たとえ地霊どもでも今日の俺のように早く走り、下ることはできなかっただろう。
洞窟へ入り遺跡から大廃墟へと続く道はいつもと変わらず俺を呼んでいる。
時刻は真夜中に近づいていたが、興奮しているせいか疲労は感じず、むしろ体はいつもよりも軽いくらいだった。夜種どもや化け物どもを相手にする暇はなく、彼らに居場所を知らせないために、明かりはつけなかった。
大廃墟の石畳を蹴り暗闇へむかって駆ける。
夜目はきく方だがそれでも数度つまずき、膝を打ちつけた。痛みはほとんどなかったが、余計な怪我をしてはならないと己に言いきかせ、注意しながら、しかし全力で駆けた。やがて彼方にぼんやりと崩れかけた神殿と、そのむこうの地下へむけて急な斜面を持つ回廊が見えて来る。背後に何者かの気配を感じていたが、振り向く暇すら惜しかった。最初は人の気配だと思い、いや確かに人の足音だったはずなのだが、いつの間にかそれはもっと異形の気配と入れ替わっている。
回廊の入り口へ辿り着いた時には、背後の気配はさらに距離を詰めていた。気配だけでなく、地鳴りのような異様な響きだ。俺の数歩後を走っている。高くそびえる金属の扉へ手が触れる寸前、手元に影がさした。
地面が縦に揺れ、体が宙に浮いた。前ではなく横へ体が投げ出され、倒れこむ肩越しに空中に浮かぶ巨大な青黒い岩の塊が見えた。岩はさきほどまで俺が立っていた石畳を潰し、石の破片と砂埃を跳ねあげながら重く転がって扉に衝突した。金属と岩が擦れる嫌な音が空気を震わせる。
岩塊が扉に接触したまま回転する――高くそびえる扉がぎりぎりと音をたて白い火花が散ったが、どのような金属で作られているのか、傷すらつかなかった――岩塊は、回転しながら扉を離れ、俺の方へと“顔”をむけた。つまりそれは俺の背丈ほどもある巨大な頭部だった。荒く削られた耳と鼻と口が、偽の命の炎が揺れる黒く落ち窪んだ眼窩が、床に転がった俺をとらえる。さらに巨大な像の一部が欠けたものなのか、あるいは元から頭部だけなのか、わかるのはそれが魔法によりかりそめの命を与えられた紛い物であることだけだった。
大廃墟をうろつく死霊と魔法で生成された生物が皆そうであるように、これもまた、命ある者を倒せと命じられているのであろう。土の精霊であり、遺跡の守護者だ。粉塵のためだけではなく呼吸が激しく乱れた。冗談ではないこんな時にこんなところでこんな奴を相手にしてはいられない。どうやって倒せばいいのだ。巨人の王はこれよりもなお巨大で堅牢であったが、あの時は一人ではなかった。今は俺を守る魔法の壁はなく、岩を斬り裂く刀の閃きもない。
俺が立ち上がるのを待たず、頭部だけの守護者は俺の方へと転がりはじめた。一直線に俺の方へ向かってくる。圧された石畳に亀裂が入る重い音と空気の震えが、俺の骨まで響いた。
地面を強く蹴り、後ろへ飛んだ。わずかに間に合わない。速度が速すぎ、距離が近い。右の爪先が岩頭と地面の間に巻き込まれ、臼に挽かれる小麦のように磨り潰される――実際の痛みがくるより先にその様子が脳裏に浮かび、絶叫しかけた。
口を開いたとき、周囲が突如静かになった。
風が吹いた。
気圧が急激に変化し、鼓膜が音を立てて震え、次の瞬間、俺と守護者の間の地面から――そうとしかいいようがない――鋭い風が吹き上がった。視界いっぱいに広がっていた守護者の恐ろしい表情が、空気と一緒に歪んだ。風は俺の体をこちらに押し守護者をむこうへ押し、俺はよろめいて背を円柱に叩きつけられ、守護者はその場で動きを止める。俺と怪物の間に距離が開いたことを見届けたかのように、風はぴたりと止んだ。守護者はぐらりと揺れると、顔面の向きを変えた。俺もそちらを見たが、見る前からすでにわかっていた。魔法による風だった。俺に助力を与える魔術師を俺は彼らの他には知らない。
