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ミルドラの種 6

 
 たとえ地霊どもでも今日の俺のように早く走り、下ることはできなかっただろう。
 洞窟へ入り遺跡から大廃墟へと続く道はいつもと変わらず俺を呼んでいる。
 時刻は真夜中に近づいていたが、興奮しているせいか疲労は感じず、むしろ体はいつもよりも軽いくらいだった。夜種どもや化け物どもを相手にする暇はなく、彼らに居場所を知らせないために、明かりはつけなかった。
 大廃墟の石畳を蹴り暗闇へむかって駆ける。

 夜目はきく方だがそれでも数度つまずき、膝を打ちつけた。痛みはほとんどなかったが、余計な怪我をしてはならないと己に言いきかせ、注意しながら、しかし全力で駆けた。やがて彼方にぼんやりと崩れかけた神殿と、そのむこうの地下へむけて急な斜面を持つ回廊が見えて来る。背後に何者かの気配を感じていたが、振り向く暇すら惜しかった。最初は人の気配だと思い、いや確かに人の足音だったはずなのだが、いつの間にかそれはもっと異形の気配と入れ替わっている。

 回廊の入り口へ辿り着いた時には、背後の気配はさらに距離を詰めていた。気配だけでなく、地鳴りのような異様な響きだ。俺の数歩後を走っている。高くそびえる金属の扉へ手が触れる寸前、手元に影がさした。
 地面が縦に揺れ、体が宙に浮いた。前ではなく横へ体が投げ出され、倒れこむ肩越しに空中に浮かぶ巨大な青黒い岩の塊が見えた。岩はさきほどまで俺が立っていた石畳を潰し、石の破片と砂埃を跳ねあげながら重く転がって扉に衝突した。金属と岩が擦れる嫌な音が空気を震わせる。
 岩塊が扉に接触したまま回転する――高くそびえる扉がぎりぎりと音をたて白い火花が散ったが、どのような金属で作られているのか、傷すらつかなかった――岩塊は、回転しながら扉を離れ、俺の方へと“顔”をむけた。つまりそれは俺の背丈ほどもある巨大な頭部だった。荒く削られた耳と鼻と口が、偽の命の炎が揺れる黒く落ち窪んだ眼窩が、床に転がった俺をとらえる。さらに巨大な像の一部が欠けたものなのか、あるいは元から頭部だけなのか、わかるのはそれが魔法によりかりそめの命を与えられた紛い物であることだけだった。
 大廃墟をうろつく死霊と魔法で生成された生物が皆そうであるように、これもまた、命ある者を倒せと命じられているのであろう。土の精霊であり、遺跡の守護者だ。粉塵のためだけではなく呼吸が激しく乱れた。冗談ではないこんな時にこんなところでこんな奴を相手にしてはいられない。どうやって倒せばいいのだ。巨人の王はこれよりもなお巨大で堅牢であったが、あの時は一人ではなかった。今は俺を守る魔法の壁はなく、岩を斬り裂く刀の閃きもない。
 俺が立ち上がるのを待たず、頭部だけの守護者は俺の方へと転がりはじめた。一直線に俺の方へ向かってくる。圧された石畳に亀裂が入る重い音と空気の震えが、俺の骨まで響いた。
 地面を強く蹴り、後ろへ飛んだ。わずかに間に合わない。速度が速すぎ、距離が近い。右の爪先が岩頭と地面の間に巻き込まれ、臼に挽かれる小麦のように磨り潰される――実際の痛みがくるより先にその様子が脳裏に浮かび、絶叫しかけた。
 口を開いたとき、周囲が突如静かになった。
 風が吹いた。
 気圧が急激に変化し、鼓膜が音を立てて震え、次の瞬間、俺と守護者の間の地面から――そうとしかいいようがない――鋭い風が吹き上がった。視界いっぱいに広がっていた守護者の恐ろしい表情が、空気と一緒に歪んだ。風は俺の体をこちらに押し守護者をむこうへ押し、俺はよろめいて背を円柱に叩きつけられ、守護者はその場で動きを止める。俺と怪物の間に距離が開いたことを見届けたかのように、風はぴたりと止んだ。守護者はぐらりと揺れると、顔面の向きを変えた。俺もそちらを見たが、見る前からすでにわかっていた。魔法による風だった。俺に助力を与える魔術師を俺は彼らの他には知らない。
 円柱に挟まれた長い急な坂道の上に、二つの人影があった。細い女の影がゆっくりと矢を弓に番え、もう一つの影がこちらにむかって突っ込んでくる。
 七歩の距離を四歩で駆けてきたラバン爺は、すでに抜刀していた。
「ヴァン、そこ、どけ!」
