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溶けていく 10

 裏通りのドブと腐った残飯の匂いをのせた生温い風が、西向きの小さな窓から吹き込んでくる。
 風は窓際の粗末な寝台にぶつかると、寝具に染みこんだ病人の汗と汚物の匂いと混じり合い、たまらぬ悪臭となって狭い室内を満たした。
 もう秋も深いというのに蒸し暑い夕暮れだった。
 寝台の側に腰掛けて呪文の詠唱を行う少女の額には、汗が玉となって滲み次々と滴り落ちて、吐瀉物に汚れた長衣に新たな染みを作った。寝台に横たわった中年の男は、擦り切れた毛布を枯れ木のような体に巻きつけ、「寒い、寒い」とうわ言のようにつぶやき続けていた。詠唱を終えたマナが魔法の熱を帯びた手で男の胸元に触れると、男は大きく息を吐き、やがてゆっくりと呼吸が整っていった。
 マナは焦点具として使っていた杖を壁に立てかけると、毛布からはみだした男の手首に触れ、脈と熱を確認した。男の全身を打ちのめす内臓の痛みは根気よく繰り返された治癒魔法によって今は息を潜めていたが、死人のような体温と早過ぎる脈拍に変化はなく、マナはそっと唇を噛み締めた。
 この男の隣人が、「死にかけている病人がいる」と大河神殿へ治癒者の助けを求めて来たのは、今日の昼前のことだった。半日を費やしたマナの手当と治癒の技は病人の苦痛を和らげはしたが、病の根を断つことはできなかった。長患いの末に、とうとうこの男の魂は忘却界に渡ろうとしているのだった。
 命にはいつか終わりが来る。
 探索であれだけ沢山の命を奪ったあとも、マナはまだこの当然の真理と気持ちの上で折り合いをつけることができずにいた。
 重く瞼を下ろした男が、ひび割れた土気色の唇を動かした。巫女様、という呼びかけをマナは目で読み取った。
「ここにおりますよ」
 身を屈め、男の声を聞き取ろうと口元に耳を寄せる。男の口からは腐敗した肉と死の匂いがした。水を、というつぶやきにマナは頷き、枕元の卓から素焼きの水差しを取り、なみなみと杯に注いだ。男はマナに支えられて半身を起こし、喉を鳴らしながら水を飲み干した。汚れた枕に再び頭を預けた男が、何かを求めるように寝台の上で手を動かした。マナがそっとその手を取ると、男は虚ろな目を天井に向けたまま、太い息を吐いた。
「俺はもう死ぬみたいですね」
 自分よりもずっと年上の、病と痛みに打ちのめされ、貧しさに疲労し、頼る者もなく怯えきった男の手を固く握りしめ、マナはしばらく無言でいた。ようやく口を開くと「大丈夫です」とだけ言った。男の恐怖は繋いだ手を通してマナの体と心に染み渡り、それ以上の嘘をつくことはできなかった。
「大丈夫。大丈夫ですよ」
「――忘却界なんて、本当にあるんですかね? 俺はガキの時分からずっと不信心でね。神殿なんてのは坊主どもが貧乏人を騙して、金を稼ぐための場所だと思っていた。銅貨の一枚も献金したことはねえし、お袋が死んでからは祈ってもらったことすらない。巫女様。俺は死ぬのが怖いんです。今頃になって怖くてたまらないんです。神々だの魂だのが本当のことで、永遠の苦しみが待ってるんじゃねぇかと……」
「アークフィア様の民である私たちに、永遠の苦しみなどありません。これまでがどうあれ、今、あなたが女神様を信じたのなら、それで十分です。あなたの罪はあなたの代わりに、すべて女神が償ってくださいました」
 男がマナの手を握りかえした。思いもかけぬような強い力であった。
「本当ですか?」
 恐怖と疑いに満ちた声であった。ためらったあと、マナが言った。
「私は忘却界でアークフィア様にお会いしました」
 男の瞼が引き攣ったように震え、両方の瞳がどろりと動いて、枕元の巫女の顔を探った。マナは彼の視線をうつむいた額で受け止めた。
「忘却界はあなたが考えているような怖い場所ではありません。天界への道はすぐに見つかります。見間違えようのない、強く美しい七つの星を輝かせた巨大な木がそびえていますから、それを見つめて、ただひたすらに進むだけでいいのです。迷うことなく、波間に道を見失うことのないよう、私がずっとお祈りしています」
「ああ。暗くてわからなかった」
