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幻視する彼方 2


 また鏡が割れる。



 竈の炎の上に手紙をかざせば端からすぐに火がうつる。パシンパシンと響くのは、生乾きの薪が割れる音だ。
 鏡が割れる、なぜか唐突にそう思い、なんのことだろうとその想起を不思議に感じる。
 鏡。鏡――そういえば死者の宮殿の女が捕まっていたあの部屋には割れた鏡が散乱していた。でも自分が一番恐ろしく感じたのはあの皇女がいた部屋だ。鎖に繋がれた女、天井からぽとりと垂れた染みが赤く本を染めた瞬間、椅子からいっせいに立ち上がる腐った体の死人たち、恐ろしい目にはたくさんあったのに、今でも夜毎の夢で自分を脅かすのは、皇女の優しげな姿と声だ。なにが、なぜ、理由は考えてもわからず、恐怖とはそういうものなのかもしれない。
 橙がかった炎の色に、ネスで流通している羊皮紙を燃した時とは火の色が違うなと思う。こういうところも含めてうかつで、詰めが甘い。あるいはどのような証拠が残ってもかまわないと高を括っているのか。炎はちりちりと音立てて紙を燃やし、灰になって崩れ落ちる瞬間に、文字が金色に輝いた。
 貴殿の出生の秘密について伝えるべき事あり。明日、一人で墓地に来られたし――。
 思わずつぶやく。
「知ったことですか」
「なにがだね?」
 背後から突然声をかけられてうわっとのけぞり、振りむけば、肩越しにテレージャが手元を覗き込んでいる。どきりとするほど顔が近い。
「えっ、あっ、きゃっ!?」
「わわわっ、何をしてるんだきみは!」
 手紙の火が指をかすめ、驚いて取り落とせば燃える紙片は竈の中ではなくテレージャの足元にすうっと近づいていって、服の裾にうつりかけた火を踏み消そうと二人で大騒ぎする。ようやく火を踏み消したあと、あちこちに黒い煤が散った厨房の床や壁を見回して、頭を抱えた。
「こりゃひどい。掃除が大変だね、マナくん」
 他人事のように言うテレージャをにらんで、大きな声で言った。
「テレージャさん! なんでこんなところにいるんですか!」
「ええ? なんでって、そりゃ町が解放されてからきみが御無沙汰だからだね、わざわざ様子を見に来たんじゃないか。そしたらきみがなんと昼食にシチューを作っていると、そう巫女長殿が教えてくださって」
「それなら声をかけて下さい! 覗き見するような真似、ひどいですよ!」
「の、覗き見って……悪かったよ、そんなに怒らないでくれよ」
 たちまちしゅんとした顔で詫びられて、強く言いすぎたかなと後悔した。だが謝ろうとしたら、しゅんとした顔のままで「私もついて行くよ」と言う。後悔したのを後悔する。
「もうっ、しっかり見てるじゃないですか!」
「結果としてそうなっただけだ。しかしアレだな、きみって親しくなったら、結構強気になるんだなあ」
「う……ど、どうせ子供ですよ」
 テレージャは明るい笑い声をあげた。
「拗ねるな、拗ねるな。責めちゃいないさ」
 天井から吊るされた香草の束を珍しげに指で触れ匂いを嗅ぎ――シーウァの屋敷では厨房に入ったことが一度もないと言っていた――、もう一度こちらに視線を戻した時には、ひどく真面目な顔になっていた。
「メロダークくんにも強気かな?」
 さりげない調子で言った。
「……わかりません。でも関係ありませんよ、だって行きませんから」
「ふむ?」
「ええ。出生の秘密なんて……もし本当にメロダークさんがご存知なら、二人きりで話す機会なんて、いくらでもあったのに。なんで今更」
「町の占領中に色々考えることがあったのかもしれないぜ。それに彼は傭兵だ。ネスの公国軍なり、シーウァ軍なりに雇われ口を見つけて、遺跡の探索からそちらに切り替えたのかも」
「テレージャさん」
「なんだい」
「テレージャさんはもうご存知なんじゃないですか? だってあの晩、ひばり亭であなたはあんなにはっきりと……それなのになぜ……いいえ、どうして、一緒に行く、と? 行くな、と言わないのはなぜですか?」
「うん、きみのそういう率直なところは好きだね」
 ぶらぶらと近づいてきたテレージャが正面に立って、両手を首に投げかけてくる。恋人同士のような気軽なその仕草にどきりとするが、テレージャの顔は怖いくらい真剣だ。いつものおふざけは一切なしで、テレージャが言う。
「一つには、きみが行くつもりだからだ」
「……」
「これが罠でも罠でなくても、マナくんは必ずそこに行くだろう。言われたとおりに一人で」
