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幻視する彼方 1

エンド後 / マナ メロダーク テレージャ

 
 鏡の割れる音がした。




 床の上には鏡の破片が散らばって、夕暮れの日の光にきらきらと輝く欠片のひとつひとつ、どれひとつ同じ形のない、そのすべてにどれひとつ違うことのない自分の顔が映っている。
 百にも砕けた破片の中で、不安げな表情をした自分が、いっせいに赤い目を見開き白い髪を揺らし、その不思議な光景に見とれ、ほんの一瞬、すべてを忘れた。




 子供の頃から聞き慣れた大河の波音を、今日はやけにうるさく感じる。低いざわめきは髪に手に体にまとわりついてくるようだ。
 鏡の破片は革紐のサンダルを履いた足の上にも散っていて、白い甲の上できらめく鋭い輝きに、あ、どうしよう、そう思って体がかたまってしまう。
 短い強いノックの音がして、勢いよく扉が開いた。
「マナ、そろそろ行かないと――」
 入ってきた長身の男が、室内の光景にはっと息をのみ扉の側で立ち止まる。こちらを眺める表情のない顔と黒い目が恐ろしい。不安と恐怖で口の中が苦くなる、何かを言わなければと切羽詰った気持ちになる。
「あの……手が。手が滑って。手鏡を……」
 なぜかもつれる舌でそう説明しながら男の方へ一歩足を踏み出せば、「動くな」と低い声で命じられ、びくりとする。
 近づいてきた男が散らばった鏡の破片のむこうから両腕を差し伸べてくる。脇に両手をいれられて軽く体を持ちあげられ、思わずもがいて空気を蹴る。男の前にすとんと下ろされ、靴底を通して両足の裏に固い石の床を感じたその瞬間、奇妙な混乱は潮が引くように彼方へ去っていった。目の前にしゃがみこんだ男が、自分の足に触れ、細かな破片をそっと取り除いている。白いものが目立ちはじめたその髪を見下ろしながら、
「メロダークさん」
 名前を呼んだ。
「怪我はないようだな。どうしたかと思ったぞ。あんな顔をするから」
「あんな顔?」
 うむ、とつぶやいて沈黙する。どうやら言葉を探しているようだったが、やがてしっくりくる表現を思いついたらしく、表情をわずかに明るくした。
「幽霊でも見たような顔だ」
 どこか得意げなその声がなんだかおかしくてくすりと笑う。こういう子供っぽいところはいくつになっても変わらない。笑いながら手を伸ばして男の髪をかきまぜ、次に乱れた髪を優しく整えながら、幽霊ではないのですが、と囁いた。
「今、ちょうど死者の宮殿のことを思い出していたところです。あの、メロダークさん、あの皇女の部屋を覚えていますか?」
「……ずいぶん昔の話だな。もちろん覚えている。あそこは忌まわしい場所だった。それを思い出したせいで、気分が悪くなったのか?」
