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ミルドラの種 3



 ラバン爺は季節風と同じだ。
 ホルムを訪れては通り過ぎる風来坊で、俺たちは彼の過去をよく知らない。彼の方も俺たちの過去や現在には特に興味がないようだった。
 ラバン爺は自分は旅人であり町の人間ではないという態度を常に崩さず、これ以上は踏み込まない代わりに踏み込ませないという一線を、普通よりも深い部分に、しかし背筋が伸びるような明瞭さではっきりと引いている人だった。他人に対して基本的に温度の低いオハラがラバン爺にだけは熱狂的な信頼を見せるのは、そのあたりに関係しているのだろうと思う。
 
 他人の気持ちはよく見える一方で、自分の気持ちの方はわからない。
「ヴァン、そっちへ逃げたぞ!」
 上から降ってきたラバン爺の怒鳴り声に、地面に突っ伏していた俺は意識を取りもどす。顔をあげ体を起こし腰から予備の短剣を抜く。さっき自分が転落してきた階段の踊り場を見上げる。
 寺院の石造りの段は細かい破片をまき散らしながら振動していた。階上から咆哮がきこえ、石の手すりをがらがらと崩し、巨大な化け物が空中へ人間の手足に似た触手を虚しくうごめかしながら転落してくる。俺は慌てて飛びすさる。衝突の瞬間、寺院が揺れ、粉塵が舞い上がり視界を白く染めた。俺より二まわりでかい怪物は、地面にぶつかると己の重みで体を潰した。赤と黄色の体液が飛び散り、俺は生温かい嫌なものを頭から被る。走っていって胴に飛び乗ると、靴底で柔らかく肉が震えその下に内臓と骨の感覚があり、踵の鋲がひっかかって皮膚が破れる。振り落とされそうになりながら、やけに無防備に晒された喉めがけ、逆手に握った剣を突き刺し、全部の体重をかけのしかかった。
 俺の足元で絶叫をあげて怪物は震え、のたうち回り、やがて死んだ。
 怪物の体から滑りおり、顔を拭っていると、ラバン爺が階段を降りてくる。彼の呼吸がほとんど乱れていないのに俺は内心で舌を巻く。
「怪我しとらんか」
 俺が頷くと、ラバン爺はほっとした顔で階上を見上げる。
「おーい、キレハ、命中しとったぞ!」
 怪物の片方の目には深々と矢が刺さっていた。矢は魔力を帯び、青白い炎を発しているように見える。この一撃がなければ、化け物はあんな風に墜落することはなかっただろう。こいつが階段から普通に降りてきていれば、俺一人で倒せたかどうか――しかし矢がそれていた場合、後ろから追ってきたラバン爺と俺で挟み撃ちの形にしていたかと思いなおす。
 それにしても三人で遺跡の探索を行うのは、想像以上に楽だった。
 背後を気にせず進めるのはもちろん、化け物と遭遇した場合、ラバン爺は当然の手練れだし、彼の連れの女も年齢とは裏腹に熟練した射手だった。夜種どもの群れを見れば女が遠方から矢を射かけ、うろたえ慌てふためく連中にラバン爺が剣を持って突っ込み、その後ろで俺は射手の背後を守り、あるいは連中の逃走経路に罠を張り、囮となり、煙石を投げ込む。死肉を漁る強欲な探索者ですら、仲間を作るわけがよく理解できた。三人だと無傷で帰還する確率が格段にあがる。もちろんその分、俺が今まで慎重に避けてきたわずらわしさも増すのだが。
 階上から女の返事がきこえない。
 ラバン爺の後について階段を上がっていった。
 雪と時に埋もれた古い寺院の廊下には太古の化け物どもが徘徊した痕跡が残り、最初からそうと予想できていたから、急襲への対応も容易だった……と言えればいいのだが、一度調べた部屋だと思って油断した。広間から飛び出してきた化け物の不意打ちをくらい、手もなく階下へ転落したのだから、その油断もひどいものだ。一人で探索していたならば、三度は死んでいただろう。