 俺は柱から背をずらし、慌てて転がるようにその場から離れた。岩頭の中から不気味な軋みが響きはじめていた。怪物は呪文を唱えている。一瞬で詠唱が終了し、地面が割れ土筍が天にむかって伸びた、土中に潜む小人が槍をつきあげたかのようだ、しかしラバン爺はすでにその場所にいなかった。気合の声を上げ地面を蹴り宙に舞っている。 真上から頭上へと落下したラバン爺の剣は、岩の中へ、吸い込まれるように消えていった。
 岩窟を渡る風のような甲高い音が響いた。
 守護者はしかしまだ倒れなかった。激しく体を回転させ、頭頂部からラバン爺を振り落とした。
 柔らかく膝を曲げてラバン爺が地面に落下し、横に跳んだ。近づいてきたキレハが呪歌を歌い始めている。
 正直に言えば泣きたくなるほど嬉しかった。
 三人で力をあわせればすぐにあの守護者を倒すことはできるだろう、そしてそれから下りていけば、あるいは<彼>すらも凌ぐことが……容易ではなくとも……希望を持って……守護者の注意は今は彼らにむかっている。俺は走り、墓所へと通じる扉に手をかけ肩をつけ、全身の力を込めてそれを押した。
 俺は一人で行かねばならない。
 重い扉は地面を擦ってあちら側へと動き、ようやく開いた隙間に体を滑りこませた。ラバン爺には明らかに予想外の出来事だったのだろう。慌ててこちらに足を踏み出し、守護者に阻まれ、声を張りあげた。俺の名を呼んだ。
「ヴァン!」
 扉の向こうには馴染んだ暗闇と黴の香りが漂っていた。胸元でフィーアが震えながら、さえずるように歌っている。玄室への道と共鳴している。俺の肉体もまた震えている。血と肉と骨のすべてがこの場所を喜んでいる。振りむいた俺が扉に手を触れると、今度は音もなく静かに扉が閉まりはじめた。開くのは困難だが閉じるのは容易だ。
「ラバン殿、彼が!」
 キレハが声をあげ、ラバン爺のひどく狼狽した怒声が耳を打った。
「こらっ、一人で行くのは駄目だと言ったろうが!」
 なんということだ。小さい子供を叱る口調ではないか。こんな時なのに俺は思わず足を止め、笑ってしまう。守護者がまた動きを止め、その脇を縫ってラバン爺がこちらに駆けてくる。だがもう間に合わない。手のひらほどの幅から指の幅へと狭まりゆく扉の向こうでラバン爺が怒鳴った。鉤のついた義手を強引に突っ込もうとしたが、白銀の鉤爪の先だけしか通らず、閉まりゆく扉を押さえることはできなかった。手をひっこめると、隙間から目だけを覗かせ、怒鳴った。
「ヴァン、忘れるな、お前さんはただのヴァンだぞ」
 彼の目の光はまるで十七、八の青年のようだ。彼のように老いる人は死など恐れるまいと思った。
「お前はお前だ、いいか、タイタスにもしもお前が乗っ取られるようなことがあれば……」
 三本の指の幅は二本の指の幅になり、やがて一本の指すら通らない細い光の筋になる。その隙間にラバン爺の声が滑りこんでくる。
「俺が必ずお前を」
 金属の扉が閉ざされる甲高い悲鳴のような音にラバン爺の声はかき消され、最後の一言はきこえなかった。しかし結びの言葉は二つしかないように思えた。殺すか救うか、そのどちらにしても、俺にとっては同じことだ。様々な事を見抜き理解するラバン爺にも、それだけはわかっていないのだ。
 振りむけば四つの秘石によって開かれた墓所への道のりは、暗闇の底に沈んでいた。
 死者のために作られた場所は、永遠の眠りのための静寂からは縁遠いざわめきに満ちている。何千年ものあいだ淀み続けていた空気は渇いた死の匂いに満ちており、深く息を吸えばただ懐かしい。 
 恐らくこういうことが以前にもあったのだと思う。玉座、宮殿、王国、横たわる死体と流れる血――小人の塔で感じた眩暈にも似た開放感と圧倒的な喜びは本当に素晴らしかった。俺は王になるため生まれた。
 かつて夢の中で<彼>は俺を追いかけ、追い詰め、怯える俺にこう言った。お前が夢に見たあの玉座、あの王宮、あの大地を埋める強い兵士たち、あのすべては余の物だ。お前の肉体は余のためにしつらえた物であり、それは余の元へと来たがっている。汝は器よ、我が器よ、おまえの命も王国もすべてが我が物だ……余を受け入れるならば、お前は王国と永遠の魂を手にすることであろう。来い、来い、その体を鍛え余の元へ運び来い。

