紅玉は流れる炎の河を封じ込めたような真紅の輝きを放っており、見つめれば吸い込まれるように美しい。
きっとネルに似合うと思う。
だが今はこれは俺の物だ。
嵌めてみれば、柘榴石のニルサは俺のためにしつらえたかのように指になじむ。指輪の魔法は血の流れにのって全身を駆け巡る。疲労が消え、荒く乱れていた呼吸が整い、ふつふつと力が湧いてくる。雑念が消え考えが冴えわたる。
しかるべきところにあるべきものがあるのは、なんと素晴らしいことだろう!
明るくなった視界の端に玉座が見えた。
子供っぽい馬鹿げた振舞いだとわかってはいたが、誘惑には勝てなかった。血だまりを踏みながら広間を横切り、段をあがって玉座へ近づいていく。腰をおろした。俺の体には低すぎ小さすぎ、固く冷たく返り血で汚れていたが、悪くない気分だった。
俺はいまや主を失った小人族の玉座に腰かけ、広間を睥睨する。編髭族の勇士たちの死体は重なり合って広大な石の空間のそこかしこで、自らの血だまりの中に倒れ伏していた。美しい縞瑪瑙と大理石で飾られた王の間を、なまぐさい風が吹き抜けていく。
我が友、勇敢なダリム、指輪に魅入られ俺の申し出を断った愚かな王は、俺からの丁重な鋼の挨拶を受けとり、玉座の側で階段に半身をのせ息絶えていた。うつ伏せになっているせいで残念なことに顔の表情は見えない。足を延ばして蹴飛ばすと死体は階段を転がり落ちていき、床の上であおむけになって止まった。血に汚れた彼の顔にはやはり苦悶の表情が浮かんでおり、俺は大変満足する。対峙した彼は十分な強敵であり、それに打ち勝てたのは嬉しかった。お前は強い。しかし俺よりは弱かった。オ前モ弱キ者デアッタカと思った――それを言った魔将も俺の短剣の投擲により、死んだ。
一人の家臣がおらずとも王として振舞うのは楽しく、心安らぐものだった。俺は玉座に腰かけたまま今一度手を広げ、血みどろの争いの末に手にいれた赤い指輪を見つめる。汚れた甲冑姿の小人たちの死体、血だまりの赤、白い壁、炎を封じ込めた柘榴石、すべてが調和しており美しく完璧だった。
生きているのは俺一人だった。
そのうちに広間の様子がおかしいことに気付いて、編髭族がやってきて大騒ぎになるだろう。それまでに地上へ戻らねばならないが、生まれて初めて、そしてようやく座ることのできた玉座の感触に俺は酔いしれていた。
――俺は王だ。
そう考えると自然と微笑が浮かんだ。
生まれたころから誰に教えられるでもなく、自分が王だと知っていた。白亜の宮殿や、薄衣をまとった美しい女たちや、荒野を埋め尽くす従順な兵士たちを知っていた。しかし腰かけていた場所は絹と白檀の玉座ではなく、汚泥にまみれた煉瓦の上だった。
義母がいて義兄がいた。
義兄は両親を殺されたところを助けられ、俺は大河のほとりで拾われたのだという。ひとり身の貧しい女が一人ならまだしも二人も孤児を拾い、物乞いをさせるでもなく売り飛ばすでもなくただ飯を食わせ服を与え字を教え、まったく義母は変わっていた。変人だったが気持ちのいい女で、俺は彼女が好きだった。
義母は風来坊の根なし草で、ひとところには三月とおらず、子供の頃の俺たちは食うや食わずの暮らしぶりだったが、俺はさしたる不自由も感じなかった。腹が減れば町の目抜き通りへ行って露店に並んだパンや肉をかすめ、イタチの毛皮や紅玉の指輪で身を飾った金持ちたちの財布や荷物をかっぱらった。数回はドジを踏んで捕まりかけ、ならず者に捕縛され、一度は死ぬような目にもあわされ――心配した義母が探しに来てくれなけば、そして彼女が盗賊の技の熟練者でなければ、俺は今頃海の向こうで宦官として暮らしていただろう――その時は心底恐怖と苦痛を味わったものの、結局俺は盗みをやめなかった。