 戦いの興奮が去ったあとは、痺れに似た疲労が体を襲う。足をあげることすら辛い。俺は首にかけた青い石を――死せる巨竜の口中に発見した青金石のフィーアを握りしめる。いつものように目の前が明るくなり、意識が落ち着く。体が軽くなる。俺の素養と努力では、古代文字を読み書きし、小さな明かりを灯すのが精いっぱいだが、それでも身につけているだけでこんな恩恵を受けられるのだから、魔法とは大した物だと思う。
 胸元から手を離せば頭が冴えたせいか、忘れていたことを思い出した。
 義兄を通して柘榴石の指輪を返されてからしばらくが経つが、ネルとまだ会っていない。しゃべっていない。細々とした旅の用意はついついラバン爺に甘えるようになっていて、雑貨屋へはずっとご無沙汰だった。
 立派すぎる、受け取れないといったが、女が装身具を返すには馬鹿げた理由だ。もっともネルらしいふるまいでもある。子供のときから、度々そういうことがあった。彼女が喜ぶだろうと思って俺が持っていった金剛石の首飾り(今にして思えばちゃちなガラス玉だった)も、外国の羽根飾りがついた帽子も、高価そうな代物をネルは絶対に受け取らないのだ。そのたびに俺は肩をすくめ、「そうか」とだけ答えてきた。だが正直にいうとネルに贈り物を断られるたび俺は少し傷つき、時には腹を立て、それでも珍しい物や美しい物を手に入れれば必ずネルにそれをやりたくなるのだった。俺はネルの嬉しそうな笑顔が好きだ。
 階上の広間には、嬉しそうな笑顔ともっとも縁遠い女が座りこんでいた。広い部屋の床には、怪僧どもが作った魔方陣の跡が微かに残っている。俺には魔物よけのまじないに見えるが、実際は違うのかもしれない。その魔方陣の外で、白い壁に背を預け、足を曲げ、血の気の引いた顔で目を閉じている。目につく怪我はない――恐らくなにかのまじないを使ったのだろう。魔術師たちが戦いのあとで、ああいった虚脱状態に陥る様子を時々見かける。
 元気がない時はいくらか殊勝に見えるなと思っていると、ぐったりと垂れていた頭を持ちあげ、例の青い冷たい目で俺を刺すように睨んだ。
「おい、どうした?」
 射手の女は、ラバン爺には俺に対するのとはまったく違う視線をむける。狼でも馴らせば犬のようになるものだ。
「すみません、眩暈がして……少し休めば楽になると思うんですが」
 ラバン爺が腰に下げた革袋を探った。
「薬を切らしてるな。水もないと。ヴァン」
 水が半ばまで残っている水筒を腰からはずし、ラバン爺に投げてやる。彼から水筒を受け取った射手は、素直に水を飲んだ。ただし俺には礼の一言もいわない。飲み終えると唇をぬぐい、またぐったりとした顔で壁に背をあずけた。顔色はいくらかマシになったようだった。ラバン爺が俺の方を見た。
「ちょっと見ててくれ。ピートがまだ店をやってるようなら、薬を買ってくる」
 そういわれて、寺院の外の穴倉に例の金色猫が――魔法によって生成された生物か、さもなければ呪いをかけられた人間だと思うのだが、彼自身は商売の道に無我夢中らしく、素性についての質問には答えてくれない――店を出していたことを思い出す。猫だけに商売はやや気まぐれだ。徘徊する化け物どもに見つからぬよう外へ出て、吹雪の中を進んで店に再びたどりついたとしても、猫の毛の一本すら残っていないことは十分ありえるのだが、ラバン爺は行く気らしかった。しかし女と二人でここに残されても仕方がない。ラバン爺には懐いている彼女は、なぜか俺を嫌っており、必要最低限の視線と会話しか交わさない。特に不自由もないのでそのままにしているが、当然別に楽しくもない。なので、
「俺が行こう」
 といった。
「いや、お前さんはここにいな。休んでろ」
 俺は別に、といいかけて、ラバン爺が俺の首を見ているのに気づいた。首筋を触ると、さっきの化け物の体液が生乾きになってこびりついている。手のひらに生温かい、体液とは異質の感触があった。指を滑らせると存外に深い傷口があり、指がめりこむ感覚にぞくりとした――えぐれた肉からじゅくじゅくと血が溢れでている――痛みはなかった。こんな場所に傷ができているのに、なぜ俺は平気なのだ?
