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掌の小鳥 2

 翌日の昼過ぎにはもう寝台から起き上がれるようになっていたが、様子を見に来たアダは夜着を脱ごうとしていたマナを厳しく叱り、しばらくはおとなしく休養するようきつく命じた。
「まあ出血の割には大した傷でもなかったがね。手当ても一通りはすんでいたことだし。礼はあたしじゃなくてお前さんの仲間と女神様に申しあげな」
 もつれる舌で礼を述べれば、老巫女は不機嫌な声でそう言い残し、さっさと部屋を出ていってしまう。
 ああこんなことでまたアダ様のお手をわずらわせてしまった、そうでなくても遺跡のことではいっぱいご迷惑をおかけしているのにと、その時は神々の癒し手として己の未熟を恥じただけだったのだが、その日の夕方、見舞いと称して部屋に遊びに来たエンダがぽろりと「ばーちゃんは泣くとすごく皺々になるぞ」、そうもらしたせいで、マナはひどく憂鬱になった。
 子供の頃からアダに叱られるのも心配をかけるのもしょっちゅうで、でも泣かせてしまったのは初めてのことだった。多分。もしかしたら。ただ大人たちは子供が見ていないところで泣く。
 毛布に潜りこんできたエンダは、ニンゲンの寝床の作り方についてあーだこーだと文句をつけていたが、そのうちにいびきをかいて眠りはじめた。竜の子はたくさん食べてよく眠る。追いやられた寝台の端で、マナはエンダの小さな鼻をつまんだり頭のむきを変えてやったりしていたが、しばらくするといびきを止めるのは諦めて――エンダを構うのに飽きて――硬い寝台の上に頭を落とした。
 傷の痛みはすっかり消えており、だが魔法による治癒術を施されたあとの不自然な疲労感が全身を覆い、動きや感覚を鈍らせている。
 なんだか頭もぼうっとしているようで、エンダの無防備な寝顔を、ただぼんやりと見つめていた。
 ぼうっとしたまま、最近はエンダのこともアダに任せっきりだったのを反省する。
(しばらくはアダ様のお言いつけ通り、遺跡に行くのはやめておこう)
 心の中でそう決めたとたん、自分でも驚くくらいほっとして、安らかな気持ちになった。
 神殿の雑務は随分溜まっているし、探索者たちは癒しや解呪を求めて毎朝やってくる。眠り病の家族を抱えた信者の人たちは慰めと祈りを必要としているし、夜種に追われ土地を手放しこの町に逃げ込んできた農民たちは、日々の糧を得る術も風雨を凌ぐ軒もないまま、神々の助けを待っている――少し考えただけでもホルムの町には、神官がなすべき仕事が山積みになっているのだ。
「明日は一緒に鐘楼の修繕をしようか?」
 独り言のつもりでそうつぶやくと、エンダが目を閉ざしたまま、眠そうな声で答えた。
「ショーロー?」
「うん。煉瓦を上まで運ぶの、お手伝いしてくれる?」
「いいぞ。でも肉をくれ」
「お肉、お肉ねえ……私はお魚が食べたいな。スープくらいなら本を見れば作れるかしら……その前に釣りにいかなきゃ駄目か。釣竿ってどこに置いたかな」
 気がつくと枕に埋もれたエンダが、上目づかいにこちらを見つめていた。
「なあに?」
「迷宮にはいかないのか?」
 せっかくの長い綺麗な髪なのに、エンダの頭はいつもぼさぼさだ。チュナによくそうしてやったように、手を伸ばし指で梳いてやる。最初のころと違って、エンダは触れられてもあまり嫌がらなくなった。
「迷宮はしばらくお休み。私は神殿の子だから神殿のお仕事をするの」
 エンダの髪のもつれに気を取られながらぼんやりとそう答えれば、エンダは鼻に皺を寄せた。
「あのな、マナ。ショーローの手伝いはしてやるけど、エンダは神殿のコじゃないからな」
 やけにきっぱりと断言される。少し寂しくなるくらいだ。
「エンダはここが嫌いなの?」
 額をよせてそうたずねれば、エンダはますます難しい顔になった。重々しい口調で言った。
「ばーちゃんのゴハンは、まあまあ、まずい」
「あら、そんなことを言っては駄目よ、エンダ。アダ様はあんなにお忙しいのに、わざわざ私たちのために」
「マナのゴハンは、まあまあ、まあまあ、まずい」
「そ、それは、う……。いいの。だって料理は巫女の仕事じゃないもん」
 調理に関する知識が『とにかく煮る』と『とにかく焼く』の二つしかないマナは、実に言い訳がましくそう答えた。そろそろネルに頼んで、料理をちゃんと勉強しはじめた方がいいのかもしれない。
 それにしてもまあまあが二回だといいのと悪いのとどっちに近づくのかなと思ったが、なにしろ捕まえた虫を「コクがあってうまい」とバリバリと食べるエンダなので、色々と計りしれないのだった。
「迷宮にはいっぱいゴハンがいるだろ。マナはエンダをあそこに連れていけ。エンダとたくさん遊んで、たくさん美味しいのを食べさせろ」
 極めて明快な主張をしたエンダは、これまた明快な大あくびをして目を閉じ、本格的な昼寝に突入した。