「行きません。私だって馬鹿じゃないです。そんな危険な真似は……」
「そうかな? じゃあなんで手紙を燃やしたんだい? 料理もできないくせに、昼食の準備なんて口実を作って、大急ぎでさ」
「それは、たまたま……」
「出生の秘密というのが釣り餌でないとしても、一人で行く必要はない。神話の英雄たちみたいに、なんでも一人で背負いこもうとするのはやめたまえ。あの連中は馬鹿みたいに全部を一人でこなしたがって周囲の人間やしかるべき機関に頼らないから、最終的にはひどいことになるんだ。そもそも英雄なんて基本的に筋肉馬鹿なんだから、知恵が必要なときにはきちんとそれを専門分野とした人間に頼るべきであってだね、それをなんだい、賢者や予言者の言葉は全部忘れちまうんだから話し損もいいところだよ」
 話が明後日の方向にそれていった先で、けっこう本気で怒りはじめている。
「えっと、お話がずいぶん飛躍したみたいですが」
 小さな声でそう言って、自分の話に熱中しはじめたテレージャを呼びもどす。ぱちりと瞬きして我に返ったようになり、テレージャは照れ臭そうに微笑した。
「おっと失礼。もう一つは、あの晩、きみが私をかばってくれたからかな」
 驚いて顔を見つめなおせば、テレージャが唇を尖らせる。
「からかってるわけじゃなくて、本音だよ?」
「だって……あれは、あの時は、……テレージャさんもああいう事をするじゃないですか」
「んん? そりゃ一体どういう意味だい?」
「つまり、ん……あの時、テレージャさんなら止めに入るだろうな、と思ったんです。もしも私が……いいえ、私でなくても誰かがああやって男の人たちに囲まれて、あんな風に怒鳴られていたら、きっと間に入られるだろうなって。そうしたら勝手に声が出ただけで……ね、きっとそうなさいますよね?」
「マナくん」
「はい」
「キスするけどいいね?」
「当然駄目です! 何言ってるんですか! ていうか何でいちおう確認しておくっぽい言い方なんですか!?」
 ぐんぐん近づいてきたテレージャの顔を乱暴に押し返し、腕をふりほどいて壁際まで逃げた。
 テレージャがちっと舌打ちして、ずれた眼鏡をかけなおした。
「きかなきゃよかったな」
「テ、レージャ、さんっ!」
「なんだよ、あんなかわいいことを言われちゃ、こっちはキスする以外に選択肢がないじゃないか」
 その選択肢が出現すること自体がまず不思議なのだが、それを指摘すると大変な熱弁をふるわれそうな気配があった。こういった冗談は同性同士でもやめた方がいいというのをどう説明するか考えこんでいると、
「一緒に行くよ」
 テレージャが何ごともなかったかのように、軽く話を元に戻す。
「断ってもついて行っちまうよ。いいね?」
「……わかりました。お願いします」
 かなわないな、と思いながら頷く。この人にはかなわない。
「しかしか弱いきみと私じゃ、剣を抜かれたら遅れをとるな。もう一人くらい腕っぷしの強い奴を連れていった方がいいかな」
 ぶつぶつとつぶやきだしたテレージャに、「あまり大事には」と言ったが、「万が一きみが攫われたりしちゃあそれこそ大事だ」と即座に却下される。そんなことはと否定しかけて、バルスムスとアダの会話を思いだした。ふと不安になる。アダはあれを単なる戯言に過ぎないと切って捨てたが、アダは何も知らないのだ。太古の王たちを知らず、闇が近づいてくるあの夢を知らず、古代都市の巫女を知らない。
「テレージャさん」
 不安が声に出た。テレージャがさっとこちらを見やった。
「出生の秘密というのがもしも、もしも本当に私の……もしかしたら、メロダークさんは、私に何かを親切で教えてくださるようなつもりで……それなら……それなら手紙の通りに一人で……」
「きみのそういう馬鹿なところは嫌いだね」
 さっくりとテレージャが言ってのけた。
「ば、馬鹿ですか?」
「馬鹿だよ。第一きみ、メロダークくんとは別に親しくもないじゃないか」
「それはそうですけど」
「ろくに口をきいたこともないような相手の親切を期待するなんて、馬鹿さ。」
 テレージャがわずかに目を細め、冷ややかな声で言った。
「きみは一人じゃない。同じように彼だって一人じゃないし、彼らがいうところの大義を背負っている分、彼はきみよりも必死なんだよ」
 厨房に沈黙が落ちた。
 竈の炎がごうごうと音を立てて燃えている。なにもかもを飲み込み、焼き尽くすかのような勢いで――。
 その匂いに二人で同時に気付き、同時に叫んだ。
「シチューが!」
 炎燃え立つ竈の中で、鍋が焦げ始めている。