 窓からはずっと陽光が差しこんでいたのだが、マナがこの部屋を訪れて初めて、男の目がきちんと焦点を結んでいた。
「あんたはマナ様だ」
 喜びの滲む声で男が言った。
「ああ……そうか。マナ様。わざわざあんたがこんなところに……あんたのような偉い方が、俺なんかのために。俺は見ましたよ、ここの窓から。あの日あんたが町のために戦っているのを……巫女のあんたが、僧兵を相手に……あの空に浮かんだ都も……あの音楽……俺ぁハァルが降臨して、世界を滅ぼそうとしてると思ったんだ。マナ様――あんたが言うなら、本当のことなんでしょうね。忘却界は怖くないのですか? 俺のために祈ってくださるんですか?」
「ええ。お祈りします。必ず、ずっとです」
 男の顔から緊張が解け、苦痛と恐怖の影が消えていった。安らかな表情で男が目を閉じた。薄青い頬にはわずかに赤みが増したようでもあった。
「ありがとうございます」
 安堵しきった掠れた声で、男が囁いた。
 男が眠りに落ちたのを見届けてから、マナはずっとつないでいた手を離し、そっと立ち上がった。杖を取ると音を立てて男の眠りを妨げないよう気をつけながら、扉へ向かった。薄暗い廊下に出ると、扉の横で壁に背を預けていた長身の男が、静かに身を起こした。
「メロダークさん。いらしていたんですね」
 驚きもせずにマナはそう言い、病人の部屋の隣室の戸を叩いた。顔を出した白髪の老人に、男の嘔吐と腹痛は止んだが病気が治ったわけではないこと、神殿に移しても手当ての仕様がないことを説明した。もしもまた苦しみだすことがあったら、たとえ夜半でもまた自分を呼びに来てくれるよう頼み、その会話の間、マナの体は何度もふらつき、その度に少女は手にした杖で体を支えた。
 共同住宅を出て、軒を突き合わせ中庭で連なる小さな家屋がひしめき合うように建った細い路地を通り抜ける間、マナは通りかかった人々から何度も親しげな挨拶をされ、少女の後ろを歩くメロダークも同じように彼らの会釈を受けた。
「パリスの元の家がこの近所なんです」
 握りしめた細い木の杖を地面について歩きながら、マナは疲れた声で言った。
「子供の頃からしょっちゅう遊びに来ていました。私、髪や肌がこんなでしょう? 気味が悪いって、意地悪な子に石をぶつけられたことがあるんですよ。今でも覚えています。石は額にぶつかって、たくさん血が流れて――私が泣き出したら、知らないおじさんが飛び出してきて、逃げようとしたその子に拳骨を落として、大声で怒鳴ったんです。巫女さんに何をするんだ、お前は女神様に石を投げたのと同じだぞって。その頃はまだ神殿の仕事はお手伝い程度で、本当は巫女の見習いですらなかったんですけれどね。近所の人たちが集まってきて、泣いている私をあやして怪我を手当てして、神殿まで送ってくださいました。私は割れた額の痛みより、自分のことを女神様と同じだって言われたのが怖くてたまらなかった。私はアダ様に命じられた御用もしょっちゅう忘れるし、悪戯もするし、つまみ食いもするし――嘘もつくのに」
 人気のない曲がり角で、マナは足を止めた。振り向き、銀色の雲の間でぎらぎらと、まるで真夏のように輝く夕日の下、数歩離れたところに立つ男を見た。
「さっきまた、嘘をつきました」と疲れ切った声で言った。「忘却界のこと。本当は怖いのに、怖くないって」
 西日を浴びたメロダークの顔は奇妙に緊張していた。
「お前が必要だと思ったのなら、それはつくべき嘘だったのだ。後悔はするな」
 と言った。
「そうかもしれませんね。いいんです、今夜はたくさん、アークフィア様にお祈りします。私をお許しくださいって。きっと許してくださると思います――他の方を許されるように、私も、きっと」
 杖を握りしめたまま少女は、角に建つ家屋の壁に肩をぶつけるようにもたれかかった。元の白さを残した煤けた壁に男の影が落ちており、その黒々とした輪郭に体を重ねるようにマナは一歩足を進め、そこで目を閉じた。
「顔色がひどい」
「疲れているだけです」
「背負って帰るか?」
 それを言うメロダークにはかすかに躊躇の気配があって、マナは小さく微笑した。
