妖精族の塔/マナ フラン エンダ オハラ
神殿の外へ行くのが嫌いだった。
知らない人が怖かった。
森の路上でふわふわした小さな塊が頼りなく、それでいて必死に動いているのが目に入り、近づいてみればそれは怪我をした小鳥なのだった。地面に落ちた青い鳥の片方の羽根は中央でぱきりと折れており、拾い上げると小さな心臓がひどく速く脈打っている。アダ様におみせすれば癒して頂けると息を切らして神殿まで駆け戻ったのに、少女の手の中で震える小鳥を一瞥したアダは、治るまでお前が責任を持って面倒をみておやりとどこか厳しい声で告げただけだった。
*
視界いっぱいに広がる羽根と飛び散る羽毛に、夕暮れの下で拾い上げた小鳥を思い出した。鮮やかな青色の羽毛と曇りのないつややかな黒い嘴の美しさや意外な温かさ、小さな足が頼りなく掌を掻く感触、羽根が折れていることに気付いた瞬間の締め付けられるような胸の痛みまでが蘇り、だが突剣を握る手はためらいなく動いている。
神官の少女が突き上げた切っ先は告死鳥の胸をえぐり、告死鳥の鋭い爪は少女の腹をえぐる。エルフの大樹の枝の上で、一人と一匹は転がるように倒れ伏す。
下になった少女はとっさに膝を曲げ枝の突起に足を絡めてずり落ちかけた体を支える。白い髪は枝から空中に流れ落ち、化け物の胸からほとばしった鮮血は少女の髪を赤く染め、彼方の地面へ零れ落ちる。呪歌に倒れた仲間たちをかばい、見よう見真似の拙い剣術で怪鳥と一人打ち合う間に、幹から離れ、枝の先へ先へと移動して――追いこまれて――いた。もう先はない。体を支えるには頼りない細さの枝がたわんだが、転落の恐怖よりも今ここにある苦痛、目の前の死が問題だ。
「アアアアアッ!」
マナの体の上で、告死鳥はぞっとするような声で叫んだ。下腹部に四本の爪が突き刺さる熱い痛みにマナもまた絶叫したが、剣を握る手は離さない。もう一方の手で自分の腹にめりこむ鳥の足をつかむ。妖精族の大樹を巡る道の途中、襲いかかって来てはマナと同行者たちに傷を負わせ、天空への逃走を繰り返すこの怪物を、もはやこれ以上逃がすつもりはなかった。
ここで殺すのだ、とどめを、そういった言葉の断片が閃き、真っ赤な苦痛の奔流に巻き込まれて消えていく。告死鳥がマナの腹の上でどすんと跳ね体重のかかった爪が体の奥へ深くへと食いこんで、木の枝が大きくたわみぎしりと音を立て、腹の底から息と一緒に絶叫を吐き、夢中で切っ先を押しこむ。仲間たちは倒れている、自分はもう立ち上がれまい、この怪鳥を手負いのまま逃せば全員がこの場で死ぬことになる。私のせいで――「あああああっ!」甲高い悲鳴はどちらの口から出たものかわからない。告死鳥の苦痛にゆがむ顔がマナの顔の間近に迫り牙をむき、腐ったような生臭い息を吐き散らしどろりとした唾が飛び、女の顔をした化け物の黒い点のような目を覗き込めば、その奥には『何もない』。本能的な恐怖に腹の底から力が抜ける。この生き物には魂がない。宮殿の死者と同じだ。己の腹に食い込む蛇の鱗じみた鳥の脚をまるで恋人の手でもあるかのようにしっかりと握り締める。なぜかあの傭兵の横顔を思い出すがそれも一瞬で、腹から流れる血が長衣を汚し太腿を濡らし、熱した鉄を押しあてられたような痛みにあえぎ声をあげれば、爪がまた肉の奥へと食い込んだ。
月光に濡れた石畳と、その上に投げ捨てられたチュナの姿が脳裏をよぎった。
あの時と同じだ。あの夜もこうだった。でもラバン爺はここにはいない、ネルはいないパリスはいない。だから私が殺さないと。今ここで殺さないと。
「はやく」獣じみた己の呻き声が耳に届く。「死んで、はやく!」
化け物の肉は硬い。細い刃がギシリと音を立てた。告死鳥が暴れ、背中で枝がきしみ、翼に煽られた枝々から葉が散る。
マナの背に震動が伝わり、あ、と思った次の瞬間、乗っていた枝が折れた。
ほんの一瞬、宙に浮かぶ感覚があった。
