子供の頃から自分が王だと知っていた。
成長するにつれて、いつのまにかその確信は薄れ、揺らぎ、忘れられていった。あらゆる理想や信念は我々の足元に存在する。それは土台であるがゆえに、常に暮らしに踏みつけられ、日々の生活の上に位置することがない。
犬のような扱いを受け、そのような暮らしを続ければそのうちにそれに慣れていく。俺は犬ではなく王として生まれた人間だ。
雷が開き俺が踏みこんだ洞窟の下には、宮殿と都と四人の王が司る世界の四方が存在し、そのすべてを屈服させ己の物とした俺は、最後に世界そのものを手に入れねばならない。しかしそのためには世界そのものを倒さねばならず――<彼>は俺の肉体を手にいれるつもりだと知っていたが――俺は<彼>の言いなりになって俺の体を渡すつもりなどさらさらなかった。
彼と戦うにはまだ力が足りず、俺は犬のように走り、狩り、口笛にあわせて動く。そのように力をためていく。腐った肉を食らうのもごみの山を漁るのも血を流すのも、すべては王となるためだ。だから俺は死なない。決して死なない。
領主を殺しにいったはずの俺たちは領主の死の目撃者となる。
屋敷を転がるように逃げ出し、ホルムの兵隊たちが列をなし朝日を背に慌ただしく出陣するのを――彼らの主君を殺した男を先頭に町の大門を出ていくのを――俺たちは路地裏から眺める。パリスは壁を殴りつけ、「くそっ!」と低い声で唸る。
「手配されたかね。部屋に戻っても大丈夫だろうか?」
切りつけられた腕を縛りながら俺がきいたが、パリスは答えず、ただ火を吹くような目で兵士たちの列を眺めていた。領主の話が真実なのか時間稼ぎのためのでまかせなのか、もはや確認するすべはなかった。どちらにしても、パリスが仇討ちの相手を失ったことに変わりはなかった。
戦争がはじまる。
外国から来た兵士たちが隊列を組んで火を放ち、矢を射かけ、石畳がまた血の色に染まる。
私利私欲のために集まったはずの探索者たちの幾人かは、ホルムの町のために戦うという。彼らの中にはパリスやラバン爺やキレハも混じっていて、俺は皆が戦争に気をとられているその間に遺跡へと潜る。
<彼>はいよいよ強く大きな声で俺を呼ぶ。
四つの石は墓所への扉を開き、果てがないように見えたこの迷宮と旅の到着点がついに俺の目の前に現れる。
階段を下りていった底には<彼>がいる――俺はそれを確信する。禍々しい瘴気が生ぬるい風にのってあがってくる。
旅は終わりを迎えようとしているが、俺はその奈落にも通じるように見える階段にむけて一歩を踏み出す決心がつかない。墓所の両側の壁を飾る白い魔法の光がどこまでもどこまでも下がっていくその果てをただ見つめている。
そのようにして夜が過ぎ、朝が過ぎ、夜が過ぎる。
シーウァと神殿軍の兵隊たちは短いあいだにずいぶん乱暴に町を荒らしていった。一幅の風景画のようだったホルムの街並みは、炎によってあちこちが乱暴に黒く塗りつぶされた。墓所には真新しい墓が増えたに違いない。ホルムの住民の端くれとしてはあまりいい気はしない――外観がどうのというよりも、町の中に壊れた場所があり人が減ったのは単純に不便で不快だ、それにここは俺の最初の都となる場所だ。町の大門はようやく開かれ、ある程度は自由に出入りできるようになったが、シーウァとの国境では両軍の睨みあいが続いている。領主が死に、テオル公子が謎の失踪を遂げた現状では、ネスの兵隊どもは気が気ではないことだろう。
