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シャルクー来たりて 1

タイタス16世





 文字と物語の都市であった。
 始祖帝は言葉をひとつに定められた。
 文字は記録であり歴史であり、疲れも衰えも飽きも知らぬ最良の教師であったがゆえに、アルケアの民は鍛えられた。
 
 古代アルケアにおいて、大図書館はれっきとした官庁である。
 大図書館の役人は司書と書記に別れ、司書は公文書の保管と公布を行い、書記は公文書の執筆と複写を行った――すなわちこの時代のアルケアで図書館書記の肩書を持つ人間は、学者であり、歴史家であり、作家であった。書記の職は名望家の一門に代々引き継がれ、タイタス十六世の時代、帝国図書館の書記長を勤めるのは貧相な容姿の小男であった。
 
 高く突きだした鼻の形といい痩せた体といい、鶏によく似ている。そのうえ歩くときに、頭を前後に揺らす癖があった。
 黄ばんだ古書の頁をめくらせ、あるいはペンを持たせれば優秀だったが、書庫を離れれば、周囲の憫笑を誘う初老の男に過ぎない。大図書館の書記長は重職なのだが、この書記にはどうにも態度が弱い。意見を求められれば、分厚い瞼の下からおどおどとした目で左右を見回し、「はい――いえ――はあ、私にはどうもわかりかねます」とあやふやに呟くのが常で、その首をめぐらす動きまで鶏に似ている。
 もっともその臆病さや態度を軽んじられ笑われてはいたものの、人柄には目立った棘があるわけでなく、小心な分真面目一辺倒なので、敵もいない人間であった。早くに妻を亡くし、その忘れ形見の娘と二人で暮らしているが、今年十六になる娘は父親に似ぬ美形だという噂で――若い連中に娘のことを尋ねられたときにはじろりと嫌な目つきをむけ、沈黙するが、男がわずかな不快感を示すのはそのときくらいだ。あとは図書館の作業台にむかい、気弱でしょぼくれた表情で、黙々と執筆あるいは筆写を行っている。
 朝の鐘にあわせて出勤し、夕暮れになればまっすぐに帰宅する。
 書記は大図書館という籠の中で暮らし、歴史書という卵を産む鶏のような暮らしを送っていた。
 この書記の名前は残っていない。
 アルケアでは完成した公文書からは記録者の名前が削られることになっていた。
 人よりも文字、文字よりも物語という帝国だった。
 
 宮殿の前に死体を吊るすようになった。
 皇帝であれ辺境の王であれあるいは単なる追剥どもであれ、敵対者の死体を吊るす行為は一般的であるが、場所が異常である。
 吊るしは敵への威嚇と呪術的意味をこめて境界線上で行われる事柄であった。アーガデウムは魔術的な計算の上に建てられた都市であり、ならば境界線はこの偉大な白い都を囲む城壁の上のはずである。歴代の皇帝は王であると同時に偉大なる魔術的知識の持ち主であり、十六代皇帝もそれを知らぬはずはない。なのに彼は死体を宮殿の前に吊るすよう命じた。
 一体であるはずの宮殿と都に、境界が出来あがっている。
 首都には十六世の設立した賢者の学院があり、宮殿には怪しげな目的のために魔術師たちが集められている。しかし魔術的見地からこれを非難する者は誰もいなかった。皇帝を真っ向から弾劾した神官たちは、今宮殿を見下ろす場所で、鳥たちに口や耳をついばまれている。
 書記は己の足元に視線を落とし、できるかぎり足早に宮殿の前を通り抜けた。死肉で太った鳥かと思うと、頭上で飛び交う鳴き声すら恐ろしい。十万、二十万の大軍の無残な死や、酸鼻を極める拷問の様子は眉ひとつ動かさず読み書き記すが、現実では指先を紙で切っただけで、滲んだ血に目を回し気絶するような小心な男だった。ならず者が出ると聞けば夕暮れには外出を控え、闘技場から運びだす死体の通り道だというので、瀟洒な住宅街から町の西へと屋敷を移した。
 吊られた神官たちの無念さと苦痛を想像しただけで、書記の心臓はばくばくと音を立てる。死体が吊られるようになって以来、どこであろうと空を見上げるのはやめた。
 なんという恐ろしい都であろうと彼は思う。
 朝日が書記の足元に薄い小さな染みのような影を作っていた。
 
