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ミルドラの種 2



 探索者たちは遺跡から古代の品を持ち帰り、高い値段で売りさばくのを商売にしているが、古い宝がある古い場所には古い怪物どもがおり、迷宮の先へ進むほど、危険は増していく。
 俺は死にたくない。俺は絶対に死にたくない。一人で遺跡に潜る俺の足取りはいやでも慎重になる。
 大廃墟のかつては広場だったらしい空間の隅には、白い石柱が建てられている。子供の背丈ほどの石柱の表面を服の袖で拭い、こびりついた苔をナイフの柄でこそげ落とす。我慢強く表面を削り続けると、やがて取っ手が現れた。予想通り古い祠だった――俺は自分の予想が的中したことに満足する。祠の鍵をナイフで壊し、中を覗き込むと、黒く汚れた小さな女神像が出てきた。表面は錆びが浮いているが、精緻な作りだ。女神の片腕には黒い蛇が絡みついている。片手で重みを量り、鉛でないのに満足した。ピンガーの店でいい値段で売れるだろう。俺の皮の鎧はもうつなぎの部分がおかしくなっている。鎧もそうだが、新しい武器も欲しい。背中の皮袋をおろし、女神像を布でくるんでいると、人の気配がした。ふりむいた俺は、素早くランタンを掲げた。
 橙色の灯りと闇の境界線に靴先が見え、動揺した呼吸と一緒にその靴先が闇の中に消えた。別の方向からは笑い声がした――相手は一人ではない――俺は女神像を放り込み、片手で皮袋の口を縛ると、素早く背負いなおす。
「なんの用だ?」
 暗闇に視線を巡らして鋭い声で問うた。
 三方向から人影が同時に光の輪に入ってくる。俺を囲むように。武装した目つきの悪い男たちで、立ちあがった俺の様子をじろじろと眺めた――若く軽装で中肉中背の男が一人、頭には兜もなく、腰には剣もなく、精神を集中するための杖も持っていない――当然の結論を出したようだった。
「おめえ、盗賊か?」
 正面に立つ、頭に紫の布を巻いた小男がきいた。気さくな口調だが、舌なめずりの音がきこえてくるようだ。胸元に下げた青金石のフィーアを、外套の上から握りしめた。ひんやりとした感触に気持ちが静まる。冷静になる。俺は石の祠から離れる。
「仲間はどうしたよ? こんな場所で一人でいるなんて正気じゃないぜ」
 小柄な男はじりじりとこちらへ歩を進め、ちらりと視線を動かす。俺の左手にはいつのまにか、使い古した甲冑に大剣を帯びた男が立ち、やはり見せかけだけの笑みを浮かべている。三人目、俺の右手にいるローブ姿の魔術師は動かない。杖を両手で握りしめている。まだ詠唱は始めていないが、両目は俺が手にしたランタンの炎を不気味に反射し、精神を集中している気配があった。
 ホルムでもっとも親切な三人組というわけではなさそうだった。遺跡の財宝を手にいれるのに、これが一番楽で手っ取り早い方法だ。遺跡深くに潜った正直者が満身創痍で地上へ引きあげてくるところを襲えばいい。横取りは素晴らしい。だからこそ皆が憤る。ミルドラが発明し、ハゲタカが洗練した作法だ。
 小男はにこやかな笑顔を浮かべたまま、ゆっくりと近づいてくる。
「背中の袋が随分膨らんでるようだが……大分奥まで行ったんじゃねえか? 違うか? 仲間はやられたかはぐれちまったか。ここから上まで戻るのは面倒だぜ」
 甲冑姿の男は遅い、正面の小男はすばしっこそうだ、警戒すべきは魔術師で呪文で動きを封じられたら一貫の終わりだ、右、右、右――小男の目を見つめたまま呼吸を整え、魔術師との距離を頭の中で確認する。七歩……いや八歩……。俺よりも少し背が高い……。
「なんなら俺たちが――」
 小男の視線がちらりと魔術師の方をむき、続いて戦士へととび、その瞬間に俺が動いた。
 上半身を捻り、左手の指先で握り込んでいたナイフを、魔術師の喉めがけて投擲する。