円柱に挟まれた長い急な坂道の上に、二つの人影があった。細い女の影がゆっくりと矢を弓に番え、もう一つの影がこちらにむかって突っ込んでくる。
七歩の距離を四歩で駆けてきたラバン爺は、すでに抜刀していた。
「ヴァン、そこ、どけ!」
俺は柱から背をずらし、慌てて転がるようにその場から離れた。岩頭の中から不気味な軋みが響きはじめていた。怪物は呪文を唱えている。一瞬で詠唱が終了し、地面が割れ土筍が天にむかって伸びた、土中に潜む小人が槍をつきあげたかのようだ、しかしラバン爺はすでにその場所にいなかった。気合の声を上げ地面を蹴り宙に舞っている。 真上から頭上へと落下したラバン爺の剣は、岩の中へ、吸い込まれるように消えていった。
岩窟を渡る風のような甲高い音が響いた。
守護者はしかしまだ倒れなかった。激しく体を回転させ、頭頂部からラバン爺を振り落とした。
柔らかく膝を曲げてラバン爺が地面に落下し、横に跳んだ。近づいてきたキレハが呪歌を歌い始めている。
正直に言えば泣きたくなるほど嬉しかった。
三人で力をあわせればすぐにあの守護者を倒すことはできるだろう、そしてそれから下りていけば、あるいは<彼>すらも凌ぐことが……容易ではなくとも……希望を持って……守護者の注意は今は彼らにむかっている。俺は走り、墓所へと通じる扉に手をかけ肩をつけ、全身の力を込めてそれを押した。
俺は一人で行かねばならない。
重い扉は地面を擦ってあちら側へと動き、ようやく開いた隙間に体を滑りこませた。ラバン爺には明らかに予想外の出来事だったのだろう。慌ててこちらに足を踏み出し、守護者に阻まれ、声を張りあげた。俺の名を呼んだ。
「ヴァン!」
扉の向こうには馴染んだ暗闇と黴の香りが漂っていた。胸元でフィーアが震えながら、さえずるように歌っている。玄室への道と共鳴している。俺の肉体もまた震えている。血と肉と骨のすべてがこの場所を喜んでいる。振りむいた俺が扉に手を触れると、今度は音もなく静かに扉が閉まりはじめた。開くのは困難だが閉じるのは容易だ。
「ラバン殿、彼が!」
キレハが声をあげ、ラバン爺のひどく狼狽した怒声が耳を打った。
「こらっ、一人で行くのは駄目だと言ったろうが!」
なんということだ。小さい子供を叱る口調ではないか。こんな時なのに俺は思わず足を止め、笑ってしまう。守護者がまた動きを止め、その脇を縫ってラバン爺がこちらに駆けてくる。だがもう間に合わない。手のひらほどの幅から指の幅へと狭まりゆく扉の向こうでラバン爺が怒鳴った。鉤のついた義手を強引に突っ込もうとしたが、白銀の鉤爪の先だけしか通らず、閉まりゆく扉を押さえることはできなかった。手をひっこめると、隙間から目だけを覗かせ、怒鳴った。
「ヴァン、忘れるな、お前さんはただのヴァンだぞ」
彼の目の光はまるで十七、八の青年のようだ。彼のように老いる人は死など恐れるまいと思った。
「お前はお前だ、いいか、タイタスにもしもお前が乗っ取られるようなことがあれば……」
三本の指の幅は二本の指の幅になり、やがて一本の指すら通らない細い光の筋になる。その隙間にラバン爺の声が滑りこんでくる。
「俺が必ずお前を」
金属の扉が閉ざされる甲高い悲鳴のような音にラバン爺の声はかき消され、最後の一言はきこえなかった。しかし結びの言葉は二つしかないように思えた。殺すか救うか、そのどちらにしても、俺にとっては同じことだ。様々な事を見抜き理解するラバン爺にも、それだけはわかっていないのだ。
振りむけば四つの秘石によって開かれた墓所への道のりは、暗闇の底に沈んでいた。
死者のために作られた場所は、永遠の眠りのための静寂からは縁遠いざわめきに満ちている。何千年ものあいだ淀み続けていた空気は渇いた死の匂いに満ちており、深く息を吸えばただ懐かしい。
恐らくこういうことが以前にもあったのだと思う。玉座、宮殿、王国、横たわる死体と流れる血――小人の塔で感じた眩暈にも似た開放感と圧倒的な喜びは本当に素晴らしかった。俺は王になるため生まれた。