「気分は大丈夫ですよ。ただうっかりしただけです、本当にただ手が滑っただけで」
 ようやくメロダークの手が足を離れた。鏡の破片を片付けようと身をかがめれば、柔らかくその手を押さえられ、いいから、と言われる。
「俺が片付けておく。お前はもう行け。エンダがそろそろ怒りだすぞ」
「あっ、そうでした」
 壁にかけていた外套を手に取り、慌てて部屋を出ようとして、ふと足を止め振り返る。
「メロダークさん、本当に一緒に行かないんですか? アルソンさんもお忙しい方だから、次はいつホルムに来られるのかわかりませんよ」
「その場合、夕方の礼拝は誰が行うのだ? 大丈夫だ、ホルムを発つ時には見送りに行く」
「それはそうですけれど……でも、テレージャやフランさんも来るそうですし……」
「マナ」
 床に膝をついたまま、メロダークが改まった声を出した。
「アダ殿が亡くなられる前に、俺は二つ約束をしたのだ。一つはこの神殿を守ること。もう一つはお前を幸せにすること」
 まっすぐに目を見てそう言われ、恥ずかしくなってうつむいた。頬が熱くなるのを感じる。この人は本当に、いくつになっても、と思う。いくつになっても子供のようなのは自分も同じだ。小娘でもあるまいしと思うが、胸の高鳴りをおさえることができない。
「だから、神殿の務めを休むことはできない」
「……そうですね。ごめんなさい、わがままを。あの」
「なんだ?」
「あなたはその約束を、どちらも立派に果たしておられます。誰にも真似できないくらい、とても立派に……私はそう思います」
 小さな声でそういうと、メロダークが微笑し、眼尻の皺が深くなった。そういえば最初に会った時はいつも難しい顔をしていて、親しくなってからは時折眉間に指をあてて「そのうちここが固まったまま元に戻らなくなりますよ」とからかったものだけれど、それから長い年月が経ち、メロダークの顔に最初に刻まれたのは、目尻の笑い皺だった。今ではこうして微笑む顔ばかりを見慣れるようになって、これはなんと幸福なことなのだろう。最初に出会ったころを振りかえり、もう一度振りむいて今を見て、あの血と土埃と暗闇の中、恐怖と不安を抱え込んでいた夜と、神殿で二人、いや、気まぐれに訪れては旅立つエンダを加えるならば三人で暮らすこの穏やかな朝がきちんと繋がっている奇跡に、嬉しくて泣きたくなる。この人と一緒にいて自分は間違いなく幸せだった。自分もこの人を同じように幸福にできたとうぬぼれてもいいのだろうか。
「みんなによろしくと。もう行け、時間がない」
 メロダークが床から鏡の破片をつまみあげそこに反射した陽光がぎらりと目を刺し、ああそれにしてもなぜ今日は大河の波音がこんなにうるさく感じるのだろう足元から湧き起こり空気まで揺らすあの音は波ではなくまるで