町の噂によれば神殿軍は遺跡と遺跡から発掘したすべての品々の引き渡しを求め、それを領主が突っぱねたことで戦争が始まったらしい。戦火が過ぎ去ったあとに町を見渡せば、すべての原因となった遺跡だけが炎どころか傷ひとつ付けられぬ元のままの姿で残っていた。遺跡の入り口は神殿軍によって封鎖されていたため、占領期間中にそこで命を落とした探索者すらいなかった。大変皮肉なことだが、もっというならば、本当の元凶は俺自身で、その俺は戦争が終わる前、始まる前、貴人たちの死の前後とまったく変わらず遺跡に潜っている。
また一人の探索を続けるようになっていた。
常に背後を注意するのも、発見した宝の重みを量ってどれを捨てどれを持ちかえるか厳しく見極めるのも、多数の夜種を相手に罠を張って戦うのも、以前はやすやすと行っていたことだ。数日は多少の不便を感じたものの、すぐに勘は戻ってくる。
ただ探索の途中、火をおこして沸かした湯で薄い茶をいれ、壁にゆらめく自分の影を相手にその茶を飲むのは、自分でも思いがけないほど気が滅入る行為だった。三人で探索をしていた間、それほど活発に会話をしていた記憶はないのだが。ラバン爺の陽気な軽口もキレハの呆れたような叱咤の声も、迷宮にはもうきこえない。
ひばり亭にいき、二人の前に立って、さあまた俺と一緒に行こう、探索の準備はできているといえばそれですむ話なのだが、俺はもう彼らと一緒に迷宮を巡るつもりはなかった。
王には孤独が必要なのだ。
これは俺の戦いであり、<彼>に立ち向かうには一人でなくてはならぬという確信は、今や俺の胸中に深く根を張り、俺自身の体の一部のようになっていた。眠るときすら体から離さぬようになった四つの秘石と同じように。
茶を飲み終えて膝を抱え、踊る炎を見つめていると、小枝の爆ぜる音が段々と声のようにきこえてくるのだった――『この世の王、この世の王』今では炎がそのように囁いていた。
「そうだ、その通りだ」
俺は肯定のつぶやきを返す。
目を閉じればアークフィア大河流域一帯に広がる美しい帝国が瞼に浮かんだ。
見渡すかぎりのすべてが俺の場所であり、そこに存在するすべての命は俺の物だった。テオル公子はすみれ色の水晶と子供たちの夢によって帝国を実現させようとしたが、俺が求めるのはそんなまがいものではなく、本物のアーガデウムだ。その時がくればきっと過ぎ去る時間の彼方に忘れ去られ置き去られた数々の偉業は再び人々の心によみがえり、人民たちは新たな歴史の始まりを理解しその礎となるだろう、人間たちには恐怖の声をあげる自由を与えてやる、そして今度こそ地上だけなく星界すらもこの掌中におさめることができるだろう。四海まで手を伸ばし、奈落と天界までもを支配するさまを想像すれば余の心は震える。ハァルが人を作りしは余というひとつの強き者を生みだすため、ミルドラが呪文をかけしは余に強き野望を与えるため、世界のすべてはすでに用意されておりこの器を手にいれて復活せしその時は余は今度こそ真に選ばれし者として地上のすべてを平らにしそこはネルが笑っていられる場所なのか?