 鐘楼のてっぺんの崩れた内壁を修理するのに、重い煉瓦やモルタルの入ったバケツをかかえて数度の往復を覚悟していたのだが、肉で元気になったエンダのおかげで、一度で全部を運び終わった。
 南側の崩れた壁に煉瓦を積む手を休め、鐘楼の上から見渡せば、黒く濁る大河の彼方にうっすらとした山稜の線と、まばらな緑と白茶けた色彩が混じり合う山谷の影だけが見える。
「マナ、あれなんだ? あそこなんだ?」
 声を弾ませ問うエンダに、
「あそこは、ええと、ネスじゃない国……かな?」
 マナはあやふやな口調でそう答えることしかできない。
 この町で育ったマナにとって、鐘楼から見渡せる場所が世界のすべてだ。ホルム領の外は世界の果てと同じだ。
 エンダが屋根を支える柱に手を絡め身を乗り出すのにひやりとするが、モルタルに汚れた片手と片足で体を支えたエンダは下から吹き上げる強い風に髪をなびかせ空中に手足を遊ばせて、からりと晴れた初夏の青空に、嬉しそうな笑い声を響かせた。
「これ気持ちいいぞ、マナ!」
 エンダの声と笑顔にマナも微笑する。久しぶりに晴れ晴れとした気持ちで大河を見渡し振り返り、しかし新築の家屋が目立つホルムの町、鐘楼よりも高くにそびえ建つ領主の館、そして北に広がるうっそうとした森が目に入れば、微笑は消える。眼差しは宙をさまよい、やがて生い茂る木々の緑に隠されたある一点で焦点を結ぶ。洞の下の洞窟、迷宮の入り口。今日もまたその場所から呼ばれているようで、かすかな胸の高鳴りと、それよりも大きな不安を感じる。
「マナもやってみろー」
「私がやったら落ちちゃうよ」
「落ちたらどうなるんだ!?」
 くるりとふりむけば、エンダの横顔がものすごくわくわくしている。ピンと来て、「エンダっ!」悲鳴をあげて飛びつくのと、エンダがひょいと足を踏み出すのが同時だった。風をはらみ膨れあがった布の下の細い体をしっかり抱きしめ、マナの方はかすかな高鳴りどころの騒ぎではなく心臓が跳ねているのに、エンダはいたって平気な顔だ。塔の床に尻もちをついて、引き戻したエンダの体を膝に抱えたまま、大声で叱った。
「エンダーっ! 馬鹿! もう馬鹿! 落ちたら死ぬに決まってるでしょ! それ試さなくてもわかるとこ!」
「おお? ニンゲンは不便だな」
 あまりの言葉に脱力する。
 エンダから手を離すとそのまま床の上にころりと寝転んだ。アーチ状の天井から釣り下げられた鐘の内部にぽかんと浮かぶ暗闇と、天井を支える四本の柱に遮られた青空を、ぼんやりと見つめていた。
 この場所は天が近い。エルフの大樹の梢の先に広がる空を思い出し、地下にあるはずのあの大樹から見えるのはこれと同じ空なのかしらと不思議になる。
 あの森は本当はどこにあるのだろう。
 シーフォンくんはあそこは半ば異世界と言っていたけれど、それはデネロス先生がおっしゃる地下世界と同じことなのかな。魔術師たちの使う言葉は、神殿に親しんだマナには耳慣れない響きを帯びている。シーフォンくんは口は悪いけれどいい子だ。デネロス先生は立派な方で、町にあの先生がいてくださって本当によかったと思う。それでも彼らの言葉や考えの端々に滲む傲慢さが時々恐ろしい。私はすべての奇跡は神々が人間に許し与えたもうた物だと思う――大河教典にそう書いてあるしアダ様もそうおっしゃるし大聖エルも――魔法の力はすべてが借り物に過ぎない。そう、たとえばこの命や体と同じように。
 大河の波音と混じりあい町のざわめきが微かに響いている。
 いつのまにかまどろみかけていたが、隣に寝転んだエンダが何かを言い、目を覚ました。
「なあに?」
「マナも落ちたらシヌのか?」
「すごく死にます」
 きっぱり答えたが、例によって例のごとく、エンダはさほど納得した様子を見せなかった。
「でもマナは大きい木から落ちたんだろ。ばーちゃんからきいたぞ。それ、楽しそうだぞ」
 落下するのは全然楽しくない。
 体が宙に浮くあの恐怖、あの痛み、告死鳥の声を思い出し、マナはそっと目を閉じた。