舞い散る緑とそのむこうの青い空がぐるりと回り、月光に濡れる暗闇にチュナの体が投げ出されたあの光景が脳裏をよぎり、痙攣する告死鳥の体をつかんで、アークフィア様! 声にはださずそう叫び、彼方の地面めがけて墜落していった。
暗闇の底で声がする。
またあの声だ。
逃げ出そうとするが体が動かない。
ああそうか自分はもう見つけられた後なのだと思いだす。
我が名を当てよと言われるが、名前など知らない。
自分を生んだ親の名すら知らないのだ。
声が呼ぶ。
我が子、我が肉――。
目を覚ました。
血の匂いが鼻孔をかすめ、しかし見上げる視線の先は一面の緑と青空だ。地上までの転落と撃墜死はどうやら免れたらしい。さきほどよりは太い枝の上にいた。周囲には折れた小枝と緑の葉が散らばっている。枝がきしんだ。足元のあたりで、告死鳥の苦痛に満ちた声が響いた。ぎょっとして起き上がろうとしたが、体がいうことをきかなかった。
左半身に感覚がない。両手が空なのに気付いた。
武器がなく荷物がない。すぐ側で告死鳥が羽と葉を撒き散らしながらのたうちまわり、意味もつかめぬ断片的な悲鳴をあげている。死んでいない――殺せなかった。武器がない……。
最悪の状況であった。
心臓が激しく鳴りはじめる。起き上がろうとしたが動けなかった。手足が泥に埋められたようだ。あの悪夢のようだ。痛い。呼吸をするたび、熱い針を打ちこまれるような痛みを腹に感じる。お腹が痛い。
告死鳥の声がやんだ。
首を回すだけで痛みが走る。右の肩を持ちあげ、なんとか顔を横にむけた。
翼を垂らした告死鳥が、顎と胸を使って、這うように――逃げ出すのではなく――こちらへ、横たわったマナの方へと近づいて来るところだった。女の顔は歪み、血にまみれている。翼が不自然な位置で折れ曲がっている。胸にはマナの突剣が刺さったままで、落ちた弾みに貫通したのか、折れた先端が背中から飛び出していた。告死鳥が動くたび、突剣の柄が枝にぶつかり、かつん、かつんと固い音を立て、ぽたぽたと赤い血が落ちた。
「あっ――」
微かな身じろぎが全身に灼熱の痛みをもたらす。「あ、あ!」激痛に身を硬直させれば、体の下で折れた小枝や葉が音を立てた。腹。お腹がとても痛い。赤黒く濡れた長衣が体に張り付いて重い。痛い。逃げなければ――手を動かし傷口に触れることすらできない。汗がどっと流れだした。体が動かない。腹の傷、いや、打ちどころが悪かったのだろう、半身が重く痺れている。
呼吸を整え、苦痛を必死でこらえ、女神に祈る。アークフィア様、お助けを。力を。私はここで食い殺される運命なのでしょうか? 私にはまだやらねばならないことがあるのです。ホルムの町をこのままに、勝手に死ぬわけにはいきません。
祈りにはいつもの沈黙だけが返ってくる。
告死鳥の顎が枝の上に投げ出されたマナの動かぬ左手の上に乗り、痺れた膝の上に乗り、それでも止まらず、ずるり、ずるりと近づいてくる。太腿の上に羽毛に包まれた重い乳房が乗る。柔らかな部分が擦れる感触に寒気がする。顎をマナの下腹に載せ、そこで止まった。
告死鳥がぱっくりと口を開いた。(連中ははらわたから喰らうのだ)(はらわたから)無事な右腕を動かし、告死鳥の顔を打とうとしたが、力が入らず、手が届かない。
お願いやめてと絶叫しそうになったが、その言葉が口から飛び出す前に、歯を食いしばり息を止めた。
こんな化け物相手にお願いなんてするものか。
悲鳴などあげたりしない。
ここで死なねばならぬのなら、殉死した聖人たちのように、立派に、恐れを見せず、堂々とした態度で死ぬのだ。
震える唇を固く結び、顎をあげ、精一杯の軽蔑と威厳を込めた眼差しを作る。破れた長衣と肌着から覗く傷口に化け物の牙が触れ、固さ、冷たさ、熱い吐息、どろりとした唾液、灼熱の痛みの上にその感覚の全てがはっきりと伝わり、その瞬間、固かったはずの覚悟が音を立て崩れ落ちた。
泣きだした。