 一直線にとんだ短刀の行方は見なかった――ぎゃっという悲鳴をきいただけだ――小男の手に魔法のように現れた銀のナイフが胸めがけて飛んでくる。空いた左手で腰帯の後ろに挟んでいた漆黒の短刀を引き抜き、危ないところでナイフを受け流した。銀と黒がぶつかり、白い火花が散った。つっこんできた小男の目にむかって、口中にためた唾を飛ばした。
「あッ――」
 ひるんだ小男の体に短刀ごとぶつかったが、肉に刀が食い込む感触はなかった。変わりに金属音が響き、切先が斜めに滑った。中に鎖帷子を着ている。横っとびに離れる。
 三人目、甲冑の男の剣が俺の頭のあった場所めがけて振りおろされるところだった。大剣は小男の足元をかすめて地面を叩き、思ったよりも機敏に軌道を変え、俺を襲う。
「危ねぇぞ! しっかり狙え!」
 小男の叱責の声が飛んだ。俺はその間に腰にさげた皮袋から油の小瓶を取り出している。戦士の顔面にむかって投げつけ――小男よりも体が大きく動きが鈍く、狙いやすい――、間髪をいれず、ずっと右手に下げていたランタンを思い切りぶつけた。ランタンは男の頭部に命中し、音をたててガラスが割れ、次の瞬間爆発音、白い光、そして絶叫が轟いた。
 
 距離が近すぎた。
 爆ぜた熱気をまともに顔に浴び、俺は苦痛の声をあげ、仰向けに倒れる。地面を転がり、石畳の下に覗く冷たい土に顔面を擦りつけ、熱と炎から逃れる。相手が是が非でも俺を殺すつもりだったなら、死んでいただろう。
 しかし焦げた前髪を払いのけて目をあげ立ちあがるまで、誰も俺の体に手をかけようとはしなかった。
 火と油を浴びた男の頭部は勢いよく燃え上がっている。
 長い髪は炎に包まれ、赤と金の火の奥で、両目と口、鼻がまっ黒く揺れている。肉の焦げる匂いが充満し、熱気が周囲を歪めていた。男は狂ったように両手を振りまわし、体をねじり、全身をくねらせながら跳びはねる。火の踊り手だ、壊れた玩具だ、滑稽な動きだ。鉄の甲冑はたちまち熱を帯び、炎に晒されていない首筋が真っ赤に膨れ上がった。
 絶叫は甲冑の男だけでなく、小男の口からも漏れていた――仲間の名前を呼び恐怖に顔面を歪め、しかし火の勢いに近づけずにいる。
 俺も動揺している。
 夜種どもでしか試したことがなく、連中はここまで派手に燃えない。中腰の姿勢で動きをとめ、動きまわる松明を馬鹿のように眺めていた。
 男の頭部を包む炎が、突然ジュッと甲高い音をたてた。
 熱のせいで揺れていた空気が霞み、まっ白い霧のようなものが宙に現れ、男の頭部を包んだ。
 ――水の魔法だ。
 振りむいた俺は、最初に倒した魔術師が、地面に膝をつき、杖を握りしめているのを見た。魔術師の歪んだ顔面の左半分とローブは、血で真っ赤に染まっている。俺の投擲したナイフは彼の頬に命中したようだった。口を開くたび声より多く頬から血が噴きだす。よくそんな状態で呪文の詠唱ができるものだ。
 ようやく我にかえった。
 持っていたはずの短刀がない。慌てて周囲を見回して足元に発見した。短刀を拾うと、魔術師の方へ向きなおり、地面を蹴った。正面から突っ込んでくる俺の姿は、当然視界に入っているはずだ。歪んだ顔面のうち、血に汚れていない部分が恐怖にひきつるのが見えた。しかし呪文の詠唱をやめない。なぜならば魔法によって呼び出された水はまだまだ力が弱く、仲間を焦がす炎は消滅していないからだ。
「駄目だ、駄目だ、駄目だ!」
 俺の背後で小男が絶叫する。
 ――何が駄目だというんだ、お前たちは俺の命をとろうとした、心の中でそう叫びかえす。
 七歩の距離を四歩で駆け、思い切り左手を引き、杖をかざして身を守ろうとした魔術師の首筋めがけ刀を振りおろした。刃が首の骨にぶつかり、音を立てた。魔術師の体が一瞬異様な力で収縮し、皮膚と肉だけがすぐに弛緩する感覚が、短刀を通して伝わってくる。魔術師はうつ伏せに倒れ、詠唱がやんだ。
 