 宮殿の謁見の間には、書記の同僚たちである大図書館の役人たちが全員顔をそろえている。急な召集であり朝もまだ早い時間だったが、そのことで文句を言うものは当然誰もいない。青ざめた顔には緊張の影があり、囁きすら交わされない。つい先日、この謁見の間に集められた議員の長老たちの一人が、謀反を企んでいたという理由で処刑されたばかりだ。白い大理石の床にはまだ血の染みが残っている。警護のために槍を構え壁際に並んでいる兵士たちが、集められた図書館員たちの目には、処刑人のように映った。
 しかしその日、久しぶりに彼らの前に姿を現した皇帝は、上機嫌だった。顔色もよくいつもより十ほど若返ったようにも見える。玉座につくなり、宣言した。
「アルケアの歴史を作る」と。

 図書館員たちが全員、息をとめ、同時に吐いた。
 謁見の間にはその吐息と一緒に狼狽と動揺がさざ波のように広がった。皇帝はそれには気付かず、機嫌のよい声で続ける。
「歴代の皇帝の偉業を記した大著だ――もちろん余のことも含め――完成すれば地の果てに至り七代の七代あとに至るまで、アルケアを治める余の偉大さを知るだろう。全力をあげて尽くせ。金はいくら使ってもかまわんぞ。完成まではどのくらいかかる?」
「素晴らしいお考えでございます。しかし……おそれながら……おそれながら陛下」
 図書館長がそろそろと口を開いた。
「アルケアにはすでに歴史書がございます。三万七千と八百、五部ずつの揃えで始祖帝から……図書館が設立される以前、神代からの記録がございます」
 皇帝の目が剣呑な光を放った――玉座の両脇に控えた衛兵たちが威嚇するように、あるいは命令を待つように垂直に立てた槍を握りなおした。
「確かにある。だが余はあれに満足しておらんのだ。あれは余のための歴史ではない。あれは……あれは……あれは余ではなく父や父祖たちの……あの始祖帝めの……」
 突如激昂が発作のように皇帝を襲った。
 細い首が前にがくんと傾き、顎が落ちる。両目が張り裂けそうなほど大きく見開かれ、ぽかんと口が開いた。全身を痙攣が走る。両手が玉座の肘かけをつかみ、倒れこみそうな体を支えた。死に瀕した人のような動きだった。幾人かは真剣に、皇帝が本当に死ぬことを望んだだろう。しかしやがてその震えはおさまり、顎を上げた皇帝の顔にはどす黒い狂的な怒りがみなぎっていた。意見した館長を見やり、天を切り裂く雷のような声で言った。
「余にむかって“しかし”だと?」
 館長の顔の、顎髭に包まれていない部分からはすでに血の気が引いていた。周囲の人々は、まるで彼が毒の空気を放っているとでもいいたげに、いっせいに彼の側から離れ、彼の周りには円状にぽっかりと空間ができあがった……そこに一人だけ、トーガを着た人物が残っている。例の怯えた顔の書記だった。
 物思いにふけっていた書記は、自分一人が死の輪の中に存在していることに気づくのが遅れた。ふと顔をあげれば、皇帝が怒りに燃える目で己を見下ろしている。
 気づいた瞬間に狼狽し、皇帝にむかってがばと平伏する。図書館員の青いトーガがひらめいた。床に体を投げ出す礼は、この時代のアルケアでも一般的ではない。命乞いのために行うくらいで、しかしこの場では皇帝の怒りの対象は書記の後ろにいる図書館の館長であり、つまり何もかもがずれているうえに大げさすぎる。場違いなこの行動に、かすかな失笑が人々から漏れた。
 皇帝の表情がふとゆるんだ。
「おまえは……覚えておるぞ。余の子供時代に、起居官をやっておったな。退屈な時には、余はおまえに随分本を持ってこさせた」
「はあ……ええ……ありがたきお言葉にございます……私は……ただ……光栄に存じます」
「そうだ、覚えておる。余はすべて覚えておるのだ。発条仕掛けの玩具も黒い奴隷も東方の珍獣もよいが、夜になれば、おまえが持ってくる本が余の一番の楽しみであった」
 皇帝の顔を覆っていた狂気の雲は晴れ、今は一筋、月の光のような理性が現れていた。その理性が皇帝の心の底に眠るものなのか、単なる子供時代の彼の理性の残照なのか、謁見の間にいる人々には判断がつかない。いつのまにか皇帝は怒気を解いていた。玉座に座りなおすと、書記にむかってゆったりとした微笑を見せた。
「あの頃にはおまえのことを随分な年寄りだと思っていたが、まだ勤めておったのだな。相変わらず鶏のように歩いておるのか? 余はよくおまえの真似をして、女官たちを笑わせたものだ」
 謁見の間に、今度はさっきよりも大っぴらな笑い声が湧きおこった。書記は耳まで赤くして、「恐れおおい……まったく……はあ……」とますます縮こまった。笑顔のままで皇帝が言った。
「よかろう、おまえに任せよう」
「は」
「アルケアの歴史書だ。余のための歴史だ。鶏のように励むがいい」
 再び謁見の間には氷のような沈黙が満ちた。
 
