運だった。岸にたどりついたメロダークは、岩肌をつかんで体を引き上げた。



  5

 いつ少女の死体を下ろしたのかわからない。気がつくと大河のほとりにいた。濡れた地面に仰向けになり、激しい雨が振り続けるなか、天を見上げている。手を伸ばして周囲を探ると、ぐっしょりと濡れたマントに包まれた塊があった。メロダークは安堵の息を漏らした。助かった。死体も無事だ。身を守る剣も杖も荷物も――エリオの手帳すら――失っていたが、それは問題ではなかった。
 口を開け、大粒の雨で喉を潤した。このまま眠りたいと思ったが、押し寄せてきた眠気に飲み込まれる前に男は起き上がり、マナの死体を引き寄せて肩に担いだ。
 夜明けが近いのか遠いのかわからぬ。
 視界を遮るものはほとんどない暗い荒野で、遠くに山の連なりが見えた。
 嵐は小舟をホルムの方へと押し戻したようで、メロダークは頭の中で地図を広げ、ここが町の西、大河が大きく蛇行するあたりだと見当をつけた。
 普通なら生前より重みを増すはずであり、全身を包むマントもぐっしょりと水を吸っているのに、少女の死体はやけに軽い。

 探索中、足を踏み外して地下の湖水に転落した少女を助けたことがある。腕をつかんで体を引き上げると、ずぶ濡れになったマナは彼を見上げ、ありがとうございますと言った。彼はその時なぜか、内心で激しく動揺した。夜になってから彼女の言葉とはにかんだ笑顔を改めて思い出したりもした。他人から礼を言われるのが久しぶりだったせいだ。あんな風に、感謝をこめて、真っ直ぐに彼を見て……。

 神殿育ちらしく不自由で不快な状況にも不平不満を漏らさぬ少女で、いつでも礼儀正しく、理知的に振舞おうとしていた。
 今ここにマナがいたとしたら、たいした嵐ではありません、さあ、行きましょう、そう言うはずだ。今は無理をしてでも進むべきです。私の後について来てください。
 町の人々が持て囃すように、英雄的な働きをしているとは思わなかったが、指揮官としては確かに優れていた。行軍はもちろん、突撃、撤退の呼吸を心得ていた。

 河岸を離れるにつれて地面は隆起した岩肌となり、景色は荒々しさを増していった。溜まった雨水は岩の表面を音を立てて流れていく。ひび割れた岩盤は歪な形で互いを押し合っており、メロダークはやがて道の途中に、斜めに傾いで上部がひさしのようにつきだした大岩を見つけた。多少は風雨がしのげるのを確認し、そこで夜明けを待つことに決めた。
 マナの死体を地面にそっと置いてから、腹に結びつけていた道具袋を外した。一方からの風雨を防げるだけでもましであった。すぐにでも眠りにつきたかったが、道具袋から減衰を抑える丸薬を出し、口に含んだ。強烈な苦味のあるそれを、メロダークは無表情にガリガリと噛み砕いた。彼の勘の通りなら砦が近いはずで、火を起こすのも魔法を使うのもためらわれた。震えながら岩陰に腰を下ろし、岩に背を預けた。濡れた外套を頭に被る。
 兵士に見咎められた場合、相手が自分を探索者と知っているならば、うまく言い含めることもできる――いや、少女の遺体に気づかれれば面倒か――探索の最中に、怪我をして死んだとでもいうか。
 町の遺跡だけではなく、領内の方々で、少女は探索者を率いて夜種退治をしていた。無茶をすると有名で、実際、彼から見ても無茶が多かった。
 横殴りに吹きつける風雨も尻と背に染みこむ冷たい水も不快であったが、もっと不快な夜を幾度も経験していた。メロダークは己の肉体の頑丈さを信頼していた。

 季節外れの嵐は、一刻ごとに勢いを増していった。天も大河も、何かに怒り狂っているようであった。

 微睡み、目覚め、また微睡むが、すぐに目を覚ます。
 雨と風は彼の眠りを徹底して邪魔した。
 気がつくと彼は、マナの死体を覆うマントの端をめくりあげていた。
 雷光がまた少女の顔を照らした。
 安らかな顔を見ると安堵した。
 まだ若い娘でもある巫女の寝顔をこのように見つめてはあまりにも無作法ではないかと彼は思い、「すまん」と口に出して謝罪し――そうするとマナが驚いたように彼を見て、目があえば頬を染めてうつむくような気がして――そこで眠りから覚醒した。
 夢とうつつの区別がつかなくなっている己に舌打ちした。

 風雨はいつまでも治まらなかった。
 メロダークは冷たく強張った体をほぐすために何度か立ち上がり、膝や肩をぐるぐると動かした。全身がだるくすべての関節が熱を帯びており、体には泥が詰まっているようだった。
 マナがもし今生きていれば、とちらりと思った。
 体調やら何やらに気を配ってやらねばならず、面倒が増えるところだった。あの娘は見かけによらず頑健な一方で、ひどく脆いところがあった。そう、あの宮殿で、悪夢にうなされて怯えていた夜のように……。
 いくつかの記憶が蘇ってきた。暖かで、楽しく、任務が終わればただちに忘却するよう彼が常に心がけている、そんな種類の記憶だった。苦痛や失敗からは学ぶことがあるが、幸福な思い出は勘と勇気を鈍らせる。探索者仲間との会話や、用意を整えて酒場に下りていく朝の気持ちや(この町での探索者としての彼の役割は驚くほどに単純明快だった。彼は絶対的な悪である夜種を殺し、災いから人々を守った)、戦いのあとに彼を気遣うマナのまなざしや。
 楽しかった。
 間抜けなことにそんな感情まで思い出してしまう。
 頭を振り、すぐにそれを振り払った。
 いつものように人との関わりを避けていた。メロダークはそこに、任務のためにいた。周囲の人々はそれぞれの欲望や希望を胸に遺跡での毎日を生きていたが、彼はただ、虚ろであった。