 ――我が子、我が肉、そなたの魂は我が物――




 宿舎の小さな浴室で、モルタルと土と埃に汚れた髪を、顔を、腕を洗う。もうもうと立つ湯気の中、石を敷き詰めた床の上に座りこみ、己の体を点検してみれば、白い下腹には傷や痛みどころか痣の影すら残っておらず、アダの癒しの技の見事さにため息が出る。これが信仰心の違いかしらと思いつつ頭から湯をかぶり、水滴が太腿に散った瞬間、突然告死鳥の唇と舌の感触が肌に蘇った。髪と体からぽたぽたと水滴を垂らし、うつむいて、どこか頼りない裸の体を見つめていたが、そのうちに熱い湯を腹にかけ、熱を帯びて赤くなった肌を乱暴に擦りはじめた。皮膚が痺れたようになり感覚がなくなるまで、両手を動かし続けていた。



 昼過ぎにひばり亭に顔を出してみれば、フランもアルソンも、それどころか探索者の一人すらおらず、常連の町のおじさんや商人たちが数人いるだけだった。
 二人に神殿まで運んでもらった礼を言おうと雑務の合間を縫ってやってきたマナは、ひばり亭をぐるりと見回し、ネルやパリスまでいないことにがっくりと肩を落とした。どうも最近は何かにつけて微妙に運がない。
 新たに発見された地下都市で先を争うお宝探しと、領内の村に出没する夜種を退治するよう領主からお達しが出たのとで、探索者たちは皆大忙しの掻き入れ時なのだ――と、カウンターに山と積まれた人参を目にもとまらぬ速さで剥きながら、オハラが教えてくれた。
「って地下都市はあんたが見つけたんでしょーに」
「ええ? あれは別に……宮殿からの扉を開けただけだから、私が見つけたことにはならないと思うんだけどな」
「あらそーなの? でももう、そういう噂になってるわよ」
 そう言いながら顔をあげたオハラは、薄い外套を羽織っただけで武器も道具袋も携えていないマナの姿に、瞬きした。遺跡への同行者を探しに来たわけではない、しばらくそちらは休むつもりだと告げると、オハラはますます不審げな眼差しになる。
「このあいだの傷ってそんなにひどかったの?」
 普段はラバン爺が占領している椅子に滑りこんで、磨き上げられたカウンターに肘をついた。ひばり亭には毎日来ているのに、オハラとしゃべるのは久しぶりな気がする。
「オハラさんはなんでも知ってるのね」
 子供の時と同じように、オハラの顔を見てにこりと笑えば、笑い返される。
「そりゃもう、こういう商売ですから。で、具合は?」
「うん、ありがとう、元気。アダ様に見ていただいたから怪我はもう大丈夫なんだけど、無理はしないでしばらく」
「お休み?」
「神殿の仕事をしようと思って」
「……まあいいけどさ。あんまり真面目だと、周りか自分かどっちかが潰れちゃうわよ」
「それじゃ全部駄目ってことじゃない」
 マナがため息をつくと、オハラは機嫌のいい笑い声をあげた。
「たまには息抜きしたらってことよ。肩に力いれたくなるのもわかるけどさ、あんたみたいな若い子が遺跡と神殿の往復じゃあ、あっという間に干からびちゃうわよ。それこそアダ様みたいにね」
 からかわれたようでもあるし、本心から忠告されたようでもあった。干からびるくらいでアダのようになれるなら苦労はない、そう思って黙っていると、軽い調子でオハラが続けた。
「男の子と遊びにでも行ってみたら?」
「そんなことしません!」
 何か考える前に勝手に口が動いて、ひどく苛立った、きつい、大きな声で、ぴしゃりと答えていた。びっくりした顔で手を止めたオハラの前で、マナもひどく、狼狽した。
「あっ……ご、ごめんなさい。そういうつもりじゃ」
 だがオハラの顔から驚きが消え、すぐに人の悪いにやにやした笑みが浮かんだ。
「あららん。あっらー」
「な、なんです?」
「別に? マナも年頃になったなぁと思っただけ」
 どういう意味か聞きかえすまえに、オハラが剥き終わった人参のバケツを持ち、さっさと厨房へと入っていってしまった。
「エールでいいの?」
 とんできた声に一瞬迷ったが、椅子から滑りおりた。
「うーん。いいや、今日はいらない」
「ええっ、あんたねぇ!」
 厨房から顔だけだしたオハラに手をあわせた。
「ごめん、これから炊き出しのお手伝いがあるから。次来た時に――フランさんとアルソンさんによろしく伝えておいて」
「あー、はいはい。メロダークさんにもね」
 なんの脈絡もなく唐突に出てきた名前に瞬きする。
 なんであの人の名前が、と思ったが、厨房からはオハラが忙しく料理を始めた気配が漂ってきて、マナは首をひねりながらひばり亭を後にした。
 オハラの言葉の意味をなんとなく推測できたのは、ネルの雑貨屋でおばさんとおしゃべりして、露店商から野菜を買い込んだあとの帰り道だった。橋を渡って行く途中、高くそびえた神殿の鐘楼を見上げるうちに、最近あの傭兵とよくしゃべっているのを遠まわしにからかわれたのかもしれない――ふとそう気付いて、マナはやや渋い顔になった。オハラらしからぬまったくの見当違いだ。
「神官同士なのにそんなことあるわけないじゃない」
 口に出してそうつぶやき、「歳も違うし」神殿の階段を上がりながらそう言って、「それにお話しているのは遺跡のことばかりだし、あちらから声をかけられたのはブラックプディングの件でお詫びされた時だけだし、二人きりでもないし、挨拶しかして頂けない時もあるし、探索中にも叱られることばかりだし」自室で外套を脱ぎながらそう言った。それでもまだ足りない気がして、しばらく考えていたが、それによそから来られた方だしとこれは心の中でつけたして、自分の理屈に一分の隙もないことに深く満足し、一人でうんうんと頷いた。