 しかるべきところにあるべきものがあるのはなんと素晴らしいことか。
 
 最奥に沈む玄室からは強い魔法の力が瘴気のように外へと溢れでている。腰帯の後ろに挟んだエウルスを握り、俺は始祖帝の玄室へと足を踏み入れる。
 開いていく大門の向こうには俺がこれまでに触れたことがないような暗く濃い闇が封じ込められている。金と銀でできた世界を模した美しい箱庭があり、それらに囲まれた石の棺はすでに開いていた。遥か頭上を見上げれば、彼方の天井は目にすることすらかなわない。ここは恐らくこの世で最もミルドラが座する奈落に近い場所だ。
 
 俺の名を<彼>が呼ぶ。

 ああ、そうだ、ようやくその声が俺の耳にきこえる。頭の中ではなく、空気を震わせ鼓膜を叩く本当の音となる。

 <――余を受け入れよ――さすればすべてを与えよう――>

 喉を通さず耳だけで己の声をきいた人間は、おそらく世界で俺一人だけだろう。
 夢の中のようだがここは夢ではない。
 約束された場所へやってきたという達成感は甘い快感となり、俺の首筋から足の指先までを痺れさせる。四方から湧きいで、俺を取り囲んだ太古の闇は、玄室の中央に集まりゆく。
 俺は言う。<彼>の名を呼ぶ。夢の中でしか口にしたことのないその名を口にする。
「タイタス」
 棺の上にたゆたう闇は、人間の体へと形をかえる。
 闇は白く染まり若い男の姿となる。白い長髪を振りみだし、長い剣を手にした死が、己を封じた墓の上へと降りたとうとしている。

 <――お前に世界をやろう――>

 タイタスが囁く。夢できいた通りの言葉だ。
 本当に? それはすごい!

 <――永遠の命を――>

 素晴らしい。俺は決して死にたくない。死ぬことは恐ろしい。死は何物とも交換のきかぬ恐怖だ。

 <白亜の宮殿と――美女たちと――世界を均す軍団はお前の物だ>

 男として生まれた者なら誰もが望む、最高の褒美だ。
 タイタスの足の先が、棺の上に降り立った。<彼>はいまや墓から蘇り、人の形をとった。
「とてもいいな。なにもかもが」
 俺の声は暗闇の中に吸い込まれていく。
「大変素晴らしい。だがあいにく、俺が一番欲しい物が入っていないようだ」
 そう言って、痺れる唇をひっぱり、なんとか薄い笑みを浮かべることができた。
「おまえの命だ、タイタス――俺は俺の欲するすべてを頂くことにしよう――おまえを殺してな」
 タイタスの体がわずかに震えたようだった。
 <彼>は今やかりそめの肉体を持ち、目に見え、剣を握り地を踏む“彼”となった。
 つまり今やタイタスには、魔法と刃が通用するようというわけだ。
 俺の笑みはさぞ凶暴な形になっていることだろう。
 エウルスを握りしめ、真横に引き抜いた。
 体の痺れはまだとれぬ、魂は心に屈服を促す、しかし魔剣の冷たさは俺の腕を動かし、寝台に伏したネルの姿を思い浮かべれば俺の心は力を取り戻す。 
 ――俺がお前の器なのではない、お前が俺の器なのだ――俺を生みだすためにお前はこの地に生を受けた――。