 メロダークさん。夕暮れの酒場で、壁際に立つ彼の元へ少女が近づいてきたことがあった。あちらで一緒にお食事をしませんか?
 一度は断ったが、遺跡やタイタスのなにがしかが探れるかと思いなおし、彼は顔見知りの探索者たちとの食事の席についた。マナは彼の隣でいつもよりよくしゃべり、大きな声で笑い、彼の顔をたびたび見上げた。赤い顔をしていることを他の探索者にからかわれ、「お酒のせいです……お酒を飲んだからですよ」と恥ずかしそうに繰り返していた。
 彼は無言で彼らの賑やかな会話に耳を傾けながら、赤く染まった頬を押さえる少女の手の小ささに気を取られていた。他のすべてが白すぎるせいか、少女の爪はまるで紅で染めたかのように見える。最初は、異形、と薄気味悪く感じていた少女の体の色彩に、その頃の彼はすっかり慣れていた。それどころか、綺麗だ、そのように思うことまであった。



  6

 昼を過ぎた頃、嵐は去った。厚い灰色の雲は天を覆ったままであった。
 死体を背負い、風が吹きすさぶ荒野を歩いた。ごつごつとした岩盤がむき出しになった荒野の光景は、彼が少年兵時代に見慣れた景色とよく似ていた。
 死体の運搬など、普段ならただ忌まわしく面倒なだけの仕事であるはずだったが、疲労と空腹に気持ちも体も弱っているせいか、奇妙なことに、マナと二人きりで荒野を旅しているような、そんな安らかさを感じた。
 これを届ければ終わる。これさえ届ければ……。
 自分にそう言い聞かせながら、歩を進めた。公道を使うのは躊躇われ、メロダークは河沿いの荒れた、道のない場所を、死体を背負ってゆっくりと歩いた。誰かに見つかり何をしているのかと問われたなら、ホルムとは逆方向に向かっていることをどう説明しようかと考えていた。

 嵐のあとの土地は泥にぬかるみ、あちこちに茶色い水たまりができていた。大河の水の匂いが彼の鼻腔をくすぐった。嵐が去ったにも関わらず、相変わらず暑い日であった。

 いくつかの異常に彼も気づいていた。
 死体から匂いがしない。
 生前と何ひとつ匂いが変わらぬ。
 それだけではない。人は死んだあと筋肉が一度硬直し、半日ほどのあいだにまた柔らかくほどけていくものだが、少女の体は一度も硬くなっておらず、ずっと柔らかなままだった。まるで眠っているかのように。
 メロダークは一度足を止め、河沿いの潅木の茂みに隠れるように休息をとった。
 水辺で大河の水を飲み、最後の乾パンを流し込んだ。マナの死体に手を置き、マントは剥がさぬまま、彼の大剣が切り裂いた胸元のあたりを触った。厚い布地ごとずぶずぶと親指が沈み込んでいった。間違いなく死んでいる。傷口は塞がっていない。いるはずがない。

 刃先が少女の体に食い込んだ瞬間の己の思わぬ動揺や、あとは彼の意志とは無関係に鋼が慣性に従って少女の骨を砕き、体内に押し入っていくあの感触を思い出した。
 驚いたように両目を見開き、彼を見つめていた。
 いつものように、真っ直ぐに。
 殺される瞬間に、自分は死ぬ、そう悟る人間とそれがわからぬ者がおり、少女は前者であった。その瞳の色でわかった。
 ――こんなところまで勘がよい。
 メロダークがそう思った次の一瞬で、彼の手が勝手に動き、剣を引いた。少女の胸元から赤い血が噴き出し、その体が崩れ落ちた。
 さしたる感慨はなかった。これまでのいくつもの死にまた一つ新たな死が重なって、これは憑代だから自分に罪はなく神殿軍にも罪がなくこの死によって世界全部が救われた、ほらこれにもまた言い訳が用意されている、いや死は単なる死だ、それが一体なんだというのだ?
 いつものことだ。
 いつもの。繰り返してきた。いつもどおりの……。

 右足を出す。左足。右足。
 歩け、と命じれば歩いた。彼の肉体は命令に従うだけのただの器だった。殺して連れてこいと言われたから殺した。主はバルスムスであり、大河神殿の法王であり、神々の父ハァルであった。彼は自分の正義を信じた。正しいことのために流した血だと思う。裏切りではない、元から仲間ではなかった。タイタスの憑代を始末したことへの罪悪感はなかったが、あの夜、彼の腕の中で怯えていた少女への奇妙な申し訳なさがあった。
 ――私の体を、バラバラに。物のように……。
 自分の心はあの恐怖に、なぜあれほど共振したのであろう?


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