 廃墟を探索しているときにも一度、こういうことがあった。疲弊し身動きもできなくなった少女を、その時は許可どころか確認すらせず無造作に背負いあげ夕暮れのホルムの雑踏を堂々と歩き、神殿に到着して背から下ろしたマナが泣きべそをかいているのを見て、男は心底驚いたようだった。何が恥ずかしいんだ他に運びようがないだろう理屈に合わんことを言うな、そう叱られて、その晩、マナは毛布に潜り込み枕を強く抱き締めて、なんて無神経な人なんだろうとまだ去らぬ羞恥と怒りに震え、男の広い背中や首筋や自分の太股を支える掌の感触をなんとか忘れようと、慌てて、頑張って、懸命に、メロダークの悪口を考えて、神殿育ちに出来る精一杯の範囲で罵倒の言葉を思い浮かべ、たくさん、たくさん、本当にたくさん、彼のことを好きではない理由を並べて、生まれてはじめて他人をあの人はひどい人だと心の中でなじり続け、そういった懸命な努力にも関わらず、その晩は結局、メロダークが出てくるとても幸せな夢を見た。
 探索の間には恐ろしいことや辛いことや悲しいことがたくさんあって、その中には取り返しのつかない死や破滅も含まれているのに、それでも、いや、もしかしたらそれゆえに、迷宮の秘密を暴こうと地下を旅した日々のことは、輝くような思い出となっている。
「探索の間は――」
 楽しかったですねと埒もない、馬鹿げたことを言いかけて、マナは口をつぐんだ。
 自分が一心にタイタスと戦っていた間、メロダークもまた違う方法でタイタスに抗おうとし、そのためにひどく苦しんでいた。あんなにもずっと一緒にいたのに彼の苦悩にも恐怖にも気づくこともなく、私はいつでもそうだ、真っ先に気にかけることも最後まで気を配るのも常に我と我が身の無事ばかり、結局は自分、自分、自分のことだけなのだ。
 死にゆく病床の男と繋いでいた手が今は重く痺れていた。あの病人はもしかしたらマナが子供の頃、頭を撫でたりお菓子をくれた大人の一人だったのかもしれない。マナ様、と自分を呼び、ありがとうございます、と言った。自分は尊敬に値するような人間ではない。あの人は死ぬだろう。それなのにお礼を言った。妖精王や巨人の王と同じように、恨み言のひとつも口にせず、ひとつきりの命を失うというのに私を責めることすらしない。
 あんなにも多くの人が死に、取り返しのつかない傷を受けたのに、すべての元凶である自分は何も変わらず、罰のひとつも受けぬまま、ぬくぬくと暮らしていると思った。
 これはどこまで続くのだろう。幾千、幾億、夜を越え、昼を踏みにじり、命を繰り返し……。
 疲労のせいで頭に靄がかかり、うまく物事を考えることができず、ただ己に苛立って泣き出したくなった。
 メロダークがこちらをじっと見つめており、この元は神殿軍の人間が自分の言葉を待ち、ただ待って、静かに先を促すこともせず、犬のような従順さでひたすら待ち続けていることに気づくと、勝手に口が動いた。
「私が嫌がってもきいてくれなかった癖に。今はそうやってなんにでも許可を求めて、全部を私のせいにするんですね」
 何も考えずに口にしたその言葉は、あまりに冷たく、意地が悪く、捻れていた。自分の言葉に驚いたマナがはっとして顔をあげた。メロダークはほんの一瞬深く傷付いた目をして、そのことに気づいた瞬間、マナもまた、傷ついた。
「ご……ごめんなさい」
 マナが謝罪した時には、メロダークの目からはいつものように、拭い去ったように痛みの気配が消えていた。
「すまなかった。そんなつもりはなかったのだが……これからは気をつけよう」
 さりげなくそう言った男に、どうしていいかわからなくなって、マナは上衣の裾をつかんですがるように引いた。
「今、ひどいことを言いました」
「いや、いい」
「違うんです、ごめんなさい。怒らないで――いいえ――お願いですから怒ってください。巫女のくせに八つ当たりを……こんなによくしてくださるメロダークさんに」
 突然メロダークが道端に膝をついた。両手を伸ばして汗に汚れた少女の体を引き寄せ、胸元にかき抱いた。とっさのことに硬直したマナの肩に顔を押し当て、メロダークがひどく激しい口調で言った。
「もっと腹を立てろ。怒鳴れ。気がすむなら打てばいい。私には何をしてもいいのだ、マナ、何をしても――だから、一人でそんなに苦しむな」