 ほら、笑って、もっと笑って!
 ああ、違う、そんな悲しげな笑顔じゃない。
「確かにそんなこともあったね。でもなじったりしないよ」
 悲しげな笑顔なんてもう見飽きた。笑ってと私が頼めば何度も何度もあの人は唇を吊り上げて、でもその微笑は目元まで届かなくて、ひどく悲しそうに私を見ている。最後には笑うふりすらしてくれなくなった。
「なじったりできるわけがない。ひばり亭の階段はあんなに暗いのに、それでもわかるくらい、きみが動揺しきっていた……でもあなたには関係ないと言われて……私はあの時、その手紙を見せろともっと必死に迫るべきだったんだ。あの頃にはとっくにきみの性格もわかっていたんだから。自己犠牲、いわれのない罪悪感、なんでも一人で背負いこんで……馬鹿だな」
 それは違う。
 自分はそんな大層な物ではない。自己犠牲、いわれのない罪悪感、なんでも一人で背負いこんで――それは自分ではなくあの人のことだ。ただ、もしも、もしも本当に自分がそうだと思われているのなら、こんなに嬉しいことはない。似たものは等しいものである、あなた方はそう信じているのでしょう? それなら、自分はあの人と同じ、そういうことになるのかしら。
 またあれが見たいなと思う。
 手を伸ばす。
 伸ばした手をテレージャがそっとおさえる。