 足音がして、見ると、小男の背が薄闇の中へ遠ざかっていくところだった。仲間たちを見捨て、一目散に逃げだしていく。
 甲冑の男は今は地面に倒れ伏し、まだ奇妙な音を立てながら痙攣していたが、その動きも徐々に弱まっていく。火はくすぶり、黒く焦げた皮膚は剥がれ、その下に新しい綺麗な肉がのぞいていた。
 立っているのは俺一人だ。もちろん小男を追いかけてとどめを刺すべきだ。しかし足に力が入らず、動けなかった。
 吐き気がするような悪臭が周囲に満ちており、空気は熱を帯びている。ランタンは爆発に巻き込まれ、穴だらけになって地面に転がっていた。べったりと黒く汚れている。
 手元に火がないと不便だ。簡単な明かりの魔法くらいは学んでおくべきだったと反省する。不便はそれだけではなく、死者の宮殿から使い続けていた漆黒の短刀も、半ばから折れていた。
 小男が落としていった袋を拾いあげ、中身を確認する。パンの切れはしがひとつ、ぼろぼろのロープが一本――ろくなものを持っていない。唾を吐き立ち去ろうとした時、空気を切る音がして、すぐ側に矢が飛び、石畳の上で跳ねた。
 動きを止めた。
 一瞬、あの小男が弓矢を持って狙っているのかと思ったが、そんなはずもあるまい。すると新手の追い剥ぎか。まさか。ありえないくらい運が悪い。
 周囲を見渡すが盾となるような遮蔽物は何もなかった。では走って路地に駆けこむか?
 だが俺の心を読んだかのように、二本目の矢が飛び、今度は俺の足のすぐ側の、割れた石畳の隙間に刺さった。今度は明白な威嚇だった。自信たっぷりで傲慢な射撃だ。頭に血がのぼり、同時に足がすくむ。
 油もランタンもなく、短刀は半ばで欠けている。そもそも弓矢を持たず魔法も使えぬ俺は、遠距離から狙われたら手の打ちようがない。この可能性をまったく考慮していなかった己のうかつさに歯がみする。
 静かに横たわる甲冑の男の死体を見下ろし、こいつを何かに使えないかと思ったが何も閃かない。
 広場を囲む古い建物の二階の窓に、魔法の白い明かりが灯った。案外距離が近い。とんと音がして、窓からロープが投げおろされる。俺は黙って両手を脇に垂らしたまま、待った。窓から乗り出した黒い人影が、ロープを片手でつかみ、素早く下りてきた。体重のかけかたがおかしい、大きくロープが揺れる。見覚えのある体つきと動きで、それが誰かわかった次の瞬間、俺は大きく息を吐き全身の緊張をといた。
「ラバン爺――」
 思わず大きな声でその名を呼んだ。
 安堵のあまり笑みが浮かんだ。
 子供時代から馴染みの老剣客は、右手と左の脇で器用にロープを挟み、難なく滑落してきた。膝を深く曲げて音を立て着地する。ロープから手を離すと、こちらへ駆け寄ってきた。ひどく厳しい表情をしていた。俺には目もくれず、甲冑の男の側へむかうと、しゃがみこんだ。男はすでに死んでいる。だが腰に下げた水筒をとり、死体の口につけた。水はだらだらとこぼれた。行為の意味が理解できず、俺は半端な笑顔のままで、ぼんやりとその様子を眺めていた。
「ひでえことをする」
 そうつぶやくと立ちあがり、俺の方を見た。引き下げた帽子のつばの下で薄い色の目が強い光を放っている。彼がひどく怒っていることに気付き、俺は笑みを消した。さっきまでの興奮は過ぎ、俺は痺れるような疲労を感じ、疲労は不安と弱気を呼ぶ。しばらく無言で睨みあっていたが、やがてラバン爺が、「なぜとどめを刺してやらなかったんだ?」と穏やかな声できいた。
 俺は無言で汚れた頬を拭った。戦闘の興奮が収まった今、火傷をおった皮膚がぴりぴりと熱を持って痛みはじめている。
 殺したこと、あるいは殺し方への説教なら反論もできた。しかしこの疑問は――なぜ俺はとどめを刺さなかったんだ? なぜとどめを刺す必要があるんだ? 俺が自問している間、ラバン爺は俺にぴたりと視線をあわせたままだった。背後から軽い足音がきこえた。