 <愚かな――全てはすでに定められたこと――余を受け入れよ>

 フィーアが輝きながら振動し、俺の魂もまた震える。彼が裸の足で石の棺を踏みつけ、音を立てて地面へと降り立った。彼の姿は俺にひどくよく似ている。似ているものが同じであるというならば、俺は彼であり彼は俺であり、この地の底にいるのは二人ではなく一人であって――



 ――ここに立っているのも血の中に倒れ伏しているのもどちらも俺自身というわけだ。
 俺は俺を見下ろし、喉から噴き出した黒い血が広がっていく様子を眺めている。横たわり敗北した俺は呼吸をするたびに口と喉から血を噴き出し、虚空を濁った目で見つめている。生き残り勝利を得た俺も血まみれだ。治癒の魔法は肉体の損傷を回復することができなかった。ただ全身の痛みを抑えているだけだ。魔法が消えた後の苦痛は想像するだけで恐ろしい。肉が焼ける匂いに吐き気を覚える。
 口中に溜まった血を吐き捨て、二の腕で顔をこすった。鏡にむかって切りつけ、魔法を放ち、炎を投げかけるような戦いであった。二つの肉は同じ熱を持って震え、ふたつの骨は同じ音を立てて軋み、古い血と新しい血は混じり合った。二つはあまりにも似すぎているため、区別はつかなかった。
 しかし勝ったのは俺だ。
 生き残ったのは俺だ。
 頭がようやく正常に働きだし、思考の焦点があう。
 俺は俺であり彼は彼である。俺はヴァンだ。ただのヴァンだ。ただのヴァンの足元に始祖帝の体が転がり、緩慢な死へと向かっている。
 タイタスの喉に突き刺さった白銀の突剣は、彼の断末魔の痙攣に合わせて、びりびりと震えていた。最後の最後に俺が投擲したエウルスは、闇を一直線に切り裂き、タイタスの喉に刺さったのだった。いつも俺を助けてきたこの技は、この大勝負の場でまたしても俺を助けたというわけだ。しかしおそらくこれが俺にとって最後の投擲だ。俺は両手を見下ろす。喉を貫かれる寸前にタイタスは呪文の詠唱を終えており、彼が放った劫火は俺の腕を焼いた。朽ち木のように焦げて捻じれた左腕と、桃色と白に火照る右手は、今は治癒の魔法の支配下にある。普通ならば絶叫し気絶するほどの火傷であろうに、不自然なほどに痛みがない。しかしこれまで何百回と解錠を行い、剣を握り短刀を握り俺を守り、食べ物を口へ運びランタンを掲げ扉を押し義妹を抱きあげ靴紐を結んだ己の手のこのありさまに、無傷なはずの胸がひどく痛んだ。
 タイタスの呼吸は弱まり、それにあわせてエウルスも動きをとめ、同時に、俺の胸元のフィーアの振動もおさまりつつあった。銀の鎖の先についた秘石は、黒く色褪せ冷気を失ってゆく。タイタスの死に引きずられるように死んでいくのだ。俺はタイタスではなく青金石のフィーアを、魅入られたように見つめていた。
 地上ではネルの手中にある柘榴石のニルサが、これと同じように輝きを失いつつあるはずだ。
 タイタスは死に、ネルは生きる。今ごろネルは起き上がり、そこが自宅でないことに驚いているかもしれない。神官たちは自分たちの祈りが起こした奇跡だと勘違いをしているだろう。それでも構わない。ネルが助かったのならそれでいい……しかし時間の感覚が失われており、すでに遺跡の外でホルムの町は朝を迎え昼までが過ぎているのではないかという不安が胸をよぎった。ネル……遅すぎるはずはない、絶対にそれはない……しかし命が助かっていたとしても、彼女の指や手に傷がつくようなことはあってはならない。自分はそのようなことに耐えられない……ネルの体が傷つく様子を想像しただけで寒気がする。死体に背をむけ、歩きだした。
 血を流しすぎたせいで両足は重く、頭はまっ白に痺れていた。
 階段を上がりながら、時々、つまずいて転んだ。両手が使えないのは不便極まりなかった。治癒の呪文を唱えようとするが、簡単なはずの古代語なのに舌がもつれ、いやそもそも焦点具がない。エウルスを回収し忘れているのに気付き、慌て、両手が使えないから持ってこれなかったのだと思いだす。
 これまで秘石に頼り疲労を遠ざけ続けていたせいで、己の疲労の度合いが測れなくなっている。下りるときはただ重力と勢いに任せて転がるように走り続ければよかったが、体を上へと運ぶのは辛く苦しい作業だった。目が霞んだ。白く削られ均等に重ねられているはずの石の段は、遠ざかり、また近づき、ぐらぐらと揺れた。揺れているのは俺の眼球であり体であった。
 つまずき、意識が一瞬途切れ、ふと気がつけば膝をついて階段に横たわり、倒れたままの姿勢で眠りかけていた。ひんやりと冷たい石段に火照る頬と耳をつけ、自分の荒い呼吸の音だけをきいていた――それ以外は何の音もしない――墓所からは死霊どものざわめきが消えている。タイタスの死とともに奈落へと去っていたのかもしれぬ。始祖帝にはふさわしい葬列だ。もし本当にそうならば、この場所で目を閉じ夢のない眠りを貪りたかった。
 ……だが、すべてはネルの無事を確認してからだ。怠惰に逃げ込もうとする体を叱咤した……眠っている間に治癒の魔法の効果が失われた場合、苦痛のせいで今度こそ本当に身動きがとれなくなる。肩と肘で上半身を押し上げ、砂壁に持たれて立ちあがった。エウルスを忘れてきた事に気づいてぎくりとしたが、両手が駄目になっているせいでタイタスの首から引き抜くことができなかったのだとまた思いだす。歩き始める。
 
