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シャルクー来たりて 2


 宮殿の最上階のテラスからは、広場の柱に下げられた死体がよく見える。
 図書館長は恨めしげな顔で、風が吹くたび、ぐるり、ぐるりと揺れていた。生前は見事に整えられていたまっ白い顎髭は、今は灰色に霞んで見えた。
 半円形に突きだしたテラスの中央に立ち、帝都を背にした皇帝は、今日も機嫌よく書記を見つめている。
「それで余の歴史書はどうじゃ?」
 余の、という言葉に力が入っている。
 書記はまた平伏したくなった気持ちを必死でこらえていた。皇帝の背後に見える館長の死体も恐ろしかったが、何より、皇帝と顔と顔をつきあわせているのに耐えられなかった。まず彼の顔を見るのが恐ろしい。どす黒い狂気の裂け目がいつぱっくりと口をあけるか予想すらできない。宴会の席で弦の音にあわせ機嫌よく歌っていたかと思えば、次の瞬間、紫水晶の杯を叩き割り、楽師を処罰せよと絶叫する方である。和音を多用する曲調が不敬だという無茶苦茶な理由であった。楽師は八本の指を落とされ、その日のうちに大河に身を投げたという。
 自分の顔を見られることもまた恐ろしかった。もしも己の顔のどこかに反逆の兆しが浮かんでおり――浮かんでいるように思われれば――それはすなわち拷問と死を意味する。書記は臆病だ。死の大鎌をふるい続ける皇帝に逆らうつもりなどさらさらない。しかし、もしも皇帝がその指で人を指し、「あれは反逆者なるぞ」とつぶやけば、誤解だ、と叫ぶ暇もなく処刑されることだろう。最悪なのは、誤解だ、という悲鳴を耳にする人間の全てが誤解であろうと確信し、それでも死刑は執行されるであろうことだ。帝都では、真実に胡桃ひとつ分の価値もない。
「はあ……ええ……まずは始祖帝の時代の歴史書と神話をすべてさらい直すところから始めております……何しろ量が膨大でして」
「始祖帝の時代から?」
 皇帝の声に微かな曇りを感じとり、書記は――目を伏せたまま、慌てて言いなおした。
「歴史は蛇のようなものでございます。一番細く小さな尾の先からという意味でございまして……蛇を捕らえるのに牙を持つ頭からかかるのは、私の手にはあまります」
 少し考え、皇帝は錆びた金属が擦れるような声で笑った。
「余が牙を持つ頭か」
 テラスからは帝都が一望できた。タイタス十一世の時代に着工されいまだに完成していない天高くそびえる四つの守護神殿、中央にそびえる大神殿、網の目のように巡らされた街路は必ずどこかの広場に通じるようになっている。その帝都中に数多くある広場のあちらこちらに、大きな穴だけが掘られ、周囲を柵で囲われている。帝国を守る魔術的なオベリスクを建てるという計画は、すでに転がりはじめている。
 皇帝に招かれおそるおそる隣に立った書記の目は自然と下方へむかい、帝都のあちこちに不自然な間隔で掘られた穴をたどる。整列と均一と調和は秩序であるがゆえに善であり強い力を持ち、その逆は綻びであり弱点となる。歴史書と古代の予言に通じた書記の目は、ここにもまた、帝国の衰亡の予兆を発見した。
「この帝都はじきにもっと強くなる」
 皇帝が言った。
「余はアーガデウムを永遠の都とするつもりだ――奈落の混沌どもとの戦に備えてな」
 書記は深々と頭を下げた。