 俺たちから離れたところで立ち止まり、「テレージャかメロダークがいればよかったですね」と冷ややかな女の声がいった。
「無駄だな。神官が蘇生させたところで、これだけ損傷していちゃあ……」
 そっけなくそう答えたラバン爺が、ようやく俺から視線をそらした。石畳と土に広がった焦げ跡、黒と桃色に爛れた戦士の頭、魔術師の死体、ねじれたランタン、折れた短刀、血だまり、そういったものを順に眺め、最後にまた俺を見た。
 俺がいった。
「とどめを刺さなかったらなんだっていうんだ?」
 それが正直な答えだった。俺にはわからない。そんなことをきく理由すらわからなかった。ラバン爺が片頬で笑った。
「ヴァン、おまえさんそろそろ一匹狼は返上した方がいいぞ。次からは俺たちと潜りな」
「ラバン殿!?」
 抗議の声が背後からあがり、俺は首をひねり肩越しに後ろを見る。長弓を背負った髪の長い若い女が立っていた。これがさっきの腕のいい射手らしかった。一月の朝におりた霜のような目をしており、視線があうと、フンと鼻を鳴らし顔をそむけた。どこかで見たような気もするが今のホルムには新しい顔が多すぎる。
 ラバン爺に向きなおり、
「断る」
 といった。ラバン爺の微笑が一段深まったが、牙をむかれたようなものだ。
「そりゃ残念、お前さんが嫌なら仕方ない……なーんていうと思ったか? こりゃ強制だよ」
「……」
「おまえは臆病すぎるのよ。まだ一人旅ができるような年じゃないってこと」
 ラバン爺は表情を改め、真面目にいう。
「つまらん悪党になるなよ、ヴァン」
 俺は不意をつかれ、うろたえる。悪党? 俺が?



 下町の屋根裏が俺たちのねぐらで、チュナが眠り病になって以来、義兄と顔をあわせることは滅多になくなった。家族というよりは単なる同居人で、特に共通する話題もなく、一緒に食事をとるでもなく、口うるさいチュナは俺とパリスという別々の鎖の輪を強力に連結していたのだなと思う。
 目を覚ましてからパリスは共同の炊事場やら屋外の便所やらを利用するのに忙しく部屋を出入りしていたが、最後に身支度を整えて部屋を出、やべーやべー忘れてたと言いながら、また戻ってきた。
「おいヴァン、昨日ネルが何か持ってきてたぞ。やっぱり返すってよ。袋ごと戸棚に入れといたから見とけ。……つーか、おまえ今日は行かねえの?」
 寝台に足を投げ出して座り、壁に置いた枕にもたれて読書中だった俺は、顔の前に掲げていた古文書を下げ、火傷のあとが一面に残る顔を晒す。
 パリスが「げっ」と顔をしかめた。
「派手にやられたな」
「自業自得だ、火を使う距離を間違えた。今日は休みだ、とラバン爺に伝えてくれ」
「ラバン爺?」
「一緒に行く話になってる……断ったんだが、無理にでも連れていかれるらしい」
 パリスが困ったような嬉しいような、なんとも形容しがたい笑顔になって、顎をなでた。どうにも頼りないくせに、義兄は時々兄貴ぶる。別に悪い気はしない。血のつながりはなくとも彼は兄だ。
 すぐに行くかと思ったが、いかない。戸口に寄りかかり片手で首筋を揉みながら、何かいいたそうにしている。
 ピンガーが持ってきた話のことかな、と思った。
 領主を暗殺するという話は俺にも義兄にも大きな興奮を与えていて、しかしそれを日の光の下で口にし、検討したことはなかった。興奮のひとつは、ピンガーが俺たちにやらせてきた汚い仕事の中で一番の大仕事だということがあり、もうひとつには、それに大変な美味として知られる復讐という名目がついているせいだった。オハラの反対にも関わらず、義兄がこれに乗り気なのは明白で、しかし彼はどこかで躊躇しているようでもあった。
 俺にはそれをどうすべきかの判断ができない。
 領主を殺すことはいっこうに構わないし、お偉い貴族様の命を俺や義兄が左右できると思えばわくわくするが、死は死であって通貨ではない。義母の死と領主の死は交換できない。町人たちがあれだけ死んだ春すら別段喜びは感じなかったのだ。