義母も義兄も散々俺を心配し罵倒し説教したが、生きているかぎり腹は減るし金はなくなる。鳥や動物は目の前にある物を食べ殺して食い殺されて食われ、俺たちは獣と変わりはしない。俺は生きていかねばならず、生きるのは楽であればあるほどいいに決まっている。義母がその優れた技量を使うのに慎重すぎるのが不思議で仕方なかった。複雑な錠前を前に俺や義兄がもたもたと針金を選んでいる間に、義母の指は魔法のように鍵をはずし音もなく戸を開くのだった。だが義母は、どれだけ俺たちが飢えようとも、商店の扉を開けようとはしなかった。俺にしてみれば愚かしさの局地で、義母にしてみればその場所に立っているのはおまえだという話らしかった。
義母は盗みを繰り返す俺に手を焼き、しまいにはひどい折檻を与えたが、俺は頑として反省などしなかった。最後には彼女は俺を森へ連れていき、一本の樫の木に縛り付け、そのまま一晩放置した。朝日とともに戻ってきた義母は、「もう盗みはしないか?」ときいた。俺は小便で衣服を汚し、体に食い込む縄の痛みと十一月の寒さに震えていた。がたがたと歯を鳴らしながら母にいった。
「盗まれるのが嫌なら、地面に穴でも掘ってそこで暮らせばいいんだ。俺は自分がほしい物は全部奪う」
義母はため息をつき首をふり、結局、俺のいましめをほどいた。
「王様でもおまえよりは遠慮がちに暮らしているだろう」
縄から解放された俺は地面に厚く積もった枯れ葉の上に倒れこんだ。全身に血が通う感触を喜びながら、王か、と思った。日光に晒された枯れ葉と土は清潔で、初秋の朝、肌を刺す冷えた空気はどこまでも澄みきっていた。青天の下、どこかでツグミが鳴いていた。
王という言葉をきいたのはそれが初めてだったかもしれない。
――それは俺だ。
しかし自然とそのように思えたのだ。
いつの間にかそう口に出していたらしい。義母は俺の頭を容赦なく拳骨で殴りつけ、「おまえはただのヴァンだろう」と叱り、俺を背負って、町まで帰っていった。
そのうち家族がもう一人増え、また一人減った。
義母はチュナという名の赤ん坊をどこからか連れてきた。今や三人に増えた俺たち兄弟は義母と共にネス公国へ入り、国境の町で衛兵に捕獲された。
俺たち兄弟は義母とは別に留置され、そこで初めて、義母が昔は盗賊として暴れまわっていたことを知らされた。しばらくして義母は処刑され、頭は西シーウァに、体はホルムの共同墓地にと放りこまれ、そのどちらも俺たちは見ることができなかった。
領主は義母に死を与えたのと同じ手で新しい養い親を俺たちに与えたが、俺たちはすぐに彼らのもとを逃げ出した。
俺たちはホルムではよそ者で、俺たちの親は処刑された罪人で、俺たちに後ろ盾となる大人はおらず、俺たちは子供だった。当然まともな暮らしになるはずもなく、俺も辛かったが、一番年上の義兄にとってはより辛い日々だったと思う。
義兄には禁じられていたが、俺はそれでも腹が減れば盗み、金が欲しければとった。ただ捕まった時のことを考えれば、助けにくる義母もいないしあの領主はためらいなく俺たちを殺すだろう、俺は死ぬのが怖かったので以前のように気の向くまま盗むことはできなくなっていた。そういうわけで、俺の盗賊の技は上達していくのに、暮らしぶりは相変わらずつつましく貧しいままだった。
やがて義兄は港の悪党の下で働くようになり、俺もそのようになった。港はいつも酒と紫煙と吐瀉物と腐った魚の匂いがした。
食事にありつけない日もしばしばで、そういう時は温かな夕餉の匂いが流れる下町を歩くのが辛く、港で一人、暗くなるまで時間を潰した。薄闇が広がっていく空の下、桟橋に立ち、黒く濡れた支柱とその周囲にまとわりつく細かな白い波の泡を眺めていると、水面の揺らぎとともに『この世の王、この世の王』という言葉がきこえてくる気がするのだった。その声に耳を傾けていると、己のみじめさや空腹のために捻じれるような腹の痛みを忘れることができた。
――俺は王だ――。