 夜になっても書記は自宅で頭を抱えていた。
 ――困ったことになった。
 アルケアの歴史はすでにある。
「歴史を作れ」という命令は、狂人めいているが狂人の発想でも着眼でもなかった。彼の命令は単純極まりない。大図書館に収められているすべての歴史書の書き換えである。新しきを献上せよという命令の前には古きを破棄せよという圧力が含まれ、図書館員たちがそんな命令に従えるわけもない。
 アルケアは歴史に登場したその時から統一された文字を持つ国であり、記録と編纂と製本の技術を発展させてきた国でもある。図書館員たちは記録を守るため、長く静かな戦いを続けてきた。戦いの相手は時には暴動を企む民衆であり、時には長い雨期であり、時には皇帝その人であった。最後の敵が最も強大な敵であった――タイタス十世の時代には、図書館員とその一族はできるかぎりの歴史書を抱えて辺境へ逃げ出したし、その際に散逸し失われた記録を記憶と口伝で埋めるには、偉大なる十一世の治世の平安がまるまる必要であった。なんとか体裁だけを整えることができたと思えば、息をつく暇もなく十二世が辺境の地の記録を全て燃やしつくせと命令し――燃やされたのは歴史書の数々だけではなく図書館員たちもで、本と書き手は同じ火でもって清められた――そして今度は、これだ。
 ――連中ときたら、歴史を作ることばかりに熱心で、残すことにはまるで敬意を払わん。
 書記は苦々しさより悲しさをもってそう考える。
 背後から柔らかな光がさした。
「お父様」
 入り口に立った娘が燭台を掲げ、暗い部屋に座りこんだ父親の様子をうかがっていた。
「どうなさったのです、こんな遅くまで」
「ああ、いや、なんでもない」
 室内へ入ってきた娘は、燭台を卓上に置いて空いた椅子に腰かけ、父の目をじっと見つめた。
「何かお悩みなのではありませんか?」
 母親に似た怜悧な美貌の娘だった。
 鶏には特に似ていない。
 普段は無口だが口を開けば万事に簡明直截で、ふんわりとした曖昧さや優しい気遣いに欠ける。何につけても態度も言葉もはっきりさせない書記とは対照的だった。父親の彼から見れば、こんなに気が強く頑固では嫁ぎ先で――といっても当面はそのあてもないのだが――いらぬ苦労をするだろうと思う。
「おまえも母さんに似てきたのう」
 もぐもぐと彼が言うと、娘の顔に影がさした。
「またそうやって話をおそらしになる。宮殿で何か……まさか陛下のご不興をお買いになったわけではないでしょうね」
「逆じゃ逆じゃ」
 書記は結局手短かに皇帝からの命令を話した。ききおえた娘からは憂いの曇りが晴れるどころか、ますます不安が増したようだった。
「陛下も無理なことをおっしゃいます」
 と、やはりこれまたずばりと言った。
「館長様や他の方々は何とおっしゃっているのです?」
「陛下から任を受けたのは儂だから、儂に任せると。しかしなあ、もちろん皆が反対だよ。反対だとも。このような命令に従えるわけもない。十二世は書を燃やしたが、全てを破棄せよとまではお命じにならなかった」
 書記は声をひそめた。
「陛下はとうに正気を失っておられるのだ」
 書記も娘もうなだれ、部屋には沈黙が落ちた。このような話をしていることが他人にわかれば、書記の首が飛ぶだろう。帝都のすべてが既知であり、しかし決して公言されない言葉であった。
 