 手を差し伸べたのはあの人ではなくテレージャだったはずだ。テレージャはいつでも優しかった。それともこの記憶も別のなにかと錯誤しているのだろうか?




 背後で鏡の割れる音がした。
 白い壁も柱も清らかな芳香も天井から下がる垂れ幕も美しい皇女も、幻想だと気づいた瞬間すべてが時間に浸食され朽ち果てた本当の姿を晒したはずだ。
 なのに目の前には薄い紗が幾重にも垂れ、あの時と同じように部屋の奥に立つ白い髪の女性を隠している。鏡が割れた――いや違う、これは背後の扉の金属の錠前が、冷酷に、無常に、二度と開かぬよう、がちりと噛み合うその音だ。呆然と彼女の背を見つめている。あの時も何かがおかしいと思ったが、今もやはりどこかに違和感を覚えている。心臓がうるさいくらいに鳴っている。足の裏が炎であぶられているかのように熱く、痛く、じっとしていられない。
 ここは危険だ。
 遺跡を探索している間に何度も自分を助けた第六感がそう告げている。ほっそりとした女の背の半ばまで銀糸のような髪が垂れている。飾り気のないまっ白い薄衣は女の足元までを隠しており、おかしいな、と思う。あの皇女がまとっていた衣装には細かな黄金細工がほどこされていて、でもこの部屋の高い天井にもどっしりとした柱にも幅の狭い腰高の窓にも見覚えがある。自分はこの場所をよく知っている。それにほら、住人の姿を隠すためにかけられた垂れ幕のむこうをすかしみれば、窓から差し込む陽光にきらりきらりと光を反射するものがあって、女の側にある小卓の上には銀色の蓋が被せられた盆が置いてある。あの盆の上には怖いものが載っている。とても怖い、けれどもとても大事なものが。
 ああ、女の人がしゃべりはじめた。こちらには背を向けたままで。窓の外に顔をむけて。もう二度と出ることができない外を眺めながら。ほら、やっぱり。この声にも言葉にもきき覚えがある。
 彼女が何を言うのかすべて知っている。「ようこそ」でもざわざわと高く低く揺れる波音のせいですべてを聞き取ることができない。「苦しみが」怖い。怖い。どういうわけかとても怖い。手にした杖をぎゅっと握りしめる。杖?「閉じ込められて」目を落とせばそこにあるのは見間違えようのないアークフィアの杖だ。忘却界から持ち帰り、ついひと月前、崩れ落ちるアーガデウムの中で光に包まれたその時に失ったはずなのに、なぜ自分はまたこれを手にしているのだろう?「狂って」あの皇女はまだ解放されていないのだろうか? まさか。しかし確かに。「この夢を終わらせてください」
 じきにあの人が話し終えてしまう。自分はそれを知っている。すべてを語り終えたあと、彼女は盆を覆う銀の蓋に手をかける。この部屋に漂う腐臭の原因はそこにある。怖い。もう見たくない。二度と見たくない。
 部屋から出るために後ずさりすると背中が扉にぶつかった。ふりむいて取っ手をつかもうとして息をのむ。この扉には取っ手がない。扉の枠に手をかけ乱暴に揺らすがびくともしない。ここから逃げ出すためには外から鍵を開けてもらわなければ。誰か。
「パリス!」
 声をあげるがパリスはここにはいない。怖がりのパリスは死者の宮殿を探索するのをひどく嫌がっていて、それでもチュナちゃんのためにと勇気を振り絞って亡霊たちにも立ち向かい、だからチュナちゃんが目を覚ました今、ここにはいない、いるはずがないのだ。ならば鍵を開けられるのは誰だ?
「フランちゃん! 外にいるなら――開けて! 閉じ込められたの!」
 扉を叩けばかためた拳がぶつかる音がやけに大きく響く。そう、部屋を満たす不思議なざわめき(大河の波? いや、今ではそれはエルフの神木の梢を吹き抜ける風の音にもきこえる)をかき消すほどに。
 部屋の奥からかちりという小さな硬い音がした。銀の蓋と女の爪がぶつかった。全身が総毛立つ。
「ネル! ネル! シーフォンくん!? お願い、誰か! 誰か! 開けて、ここを開けて!」
 かちり、かちりと音がする。
 遥か遠くからきこえてくる女の声は、夢の中の出来事のようにおぼろげでかすかで明瞭だ。
「――そのために彼の命を失わせてしまいました……」
 あの腐った物を見るのはもう嫌だ。見たくない。かたく目を閉じようとするが、瞼はなぜか下りて来ない。これもまた夢の中のようだ。自分の意志とは裏腹に体が勝手に動く。勝手に見開いた両目で見れば、扉の表面には爪痕が何百とついていることに気付く。木の扉に残された傷のひとつひとつ、どれひとつ同じ形のない、そのすべてが「ここから出たい」という悲鳴の跡だ。瞬きもできぬ両目がちくちくと痛み、涙があふれだす。ゆっくりと振りむけばちょうど女の細い手が銀の蓋を持ちあげたところで、その周囲には卵をつめこんでぱんぱんに膨れ上がった腹をした蠅たちが音を立てて群れ広がり、蓋と盆の隙間からは、シャリシャリ、ジャリジャリ、蛆どもが肉食む音がして、ああそうか、これは波でもなければ風でもない、群れなす蠅の羽音だったのか、白い腕、銀の盆、黒い蠅、盆の影が灰色に落ちたその




 悲しげな顔をしていたはずだ。
「ねえ、つまり、私はまたきみを救えないということなのかな」
 救うだなんて、なんとテレージャらしくない言葉なのだろう! 昔の彼女ならそのような思いあがりを鼻の先で笑ったはずだ。