 一拍遅れて突如激痛が訪れた。呻き声をあげ、傷口に手を押しあてたまま勢いよく体を曲げた。
「……なんで……」
「興奮しとったからな――痛みに気付かなかったんだろう」
 ラバン爺の声の調子はどこか不自然だ。しかし熱した鉄の棒が押し当てられたような痛みに、筋道だった考えが浮かばない。震える手で胸元の貴石を探った。
 ……水の冷たさが胸を満たし、全身に広がっていく。
 呼吸をいくつか繰り返す。ようやく息がつけるようになった。
 手を恐る恐る首から離す。依然として傷の痛みはそこに居座っているが、さっきよりはましだった。血の流れも止っている。物言いたげな表情のラバン爺と目があった。
「それは?」
「ああ……地底湖で拾った。古い竜の骨がくわえていた」
「そうか」
「なんだよ? 何がいいたいんだよ、さっきから?」
 なぜか咎められているような気がして、青金石をつかむ手を肩でかばう。言い訳するような、すがるようなみじめな響きを帯びた声がでた。俺は赤面する。これではダリムのようではないか。柘榴石のニルサを手にいれた時のダリムの、あの後ろ暗い、叱責を恐れるような態度。馬鹿らしい、欲しい物を手にいれて何が悪いのだ。それにこれは俺の物だ……多分そうだ、そうに決まっている。
 ラバン爺は嘲笑の素振りすら見せなかった。代わりに俺の肩に手をのせ、軽く力をこめた。大丈夫だ、と告げるように。
「じゃあ行ってくるぞ。お前さんの方がまだ元気だからな、キレハを頼む」
 手を離すと、いつものからりとした声でいった。
 部屋を出てこうとする背中に、思わず「気をつけろ」と声をかけていた――言われたことはあってもこれまで言ったことのない台詞だ。妙にくすぐったい、照れくさい気分になる。振りむいたラバン爺が表情を改めた。
「エッチなことはするなよ」
「……訂正する。気をつけるな」
 ラバン爺は笑い声をあげて階段を下りていった。足音が消えてたあと、振りむいた。近づいていくと、射手の女はぐったりと頭を垂れたまま何かをいった。
「なんだって?」
「近づかないで」
 体をかがめ、彼女の横に落ちている俺の水筒に手を伸ばした。予想に反して水はほとんど減っていなかった。
 床に投げ出された膝から下は固いなめし革の長靴に包まれており、そこから上は分厚い外套にくるまれている。顔と手以外で唯一露出しているのは、灰色の髪の下のほっそりとした首筋だけだった。化け物の肉片と泥に汚れた靴底で、女の足首を踏みつけた。
 女の体がびくりと動き、顔が上がった。俺の体を突き飛ばすような体力と気力が残っていない。目つきだけが剣呑になった。
「なんだって?」
 水筒を傾けて首の傷を洗いながら、もう一度きいた。水しぶきが女の灰色の髪と顔にかかり、細い筋となって流れた。女は顔のすぐ前にある俺の膝を押したが、疲れ切った手のひらに力がないせいで、柔らかい愛撫のようだった。女の手がまた地面に垂れた。
「あなたって最低ね」
 そう吐き捨てた。舌だけはよく回る。
「人を人とも思わないし、傲慢だし、冷酷だし、無駄に偉そうだし――彼がなぜあなたを気にかけるのか、さっぱりわからないわ」
「そりゃお互い様だ」
 大して面白くもない同意に達した。
 それ以上の行為をするつもりはなく、俺は女の体から足をおろす。単に俺を舐めるな、命令するなという警告に過ぎない。犬のように扱われた場合、立ちあがり相手の顔を手の甲ではたいてやる必要がある。だからこのようにする。それだけだ。一歩だけ下がって空になった水筒を腰帯に結びなおした俺に、女が低い声でいった。
「これで二度目よ。覚えてなさい」
「二度目? なんの話だ?」
 俺を睨んでいたが、やがて息を吐いた。
「竜の塔」
 記憶を探るが、答えが出てこない。あそこで黒衣の魔将を倒し、竜の卵を壊した。夜種どもを殺し湖に捨てた。もしかしたら化け物の仲間なのかとじっと見つめていると、女はかすかに鼻に皺を寄せた。
