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溶けていく 12

 ネスの北に雪が降れば、ホルムを経由して北部と行き来する船の数は激減する。
 それが毎年のホルムの冬の始まりであった。
 港の貿易商の元に作物や羊毛を運びこむ農民たちの姿が消え、船員相手の宿や酒場が灯を落とし、自然と往来を行き来する人の数も減り、町全部が眠りについたような静けさに包まれる。
 外へ出る用事も日常の雑務も減って、神殿が無為な静けさの中に閉じ込められる冬の到来を、マナは内心でひどく心配していた。
 しかし深まっていく秋の中、住人の増えた神殿は例年とは違うにぎやかさが途切れなく続いていた。
 エンダと「心ならずも」大の親友となったチュナを筆頭に、新しく商売を始めたパリスや鍛冶屋の修行中のネルや神殿の書庫を図書館代わりに利用するテレージャが、誰かに会うことを目的にひっきりなしに訪れて、二人、三人、時には全員が顔を揃えて、大騒ぎの途中にアダに叱られ、マナやメロダークも一緒にひばり亭に移動することもしょっちゅうだった。本来は信者のための来客室で気ままな会話を交わし笑い声をあげていると、探索をしていた頃に戻ったような気持ちになる。
 秋のあの夕暮れから、マナの中で育ちつつあるメロダークへの恐れは――自分が恐れているのは男の存在なのか、男に対する自分の気持ちなのか、いくら考えても少女にはわからなかった――鳴りを潜めて、夜、神殿の住人だけで小さな炉を囲み、エンダすらおとなしくなる静かな薄闇の中、男に近づきすぎている自分に気づいてはっとすることも度々だった。


 本格的な冬の訪れの前に、もうひとつ、事件があった。
 夏ごろから時折領内で目撃され幾度か家畜に被害を出していた夜種の一群の巣が、元はシリン村だった廃村の近くに発見されて、新しい領主からフランを通し、神殿に夜種退治の依頼が来たのであった。
 久しぶりに神殿に現れたフランは、年の近い娘たちらしいにぎやかな挨拶をマナと交わしたあと、表情を改めた。目撃された夜種の種類、数、場所、時間などを手短に報告をしたあと、夜種が巣としている遺跡は怪異騒動の際にマナが一度探索した場所であること、国境の警備を固めるのにすらまだ兵士の数が足りぬ状態であること、秋を越して夜種の数が増えている可能性があること、かつてマナが様々な場所と条件下で自分たちより遥かに数の多い夜種の群れを相手に戦い、そのすべてに勝利してきたこと、それに加えてマナの住む大河神殿には、戦いに熟練の技量を持つエンダやメロダークがいること、そういった諸々を理由に、夜種退治をマナに頼ってはどうか、フランが新領主にそう勧めたのだ。もちろん今のマナは探索者でなく大河神殿の巫女であり、将来は巫女長ともなる大事な身の上と承知はしている、この依頼をできれば引き受けてもらいたいが無理にとは言わぬ。夜種退治には案内役として自分も同行し、もちろん戦いにも参加するし、マナを必ず守るつもりだ、そういったことを、フランはいくらか申し訳なさそうに、しかしはきはきと述べた。
 話を聞き終えたマナは、「もちろん引き受けさせて頂きます」と躊躇なく答えた。夜種がホルムの領民にとって脅威である以上、討伐を断る理由など何一つなかった。
 メロダークがマナを制止することはなく、ただし当然のように同行するつもりのようであった。「無理はするな、後ろは守る」と懐かしい言葉をかけられて、マナもまた、昔のように無心に頷いた。甲冑を身にまとい、重い剣を下げ魔法の杖を手にすれば、その重さ冷たさに余計な逡巡は消えていき、ただ前を向きなすべきことをなすだけだというあの頃の心持ちまでが蘇り、それどころか高揚までしている自分に気づいて、もう落ち着いた巫女になったつもりでいたマナは、いくらか複雑な気分になった。
 さしたる報奨金が出るわけでもなくただ危険なだけの、しかし必ず誰かがやらねばならぬ仕事だからと最低限の人数で行うつもりだった夜種討伐だったが、マナが指揮を取るときいた町の自警団が手伝いを申し出て、翌朝、マナは二十人近い大所帯を率いて町を出発することになった。
 フランとメロダークの三人で一団の先頭に立ち、層となって積もった落ち葉が足元で音を立てる森の小道に踏み込めば、ここを以前通った時にも季節は秋だった、あの時もこのように武装して夜種の襲来を警戒していたと、マナはますます懐かしい気持ちになった。隣を歩く一見軽装のフランに、「これだけ沢山の方がホルムのために集まってくださるなんて、本当に心強いことですね」と囁くと、フランは愛らしい笑みを浮かべ、しかし目には冷静な光が宿っている。