がくんと体が揺れて目が覚めた。
はっとなって起き上がり、腰から剣を引き抜いて周囲を見回す――そこで初めていつのまにか自分が眠っていたことに気付いた。呼吸は荒く、心臓は激しく鼓動している。体が揺れたのは夢からさめた時に体が揺れただけであり、自分がいる場所は眠りに落ちる前と同じで、太古には聖なる神殿であったかつての聖塔の頂上――墓所の扉を目前にした場所だった。玄室へ通じる四枚の扉はすでに解放されている。こちらとあちらを隔てる金属の巨大な扉は、俺を誘うようだった。
俺は剣を手にしたまま、周囲に作った魔物よけのまじないが消えていないのを確認する。化け物が近づいた形跡はなく、荷物も荒らされていない。
焚き火はすでに消えていた。
口中がからからに乾いていた。うたたねしている間に嫌な夢をみたような気がするが思いだせない。<彼>の夢を見たあとのようだったが、いや<彼>は俺の心に手を出すことはできない、そんなはずはないと頭をふり打ち消した。
オハラがひばり亭の食糧庫に用意してくれた部屋は思いのほか居心地がよかった。広い地下室の一角を寝床が用意され、高い天井近くに開いた通風口の鉄格子のむこうには、通りを行き来する人々の足と足首が見えていた。
様々な秘密と野望を抱え込んだままテオル公子が死に、衛兵どもに捕縛される心配がなくなってからも、俺はひばり亭のこの地下のねぐらを使わせてもらっていた。相場より割高な家賃を容赦なく請求してくるあたりはなんともオハラらしかったが、払うものさえ払えば余計な口を挟まないのは、俺にとってありがたいことだった。裏口を使うとオハラは嫌がるので、ひばり亭の正面の入口から出入りするのが唯一の面倒だった。
遺跡の中で半端に居眠りをしたせいで、頭がぼうっとしていた。ひばり亭に入ろうとして、中から出てきた人間とぶつかりそうになる。顔も見ずに右によけたら相手も右へよけた。左へ動いたら相手も左へと体をずらし、三度目に同時に左へ動いて、さすがに「おい――」と声をあげたら、相手が先に文句をいった。
「あのね、じっとしてたらこっちが避けますから」
知っている声だった。
「なんだキレハか」
俺が言うと、射手の女は勢いよく顔をあげた。
「えっ、ヴァン!?」
幽霊でも見たような目つきだった。
「……ヴァンなのね。匂いが全然違うわよ。どうしたの」
俺は鼻先で笑った。
「そんなわけないだろ」
「そうよ、あるわけないわ。おかしいことなのよ。もしかしてまた遺跡に行ってるの?」
俺が黙っていると、青い目がすうっと細くなった。
「ラバンにも私にも内緒で?」
「なぜ許可を得る必要があるんだ?」
後ずさり、外の階段の上に立つ。戸口に立ったまま彼女は俺を見下ろしている。キレハの背後からはいつにもまして騒々しく、探索者たちの声や食器がぶつかる音が響いていた。探索中には頼りになったその鋭さが、今はただ煩わしく面倒だった。
「仲間に声をかけずに、という意味よ」
薄い雲にさえぎられた黄昏の光は平坦で、不機嫌をむき出しにした女の姿は、立体感のない影のようだった。遺跡を一人で彷徨っているあいだはあれほど懐かしかったのに、いざ彼女を前にしても、さして喜ばしい気持ちにはならなかった。
彼女はラバン爺やパリスと同じように俺の仲間だからだと気づく。仲間だ、仲間である、かつて仲間であった人、だ。俺にはもう彼らは必要ない。馬鹿げている。汝弱キ者ヨ、だ。血の中に横たわるダリムの姿が目に浮かんだ。
「何がおかしいの?」
「同じことを言った奴がいたが、彼は死んだ」
キレハの片方の眉があがった。
「俺が殺した」
もう一方の眉もあがった。
やがて、吐き捨てるようにいった。
「馬鹿じゃないの? 悪党を気取るのはいい加減にやめたら? あなたのそういうところ、虫唾が走るわ」