かつて夢の中で<彼>は俺を追いかけ、追い詰め、怯える俺にこう言った。お前が夢に見たあの玉座、あの王宮、あの大地を埋める強い兵士たち、あのすべては余の物だ。お前の肉体は余のためにしつらえた物であり、それは余の元へと来たがっている。汝は器よ、我が器よ、おまえの命も王国もすべてが我が物だ……余を受け入れるならば、お前は王国と永遠の魂を手にすることであろう。来い、来い、その体を鍛え余の元へ運び来い。
しかるべきところにあるべきものがあるのはなんと素晴らしいことか。
最奥に沈む玄室からは強い魔法の力が瘴気のように外へと溢れでている。腰帯の後ろに挟んだエウルスを握り、俺は始祖帝の玄室へと足を踏み入れる。
開いていく大門の向こうには俺がこれまでに触れたことがないような暗く濃い闇が封じ込められている。金と銀でできた世界を模した美しい箱庭があり、それらに囲まれた石の棺はすでに開いていた。遥か頭上を見上げれば、彼方の天井は目にすることすらかなわない。ここは恐らくこの世で最もミルドラが座する奈落に近い場所だ。
俺の名を<彼>が呼ぶ。
ああ、そうだ、ようやくその声が俺の耳にきこえる。頭の中ではなく、空気を震わせ鼓膜を叩く本当の音となる。
<――余を受け入れよ――さすればすべてを与えよう――>
喉を通さず耳だけで己の声をきいた人間は、おそらく世界で俺一人だけだろう。
夢の中のようだがここは夢ではない。
約束された場所へやってきたという達成感は甘い快感となり、俺の首筋から足の指先までを痺れさせる。四方から湧きいで、俺を取り囲んだ太古の闇は、玄室の中央に集まりゆく。
俺は言う。<彼>の名を呼ぶ。夢の中でしか口にしたことのないその名を口にする。
「タイタス」
棺の上にたゆたう闇は、人間の体へと形をかえる。
闇は白く染まり若い男の姿となる。白い長髪を振りみだし、長い剣を手にした死が、己を封じた墓の上へと降りたとうとしている。
<――お前に世界をやろう――>
タイタスが囁く。夢できいた通りの言葉だ。
本当に? それはすごい!
<――永遠の命を――>
素晴らしい。俺は決して死にたくない。死ぬことは恐ろしい。死は何物とも交換のきかぬ恐怖だ。
<白亜の宮殿と――美女たちと――世界を均す軍団はお前の物だ>
男として生まれた者なら誰もが望む、最高の褒美だ。
タイタスの足の先が、棺の上に降り立った。<彼>はいまや墓から蘇り、人の形をとった。
「とてもいいな。なにもかもが」
俺の声は暗闇の中に吸い込まれていく。
「大変素晴らしい。だがあいにく、俺が一番欲しい物が入っていないようだ」
そう言って、痺れる唇をひっぱり、なんとか薄い笑みを浮かべることができた。
「おまえの命だ、タイタス――俺は俺の欲するすべてを頂くことにしよう――おまえを殺してな」
タイタスの体がわずかに震えたようだった。
<彼>は今やかりそめの肉体を持ち、目に見え、剣を握り地を踏む“彼”となった。
つまり今やタイタスには、魔法と刃が通用するようというわけだ。
俺の笑みはさぞ凶暴な形になっていることだろう。
エウルスを握りしめ、真横に引き抜いた。
体の痺れはまだとれぬ、魂は心に屈服を促す、しかし魔剣の冷たさは俺の腕を動かし、寝台に伏したネルの姿を思い浮かべれば俺の心は力を取り戻す。
――俺がお前の器なのではない、お前が俺の器なのだ――俺を生みだすためにお前はこの地に生を受けた――。
<愚かな――全てはすでに定められたこと――余を受け入れよ>
フィーアが輝きながら振動し、俺の魂もまた震える。彼が裸の足で石の棺を踏みつけ、音を立てて地面へと降り立った。彼の姿は俺にひどくよく似ている。似ているものが同じであるというならば、俺は彼であり彼は俺であり、この地の底にいるのは二人ではなく一人であって――