「……水辺。遺跡の中の川……とぼけてるの?」
 彼女が傍らの弓に目を落とし、そのとたん流れる水の匂いと矢の唸る音の記憶がよみがえってきて、あっと声をあげた。
「あの時の追い剥ぎか!」
 女が目をむいた。
「わたしが?」
「俺にいきなり矢を――外れたけどな」
「外したのよ! それにあれはあなたが夜種かと……本当に今まで気付いてなかったの?」
「まったく」
 油断も隙もないものだと思ったが、女の怒りは理解できなかった。
「わからんな。あんたは俺を撃った。俺はあんたを殺さなかった。何を怒ってるんだ? 礼を言われてもいいくらいだ」
 女は沈黙した。表情が微妙に変化する。
「……当然、それも本気でいってるんでしょうね。あなたって最低なうえに、すごく……すごく問題があるわよ」
 疲れ切った声でそう囁いた。
 どこか問題なのかは言及しないまま、口を閉ざす。
 やがて女の上半身が崩れ、横たわった。重たげに下がってくる瞼の下からしばらく俺を見つめていたが、その瞼が閉じた。疲労が限界を越え、意識を失ったようだった。
 女から離れ、襲撃を受けた時に放り出していた道具袋を背負い、拾いあげる。怪物が破壊した部屋の入り口に近づき、壁にもたれた。建物の外は吹雪が荒れ狂っているのだろう。寺院の壁は冷たくわずかに震えているようだった。俺も眠い。流れた血と失った肉の分だけ死ぬように眠りたい。だがラバン爺にキレハを頼むといわれた。彼が戻るまでは見張りを続けないといけない。胸の青金石を握り、離し、視線を眠る女と崩れた階段へ交互に注ぎながら、子供のころを思い出していた。よくこのように、あばら家で義兄と二人、義母の帰りを待っていた。ラバン爺も義母も風来坊は皆同じ匂いがする。そこまで考えて、ああそうか、と気付いた――キレハの眉間には皺が残ったままだが、寝息は安らかだった――この女も旅人だ――だからどうだというわけでもないのだが。
 ラバン爺が一緒に来いといった理由はまだわからない。自分が臆病者なのは最初からわかっている。俺は死ぬのが怖くてたまらない。だから慎重に歩を進め、殺される前に殺す。だが、俺の臆病さとラバン爺が俺を連れまわすことにどんな関連性があるというのだ? そしてそれを言いだすなら、言われるまま従順にラバン爺の後をついて来た理由が、自分にもわからない。
 足音がして、階下の暗がりからラバン爺が顔を出した。俺はほっとして片手をあげる。階段をあがってきたラバン爺は、義手の先を帽子にひっかけ雪を落とした。懐にいれていた右手を出し、俺の方に何かを投げた。
「ほれ」
 小さな陶器の瓶を、俺は空中で受け止めた。猫の店には間に合ったらしかった。首に傷薬を塗りこんでいるあいだに、ラバン爺はキレハを揺り起こし、彼女には首の長い瓶に入った飲み薬を与える。部屋の中に薬草の苦い匂いが立ち込めた。ラバン爺は部屋のあちらとこちらに離れた俺たちを面白そうに見比べ、「ちったあ仲良くなったか?」ときいた。俺は思わず、彼女と目を見合わせた――「全然」、声の調子は違うが、二人で口にした言葉は同じで同時だった。ラバン爺が呵々と笑った。



 もしもラバン爺とキレハと一緒に遺跡を探索をする日々がそのまま続いていたならば、自分が王であるという認識は、子供時代と同じように、どこかへ消えていったのかもしれない。
 万事に経験の豊富なラバン爺との同行は面白く、発見があり、相変わらず愛想のないキレハとも、戦闘のときだけは息があった。目配せだけで相手の意図を読み、あるいはそれすらなしに俺が仕掛けた罠へキレハが敵を追いこんでいくのも、後方で弓を構える彼女のために俺が囮となるのも奇妙な楽しさがあった。化け物の急所をえぐったのが自分ではなくラバン爺の一太刀やキレハの魔法であっても、俺がやったという誇りが胸に湧き、巨大な敵を倒した後に三人で顔を見あわせ互いの無事を確認する瞬間はなかなかいいものだった。焚き火を囲んで湯を沸かし茶を飲み、武器の手入れをしながら一日の出来事を語りあうと不思議に心安らいだ。