かっとなって右手を振りあげ、だが、空中でなんとかその手を止めた。一瞬にも満たない束の間の間、キレハがひるみ、怯えの影が走った。
手を下し、胸元のフィーアを握りしめた。なぜ自分がここまで激昂しているのかわからなかった。俺とは関係のない女だ、関係がない、何もわかっていない――。
「俺に構うな」
そう言うと、女の肩を押しのけて、ひばり亭の中へ入っていった。
酒場はひどく混雑していた。探索者だけでなく、町の人間、それも普段は酒場に来ることのない女たちまで顔をそろえている。あちこちで乾杯の声があがっていた。部屋に戻る前に一杯やりたい気分だったが、この陽気な騒々しさは頭痛を呼んだ。だが遠くから「ヴァン!」という声がかかり、見ると店の奥にある小さなテーブルから、パリスが手招きをしていた。無視するわけにもいかなかった。近づいていくと、パリスと同じ席についていた騎士風の男が立ち上がり、席を譲ってくれる。笑顔で何かを言われたが隣のテーブルで「ホルムばんざい!」という男たちの声が弾け、ききとることができなかった。曖昧に頷いて木の椅子に滑りこみ、パリスと向かいあって座った。
「何の騒ぎだ?」
俺がきくと、すでに大分飲んでいるらしいパリスは体を乗り出し、「なんだって?」と酔っぱらった声でききなおした。酒には強い男だ。酔いが表に出ているのは珍しい。エールのジョッキを両手に持った手伝いの女の子が通りかかったので、呼びとめ、銅貨と交換でジョッキを受け取る。俺も体を乗り出し、大声をだした。
「何かあったのか、ときいたんだ」
「シーウァの兵隊たちが国境から引き揚げたんだとよ。停戦祝いだ」
パリス自身は、たいして面白くもなさそうな顔をしていた。
「元気か?」
そうきかれたので頷いた。
顔をあわせるのはチュナを取り戻すために領主の館に忍び込んで以来だった。
特に話すこともなく、二人でひばり亭の陽気な喧騒を眺めながら、黙って酒を飲んだ。空になったジョッキを置いて、義兄の方を見た。彼が何かいったような気がしたのだ。テーブルに肘をつき手のひらで顎を支え、遠くを見ながらパリスがいった。
「オレは昔、おとぎ話にでてくるような英雄になりたかったんだよ」
どうやらひとりごとのようで、俺は黙ってきいていた。酒場の客たちの酔いと一緒に喧騒が増していく。義兄は遺跡の話をしている。俺の遺跡だ。俺のための遺跡――。オレも英雄の真似事ができるようになったという言葉を受けて、ようやく言葉をはさんだ。
「いいことじゃないか」
パリスは視線をこちらにむけた。冷めた目だった。
「でも、全然楽しくないんだよ。こんなの」
ぶっきらぼうにそう言って、ジョッキに口をつけた。俺は沈黙し視線をそらす。
子供時代によくこうやって二人で並び、義母の帰りを待っていたと思う。食べる物がなく飲む物もなく、空腹が度を越す前に俺が盗みに行こうとすると義兄が俺にむかって「どこ行くんだよ」ときくので「何かとってくる」と答えたらパリスは躊躇したあとオレも行く、オレは兄貴だからな……と立ち上がるのだった。別に彼が雪のように白く清い心の持ち主だったというわけではないが、義母から禁じられていることを行うのをためらう程度の常識は持ちあわせていて、しかし結局は俺を一人にしないのだった。子供心にも義兄のそういうところはやや面倒だと思い、一方で悪い気はしなかった。その頃は彼のことを血のつながった本当の兄だと思っていたからだ。今はもう当時とは違う。俺が遺跡へ行くといっても彼はついて行くとはいわない。
しばらくすると義兄が立ち上がった。
「じゃあ、そろそろ帰るわ」
「ああ――」
「お前も気をつけてな。オハラがうるさくなったら戻って来いよ」
「そのうちな」