 鏡が割れる。




 墓の前に立っていた長身の男が振りかえり、旅支度を整えたその姿に、この人もホルムを去っていくのだなとひどく冷めた気持ちで思う。
 魔術師たちの始祖は死に、迷宮は崩れ呪いは失せた。冒険の日々は終わったのだ。探索者たちはそれぞれの人生に戻って行く。とはいうものの、彼ら――その中には、もしかしたら恋人と呼べるかもしれないあの人も含まれている――との別れを惜しむ気持ちより、町の平和と元の暮らしを取り戻せた喜びの方が遥かに強い。
 男が一歩だけこちらへ近づいて、足元の霜の柱を踏む音は、まるで鏡が割れる音のようだ。物言いたげな男の視線を受け止めることもなく、アークフィア大河の輝く水面に目をむける。大河がこの澄んだ流れを取り戻したのも、自分と仲間たちがやったことだと思えば、恐怖と苦労が穏やかな日々として結実した今への誇らしい喜びを感じる。もっともあの化け物どもとの戦いや、白子族の集落や、霧に包まれた忘却界や、天空にそびえた美しいまがいものの都のすべては、今や夢の中のできごとのようにおぼろげでかすかなまぼろしだ。記憶の底で、時折、ちりちりとした輝きを放つだけだ。それも平穏な日常の中で、やがては燃えつき、灰となり、消えていくことだろう。
 メロダークという名のこの男だけが、再び得ることのできたこの日常の価値と意味を理解できていないように思える。たいして浮かない表情なのも当たり前で、彼の興味はホルムや平和の上にはない。興味があるのは、ただ、ただ――自分を追いかけてくる眼差しや、懇願を隠した声や、一挙手一投足に反応しようと待ちかまえる気配が、ただ重く、ひたすらにわずらわしい。櫂に絡みつき、舟の進みを鈍らせる藻のようだ。だから今日も離れたところで足を止め、その視線にも気持ちにも気付いていないように振舞う。
 ――私を見上げないで、すがらないで、信仰など捧げないで。そのようなことは望んでいない。私は女神ではないのだから、望まれた物を望まれた形で与え続けることなど出来はしない、ましてやそれが愛ならば。愛に報いるのは愛だけで、愛を奪うのも愛だけだ。あなたはそれを知らない、いや、知る機会はいくらでもあったのに、目を閉ざし耳を塞いできた――大声でそう叫んだところで、男の耳には届くまい。己の魂をむきだしに二人きりでいた小舟の上ですら、気持ちは通じあわなかったのだ。足枷を砕かれれば次の瞬間、奴隷の首輪を己にはめて、首輪の鍵を差し出してくるような人だ。男の愚鈍さではなく、愚鈍さに執着する心のあり方が、今日も気持ちを苛立たせる。
「この町はひとまず平和になったと考えていいだろう。まずはおめでとうといったところか」
「ありがとうございます。この平和は皆さんとメロダークさんのおかげです」
 言葉だけは丁寧に氷のような冷ややかさで答え、二人のあいだに落ちた沈黙を、やがてメロダークの方から打ち切った。
「……私は一旦、この町を去ろうと思う。だが、もしもお前が望むなら……」
 冷静さと何気なさを装う臆病なその言葉を遮り、はっきりと答える。
「何も、何も、何ひとつ。そういったつもりでお救いした命ではありません。どうぞあなたのご自由になさってください」
 それ以上は言葉を待たず、背をむけて足早に墓地を立ち去ろうとする。
「マナ」
 切羽詰った声に足を止め振りむけば、輝く日の下に不安げな表情をしたメロダークが、黒い目を見開き黒い髪を揺らし、幼い子供のように無防備に無造作に、魂のすべてをゆだねてくるようなその表情に、思ってもみないような激しい怒りと同じくらいの激しい憐憫の情が湧きあがり、混じりあい、あまりにも強い感情に目がくらみ膝が震える。タイタスを前にした時にすら静かな怒りだけしかなかった胸の底から、びっしりと並んだ牙をむきだしに、わるい獣が身を起こす。
「なんですか?」
 声がかすかに震えている。自分はなぜこの期に及んで、優しげに微笑みかけているのだろう。ほら、それだけでこの人は、こんな風に希望を両目に浮かべてしまう。なんと脆い心持ち。このような弱さで、よくも私の大事な故郷を戦火に巻き込む手引きをしたものだ。焼けた家々も、死んだ人たちも、もう戻っては来ないのに。
 正面から見つめるうちに、段々とメロダークの表情が溶けていく。