「この夜種退治のこと、神殿に伺う前に一度、自警団にお願いしていたのです」
「ああ――それですぐに人が集まって……団長さんが、皆様に声をかけてくださったのですね」
「その時には自警団は町を守ることで手一杯だから、領内の夜種の巣には人手が避けないと断られたのです。団長様がそうおっしゃったのは当然の判断と思いますし、こうやって参加してくださったのはもちろんホルムのためを思ってのことでしょうけれど、皆様は、マナ様と一緒ならば、生きて勝利して帰れる、そのようにお考えになったのだと思います」
 予想外のその言葉にマナは狼狽し、フランは一瞬のその表情を見逃さなかった。
「申し訳ありません。お嫌でしたか?」
「あっ……そういうわけではないんです」
 マナはうろたえた声のまま続けた。
「考えてみればそうですよね。夜種は私が……私、しっかりしなければいけないんですよね。町の人たちが皆、無事に帰れるように」
「あたしもメロダーク様もお側におります」
 すかさずフランがそう言った。
「マナ様はいつでも必ずホルムに帰って来られる。あの頃にはあたしだけでなく皆がそう信じていましたし、実際にその通りでした。大丈夫です。今日も必ず皆様と一緒に帰りましょう」
 フランの声には、少女に対する揺るぎのない信頼が溢れていた。上に立つ者を支えるのに慣れた、フランらしい、ある意味では極めて冷酷な、しかし戦場には不可欠な信頼であった。
 鍛えられた兵士ではなく民衆の心を導く立場にあるマナは、その言葉を聞くと眉を寄せ、緊張した表情になった。
 あの頃の私が必ず帰還したといっても、それはメロダークさんやフランさんや、仲間たちの力があってのことで、なにより、アークフィア女神が守り導いてくださったおかげだ――そう言おうとして、これがタイタスを倒すための冒険ではないことに気づき、微かな不安を覚えた。
 振り仰げば、刷毛で掃いたような雲が連なる高い空も、紅葉をまとって風に揺れる木々も、目に染みるような晩秋の鮮やかさであった。怪異のただ中にあった去年には気付かなかったこの森の美しさに、同じことをしていても同じではないのだ、物の見え方や感じ方まで、去年とは違う私になっている、そのようにマナは思った。自分の心の変化を、成長でなく変容と感じるのも、マナには初めてのことだった。マナは祈るような声でそっと囁いた。
「タイタスを倒すことは女神様の御心でした。アークフィア様が愛と信頼の証としてタイタスに授け、あえなく砕け散ってその邪心のために利用された星のかけらは、天に近い場所で本来の輝きを取り戻しました。最後の戦いでアークフィア様が私たちに触れてくださったのはきっと――イーテリオの最後の輝きに導かれて――」
 言葉を切り、少女はいつも身につけている胸元の月長石を握り締めた。かつての魔法の輝きは失われたものの、澄んだ水面のように集めた光を白く反射する宝玉の冷たい美しさは、昔と寸分変わらなかった。
「天空のアーガデウムが崩れ落ちたあと、この宝玉も魔法の光を失いました。私はあの日、あの場所で、私たち人間がずっとお借りしていた星の輝きを、アークフィア様にお返しできたのだと思っています。私もこの宝玉と同じです。探索の間はタイタスを倒すため、女神様や神々や太古の王や、フランさんやメロダークさん、様々な方が私に力を注いでくださいました。あの頃の私は確かに英雄であったのでしょうが、役目を果たした今は、この月長石と同じように無力な巫女に過ぎません」
 段々と声が大きくなったのは、多分、後ろを歩くメロダークにもきいて欲しかったせいだ。
 フランはまじまじとマナを見つめていた。
「マナ様――」
「あっ……だから……、えっと、だから、この討伐で力になれないとか、頼られると困るというわけではなくて、もちろんそうではなくて、ですね。夜種と戦った経験もありますし、大河神殿の巫女としてやらねばならぬことに代わりはないのですから、負けないように……自警団の方々が危ない目に合わないよう、よーし、今日はいっぱい頑張るぞ! いう気持ちなんです。そういうことを言いたかったんです」
「わかりました。それではあたしも、よーしと頑張らせて頂きますね」