よろよろともつれる足で帰って行くパリスの背を見送った。空いた椅子をすぐに酔っぱらった探索者が持っていく。
俺はエールを飲み干し、空のジョッキを乱暴にテーブルに置いた。ひどく疲れきって、すべてに見捨てられたような気分だった。おかしな話だ。すべてを捨ててきたのは俺なのに。
周囲の喧騒も酔っぱらった町の人々の笑顔も遠く、壁のランタンに明るく照らされた酒場は暗く狭く感じられた。ここは俺のいるべき場所ではないと強く感じ、立ちあがろうとした時、半身に温かい、重い物がぶつかってきた。振りむけば恐ろしく近い位置にネルの顔があった。
「おっす、ヴァン」
と明るい声でネルが言った。
顔を見るのも会話をするのも随分久しぶりだった。
ネルは俺が座った椅子の端に尻をのせている。慌てて腰をずらしネルから体を離すと、ネルはぴったりとくっついたまま、空いた空間を遠慮なく占領してきて、椅子の半分をぶん取られた。
「おい」
「だって席がないんだもーん」
体の右半分がネルと密着している。俺の動揺をよそに、ネルは平気な顔で両手で持ったジョッキからちびちびとエールを飲んでいた。腹が立つくらいいつも通りの表情で、意識しているのがあほらしくなり、力を抜いて背を椅子に預けた。
「久しぶりだな」
ネルのつむじを見下ろしながらいう。
「そうだよ、最近全然買い物に来ないでしょ。私、毎朝店番してるのにさ」
「しばらくごたごたしてたからな」
「もー。それじゃ私手伝い損じゃない。来れないなら来れないって言いに来なよ」
「いや無理だろそれはどう考えても」
「家にも帰らないし、酒場には寄らずに遺跡に直行しちゃうし、もう天才! 私に無駄足を踏ませる天才ですよ!」
「……悪かった」
勢いにおされて謝罪したが、いやしかしこれは俺が悪いのだろうか。ネルの体は温かく柔らかく、なんの緊張もなく俺に寄りかかっている。驚くほど心休まる感触だった。ネルはエールを舐めながら他愛のないおしゃべりを始め、俺は適当に相槌をうちながらその話に耳を傾けた。シーウァの兵士は本当に腹が立つ、店の商品を全部持っていくのかと思ったら使い物にならない粗悪品だけは寄り分けて置いていったという話をひどく熱心に話している。どうでもいい話だが、ネルの声は耳に心地よかった。本当に長い間、こいつとしゃべっていなかった。もっと早く、理由もなく、ただ会いにいけばよかったのだ。こうやってネルと話しているのは楽しい。子供の頃からずっとだ。
ネルの耳が俺の胸に触れ、ひゃっと声をあげて振りむいた。
「何か冷たいのあるよ」
「ああ――」
俺は外套の前のあわせに指をいれ、青金色のフィーアをひっぱりだした。もはや体の一部であるかのようになじんでいる。ネルが青い石を凝視し、その感嘆を含んだまなざしに満足した。
「ヴァンってそういうのいっぱい持ってるねえ」
いやこれは太古の秘石のひとつで、と説明しようとしたが、別のことを思い出した。腰の道具袋を探り、柘榴石の指輪を取り出す。ネルに一度やったものだ。手の上で転がすとやはりこれを手放したくはなく、だからこそネルにやりたかった。
「これ、やっぱり持ってろよ」
ネルの手に押しつけようとすると、ネルが両手を肩の上にあげた。
「いいよ。なんか怖いよそれ」
「怖い? なぜ?」
「うーん。わかんないけど綺麗すぎてつけるの怖い。いらない……かなあ……」
ネルは上目づかいになった。
「そんな顔しないでよ」
「怒ってないよ」
「じゃなくて、しょんぼりしないでってこと」
俺は思わずネルの顔を見なおす。ネルと一緒にいると俺は自分が本当によくわからなくなる。
「まだ遺跡に行ってるんだろう?」
「そりゃそうだよ。まだ何も解決してないもん」