 亡霊や悪鬼たちが地上に溢れ、アーグ人を滅ぼそうとしているという物語は、書記にはいっこうにぴんと来なかった。そんなことをしてなんになろう――亡霊どもとて暇ではなかろうし、もし本当にその時が近づいているならば、皇帝ではなく巫女や神官たちが神託を得るだろう、それが筋というものだ――そう思うのである。
「陛下の御威光により、アーガデウムの栄えはとこしえとなることでございましょう」
 皇帝は笑い声をあげた。
「鶏のくせに世辞まで言いおるな」
「はあ……いえ……ええ……とんでもございません」
「よいわ、余はおまえらに従順しか期待しておらん。小人どもに余の苦悩や世界の理が理解できるはずもない。余がどれだけ人民のために心を砕いておるのか……この都のためなら余は魂さえ投げ打つ覚悟でおるのだ。誰もそれを理解せん。余の言葉を否定し……否定し……否定して……考えるな、ただ己らの言うことをきけと……余から奪うことしか考えておらん。おまえらが讃えるのは父上の……前帝の偉大さばかりではないか」
 皇帝の声は段々と小さく途切れがちになる。彼の中の狂気がまたしても彼を捕らえつつあった。しかし書記は皇帝の隣におり、せわしなく上下を繰り返す喉仏や恐怖に震える頬や落ち着かなく移動する針のようになった瞳孔は、無防備な横顔の輪郭の中で、皇帝を頼りない、泣きだしそうな幼児のように見せていた。
 皇帝は最初から怪物として存在していたわけではない。子供時代の彼は、当時から癇は強かったものの、こまっしゃくれた口をきいて周囲の大人たちを楽しませ、庭園の小鳥の死に落涙し、誕生日の贈り物に目を輝かせて喜ぶような少年であった。属州から贈られてきた美しい馬に乗り、ほがらかな笑い声をあげていた幼少時代の彼の姿を思い出し、書記はいつもの恐怖とは違うわずかな悲しみを覚えた。もっと違った人生があったのではないかと――太古の歴史を前にしたときと同じ感慨が胸を満たした。書記の目は皇帝をすでに歴史の一コマとして捕らえている。
 しかし皇帝が振りむき、血走った眼が自分に据えられた瞬間、書記の心はまた恐怖だけに染められた。皇帝は片手をあげ、トーガをひるがえし、まっすぐに吊られた館長の死体を指さしていた。
「愚か者はいくらでも取り替えがきく。余は反逆者を決して許さぬ。世界の終焉は近づいており一刻の猶予もない、余のまつりごとを邪魔する者は決して許さぬ……余の命令をないがしろにする者は生かしておけぬ……よいか、歴史書はどのような物になるのか、余は考えた……考えたのだ……誰も反論などできぬように」
 皇帝の指も目も冠も、すべてが震えていた。
「アルケアの偉大さを知らしめる記録だ……題名は『神帝記』という」
 書記が低く垂れた頭の上で、至高の権力者たる皇帝の声が響いた。
「アルケアの歴史はそれだけでよい。『神帝記』が完成した暁には余はそれ以外のすべての歴史書を広場に積み上げ、燃やすつもりだ。炎と煙が始祖帝の目に映るようにな――さぞ気持ちがよかろうよ。タイタス十世はアーガデウムという場所を破壊したが、余は積み上げられてきた時を壊すのだ。かような偉業をなしとげた者がおったか? 後世に伝えられねば、偉大さが何となる? 始祖帝めが歯がみして悔しがるぞ――余だ。世界が誠の権力者として記憶するのは、始祖帝ではなく余の偉業なのだ」