泣きながら、告死鳥の唇が下りていくのを見つめていた。長い舌が傷から溢れ出る血を舐める。牙は皮膚を破ろうとしない。涙を流すマナの下腹を、告死鳥は音を立て舐めはじめた。――舐め続けた。ぺちゃり、ぺちゃりと、柔らかく温かな舌が当たる。
「あ――あ――」
全身が総毛立った。涙がとまらない。
「やっ、やっ、やめ……や……」
不浄な者の舌により、血が少しずつ拭い去られていく。代わりに少しずつ汚れが染みこんでいくようで、あるいは死よりもおぞましい。泣きじゃくりながら右肘を突く。激痛をこらえて上体を起こす。
「や……」
血の味のする唾を飲みこみ、瞬きして涙を払う。震える自分の喉に止まれ、と命じた。止まれ。アークフィア様。痺れたようになった頭の隅から「怖い」という子供っぽい己の声がきこえた。
「……や……や、やめなさい。そんなことをしても私は怯えたりしません。怖がらそうとしても、む、無駄ですよ」
舌が小さな臍の窪みを舐める。鼻が布の破れ目に入りこむ。牙が布を切り裂く。股間を覆う下着までが血まみれだ。爪が切り裂いた傷は下着の下まで続いている。怪物はすべての傷を舐め、ぺちゃぺちゃ、ぺちゃぺちゃと――。
涙をこぼしながら目を見開き、息を止め、汚れた髪に覆われた女の頭部が自分の下腹を這いまわる様子を見つめていた。嫌悪感が吐き気となって腹の底からこみあげてくる。苦痛とそれを上回る恐怖に気が遠くなりかけた一瞬、告死鳥がぴたりと舌を止め、歌うように囁いた。
「お許しを」
まるで人間のようなその声に、マナは動きを止める。
「……何?」
「ご無礼を。お許しを。御身に傷を。高貴なる血の血、肉の肉、骨待つ髄……御子の褥になんたる粗相……」
「何を……お前は何を……?」
歯の根があわない。
告死鳥の表情にも声にも、卑屈な媚びとへつらいが溢れている。限度を超える苦痛を受けた人間を襲う慈悲ある錯乱が、この怪物の上にも下りているのに気付く。
耳を傾けてはいけない。こいつらは魔力ある言葉で心を惑わす邪悪な生き物だ。チュナちゃんの体が路面に投げ捨てられたあの夜、ラバン爺はそう言って、魔物に詳しいデネロス先生も同じことを、アダ様もそうおっしゃられたし、ネルも。ずっと気付かないふりをしていたけれどこうして側で見つめれば、穢れた命であるはずの夜種はなんと人間と似た顔をしているのだろう。
「お許しを。お慈悲を。陛下、はしためを玉座の側へお連れ下さい。永遠の命を。アーガデウムへ」
マナが大きく口を開いた。
息ができない。
喉がきゅうに狭くなった。胸まで空気が入ってこない。
アーガデウム。
その言葉。
光のない黒い瞳から目が離せない。
告死鳥が唇を動かした。
――タイタスさま
きらりと輝く物が一筋、視界を縦断した。
告死鳥の体ががくんと揺れ、背から血飛沫が噴きあがる。
ギャッと叫んだ告死鳥が転がるようにマナから離れる。背中から付き出した刃の側に、黒光りする鉄の塊が生えていた。血はそこから噴水のように噴き出している。その鉄がフランの投擲具だと気づいた時、
「マナ様っ!」
凛とした声が頭上から響いた。
枝を揺らし葉を散らし、フランの小柄な体が落下してくる。
メイド服の裾を翻し着地した次の瞬間、低い体勢のまましなる枝を蹴り、一瞬の躊躇もなく、告死鳥に跳びかかった。手にした短刀がのたうちまわる告死鳥の喉にむかっている。
「待って――!」
マナの叫びは鉄の軋みと飛び散る血の音にかき消される。少女の握りしめた短刀は、まるで止まった的を相手にするような正確さで、告死鳥の喉をえぐりとっている。狭い足場でフランが体をくるりと反転させるのと、断末魔の悲鳴をあげた告死鳥が枝から転落するのは同時だった。立ち上がったフランは返り血の一滴も浴びていない。怪物が墜落していく様子を、目を細め、厳しい顔で見守っていた。
――遠くで何かが潰れる音がして、フランが短刀を鞘に収めた。
こちらを振り返る。優しい、親切な、控え目で大人しげないつもの表情に戻ったフランが、小走りに近づいてくる。
「マナ様! お怪我は?」