 オハラには次来たときにと約束したものの、ひばり亭には顔を出せないまま、それから数日が過ぎた。
 礼拝の手伝いをし、掃除やら祭具の手入れやら帳簿づけやらの雑務をこなし、怪我をした探索者の手当てをし、信者の話をきき祈祷を行い、食料と薬を手に寡婦と老人の家をまわり、エンダや子供たちの相手をする合間合間に遺跡から持ち帰った古文書を読んで勉強し、久しぶりに本来の生活に戻ってみればこれはこれで目が回るような忙しさなのだった。そうする間に体も本来の調子を取り戻していたのだが、マナはもう少しだけ、と心の中でつぶやき、森には意識して背をむける生活を続けていた。
 アダは遺跡についてはいつものように何も言わず、ただ一度だけ「明け方に部屋の前を通りかかったら、蝋燭がつけっぱなしだったよ。気をつけなよ」と別のことを注意した。
「すみません、夕べは本を読みながらそのまま眠ってしまったので」
 マナは淀みなくそう答えた。
 これは嘘ではなかった。
 ただし真実のすべて、つまり夕べに限った話ではなく、毎晩本を読んでいるため、毎晩明かりをつけっぱなしにして眠りに落ちていることは口にしなかった。――本の内容はほとんど頭に入っておらず、時には記されている文字をただ眺めているだけのことすらあるのだが、明かりを灯した部屋で眠りにつくには、『読書のついでに』『うっかりと』したという口実がどうしても必要なのだった。これはアダを心配させないためではなく、むしろ自分のための言い訳だった。
 アダは長い間少女の顔を見つめていたが、やがてふんと鼻を鳴らした。あいかわらず嘘のうまくない少女がばつの悪い思いをするにはそれだけで十分だったが、こまごまとした仕事を終えたその日の夕方、アダは祭具室の整理を手伝うように突然マナに申しつけた。その夜は遅い時間になるまで、埃っぽい狭い半地下の部屋で、老巫女と養い子は他愛のない話をして二人きりで過ごした。
 一振りの剣を携えたフランが神殿にマナを訪ねてきたのは、その翌朝のことだった。

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