 2


 処刑のあとに発表された館長の罪状は皇帝への反逆罪であった。怠惰にて勅令を行わず、謀反の心で皇帝に逆らい……館長は深夜、自宅で寝ているところを衛兵たちに踏み込まれ、逮捕され、朝日とともに吊るされた。あるいは『誤解だ、誤解だ』と叫んだのかもしれない。書記には知りようもなかった。
 わかるのは、館長が図書館員の司書と書記たちを集めて、新しい歴史書の編纂については気にしなくていい、あれは書記長一人が行う、貴君らは通常通りの業務を行えと宣言したこと、その七日後に彼が連行されたということだけだ。大図書館の中にすら密告者がいるということで、あるいはそうではなく思慮の浅い館員がうっかりと身内に館長の言葉を漏らし、それが回りまわって衛兵の耳に届いたのかもしれないが、どちらにしても――この件に関しては口をつぐむべきらしかった。
 大図書館の最上階は元の通り図書館長の部屋となった。皇帝は書記を新しい図書館長に任じ――肩書きは変化したわけだが、混乱を避けるために彼を書記と呼び続けることにしよう――引き続き新しい歴史書、いや『神帝記』の編纂を命じたのであった。
 朝の鐘にあわせて出勤すると、書記はその部屋に行き、鍵をかけ、作業台の前に腰を下ろす。そうして最初の数日は頭を抱えていた。
 館長に任命されてすぐ、書記は図書館の司書たちに、保管されているすべての公文書と記録の再点検を命じている。書記たちが新しく文書を作成するたび、新しい目録が作られる。すべての文書と目録は、太古に大賢人シャルクーが発明した総記法に従い秩序正しく美しく分類・管理されていたものの、数が増えれば這いよる混沌に捕らえられるのは世の摂理であった。
 広大な図書館のあちらこちらには番号も記号もつけられていない棚があり、そこには分類不能な、あるいは手違いで二重三重に分類され、その結果行き場を失くした不幸な書物の吹き溜まりが出来あがっていた。図書館内のすべての書物を目録と照らしあわせ、書名と内容と作成年に間違いがないかを確認し、一文字の違いもないようにせよというのが書記の命令だった。司書たちの「最低でも十年はかかりますよ!」という悲鳴を物ともせず、「陛下のご命令だ、手抜き手ぬかりは一切許されぬぞ。館員で一丸となって歴史書を作りあげるのだ――土台は強く広くしっかりと作らねばならぬ。そのための時間はかかる旨、陛下にはすでに申し上げておるから安心せい」と重々しく言い渡したのは、これまで政治的駆け引きの生臭さからもっとも離れたところにいたこの男にしては、まず上々の仕事ぶりといったところだった。
 これまでの「はあ……ええ……まあ……わかりかねます」と薄笑いを浮かべる姿とは打ってかわったこの態度に、図書館員たちは密かに互いの目を見交わした。やがて書記に集まった視線には、幾ばくかの尊敬の念が含まれていた。
 つまり書記は、同僚たちによって、図書館長として認められたのであった。
 この速やかすぎる承認は、書記の態度だけに負うものでもなかった。前館長の処刑により、館員たちは皆、自分たちが皇帝の気まぐれで殺される身の上であることを思い出していたのだった。書記がこれだけ力強く断言したからには、皇帝の不興を買う何かがあった場合、彼が責任をとるだろうという淡い期待もあった。
「目録を作り終えたその後は……?」
 司書の一人がたずねた。
「どうなります? 書物は……どこまでが歴史書に含まれるのです? タイタス四世の著書は……イクタイエスとの対話録は……箴言集も……ダーマディウス伝の原本と外典は……エラカの沼の書は……十世の時代に、ヴァラの娘の粘土版を抱えて逃げたのは私の曾祖父です。彼は粘土版の重みのために腰を壊し、ロバの上で生涯を終えました……」
「すべては陛下のお心次第だ。今はどうともわからん。私には言えん……頼むから目録は漏れなく記してくれ。シャルクーの八部法を再読し、思い込みや勘違いで間違った分類を行わぬよう。悩んだ場合は二人以上で相談して結論をだしてくれ」
 そういった書記の声になにかの含みを感じ取り、書記たちは再び、今度はさっきよりもおおっぴらに顔を見合わせた。
 ――新館長には、何か考えがあるらしい――。
 公文書の作成と歴史の検討に生涯を捧げてきたような、真面目一辺倒の男である。歴史書の執筆以外の部分で、彼が何を考えているか、知る者はいない。
 書記がそこはいつもの通り、鶏のように頭を動かしながら去っていったあと、司書たちは命令通り、目録と公文書の点検を開始した。

 大図書館の最上階で、書記は一人作業台にむかい、頭を抱え続けていた。
 考えることは山ほどあった。
 歴史書の題名は『神帝記』……それだけがわかっている……皇帝が好む彼のための歴史とはなんであろう。皇帝は多くを語らない。沈黙のうちに周囲が全てを汲み取ることを好む。その命令を読み間違えれば即座に死が賜れる。死ぬのは嫌だわい、と書記はまた思う。図書館長の死体を思い出し、まだ胃がぎゅうっとねじれたように痛む――館長の死以来、あまりの恐怖に書記はずっと腹の調子を悪くしており、食べたものを皆吐いてしまう。娘は毎朝書記のために山羊の乳と新鮮な卵で麦の粥を作り、なんとか胃まで流しめるその粥のおかげでようよう命をつないでいるようなものだった。痛む胃をさすり、とにかく死ぬのは恐ろしく、かといってアルケアの歴史書を燃やさせるわけにも行かぬ。
 書記にはひとつ考えがあって、ただしこれは雲をつかむような、茫洋とした、それこそ狂人のような思いつきであった。例えば書記が館長となる前にこの考えを他の人間からきかされ、実現が可能か否かと問われれば、十回でも百回でも否、否、否と答えたであろう。
 書記は広い窓の外を眺めやった。
 ぎらぎらと輝く太陽が帝都の整然とした街並みを照らしていた。