 フランはマナと同じくらいに元気な声でそう返事し、背後のメロダークにも同意を求めるような笑顔を向けたが、マナは振り向かなかった。彼の顔を見るのが怖かった。
 しかしそういった逡巡や怯えも、森の奥にぽっかりと口を開けた洞窟に到着した時、マナの中からは消えていた。自警団で一番若い少年を見張り兼もしもの場合の伝令役として入り口に残し(エンダを神殿に置いてきたのもこれと同じ理由だった)、男たちの先頭に立って遺跡へ続く洞窟へと足を踏み入れ、一歩を進んだところでくるりと振り向き、「何かあったら他の方をお願いしますね、メロダークさん」と、彼女は彼女の傭兵に万全の信頼を向けてそう告げ、男もまた、無言で頷いたのだった。

 遺跡は広く、だがそこに巣食う夜種の一群を全滅させるのには数刻もかからなかった。魔法のともしびを掲げて遺跡を下り、通路を進むうちにほどなくして出くわした四、五匹の夜種たちと最初の戦闘が始まって、斬撃の音を合図に遺跡の奥の暗闇からは次々と夜種の群れが湧き出してきた。
 小鬼たちを相手に最初は剣をふるい、途中からは隊列を組んだ男たちの背後に回って魔法による援護に専念したマナは、怪異の頃に比べ、夜種たちが随分弱くなっていると思った。指揮官がいないせいなのか、タイタスがいなくなったせいなのか、冬という季節のせいなのか、理由はいくつも考えられて、どちらにせよマナと自警団の団員たちにとっては幸運なことだった。数だけは多い夜種たちは終始組織だった動きをすることもなく、自警団はマナの短く適切な号令の下、小鬼たちを圧倒して遺跡の奥へと進んでいった。ひやりとしたのはこの討伐が終盤に差し掛かったころ、最下層の広間で十匹ほどの夜種の一群と乱戦になり、手を滑らせて斧を取り落とした自警団の若者が、しゃがみこんで無防備な首筋を小鬼に晒した瞬間くらいで、マナが呪文の詠唱を中断して叫びかけたとき、男と夜種の間に滑り込んできたメロダークが跳ね上げた刃で小鬼の棍棒を跳ね飛ばし胴を叩き切り、マナは一人、安堵のため息をついたのだった。
 乱戦が終わったあと、遺跡から夜種の気配は消えていた。
「怪我をした方は?」とマナが呼びかけ、手をあげた負傷者をメロダークと二人で治療して、その後は残党がおらぬか遺跡のすべての部屋を確認し、小鬼たちの死体が塵となり崩れ落ちるのを見届けて、一行は意気揚々と地上に引き上げた。今度は彼らの殿を務めたマナは、洞窟を出たあとその場所に、魔物よけの結界を二重に張った。ホルムに帰りついた時にはもう夜になっていたが、今日、一行がやるべき仕事は、それで終わりではなかった。つまり疲れきってはいたが、「探索の最後はあれをしないといけませんね」と両手で拳を作ったマナが力強く断言すると、メロダークが「その通りだ」と暑苦しく同意を示し、フランが真面目な顔でこくこくと頷いて、ホルムの探索者と自警団たちはそのままひばり亭になだれこみ、地酒で乾杯をしたのだった。
 久々の団体客に上機嫌のオハラは全員が次々と杯を重ねるせいでさらに機嫌がよくなって、夜種を全滅させ当初の目的を立派に果たし、そのうえ重傷者もなく揃って帰還したことで団員たちの喜びには曇りがなく、戦いの余熱を残して荒々しく酔い、笑い、肩を組んで歓声をあげる彼らの輪のいつの間にか中央に座らされたマナは、「さすがマナ様だ」「ナザリの騎士たちでもマナ様にはかなわんでしょう」「マナ様がいる限りはホルムは安泰ですな」次々に投げかけられる賞賛は自分ではなく神殿とアークフィア女神への感謝と賛辞と心得て受け流し、そうする間に若い団員の一人がマナの隣に腰をおろし、少女の座る椅子の背もたれに伸ばした腕を置き、聖職者に対するには少々近すぎる距離と甘すぎる声で囁いた。「いつも思っていたんだが、マナ様、巫女だからってあんたみたいなかわいい娘が――」青年がその言葉を言い終える前に、突然現れたメロダークがマナの肘をつかんで席を立たせた。そのまま青年には目もくれず、少女を引きずるようにして歩き出し、マナの呼びかけにも足を止めなかった。ひばり亭の外に出たところでようやくつかんでいた腕を離した。振り向いたメロダークが、酔いを感じさせる声で言った。
「他の男の前で笑うな」
 マナは、あまりにも露骨すぎるその言葉にぎょっとして息を止めた。ひばり亭の戸口や窓から漏れる暖かな光が、夕闇の中に立つ青ざめた顔をした男の半身を照らしていた。
「笑ってなんかいません。それに今のは、だって……別にそんな、あんな冗談、そういうのじゃない」