 そしてまた鏡が割れる。




 涙を流しながら目を開ける。
 無茶苦茶に振り回した手か足かが寝台の横の卓に当たり、手鏡が落ちて割れたのだと気づく。鏡の割れる音は悲鳴とは違った鋭さで響き渡り、だが男を止めることができないのは悲鳴と同じだ。シリンの村に招待されたアダがホルムに戻ってくるのは明日の夕方になるはずで、今夜は悲鳴をきいて駆けつけてくれる人間は誰もいない、朝になるまではずっと二人きりだ、そう気づいた時にさっきまでとはまた違う恐怖が湧きあがってくる。
 光のない閉ざされた暗い部屋の中、メロダークの両目だけが光っている。殴られた頬には痛みよりも熱を感じる。怖い。助けて。嫌だ。なんで? どうして? アダがいないことを除けば、いつもと同じ一日で、いつもと同じ二人だったはずだ。一体何が男の逆鱗に触れたのか、この爆発を呼んだのか、理解できない。己の身に何が起こるのかもわかっていない。わかるのは服の上から乳房をつかんだ手がさっきまでとは違う動きを始めているということと、太腿の間に置かれた男の膝が、ひどくきつく股間に押し付けられているということだけだ。腰を浮かせて逃げようとしても膝は離れようとしない。ぐいぐいと押されて敏感な部分に痛みよりも不快を感じ、内臓が裏返るような恐怖が吐き気になってこみあげてくる。怖い。この爆発の行きつく先は、単なる暴力ではないと本能が告げている。背中を突き飛ばされたのものしかかられたのも頬を打たれたのもすべてはただの通過点に過ぎないと直感が囁く。
 彼が与えようとしているのはそんな単純なものではない。あの怒りに燃えた目を見るがいい。お前はただの器に過ぎない。彼はそれを教えようとしているのだ。
 悲鳴をあげすぎて喉がおかしくなっている。血の味がするのは口の中が切れたせいだ。かすれた声で、やめて、お願い、その二つの言葉を繰り返すだけだ。かためた拳は役に立たず、振り回す足は宙を蹴り、抵抗のすべがそれしかない。
「お願い。お願い。お願い。お願い。やめてください。お願い。お願い。お願いですから」
 いつもならこちらの苦痛に対して敏感なメロダークが、優しくいたわりながら控え目に触れてくる手が、怒りや悲しみの気配にすぐに謝罪の言葉をつむぐ唇が、すべてを意に介さず、踏みにじるように動いている。
「やめて。お願い。お願い。おね――あ――」
 呼吸が止まる。頭の中が真っ白になる。体をこわばらせ、男の肩越しに暗闇を見つめながら、何が、なぜ、もう一度そう思う。ザアザア、ドッドッ、奇妙な音がする。水が流れる音、心臓が血液を送り出す音、血管を血が流れる音。男の指がせわしなく動いている。
「お前だけだ――私にはお前だけなのだ」
 怖い声だ。とてもとても怖い声だ。
「他の男には触れさせん。絶対にだ」
 どうして、の理由が閃いて、しかしその答えはかえって背筋を凍らせる。でもあれは信者の人で、相手が若い男性であっても特別に扱うわけにはいかないし、第一今日はアダ様がいなかったから、こみいった話なら二人だけの席を設けるのは当たり前のことで、部屋に入る前に長くなりそうだとメロダークに断りをいれたら私が代わろうかときかれたけれど、それを断ったのは彼が別の仕事をしていたからで、信者の人と何を話したのか問われて言葉を濁したのは信者の罪は二人の間に共有すべき事柄ではないと思ったからで、それに、それに――。
 布の破れる音がした。
 やめて、お願い、やめて。
 固い寝台に濡れた頬を擦りつけて唇を噛みしめる。叫べば苦痛が増すことを知っている。指が動くたび手が動くたび体がばらばらになるようで、それでも、言わなければと思う――それは誤解だと。口を開き、苦痛のせいで燃えるような肺から熱い空気の塊を吐きだす、圧迫された内臓が体の中で場所を変え、無茶苦茶に痙攣している、恐怖と苦痛に吐き気がする、この人は私をこうやって殺すつもりなのだ、それでも伝えておかないといけない。あなたはそんな風に苦しむ必要はないのだと。必死になってその言葉を絞り出した。
「……だけです。私にもあなただけです――」
 メロダークの手が止まった。伸びてきた指先が頬に触れ、涙で張りついた髪を払いのける。優しいその手つきに、固く閉じていた目を開け、瞳を動かし、メロダークを見た。
 暗闇の中で男が微笑した気配があった。
 安堵のあまり息を吐けば涙がこぼれ、嗚咽が漏れた。
 ――よかった、いつもの優しいあの人が戻ってきてくれた。怒りで我を忘れていただけなのだ。多分すぐに私を抱き起こし、悪かったと謝ってくれるだろう。彼のしたことを責めたりしない。不安定な気持ちにさせた自分も悪かったのだ。でもこれでお互いの気持ちを口にだし、確認して、そうしたらきっと明日からはまた元通り、いや、今日よりもずっと親しくなれる。
「メロダークさん……」
 闇の中から穏やかな声が降ってくる。
「お前は子供だ。ただ苦痛から逃れるために、私の真似をしているだけだ。その言葉の本当の意味を知らないのだ」
 頬を離れたメロダークの指が上がっていき、頭をつかむと、寝台にこすりつけた。
「そうだ、意味は私が教えてやる。今からお前に教えてやる。今日分からなければ、明日も、明後日も……礼拝の最中に祭壇の前でお前を犯してやろう。体中に私の痕をつけて、裸で大通りに放り出してやる。理解できるようになるまで、何度でも繰り返し、お前の体に叩きこんでやる」
 ごうごうと音がする。
 寝台に押し当てられた耳だけに聞こえている。
 自分の体を流れる血の音だ。頭に血がのぼったせいか、殴られたはずみに顎の骨がずれたせいか、耳のそばにある血管に、血が流れる音が、こんなに、大きく、きこえて、いる、のだ。
 まるで大河の波のようだと思う。
 自分の体に骨があり、肉があり、血が流れ、表面を薄い皮で覆われていることを、今日まで意識したこともなかった。己は確かに器に過ぎぬ。
 男の息が首筋に近づいてきて固い歯が血管を甘く噛む。男の呼吸はほとんど乱れていない。やめて。やめて。私はあなたを愛している。あなたも私を愛している。それならこんなことはやめて欲しい。
 首筋から歯が離れ、次の瞬間、噛みついた。皮膚を食い破り肉の奥まで獣の牙のように歯が食い込む。
 絶叫すると同時に片足が床を蹴り、散らばった鏡の破片が突き刺さる。首筋と足の裏の両方に鋭い痛みを覚える。両方から血が噴きだした。