 泥の沼を徒歩で渡るような帰路であったが、墓所から抜け出せばそこはいつも通りの大廃墟だった。
 列柱に挟まれた通路には激しい戦闘の痕跡があった――石畳は割れ、砕かれた岩の塊が一帯に散乱している。柱の一本は腹を大きく半球形に抉られ、斜めに傾いでいた。鑿とヤスリで丁寧に削りとったような、あるいは虚空に呑みこまれたような断面だが、魔法剣による攻撃の跡であった。ラバン爺がやったな、とぼんやりと思った。地面には血の跡が引きずられた黒い染みとなって残っていたが、守護者もラバン爺たちの姿もすでになかった。怪我を負いホルムに引き上げたのかもしれず、ここから墓所へ通じる別の道を探しているのかもしれなかった。どちらにしても彼らはそれぞれに熟練した探索者であり二人だ、一人ではない、何かがあっても大丈夫なはずだ。こんな状態の自分が彼らの身を案じるのは滑稽であったが、そうだと知ってもラバン爺は俺を笑いもしないだろう。キレハはどうせまたむっとした顔で何か文句を言うに違いない。帰ったら彼らに謝ろうと思った。
 両腕の肘から下が痺れたようになっていて、感覚が戻りつつある。だが出口はもうすぐそこだ。大廃墟の広場には太古の魔術師たちの手によって、洞窟の石柱へつながる転移の魔法陣が描かれている。
 魔法陣の端に足をかけた時に、背中に衝撃を感じた。
 思い切り誰かに突き飛ばされたようで、俺は魔法陣の中へ肩から倒れこむ。手が使えないので体が支えられない。何が起こったのかわからない。地面に横たわり固い岩盤に掘られた複雑な呪文を見つめている。俺が内側へ入り込んだことで、魔法陣が白く光りだす。熱のかたまりが腹から喉へ怒涛のように押し寄せ、全身が熱くなり、背後で誰かの怒声が轟いた。それからようやく痛みが来た。
 痛みがやって来た。
 動かぬ手を腹に当て、俺は獣のように吠えた――両足で宙をかき、のたうちまわり、絶叫する。腹に腕がぶつかり、その衝撃が熱い激痛となってまた全身を駆け巡る。背に刺さった矢が見事に胴を斜めに貫通し、腹から鉄の矢じりが跳び出している……俺はその光景を信じられない気持ちで見下ろす。矢だ。なぜこんな場所でこんな風に射られているのだ?
 絶叫が俺の耳を打つ。
「やった、やったぞ、ざまぁみろ! あいつらの仇だ! くたばりやがれ!」
 魔法陣が放つ白い輝きの向こうで、大廃墟の建物の影から踊り出てきた小男が、歓喜の表情を浮かべバネ仕掛けの玩具のように跳びはねている。紫の布を巻いた頭を上下させ、小さな弓を頭上に掲げ、喜びの踊りを舞っている。あれが誰だったか見覚えがあるような、炎と関係があるような、しかし激痛のせいで思い出せない。呪文を、と思った。治癒の魔法を。口を開けば声の代わりにどす黒い血が溢れ出た。
 白い光が視界いっぱいに広がり、床の感触が消えた。慣れた転移の魔術であったが、体が浮き上がり上下の感覚が消滅するとまるで死の只中に放り出されるような恐怖があった。意識が途切れた。
 