 抱き締められた体が痛い。男の吐息が汗に汚れた首筋にかかった。マナは口を何度か開閉させたが、しゃべることどころか息すらもうまくできなかった。それどころか何かを考えることもできなくなり、ただ顔を真っ赤にして目を見開き、男の肩越しに広がる橙の空を見つめていて、細長い雲の列を赤く染めながら沈みゆく歪な果実のような夕日は、先程よりも輝きを増したようだった。
 最初の恐慌状態が過ぎ去ると、ただ抱き締められただけで身動きもできず、それどころか呼吸すらままならぬ己の肉体の貧弱さと弱さを痛感し、しょせんは無力な人の身であることに、かえって骨身に染みるような安らぎを感じた。
 物語に出てくる女の人のように抱き返してもいいのかしらと気づき、そのとたん、そうしたくてたまらない自分がいた。マナが自由になる肘から下を動かし、恐る恐る男の広い背に触れようとした時、
「お前は私の光だ」
 とメロダークが言った。
「私の気持ちなど気にしなくていい。私はお前が何をしようと、その後をついていくだけだ。お前こそが神意を果たす、選ばれた器なのだから」
 マナの両手が空中で動きを止めた。
 そろそろと手を下ろしたマナは、「離してください」と小さく囁いた。男の腕が緩んだ。メロダークの側を離れると、マナは身を屈めていつのまにか地面に落ちていた杖を拾い上げ、顔をあげた時にはもうそこに明るく優しい笑みを浮かべていた。
「ああ、びっくりした! どうしようかと思いました、息ができなくて苦しくて。メロダークさんは力が強いんですから、ああいうこと、やめてください」
「マナ」
「それに――それに、男の人なんですから。もしもあんなところを他の人が見たら、誤解されてしまいます」
 どうか気をつけてくださいねとマナは笑みを崩さずに続けた。
「最近町の人たちが礼拝にまた出席してくださるようになったのは、メロダークさんが、昼も夜も奉仕を熱心にしてくださっているおかげだと思うんです。アダ様は町を救った英雄のお前さん見たさだっておっしゃるけれど、私、そんな簡単なことじゃないと思うんです。人の信仰はそんなことで深まるのではなくて、メロダークさんが夜種退治の先頭に立って……深夜でも早朝でも治療の奉仕をして……ずっと熱心に働いてくださって、だからアダ様も町の人も皆メロダークさんのことを信頼して……それなのに、こんなつまらないことであなたの評判を落としては、馬鹿ですよ」
 メロダークが立ち上がった。
「私の事などどうでもいい」
「いいえ、大事なことです」
 鋭い声でマナが言った。
 メロダークの手から逃れるように身を翻すと、小走りに距離を取り、通りに出たマナはそこで足を止めた。ホルムの町並みを見回し港の方角に光るアークフィア大河の河面に目をやり、それからメロダークに向きなおった。
「私はホルムしか知らなくて、もしかしたらそのせいかもしれないけれど、この町がとても好きです。だからずっと、ここがメロダークさんの新しい故郷になれればいいと思っていたんです。探索をしていた頃から、ずっと、ずっと」
 膝の土埃を払い、ゆっくりと近づいてくるメロダークの姿に、マナは笑みを一段深めた。そうだ、こうして鎧もつけず剣も持たぬ彼と一緒に平和を取り戻した町を歩くことができればと、そう願ったのは自分ではないか。あの人が幸せになれますように、穏やかに日々を過ごせますようにと繰り返し祈り、この町にやってきた理由を知ったあとにはもっと強く、心からの思いをこめて、毎晩、毎晩、アークフィア女神は私の願いをきちんとかなえてくださった。この幸福に比べれば、私の胸の痛みなどなんであろう。いや、考えてみればいい、巫女たる己の穢れた出自を知る人に、忠誠を誓われ信仰されて、神々の器と呼ばれるなんて、なんと幸福な私なのだろう!
 彼が光であれと願うなら、私はそういう物なのだ。
「メロダークさんはどうかこの町で幸せになってください。それが私の唯一の望みです」
 精一杯の気持ちをこめてそう言うが、彼の敬愛する娘から寿ぎを得たメロダークは、喜びの欠片もない表情で少女を見つめている。




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