 近頃はずっと眠り続けている。
 たくさん、たくさん、眠って、目を覚ましたらまた眠る。体が溶けてしまえばいいと思う。そんなことにならないと知っているのに。眠りの中でたくさんの夢を見た。
 でも繰り返し見るのはあの死者の宮殿の夢だ。あの囚われた皇女の夢だ。近衛兵と身分違いの恋をした、そのせいで彼の命を失わせた、自分とどこか似た顔をした、私もまた狂っているといった、あの皇女の夢だ。皇女が語り終えて気がつくと部屋は静まりかえり、ふたつの髑髏が転がっていた。あれは本当にあったことなのかしら? それとも夢の中の出来事? 私が頭の中で作ったことなのかな。この記憶は間違っているのかしら?
「さあ。わからないな。私は死者の宮殿にはきみと行かなかったから。あそこで不思議な体験をしたのは、きみと、きみと一緒にいた人間だけだよ。だからきくなら他の――」
 どうして口ごもるの? テレージャらしくない。もしかしてこれも夢なのかな。あなたは本当にここにいる?
「いるよ。いるさ。ほら、手を握った。握り返してごらん」
 あなたの手は温かい。
「ほら、言うだろ、心の冷たい人間は手が温かいって」
 そんなの嘘よ。あなたは昔から優しかった。
「優しくなんてないさ。優しい人間がこんなに長い間、きみを放っておくもんか」
 ああ、そんなこと!
 誰にも告げずに一人で行ったのだから、テレージャが私を探せなかったのは当たり前でしょう? そうだ、きかせて。ホルムの町がどうなったのか。みんなは元気にしているのかしら? アダ様はどうしておられるの? 雨が降ったり急に冷え込んだ日の夜になれば、いつも腰が痛むとおっしゃって、そんな時には私がずっと腰をさすってさしあげたの。あの窓から外を見て、雨が降った日にはいつも、アダ様はどうしておられるのかしら、眠れなくて苦しい思いをしているんじゃないかしらと私まで眠れなくなって。神殿にはエンダがいるから大丈夫だと、何度も、何度も、自分に言い聞かせて――。
「ねえ、マナくん。最初に言ったとおり、私はホルムの話はできないんだ。それをきみに話さないと誓って、ようやく面会を許されたんだから」
 ごめんなさい。
 ごめんなさい、私はまた忘れていた。
 大事なことを忘れていた。
 またわがままになって、言ってはいけないことを口にした。