 目を覚ました。
 洞窟の石柱に寄りかかり、両足を投げ出して座っている――浅瀬に座りこんだ俺の足を、打ち寄せる地底湖の澄んだ水が洗うようになでている。波は膝の上までしか届かず、腹から流れる血が水を汚していた。
 目の前は暗く、焼けるような痛みだけがある。
 タイタスを倒しついに呪いを打ち破ったはずの俺がなぜこんなところで死にかけているのだろうと思う。何も考えられない。石柱に背をつけたまま上半身が傾き沈んでいく。目に光が飛び込んできた。もはや焦点を合わせられない……すべてが混沌としてあらゆる記憶が……自分がここで何をしているのかを忘れた。これまでの生涯で恋い焦がれたすべての夢が、約束された王国が、白亜の宮殿が、王の座が、腹と両腕の激痛が、犬のように扱われた痛みの記憶が、なにもかもが消えていく。
 ただ目の前に薔薇色の光だけがある。

 あれは洞窟の出口だ。
 薔薇色の光はホルムの夜明けの空だ。
 
 俺は間にあった。
 しかし何に間にあったのかもう思い出すことができない。何一つ手にいれることができず命すら失っていくのに、なぜか満足していた。あんなにも怖くてたまらなかったのに死はそう悪くない。始まってしまえば恐怖は欠片もなく、支払わねばならぬ代償とはこれだったのかと思う。エウルスを忘れてきた、両手がもう使えない、しかし俺は間にあったのだ。水の中へ頭が落ちたが目はまだ光を捕らえていた。パリス……チュナ……ラバン爺……暗闇がすべてを覆い尽くす。これが死かと考え、それが筋道だった最後の思考だった。

 ……薔薇色の光がなんなのかやっと思い出すことができた。
 あれは宝石だ確かに俺はあれを手にしたことがあるなんとかのニルサという名前だった。あの美しい輝きはきっとあいつによく似合う。陽光を集めたような指輪を手渡せばネルは笑ってくれるだろうか。
 王でもないただのヴァンである俺には捧げられる物など何もなく、本当はもっといっぱい色んなものをあげたいと思うけれどいまはこれしかあげられるものがない。きみの笑顔のために俺は何をすればよいのだろう? どうすればきみは俺のそばでずっと笑っていてくれるのだろう? 俺がそう言えばネルは笑って俺の手を取る。
 馬鹿だなあヴァンは、そんなことのためにこんなにいっぱい怪我をしたの? 大丈夫だよ一緒にいるよ、ここがヴァンの居場所だよ。ネルの手を固く握りかえせば俺の体は喜びに震える、俺は思う、強く強く思う、しかるべきところにあるべきものがあるのはなんと素晴らしいことだろう。
 俺は幸福だ。

 夜明けの光の中できみが笑っている。


 end

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