 チュナにしても義母のことにしても、身内に関することは義兄が判断すればいい、それが正しいと俺は思っており、パリスの決定に従うつもりだった。
 ずっと沈黙していたパリスが、やがて苦笑した。
「肝心なとこでびびっちまうんだから、オレも駄目だよな」
 やはりピンガーの話だった。俺はどう相槌を打つべきかわからず、胸にさげた青金石のフィーアを指で触り、痺れるような冷たさにすぐに手を離す。それなりに重みがある代物だから冒険にいかない日までつけている必要はないのだが、最低限の武装をした状態でいるのが、なんとなく癖になっている。
「俺は気楽だからな――決断をパリスに任せてる。パリスが好きに決めればいいさ。俺はそれにつきあうだけだ」
「領主の野郎はぶち殺してやりたいけどよ。暗殺かと思うとね」
「何が問題なんだ? 遺跡でいつもやっているじゃないか」
 パリスが困ったように笑った。
「夜種たちとは違うさ」
 少なくとも俺には同じようにしか思えない。
 古文書を寝台に伏せた。
「俺、悪党なのかね?」
「なんだよいきなり。悪党? いや……変わっちゃいるけど悪党ではないだろ。あれだろ、むしろ王様気分だろおまえは」
「ははは」
「はは。な。最近あんまり言わねえな。やっぱ大人になって――」
「自分で言わなくても、化け物どもから言われるようになったからな」
 さらりと俺がいうと、パリスはぎょっとした顔になった。ああやはり知っているのに気付かないふりをしていたのだなと思った。告死鳥の予言も、化け物どもの言葉も。
 部屋の奥の寝台できらきらと輝く水晶にとらわれたチュナをちらりと見た。水晶に封じ込められたチュナの頬はふっくらとしている。呼吸すらできないのに彼女は生きている。こうなる以前、ただの眠り病だと思われた最初から早々にあきらめた俺と違い、パリスは今でも毎日チュナに声をかけ、時折道具を使って水晶をはがし、神殿や薬草師を尋ねていき、ひばり亭にたむろするまじない師から奇妙な薬を買ってくる。一方俺はもはやチュナに声をかけようとも思わない。ただ彫像のようなものが部屋にあると感じるだけだ――当然、この水晶が割れてチュナが元気になればいいとは思うが、現状に対し彼のように涙をこぼして苦しむことはしないしできない。チュナはかわいいが、それは彼女が生き生きと笑い、しゃべり、その小さな怒りや愛らしい仕草で俺を楽しませ、部屋を片づけ食事を作り服を繕うからだ。そういったものが失われたのは残念なことだとは思うが、死体のような彼女のために時間を割く必要を感じない。
「チュナは選ばれし子供なんだろうか」といった。
 パリスの眉間に皺がよる。
「何の話だ?」
「告死鳥の予言さ。オベリスクのてっぺんで歌った歌の話だ」
「……そういえば何かぐちゃぐちゃ言ってやがったかな。覚えてねえよ……ずっとチュナのことでいっぱいいっぱいだったからな」
 少し考え、俺は質問を変えてみる。
「パリスは予言を信じるか?」
「オレは常識人だからな。予言よりは人間の噂を信じるね。予言は疑う。噂は疑ってかかる。どっちにしてもやれることは全部やる。けどよ、化け物のいうことだけはこれっぽっちも信じねーぞ」
 考えてみればパリスらしい答えだった。義兄は子供のころから人知を超えた存在への恐怖心が強く、そのくせ妙に現実家だ。あるいは現実家だからこその恐怖心か。俺はうなずき、古文書を取り上げた。会話を終えたつもりだった。茶色く変色した頁に目を落とし、古代の呪文に再び没頭しかけた時、パリスが近づいてきて寝台の端に腰を下ろした。
 俺には背をむけていたがしばらくすると上半身をねじって振りむき、
「全然信じねぇからな」
 やけに強い口調でいった。