 鏡が割れる。
 何度も、何度も、繰り返し、繰り返し。




 影から湧きだした大きな蛇小さな蛇、さまざまな絡み合う蛇が波のように彼の足元を呑みこみ、きらきらと輝きうねる蛇たちのひとつひとつ、どれひとつ同じ形も大きさもない、そのすべてにどれひとつ違うことのない真っ黒い邪悪な意志が満ち満ちている。
 メロダークの体に絡みついたわるい蛇たちがいやらしく物欲しげに舌を伸ばし牙をむき、絶叫とともに手を伸ばした彼と目が合い、そこには確かにここまで一緒に旅してきたあの少年の面影があって、ああ、しかし、体がすくんで動けない、なぜなら彼の影から湧き出たあの蛇たちはすべて彼の罪から生まれたものだからだ。手を差し伸べれば自分もまた彼の罪に呑まれるだろう。肉体についた傷は癒える、あるいは失ったとしても腕の一本、しかしここは忘却界だ、傷を受けた魂はその後一体どうなるのだろう?
 とっさに肩を抱き後ずさる。
 蛇の群れはメロダークの首までを呑みこんでいる。
 見捨てられたことを悟った瞬間、彼の目に様々な感情があふれる。絶望と、嘲笑と、怒りと、喜びと、安堵と。唇が微かに動き、蛇たちの腹と背が擦れあう音の向こうに、声にならない声をきく、これでいい、と。
 その瞬間、自分が間違えたことを悟る。
 あの人を見捨ててはいけなかった。
 お前は他人を救うことでしか救われない、その声が、言葉が、頭の中で閃き、体を刺し貫き、手を伸ばして絶叫する。
 だが主人を食らい尽くした蛇たちは、罪にすら気付けぬ愚か者には興味がないとでもいいたげに、伸ばした手を逃れ、ざわざわ、どうどう、ざわめくようにつぶやくようにうるさいくらいの音を立て、再び影となって地面の中に染みこむように消えていく。
 暗闇に自分の声だけが響いている。己の贖罪の機会が永久に失われたことに気付く。彼の死とともに、自分の魂の一部も死に、それはもう取り戻せないことを知る。




 鏡が割れる。




 ある時には抱き合って笑い声と睦言を交わしながら穏やかに季節を越えていくことがあり、ある時にはずぶ濡れのあの人を泣きながらこの手で殺すことがあり、ある時には出会っただけで会話すら交わすことなく別れることもあるだろう。ある時には二人の気持ちは最後まで通じあうことがなく、ある時にはどちらかに他に愛する人ができて去っていく。すべてが夢の中の物語だ。
 思いだす。
 いつも思いだす。
 あの宮殿に囚われていた皇女のことを。死者が跋扈するあの場所で、あの人がどんな風に私を守ってくれたかを。
 あなたはタイタス十六世が言ったことを覚えているだろうか。