 彼らとの探索を楽しい、充実していると感じるのは、義兄との仲がぎくしゃくしていたせいもあった。俺もパリスも、相手の顔を見れば以前より頻繁に声をかけ、時々は冗談をいって笑いあったが、その快活さや親しさは見せかけであることをお互いが知っていた。 
 大廃墟を探索した帰り道、倒壊した建物と瓦礫が散乱する古代都市の大通りを歩きながら、ラバン爺が俺を振りむいて何気ない調子できいた。
「どうだ、最近は。まだ夢は見るか」
「夢? なんの――」
 いいさして、それが<彼>の夢だと気づく。
「パリスは口が軽い」
 顔をしかめると、ラバン爺は笑った。斥候を務めるキレハと俺たちは距離があり、ラバン爺は彼女の背中を確認してから、のんびりとした声で続けた。
「いいもんだろ、こうやって仲間と冒険するのは」
「……」
「深く考えずに、適当でいいんだよ。楽しくやるのが一番だ。おまえはただのヴァンなんだからな」
 ただのヴァン――そのひと言が義母や子供時代や空腹感を思い出させた。
「俺はそう思っていない」低い声でそういった。「この遺跡は俺を呼んでいた」
 口を閉ざし、黙って歩いた。かつて栄華を誇った都市の大通りは、あちこちの地面が隆起し、時間によって不気味な形に削られた岩と砂で構成された廃墟となって広がっている。頭上は闇の中に閉ざされており、ここが地下だという知識がなければ、星のない夜空が広がっていると錯覚するだろう。かつてこの都市の上には本当の空があった。
「もしも王のように」
 ラバン爺の声に、俺はぎくりとして顔をあげた。ラバン爺は俺ではなく、上空の暗がりを眺めていた。まるでそれが本物の夜空であるかのように。
「好きなことが好きなだけできるようになったら、お前さん、どうするね」
「なんだよそれ」
「なんでもない、もしものお話さ」
「……そうだな……まず、盗賊や人殺しを処刑するかな」
 ラバン爺がおお、と喉の奥にひっかかるような声をだした。
「こりゃ予想外だ。お前さん、もう二回死んだぞ」
「なんでだよ。次に博打うちや酒飲みを処刑する――子供を使い走りにする悪党どもも縛り首だ――貴族どもも殺すかな。あいつらが使う首切り役人の斧を自分で味わうといい。これだけ殺せば少しはマシになるだろう。その後……その後は……」
 ホルムもネスも平和になると思ったが、その血にまみれた平和の中で、自分が何をどうするかはうまく想像できなかった。なぜかネルの顔が浮かび、俺は慌てた。あいつはまったく関係がない。
「……そうだな、強い軍隊でも作るか。大河流域をもう一度統一すれば、歴史に名が残るだろう」
 ラバン爺は一瞬妙な目をしたが、変わらない口調で続けた。
「地味なことばっかりしたがるなあ。きれいなお姉ちゃんを集めて後宮をつくったりせんの?」
「俺はそういうのは……でも宮殿を持つのはいいな。広い、白い宮殿に、蓮の花のような玉座を造りたい」
 白亜の宮殿や金と銀で飾られた美しい玉座が、まるですでに目にしたものであるかのように想像できた。大理石の柱の冷たく重い手触りや、庭園の百合の香りを含む風が、回廊を吹き抜けて頬をなでて通り過ぎる感触までが思い浮かぶ。
 ラバン爺が右手と義手を胸の前で勢いよく交差させ、大きなバツを作った。
「地味! ますます地味!」
 真剣に怒られる。
「ラバン爺ならどうするんだよ」
「俺はまず世界中のパンツを」
「わかった、ありがとう、もう何も言うな」
「ふーむ。なら、王座を狙う人間をすべて殺すかね」
 あまりにも彼らしくない言葉だった。俺が振りむくと、ラバン爺はけろりとした顔でこちらを見ていた。
「ま、そういうことになるんでない? 王様なんて大変なばっかりでいいものじゃねーぞ。段々頭もおかしくなってくる」