そう確信していたが、実際は大人に命じられるまま船に忍び込んで荷物を盗み、酔客の上着を切りさき財布を奪い、よそ者がヤキをいれられている小屋の前で衛兵が来ないか見張りをするただの使い走りに過ぎなかった。相変わらずの汚泥、古い油の悪臭、拳骨と犬の死骸だ。
そのうちにネルや彼女のお袋さんやオハラのさりげない助力のおかげで俺たちは少しはまともな暮らしを送れるようになってきて、忙しい日々の暮らしの中で己が王であるという確信は遠のき、成長するごとに忘れ去られ、久しぶりにそれを思い出したのは、古い剣と古い鎧で身を守った古の死霊を石柱の上に発見した日のことだった。
あの初春の明け方、俺が暴いた洞窟からは化け物どもが湧きいでて、ホルムの町には死者が溢れた。
義母を殺した町が今度は殺されていると思ったが、別段爽快さや喜びが湧くわけでもなかった。
義母のことは好きだったが、俺はもう彼女の顔を忘れていた。
ひばり亭にはよそから来た探索者たちが溢れているし、オハラに挨拶するのも億劫だ。俺は一人で迷宮へと赴く。怪異を解決すれば金、名誉、地位、望みのままにすべてが手に入るとネス大公の名で公布されていて、つまり貴族たちはこの怪異が解決などされぬと高を括っているわけだ。
俺が遺跡へ行くのはお偉い彼らが投げ与えると約束する金や名誉のためではない。義妹を目覚めさせるためという名目はあるが、俺は迷宮の主を殺せば怪異がとけるという噂を信じていないし、ピンガーのいう“高貴な方”が本当に子供たちを助けるつもりだとも思っていない。
それでも毎日遺跡へ行く。
何千年の埃が積もった廊下に足跡を残し、石の斜面を滑り下りる。ランタンの明かりを頼りに地図を作成し、干した肉をかじりながら暗がりに目をこらす。小鬼を叩き殺し死霊をはらい、抜き身の短剣を石の枕の下に置き浅い眠りをたゆたう。オベリスクに触れて夢の都を彷徨う。
入っていく――下りていく――近づいていく。
探索に必要なものはホルムに一軒しかない雑貨屋で補えるから、俺は毎日雑貨屋に寄ることになり、すると毎日そこの娘に怒られる。
ネルはカウンターの後ろに座り、せっせと縫い針を動かしていた。女物の服に細かい刺繍をいれている。金の指抜きをはめた細い指先が飛ぶように動く。俺も手先は器用な方だが、ネルの指は特別製だ。以前冗談で鍵の外し方を教えてやったら、半日もしないうちに複雑な錠まで開けられるようになったのには恐れ入った。職人のような正確な仕事ぶりに見惚れ、挨拶を忘れて彼女の手元を覗きこんでいた。薄い布地の上に俺の黒い影が落ち、指がとまった。
「いらっしゃーい!」
元気な声をあげ、ネルが顔をあげた。いつもの明るい笑みが浮かんでいる。しかしそこに立っているのが俺だとわかると、たちまちおっかない目になり唇を尖らせた。表情の変化に俺は苦笑する。久しぶりにホルムに帰ってきた俺に、目を丸くして飛びついてきたのはついこの間のことで、こっちは俺の胸を濡らすネルを抱き返すこともできず両手を半端に掲げたままどきまぎしていたのに、今日になればもういつも通りのネルだ。
傷薬やらランタンの油やらを注文すると、ネルは縫っていた服を小さく丸めてカウンターの下に放りこんだ。お小言が来るかな、と思ったら、来た。
「あのさ、ヴァン、いい加減一人で遺跡に行くのやめなよ。なにかあった時危ないよ」
「うるさいな」
「え、ええっ、えっ? なに、その言い方!」
「危ないのはおまえも一緒だろ。行ってるんだろ、遺跡。それともやめたのか?」
「行ってるけど、でも、危なくないよわたしは。他の人と一緒だし、無茶なことしないし――半年も帰らないような馬鹿はしないよ。ラバン爺も心配してたよ、ヴァンのこと」
ラバン爺は俺ではなく、パリスとネルを心配していればいいのだ。俺はカウンターに寄りかかり、広場にむかって開いたままの扉をちらりと眺めた。このまま誰も来なければいいのにと思ったが、そういうわけにもいかないだろう。半年のあいだ――俺にとっては二週間ほどなのだが――に、ホルムにはやけに探索者が増えて、ネルの店は大分繁盛しているらしい。こうして二人で喋れるのもわずかな間だろう。