「じゃあやっぱりつけとけ。強い魔法の品だから、きっとお前を守ってくれる。はずだ」
「断言しないの!?」
「まあ、つまり……心配させるなよ」
相手の目を見て話すなんてしょっちゅうある普通のことなのに、ネルの顔が吐息のかかる距離にあるせいで変な感じだ。会話をするには近すぎるが、二人でいることに集中するにはまだ遠い。ネルはなにかを探るように俺の目を覗きこんでいたが、やがてそっと目を伏せた。
「じゃあいいよ。もらう」
小さい声でそういって手を差しだした。手の甲が上になっていて、嵌めろという合図らしかった。自分でやればいいのにと思うが、断る理由もないので俺は慎重に彼女の指をとり、柘榴石のニルサを嵌める。あ、とネルが声をあげた。
「なんだよ?」
「そこ、結婚指輪の場所」
「なっ……!」
すごい勢いで手が震えた。
「あははー、ヴァン、緊張してらあ」
「馬鹿か!」
慌てて指輪を引き抜き、隣の指に移動させようとすると、
「そこは婚約指輪……そこだと仕事する時邪魔……ないないない、親指はない!」
ありえないくらいの面倒くささだ。もちろん俺をからかって遊んでいるのはわかっている。指の先を一往復させて、結局最初の薬指に戻した。ネルがまた何かいいそうな気配があったので、「いいから黙ってろ」と脅かし、ゆっくりと付け根まで指輪を滑らせた。俺の手にあれほどしっくりとおさまった指輪は、今度はネルの指にあわせて大きさを変えたようだ。細かな細工の施された輪が彼女の指に絡みついている。柘榴石の奥で炎のような物が揺らいでいる。血と同じ赤色だ。指輪と一緒に触れたネルの手の感触を、重みを、温かさを、もう少しだけ味わっていたかった。
「ヴァン」
「うん」
「ありがとう」
恥ずかしそうな声だった。ひばり亭の中央で吟遊詩人が竪琴を鳴らしながらにぎやかな歌を歌っている。またどこかでジョッキがぶつかりあう音が響いた。男たちや女たちの機嫌のいい笑い声が弾けている。
俺はゆっくりとネルの手から自分の手を離した。もう一度顔を見合わせる。酔いのせいか熱気のせいか、頬をうっすらと赤らめたネルが照れたように笑い、椅子から立ちあがった。
「じゃあわたし、もう帰るね! 明日も早いし――ヴァンもお酒飲みすぎちゃ駄目だよ! あと、遺跡に一人では行かないこと!」
いつもの元気で明るい口調でいった。さっきまでのしおらしさはどこへやらだ。
「本当におまえってうるさいよなあ」
だから俺もいつもの調子で応じる。ほっとしたような残念なような気分だった。ネルは柘榴石のニルサを嵌めた手をふり、酒場を出て行った。
吟遊詩人が古えのアーガデウムをたたえる歌を歌っている。
今はもういないテオル公子へのご機嫌取りだ。彼らは公子が死んだことを知らない。尊きアーガデウムが世界に与えてくれる夢、平和、希望……どれもつまらなく、価値がない。本当にそんな物を心から欲しがっている人間がどれだけいるのだろかと思う。
今度こそ本当に部屋へ引きあげるために立ちあがった。オハラに一言挨拶しようと、人だかりのしているカウンターへ近づく。いつもの席にラバン爺がいて、ホルムの男たちとオハラを相手にからりとした笑い声をあげていた。俺は近づくのを躊躇する。
戸口から汚れた外套を着、よく日焼けした農民風の男が、背後を気にしながら入ってきた。皆が笑顔を交わす店の中で、一人でいる俺に一瞬妙な顔を向け、すぐにカウンターの人垣に割りこむ。「酔っぱらいが外で倒れてるぞ」といった。
「寝かせておいてやれよ。シーウァの兵隊もいやしないんだから」
「女の子だぜ」
ひばり亭の出入り口の扉は常に大きく開かれており、外にはもう夜の帳がおりている。店からもれる明かりは半円形に広がって石畳を照らしており、光の輪の端に倒れた女の足が覗いていた。
ネル。