「それは……違う……そいつらが王の器じゃなかったせいだ」
「俺は違う、俺ならもっとうまくやる、か」
「そんなことは言っていない」
「その癖、いつからだ」
「なにが?」
「首飾りを触る癖だ」
 俺は胸元を見下ろした。いつのまにか首飾りを握りしめていたことと指の関節が真っ白くなっていて血の気が引くほど固く拳を作っていたことに同時に気付く。
「これは……」手を離したくなかった。しかしそれはなぜだろう。なぜ、の理由を考えようとすると頭に靄がかかる。自分がフィーアを拳におさめている理由を――ラバン爺への言い訳を――必死で考えていた。舌がもつれた。「これは……疲れを癒す魔法の道具で……」
「前ほどは疲れとらんはずだ。もう一人じゃないんだぜ。手を離せ、ヴァン」
 静かな、冷たく感じるほどに静かな声でラバン爺がいった。その声にぎくりとして手を離すが指先だけがまだ青金石に残っており、完全に手を離すことはためらわれた。
 手を離した。
 ……当たり前だが特に驚くようなことは起こらなかった。大丈夫だ。当然平気だ……なぜならこれは古い魔法の品だが所詮はただの首飾りだし……それにまだ俺の胸に下がっている。俺は息を吐いてラバン爺をにらんだ。
「俺に命令しないでくれ」
 そういうと、返事を待たず歩を速め、すぐに小走りになった。大分先をいっていたキレハに追いつく。隣に並ぶと、長い髪を揺らしてキレハが俺を見上げた。
「どうしたの、ヴァン?」
 いつも通りのぶっきらぼうな声だが、最近は機嫌の良し悪しが聞き取れるようになっている。今のキレハのご機嫌は決して悪くない。しかし返事はせずに追い越した。彼女と話すような気分ではなかった。
 
 そうだ、危険だ、よくない、お前はまた一人で遺跡へ潜るべきだ。彼らはお前を弱くするだろう。彼はお前を警戒している。彼らはお前を監視している。王になることを妨げようとしている。
 
 振りむき、数歩後ろを歩くキレハにきいた。
「何か言ったか?」
 キレハが癇に障るようなきつい目で俺を睨み――無視したことに腹を立てている。俺に原因があるとわかっているのに、なぜか苛立った――首を横にふった。
 俺は顔を戻してまた歩き始める。こめかみが鉄の鎚で殴られるように痛みだす。胸元に揺れる青金石のフィーアに触れれば痛みは霧散するとわかっていたが、ラバン爺の視線が背中に張り付いているのがわかったので、俺は意地になって握りしめた拳を両脇に垂らしたまま歩き続けた。

 遺跡から出ると、東の空に夜が始まっていた。
 紫にたなびく雲のむこうには明るい星が輝きはじめている。ひばり亭へむかうラバン爺とキレハに言葉少なく別れを告げたあと、俺の足は自然と広場へ、ネルの家へとむかっていた。夕方には店は閉まっているはずだが、ネルを呼びだして外で立ち話をするくらいはいいだろう。ただむしょうにネルの顔を見、声をききたかった。あいつはいつだって明るい。不機嫌な気持ちを払いのけるにはうってつけの相手だ。
 雑貨屋の扉と窓は他の店と同じようにすでにかたく閉ざされていたが、鎧戸の隙間からは温かな光が漏れていた。ネルのものかおばさんのものか、女の笑い声がかすかにきこえ、俺はほっとして歩調を緩める。だが、もしかしたら晩飯の最中かもしれないと気づいた。ネルのおばさんはすぐに「あらご飯食べていきなさいよヴァンくん」と来る。明日にするかなという気持ちになった。
 よく考えてみればわざわざこんな時間に、ただしゃべりたいからという理由でネルを呼びだすのは馬鹿げている。
 広場の中央にそびえたつオベリスクの横で足を止めた。
 あからさまに口にはしないものの、ラバン爺もパリスも、遺跡が現れて以来、俺がおかしくなったと思い、俺をずっと警戒している。俺は昔と変わらぬ俺だ――。
 だが本当にそうだろうか?
 俺はこんなにも孤独に固執する性質だったろうか?