朝の光が差し込んで、店内に浮かぶ埃がちかちかと光っている。ネルの結った髪が光を受けて美しく輝いている。エルフの王の豪奢で繊細な金糸ではなく、日光と風に晒された干し草のくすんだ金色だ。俺はネルの髪の方が好きだ。カウンターに戻ってきたネルは俺が頼んだ品物をまとめ、手早く包みはじめる。
「ほんっと人見知りなんだから」
なかなか斬新な意見だった。
「チュナちゃんのことがあるから焦る気持ちもわかるけどさ……じゃ、パリスとは?」
「パリスはパリスで行く。俺は俺で行く。それに何度もいうけど、チュナは関係ない。俺はパリスほどあの子を心配していないんだ」
これはネルを悲しませる答えだと知っていたが、他に言いようもなかった。やはり一瞬だけネルは悲しそうな顔をする。
「じゃあ、ヴァンは遺跡で何を探してるの?」
カウンターのむこうから油紙に包んだ傷薬を差し出し、ネルがきいた。子供のときと同じようにまっすぐ俺を見ている。瞳のどこにも怯えや躊躇がない。
俺は王だ――それを証明に行くのだ、そういうと一番しっくりきて、ただしこれは誇大妄想狂の言葉だ。そんなことを漏らせば、このおせっかいは俺を神殿に引っ張って行くに違いない。黙って商品を受け取り、銅貨を置いた。小銭を慣れた手つきで片づけ、ネルはため息をついた。
「……あーあ。なんか責任感じちゃうなあ」
「何の? あの洞窟を暴いたのは俺だ、俺一人だ。俺が一人で遺跡へ行くのは当たり前のことだ。ネルにはなんの責任もない」
ネルはぶんぶんと頭を横に振った。
「責任あるよ――ヴァンを止めなかったからさ」
子供っぽいその言葉に俺は笑って手を伸ばし、ネルの鼻先を柔らかくつまんでやる。ネルは赤くなって俺の手を払いのけた。
「あのね、年頃の女の子にそういうのやめてよね」
「女の子? 熊娘しかいないだろ?」
「く、く、熊ぁ!? もう、ヴァンの馬鹿!」
俺は笑いながらネルの拳をかわし――直撃をくらえばあれはかなり痛い――ようやく上着のポケットから手を抜く。中で握っていた指輪をカウンターの上に放り投げた。柘榴石のニルサは、光を反射しながら軽く回転した。ネルが慌てて手を伸ばし、受け止めた。
「遺跡で拾った。やるよ」
そっと指輪を持ち上げたネルの目が見開かれた。昨夜磨きあげておいた指輪に血の曇りはなく、柘榴石は炎の芯を摘み取ったかのように輝いている。本当のことを言えば手放すのは散々悩み、躊躇した。見るからに高価で魔法のかかっている代物なのだが、それよりもまず俺自身がこれを所持すべきだという考えが頭を去らなかったのだ。手放すのは愚か者だという幻聴まできこえてきたくらいだ。とはいうものの、ネルを驚かせ、喜ばせてやりたいという誘惑には勝てなかった。
食い入るように柘榴石を見つめているネルの表情に、まあこれなら惜しくはなかったかなと思う。想像していた反応とは少し違ったが。ネルはやがてふーっと息を吐き、顔をあげた。
「……これはちょっと立派すぎるなあ。もらえないよ」
「拾ったものだぜ」
「んー」
ネルは渋い顔になるが、店に探索者らしい身なりの人間が数人しゃべりながら入ってきたので、俺はカウンターから離れた。魔術師やら神官やらの格好をした彼らはネルの顔見知りらしくて、ネルと彼らは気軽く挨拶し、俺はネルは本当に遺跡に潜っているのだなと変なところで感心する。
「はーい、いらっしゃーい……あっ、ヴァン、ちょっとこれ!」
「また来るよ」
ネルが俺の名を呼ぶと、探索者たちが振りむいた。彼らの視線を浴びながら、俺はネルに手をふり店を出た。ネルと話すのは楽しいが、他人がその場にいると落ち着かない。二人きりでなければ苛立つ。だからネルは俺のことを人見知りというのだろう。そんなことはないのに――いや、本当はそうなのだろうか――ネルとしゃべっていると、俺は俺がどんな奴なのか、段々自信がなくなってくる。