「何を言ったんだい?」
「待って……待って、思いだすから。ごめんなさい、最近本当に忘れっぽくて……ぼうっとして……眠ってばかりいて、物事がちゃんと考えられなくて。メロダークさんにお願いできたらいいんだけれど。ごめんなさい、お願い、待って」
「うん、いいよ、ゆっくりとしゃべればいい。頭が回らないのはきみのせいじゃない、このクソッタレの香のせいだ。連中ときたら本当にきみを……畜生、なんだって?」
「怒らないで、ごめんなさい……私、本当に……そう、彼は言ったわ……言ったの……『この悪夢の外に出てもより大きな悪夢があるだけだ。逃げられぬ』と」
「うん、いかにも悪の魔王が言いそうな捨て台詞だね」
「テレージャったら。本当に、変わらないのね」
「おっと、笑ったね。いいことだ」
「ん……せっかく会いに来てくれたのだから、本当はもっと楽しいお話ができたらよかったのだけれど、私、ずっと……最後に外に出たのが二年前のことだから……」
「イシヤの連中と揉めた例の一件だね。あれがなけりゃ、きみがここにいることを、私はずっと知らないままだった」
「あら、じゃあやっぱり、あの旅の話は外に漏れていたのね。メロダークさんは絶対大丈夫だ、誰にもばれないと言っていたけれど、あの人のことだからどこかで失敗していると思っていたの」
「ははは。あの男は昔から詰めが甘かった」
「そう。そうです。だからあんなことに――」
「マナくん。ああ、畜生……私もひどい馬鹿だな、まったく進歩していない。すまなかった、別の話をしよう。きみを泣かせるつもりじゃなかったんだ」




 夢の中で鏡が割れる音がする。
 何度も何度も鏡は割れ、そのたびに驚いて身を引き、けれども夢の中の夢のように、鏡の中の鏡のように、すべては連鎖し、互いの尾をくわえた蛇のように絡まりあい、タイタス十六世が予言したように、確かに悪夢の外には悪夢があり、どこまで行っても逃れようがない。幸福な未来があり、陰惨な未来があり、平穏な未来があり、失敗した未来がある。けれども必ず私たちはどこかでつながっている。
 どこで間違えたのだろう。
 どこでこんな風になったのだろう。




「話させて――」
「駄目だ、メロダークくんの話はやめろ。別の話をするんだ」
「いいえ、それでもしゃべらせて。テレージャ。お願い。私はまた眠くなりはじめているの。わかってる、目を覚ませばあなたがいなくなっていることくらい。眠ってしまう前に話させて」
「次の機会に話せばいい。また来るから。必ず、絶対に、何が起ころうと」
「お願い、駄目よ。きいて、お願いだから。次にあなたが来るまでに、覚えていられるかどうか自信がないの」
 うろたえきった声でそう言い、すがってきた細い女の肩を抱き、テレージャはちらりと閉ざされた扉を見る。内側に取っ手のない扉は、昔、ホルムの迷宮で散々目にしたものだ。この扉を設計した人間の無造作な悪意と、彼女をここに閉じ込めた連中に、腹の底から怒りが湧いてくる。扉の表面には爪で引っ掻いた後が縦横に残っている。なぜ連中はこの扉に布を張らなかったのだ? 囚人の手の爪など些細な問題、息さえしていれば問題がないとでもいうつもりか?
 胸元が熱く濡れている。慌てて視線を戻した。
 テレージャの胸元に顔をうずめたマナが、声をあげ、背中に爪を立てて、子供のように泣き始めている。いいや、出会ったあの頃、まだ少女だったころにも、こんな風には泣かなかった。あの頃のマナは感情が高ぶれば震える唇をかたく結び、ただ静かに一粒、二粒、涙をこぼしただけだ。こんな風に感情を爆発させることなどなかった。
 マナの背を優しくさすりながら静かな声で言った。
「どうしてもというなら話せばいい。もしかしたら、途中で時間がなくなるかもしれないが――それでも、きこう。最後まできくよ。きみがそうして欲しいならね」


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