 俺は左手を伸ばし、彼の手首をつかんだ。ざらついた皮膚の下に脈動する血があり、温かな肉があり、固い骨がある。俺の肌とは違い、俺の血とも肉とも一片のつながりもない。
「なんだよ?」
 パリスの眉間に皺が寄る。俺はさらに自分の手に力をこめた。
「痛ぇぞ、おい」
 パリスは当然のように乱暴に手を振りほどき、シーツの上にはオレの左手だけが残った。彼は痛い、俺は痛くない。境界線ははっきりしている。彼の痛みは俺には伝わらない。問題など何もない。
 俺は真面目な顔でいった。
「なぜ俺はここにいるんだろう?」
「はあ?」
「夢の話はしたよな。<彼>が俺を捕まえる夢だ――俺は彼の名をあて、<彼>は去った。パリスには言わなかったけれど、俺は目を覚ましたあと、最初に思ったんだ――<彼>は間違っている……<彼>が俺を探すと同時に、俺も<彼>を探していたのだと」
「待て、ちょっと待ってよ。何言ってんのかさっぱりわかんねえぞ。夢は夢だろ。おまえが言ってんのは……つまり……」
 曖昧な感じに笑った。
「半年の間に、マジでどうかしたのかよ?」
 俺は気にせず続けた。
「<彼>は俺に発見されるために甦ろうとしている」
「……つまり?」
 俺は窓の外に目をやった。古びた煉瓦作りの建物の隙間から町の大門が見えそのむこうの山並みが見え、ホルムのむこうにはネス公国が広がり、国境を越えればまた別の国々がある。ホルム伯の領地であり、ネス大公の治める場所であり、それぞれの王たちの土地だ。今、屋根裏部屋で俺を囲むのは腐った木と汚れた漆喰であり、玉座にはほど遠い。
 それでも俺には確信があった。
 つまり――つまり――この世界のすべては俺のものだ。俺が支配し、好きに采配すべきなのだ。
 俺は頭がおかしいのだろうか?
 しかし俺がおかしいのなら、世界の方も俺と同じくらいにおかしいのだ。俺が偶然住むようになったこの町の地下には、俺が夢で見たのと同じ宮殿があり、俺は太古の種の王を三人も殺し、古代の都市を一人さまよい、水を吐く竜を倒し火を吐く竜の肉を食らった。罪人の遺児に過ぎないただのヴァンの名は、この町で探索者たちの英雄として囁かれるようになっている。
 こういった事実の数々は俺をまったく得意がらせない――浮かれることすらできない――なぜなら俺は子供の頃からずっと、自分がこのような偉業を成すと思っていたのだ。今までは裸でいたようなものだ。成したことに対して、ようやく体にあった服を着ることができたという安堵しかない。すべては初めから予定された道のりのような、すでに経験した出来事のような気がする。……。
「つまり俺は王だ」
 パリスは沈黙した。子供の頃はこの話をすれば、オレは英雄になりたいといい、二人でごっこ遊びが始まった。もう少し年があがれば俺を馬鹿にするか、笑うか、呆れるかだった。しかし今は違う。彼はとまどうような恐れるような表情で俺を見つめている。
 部屋の中にこれまでとはまったく違う沈黙が落ちた。義兄と二人でいる時に感じたことのない、暗く冷たく痺れたような沈黙だった。見慣れた汚れた壁も、傾いた天井も、馴染んだ寝台や戸棚も、パリスの目も、すべてが俺から少し遠ざかったように思える。
 言ってはいけないことをいった。
 そのように思った。
 突然激しい恐怖に近い狼狽が俺を襲った。今の言葉はなかったことにしてくれ、俺はただのヴァンだ、王などではない、助けてくれと義兄の足にすがりつきたくなった――<彼>の夢を見たあの最初の夜のように。
 しかし口から出た言葉を取り戻す方法はないし、自分がそう感じているのは偽りのない事実だ。あの晩とて、俺は実際には彼に助けを求めなかった。
 パリスは黙って俺を見つめ続けている。
「それだけだ」
 短い言葉で会話を無理やり断ち切ると、俺は古文書に視線を落とした。

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