 しどろもどろの弁解をしかけて、すぐに我に返った。理不尽な男の言動に対する怒りよりは不思議さが先に立ち、
「どうして言い訳してるんですか私は?」
 思わずそう言った。
 メロダークは、突然、酔いが抜けた顔になった。いつものマナなら茶化して冗談ごとに紛らわせてお終いにするところであったが、今夜はそんな気になれなかった。胸の下で両手を組み合わせ、男の目を食い入るように見つめながら、先程よりも硬い声で繰り返した。
「どうしてそんなことをおっしゃるんですか?」
 凍ったような沈黙の中で、戸口に人影が揺れ、「マナ様、メロダーク様」ときびきびとした声が二人を呼んだ。近づいてきたフランの体は、しっかりとした口調とは裏腹にふらふらと左右に揺れていた。
「フランさん」
 マナはいつの間にか痛いくらいに握り締めていた両手の指をほどくと、ほっと息を吐き、フランに近づいていった。
「酔ってらっしゃいますか? 珍しいですね」
 マナが言うと、頬を赤く染めたフランは、楽しげな笑みを浮かべた。
「ちょっとだけふわふわです。でも大丈夫です。この後、領主様へご報告しないといけませんから。あたし、一足先に引き上げさせて頂きますね。マナ様にはお手数ですが、ご都合のいい時でも城館へお越し頂きたいのですが……」
「ええ、では明日にでも」
「それでは明日に、改めて。今日はありがとうございました。メロダーク様も」
 ぺこりと頭を下げたフランは、立ち去る前に振り返り、こういうのは不謹慎だと思うのですがと前置きしたあとで、はにかみを見せながら、言った。
「今日はマナ様とメロダーク様とご一緒できて、あたし、とても嬉しかったです。あの頃の仲間と力を合わせれば、どんな苦境であっても必ず乗り越えて、笑っていられる明日になる気がしますね」
 それがこの夜種討伐でマナが受け取った、最も価値ある報酬だった。

 星明りを頼りに神殿への道を辿る途中、メロダークはいつもよりもずっと離れた後ろを歩き、マナもいつもとは違って一度も振り返らず、二人は口をきかなかった。
 空気は冷たく、橋の下を流れる川には満天の星が優しい小さな光の雫となって散らばり、せせらぎの間で静かにきらめいていた。吐く息は微かに白く染まり、季節は前夜よりもまた一歩冬に近づいていた。マナは橋を渡り終える頃に足を止めて川面を覗き込み、
「メロダークさんは相変わらずですね」
 と小さな声で、独り言のようにつぶやいた。
「広間で戦っている時、若い方をかばって怪我をされたでしょう? 神殿に戻ったら手当ていたしますね」
 メロダークに聞こえても聞こえなくても、どちらでも構わぬ気持ちだったのだが、近づいてきたメロダークが言った。
「つまらんところを見ている」
「ああいうこと、黙っておられては駄目ですよ」
「負傷者が多かった。日没までに探索を終えるべきだと思った。単なる優先順位の問題だ」
「後回しでいいほどの軽い怪我でした? 本当に?」
 手を伸ばし、欄干に乗った男の手首に触れた。厚い手袋は男の傷口に生まれているはずの熱を遮断し、ひんやりと冷たい革の感触だけが少女の指に伝わった。メロダークは身じろぎすらしなかった。
「お前もいつも自分を最後にする」
「それはそうかもしれませんけれど、神官として当然の……ん……そうですね。メロダークさんもそうですものね」
 沈黙の後、メロダークが囁いた。
「俺はもうハァルに仕える者ではない」
 うなだれた少女の長い髪が流れ、そこにも星の光が落ちた。むきだしになったうなじに男の視線を感じる。全身が汗と埃と血に汚れているうえに、男の目を喜ばせるような成熟した女の体ではないことに強い羞恥と悲しみを覚え、ぶるりと震えた。一日の疲労を自分への言い訳にして、男の手首に添えた手を動かさぬままでいた。
 体の中で膨れ上がる己の欲望を突如自覚する。このまま手を握り締めたいと思う。振り向いて抱きつけばどんな気持ちがするだろう。ここは神殿の外で、大河は遠く、夜の闇は深く、彼は酔っている。もしも求めれば、彼は私が望む全てを与えてくれるはずだ。
 何かを言おうとして口を開きかけ、しかしその瞬間、果てなく広がる大河の波音と天上にきらめく七つの星の記憶が瞼の裏に花火のように飛び散り、少女の体をすくませた。

 橋の上に立ち、眼下を流れる水を眺めながら、身じろぎもせず、同じように動きを止めた男の息遣いと視線を感じている。



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