 他の相手ならまだしも、ネルを避けようとする自分は明らかにおかしい。だってネルだぜ? あいつに遠慮するなんてありえん……といえばネルはまたぶんむくれて怒りだすに違いない。苦笑しかけたが唇がかたまり、動かなかった。
 俺は本当におかしいのではないか?
 これではまるで、まるで……。
「ヴァン!」
 背後からききなれた声が俺の名を呼んだ。
 振りかえるとパリスが息を切らしてこちらへむかって走ってくるところだった。俺は一瞬混乱する。何か物凄く大事なことを考えていたのに、もつれた思考の糸がぷつりと切れてしまった。ネル――ネル――なんだっけ? 突っ立ったままで混乱している俺のすぐ前までくると、パリスは足を止めた。
 道具袋を背負い、腰に獲物を下げている。遺跡帰りらしい姿だったが、それにしては疲れた様子がなかった。
「よかったぜ……さっき背中が見えたから……追いかけてきて」
「どうした?」
 少し棘のある口調になったが、パリスの顔がやけに緊張しているのに気づくと苛立ちが消える。しかしすぐにはしゃべりださず、パリスは俺の肩の向こうにちらりと視線を走らせた。
「っと、ネルに用事だったのかよ。悪いな」
「ああ……いいよ、大した用じゃない。どうした」
「行ってこいよ、待ってるから」
 パリスらしくない謝罪と気遣いだった。嫌な気持ちがして、俺はわざと乱暴な口調でいった。
「いいから言えよ」
「ピンガーさんがさっきまた来た。オレ、返事しちまった……決めちまったよ」
 そこで言葉を切った。俺ももう先をうながさなかった。振りむけば領主の館は岩山の中腹に黒々とそびえており、館の窓からは灯火がこぼれ、まるで俺たちを招いているようだった。ネルの家の鎧戸から洩れる美しい、ほのぼのとした温かな光ではなく、輝くような炎だ。夜の虫が太陽と間違えて飛びこんでいき命を落とす場所だ。気がつけばパリスも同じように同じ場所を見上げていた。
「オレはこれからピンガーさんの店に行くけど……どうする、ヴァン?」
 どうする、の意味がわからず、俺は瞬きする。パリスの頬と顎の線が時折かたくこわばり、短いあいだにも暗い緊張が表れては消え消えては表れ、しかし両目はいつもよりもずっと落ち着いているように見えた。
「オレが一人で行ってもいいんだぜ」
「え? なぜ?」
「バーカ、遊びに行くんじゃねえんだぞ」
 それは当たり前のことでわかっている。頷き、だから何がと問いなおそうとして、彼が俺を心配していることに気づいた。
 迷宮では追い剥ぎどもを殺したし、荒野では魔女を殺した。冬の寺院では立ちはだかった怪僧にとどめを刺したし、いまさら何を躊躇するというのだ――そう答えようとしたが、パリスは俺のそういた行為を一切知らないのだ。俺のことを六つ七つの子供のころと同じように思っているのではないか。パリスの誤解を解こうと口を開きかけたが、彼の心配そうな表情を見ていると、突如、胃の底がねじれるような緊張が湧きあがってきた。
 領主を暗殺するのと遺跡を荒らすのとはわけが違う。あそこには衛兵の詰め所があり、ナザリから来た騎士団が駐屯しており、戦時には砦として使われる場所だ。侵入も脱出も容易ではなかろう。
 行って殺し、それだけでは足りない。下手人が自分たちだという痕跡を消して戻ってこなければならない。遺跡とは違って危険を感じればいつでも引きあげれられる場所ではない。
 義母が処刑された日のことが頭をよぎった。彼女の仇を討ちたいという殊勝な心がけではなく、捕縛され処刑される場合についてを考えたのだった。俺は死ぬのが怖い。
 気づくとまた首飾りを握りしめていた。
 目を閉じ、気持ちが澄み渡っていくのを感じていた。十分に冷静になったと自覚できてから、言った。
「大丈夫だ、殺せる」
 自分でもはっとするほど低い声がでた。
 パリスが頷いた。
 義兄の後をついて広場を立ち去りながら、ネルの家の方を見た。鎧戸の隙間からこぼれる明かりはさっきと同じように広場の石畳の上に白い染みを作っていた。
 

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