 これ以上はいけない。この人には背をむけて立ち去るべきだ。町へ行けば愛する人たちと恋人が待っている。町を去る彼らやあの人と過ごせる時間はもう短い。タイタスが滅び、呪縛から解放された自分は、残りの生涯を自由に――女神に感謝し、愛する人々の幸福を願い、人生を楽しむために使うべきなのだ。
 しかし喜びと期待を剥き出しにしたメロダークの顔を見つめていると、膝の震えは上へ上へとのぼってきて体の芯に爪を立て、これまでに感じたことのない甘い痺れが広がって行く。
「マナ。どこへ……お前はどこへ」
 あなたには関係のないことです、そう告げるべきなのに、そのかわり微笑を広げ視線をそらし、うるさいくらいの大河の波音を越えて男の耳には届く声で、そっと答えている。
「ホルムの町へ。探索者の方とお別れをしに。今日はアダ様にお休みをいただきましたから、最後に、一日を一緒に過ごして頂くつもりです」
 言外に含ませたこの言葉の意味に気付いただろうか? 多分、きっと、わかっていない。それならもっとはっきり言おう。はっきりと刃をふるい、流れる血を存分に楽しもう。
 ほら、わるい獣がいやらしく物欲しげに舌を伸ばし、涎をぼとぼととこぼしながら、ぎらぎらと輝く両目をむける。獣がじれたように身じろぎし、口からは恥じらいと喜びを含んだ、女らしい、優しい声が出る。
「お別れの前に、たくさん抱いていただく約束をしたのです」
 人には優しく、心は清く、正しく健やかな喜びを、そう教えられて育ってきた。他人の悲しみには胸が痛くなり、暴虐には怒りを覚え、弱い者は助けずにいられない。そんな自分であるはずなのに、どうしてこの人の痛みだけが、こんなにも自分を喜ばせるのだろう。
 罰が足りないから? いやいや、それはあるまい。自分は他人を裁けるような立派な人間ではない。一時は裁きの司と呼ばれることを目指したものだが、あれはなんという思い上がりだったことか!
 それでは彼があまりにも無防備だから?
 それとも心の底では、傷つけられることを望んでいるから?
 あるいは――もしかしたら――ひょっとしたら――。
 狼狽を露わにしたメロダークにむかってもう一度微笑を投げる。
「私に何かお話があるのなら、帰宅するまでお待ちになっていただければ。遅くなったら申し訳ありませんけれど……でも……必ず帰って参りますので。深夜になっても、朝になっても」
 背をむけて一歩を踏み出し、ふりむいて、無邪気さを装って尋ねる。
「それとも一緒に――そうだ、よろしければ一緒においでください。少し時間はかかりますが、外でお待ちいただければ、後からゆっくりお話できますから。どうか待っていてください……扉の外で……私たちの用がすむのを」
 顔を戻して二歩、三歩、ゆっくりと歩く。もう振りかえらずに。振りむいて目で確認したいと思うのは、不信心者が神々の奇跡を求めるような愚かな行為だ。彼は必ず自分の後をついてくるとわかっている。知っている。自分に対する彼の信仰心を決して疑うまい。どんな苦い盃を与えたとしても、彼はそれを喜んで飲み干すことだろう。




 そんな言い方はしないでと頼みたい。あなたは何も悪くない。それよりはもっと笑顔を見せてほしい。楽しい話をきかせてほしい。あの頃のように目を輝かせ、あなたが熱中するものについて饒舌に語ってほしい。あなたはいつでもたくさん、たくさん、好きなものと楽しいことを知っていた。人生を楽しむことになんのためらいもなく、あらゆる出来事を難なく自分の中に取り入れ、あわなければ切り捨て、後悔から遠いところで生きているように見えた。思い出させて。昔のことを思い出させて。話す内容はなんでもいいのだ。たとえばあの日、階段ですれ違った時の話でもいい。あの時、とっさに手紙を背中に隠した自分の愚かさを、問い詰められても答えなかった傲慢を、存分になじってくれればいいのだ。

 そうだ、忘れていた。あの時に嘘をついたことを謝らなければいけない。何かあったら相談すると約束していたのに。一人で抱え込まないよう言われていたのに。いや、これは夢の中の話だったかもしれない。そもそもテレージャと自分はそんなに親しくしていたのだろうか。



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