 3

 宮廷へ行けば、人々が丁寧な挨拶をするようになった。
 書記の名を呼びとめ、深々と頭を下げ、いくらでも立ち話をしたがる。これまでは書記の雑談を鼻を鳴らして小馬鹿にしていた人々が、大きく見開いた目を輝かせ、うっとりとした口調で「まーあ、ではアークフィア大河周辺の開墾は、暦を統一して種撒きの時期を画一化したことによって大きく飛躍したのですね。なんと素晴らしい」と感嘆の声をあげるようになった。時には宮廷の廊下に、書記と話すための列ができる。
 書記はそれを単純に、自分が図書館長に任命されたせいだと考えていた。親しげに話しかけてくる堂々たる体躯の兵士やたおやかな婦人たちにへどもどと対応しつつ、内心では、大図書館に人々がこれほど敬意を払っているとは、書記長のあいだはまったく知らんかったわい――そうひとりごちていた。
 人々が書記に近づいてくるのに、大図書館はまったく関係がなかった。
 書記は皇帝から特別な寵愛を受けている――宮廷でそう噂になっていると知れば、書記は、ぎゃっと叫んで腰を抜かしたことだろう。
 ――皇帝陛下の怒りに触れたのに何のお咎めも受けず、この男を昇進させるために大図書館の館長が処刑された――そういう噂だった。書記を取り巻く高貴な身分の人々は、ある意味では命をかけて彼に取り入ろうとしていた。書記はそんなことは知らぬ。気まぐれに皇帝に招致されるたび、首を振りつつ宮廷へ赴き、皇帝のひとりごとのような語りに耳を傾け、『神帝記』の進捗具合を報告するのだった。
 皇帝の望む歴史とは何か、書記はまだ把握できておらず、とりとめのない会話の断片から、彼の望む歴史を推測しようと努めていた。
 十六世が即位してからの部分はわかる、予想もつく。記録されている彼の施政のひとつひとつを取り上げ、詳細に描写しただ称賛すればよい。ただし単なる称賛では足りない。皇帝が下した決断のひとつひとつの意図を読み取り、歴史の中から類似した事件や決断を見つけ、二つないし三つ四つの事実と皇帝のそれを比較する。『ゆえにこれは歴史的見地から見ても大変な英断であったと言えよう』そう結論を出すために、書記は始祖帝から十五代すべての歴史書をひっくり返し、これまでに培った知識を総動員した。アルケア千年の歴史と大図書館のすべてを持って、書記は、タイタス十六世にごまを擦った。
 ――いやはやもって、大変な贅沢だわい。美女と山海の珍味でのもてなしの千倍も贅沢じゃ。
 作業台に身をかがめ、ペンを手に流暢なアルケア書体で十六世の治世を誉めたたえる文書を記しつつ、書記はそうつぶやいていた。 腕と腰はその夜のうちに美女から離れねばならず、目と舌と鼻を喜ばす豪華な晩餐は、喉を通ればそこで終わる。だが称賛はいつまでも頭に残り、それが歴史と絡みつき紙に記され複製されるのであれば、人間が消えぬ限りこの世に生き続けるのだ。
 永遠の快楽に溺れぬ人間がどこにいよう――歴史に耽溺した書記はそう思う。
 ひと月が経って、タイタス十六世治世の一年だけをまとめた、『神帝記』の下書きが出来あがった。
 緋色の絹を張った盆の上にたった二枚の羊皮紙を乗せ、それが最初の『神帝記』であった。
 その日の謁見の間には大臣や大魔術師や将軍たちが並びおり、書記の姿はひときわ貧弱に見えた。名前を呼ばれ、恭しく進み出た書記は、
「恐れながら、蛇の頭に触れてみました」
 そう言って頭を下げ、近づいてきた小姓に盆を渡した。書記の肋骨の中で、心臓がぱたぱたと、それこそ鶏のように駆けまわっていた。
 玉座の皇帝の元へと盆が差し上げられ、皇帝は尊大かつ優雅な手つきで『神帝記』の断章を取り上げた。
 ややあって、羊皮紙をつかむ皇帝の手がぶるぶると震えだした。

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