傍らにしゃがみこんだフランを、マナは一瞬、恐れを含む目で見上げた。ああ、違う、大丈夫だ。大丈夫――フランさんを怖く思うなんて馬鹿げている。私を助けてくれた、探索者仲間、それにこの人はホルムの町の人ではないか。
「……お腹を……アルソンさんは?」
「もう目覚めておられます。傷も浅く問題ありません。マナ様が心配でしたので、あたし一人で先に参りました」
しゃがみこんだフランの冷たい手が、優しく額の汗を拭った。
「失礼します」
丁寧な口調でそう言い、血に汚れた長衣の破れ目に刃を当て、肌着ごと一気に布を裂いた。慣れた手つきで服の残骸をむしり取る。息を止めえぐれた皮膚を凝視し、だが表に出した狼狽はそれだけだった。
「申し訳ありません、あたし、できることが止血くらいしか……。マナ様、ご指示を。どうすれば?」
フランの声はひどく落ち着いている。緊張が緩んだせいか痛みが増し、目の前が暗くなってくる。
「アダ様を……神殿に……神殿へ……お願い……します……」
瞼が落ちた。
助けてもらった礼を言おうとしたが、舌がもう動かなかった。泉に投げ込まれた小石のように、意識は急速に暗闇の底へと沈み込んでいく。
声だ。
声が追いかけてくる。
しかしこれはただの夢だと夢独特のあの明晰さで理解している。お腹がきりきりと痛む、周囲は真っ暗だ、背後で森がざわめいている、これは確かに悪い夢だけれどもあの悪夢ではない。地から湧きだしてくる声が手を足を縛り私の名を呼ぶあの怖い怖い夢ではない、だからマナは自由な手足を大きく動かし、声には背を向け、暗闇の中を全力で駆ける。息が弾み汗が額を流れる。走りすぎたせいかお腹がすごく痛い。雨上がりの道はぬかるんでいる。足をもつれさせ、泥の中に躓いては立ち上がり、彼方には轟く雷鳴をきく。
じきに天が白く染まり、稲妻が天と地をつなぎ、一本の木が燃えあがるだろう。
見てはいけない。触れてはならない。暴いてはならない。このまま振りかえらずに走り続け、誰も死なず、誰も殺さぬ未来へ行こうと思う。
暗闇を走り続ける。
行く手にはやがてきらきらと輝く光が見えてくる。
マナは、ああ、と歓喜の声をあげる。
近づくにつれてそのきらめきは、天空にそびえる四つの塔だとわかる。
暗闇の中に輝くのは塔の先端を飾る瑠璃だ、磨き上げられた紅玉だ、路面に埋まる金剛石だ。
なんと美しい都だろう!
腹から流れる血が体を汚し、苦痛に顔が歪む。でも気にするものか。あそこへ行けるならばこんな傷など何だというのだろう。美しい歌声がきこえてくる。喜びに胸が弾み頭の芯が痺れる。あそこには私が望み夢に描いた未来がある。私の眷属が、六つの椅子が並ぶ温かな食卓が、穏やかな信仰が、救いが、癒しが、頬に熱い涙がこぼれる、ようやく待ち望んでいたあの幸福と平和の中へ入っていけるのだと思う。ずっと私が探し求めていた、私を探してくれていた、美しい幸福なあの場所へとたどりつけるのだ。
突然体が後ろへ引っ張られる。
地面を蹴っても前へ進まない。
腹に何かが触れる感覚にぎょっとして見下ろせば、いつのまにか背後から回された男の手が、破れた長衣の上で蠢いている。
掌が腹を這う。
薄い皮膚の下に熱が伝わる。
マナは悲鳴をあげ身をよじり、その手から逃れようとする。やめて、汚い、気持ちが悪い、触らないで。私の体を汚さないで。私は清い体のままあの都へ行きたいの。あそこに行けば望むすべてが手に入るのに。
振りむけば背後から自分を抱きとめる男には顔がない。
顔がない――。
目を開ければ黒い目の男が自分を見下ろしている。
なぜこの人が、そう思い、「邪魔をしないで」怒りに震える声をぶつけるが神々への祈りと同じように沈黙だけが戻ってくる。下腹に触れた男の手がひどく熱い。
目を閉ざせば再びあの暗闇へ落ちていく。しかし永遠の都はすでに姿を消し、艶やかな調べは大河のざわめきにとってかわられ、一人立ちつくすマナの周囲にはただ空漠とした闇だけが広がっていた。
*