 ――皇帝は気が狂っている。
 
 魔術の研究に力をいれだしたころには誰もわからず、罪人を処刑場ではなく宮殿内で殺すようになった時にも気付かず、河神教団の司祭たちを吊るしはじめてもまだ理解できなかった。あるいは最初から皆が理解していたのだが、そんなはずはないと思いたかったのかもしれない。皇后は寝所から追われ、たった一人で夜を過ごす皇帝は、夜な夜な血も凍るような叫び声を上げているという噂だった。 
 最初は反逆者たちが処刑され、次には皇帝に反対した者が処刑され、最後は違う意見を持つ者が処刑された。
 タイタス十世は平等に死を賜ったが、十六世には生と死を分ける明瞭な線があった。彼に従う者は生かし、逆らう者は殺す。――賢者と勇者を駆逐するには一番いい方法だ。逆らう者がいなくなった今、皇帝は処刑場の空白を埋めるためにか、気まぐれに人を反逆者に仕立て上げているように見える。逮捕される者は後をたたず、処刑のない日はない。
 彼は狂っている。
 帝国の議会で皇帝は「奈落から死者どもが攻めてくる夢を見た」と言ったという。「余は世界を救うためにこの身を捧げるつもりだ。オベリスクを建てその中に生贄を封じれば帝国は永遠となるであろう。おまえらも含めて、帝国の人民はオベリスクの礎となるための家畜だったのだ」と。参列した議員たちは言葉もなく彼らの主を――金の冠を被り紫のトーガを羽織った、高貴な人を見つめていた。誰ひとり彼にそれは愚者の夢だ、人民は家畜ではない、生贄など必要がないとは進言しなかった。そのような勇気を持つ者は、すでに宮殿から姿を消していた。

 書記は賢者でも勇者でもない。
 彼はただ黙々と歴史を記録する者であるが、帝国の人民である以上、いつ気まぐれな死に晒されるのかもわからない。
 ――死ぬのは嫌じゃのう。
 しみじみとそう思う。皇帝が拷問吏を雇い、彼らに存分に腕をふるわせているという噂を思い出すと、体が震える。帝都の人間たちは皆、皇帝が気まぐれにふるう刀の上で死に物狂いで踊っており、書記とて例外ではなかった。
 
 大図書館の最上階に、新しい作業室が与えられた。
 元は館長の部屋だった場所だ。都の周囲を見下ろす広い窓がついている。
 書記は例の落ち着きのない目で周囲の様子をうかがい、「はあ――なんと……私はいつもの場所で十分で、これは……そもそもここはあなたの……」ともぐもぐ呟いた。広い窓など嬉しくもない。書物が焼ける。館長は彼の肩をしっかりと抱き、「陛下のご命令だ」と脅すような声で言った。
「しかし、館長、私は……あの……新しい歴史書など、そのような……」
「言うな言うな。どこに耳があるかはわからん。……ご命令通りにやるのだ。歴史書の編纂に時間がかかるのは陛下とてご存知のはずだ」
 年老いた館長と書記はそこでしっかりと互いの目を見交わし、無言のうちにある『計画』を読みあった。書記の喉がごくりと鳴った。
「……つ、つまり……やれ、と。書くのですな」
「そうだ。書くのだ。しかし時間がかかる。陛下は気まぐれなお方だ。それにお忙しい方でもある。いつまでも歴史書などに関わってもおられまい」
 館長は大丈夫だというように彼の肩をもうひとつ叩き、階段を下りていった。
 広い部屋には、書記だけが残された。

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