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溶けていく 16

 神殿の南の回廊に立ち、石の柱にもたれ、大河に降る雪を見つめていた。
 鉛色の曇天から舞い落ちる粉雪が、黒くうねる波間に消えていく。雪に包まれ白く眠る景色の中で、水流だけが生きて動き続けていた。
 二月になってホルムを襲った寒波は厳しく、空には連日厚い雲が垂れ込めていた。訪れる信者も少なくなった石造りの神殿は例年通り灯の数を減らし窓を塞ぎ、昼夜の区別なく水底に沈められたような仄暗い静寂に満たされるようになった。
 この冬、男の無口さが伝染したかのように、マナはぐっと口数が減った。
 神官の少女は冬が早く過ぎ去ってくれればいいのにと思う一方で、夕闇の回廊に長い寂しげな影を引きながら、燭台を手にした長身の男が列柱の向こうへ遠ざかっていくのを見つめている時など、春が二度と訪れることなく、雪の中にこの神殿が閉じ込められてしまったらどうなるだろう、いっそそうなってしまえばいい、そういった埒もない空想にふけったりもする。
 夜種退治の夜からマナはひどく慎重になり、男と二人きりになることを徹底して避けるようになっていた。彼女の意を汲みとったのか、メロダークの方から少女に近づいてくることもなくなり、巫女長やエンダや他の人々と一緒にいる限りは神官同士らしいなごやかな礼儀正しさで談笑し、そうやって表面上は静かな日々が過ぎていき、マナは時々礼拝堂に、そこに人がいれば彼らを避けて、人気のない至聖所まで祈りに行くようになっていた。
 信仰が強くなったわけではなく、その逆だ。今のマナは小さな祈りにも用意された聖なる場が必要になっており、自室で一人祈ってもその声がどこにも届かないような、いや、そもそも膝を折り手を合わせて目を閉じても、誰に、なぜ、何を求めて、瞼を閉ざせば女神と自分をつなぐ静寂の代わりに、男の手や伏せた眼差しや低い声が浮かんで、マナの気持ちを巫女らしからぬ熱さでかき乱すばかりだ。
 マナに言われてから礼拝に必ず出席するようになったメロダークは、さほど心のこもらぬ祈祷をし、熱もなく神々を称える歌を口ずさむ。彼に対してずっと抱き続けていた一つの疑問を、「もしかしてあなたはもう神々を信じておられないのですか」、何度もそう尋ねようとし、しかしそれを口にするのはとても怖い。その質問は当然次の質問、その次の質問、そのまた次の質問を呼び、次々と柱を倒すように、さもなければ扉を閉ざすように、この町の暮らしに馴染み始めた彼を追い詰めていくことになるだろうし、最後には「それではあなたは私のことをどう思っておられるのですか」というマナが答えを知りたくてたまらぬ、そして知ることは許されぬとも承知している、ただ一つの問いへとたどり着いてしまう。そして最後の問いを発した次は、己が問われる者になる――マナ、それではお前は巫女にふさわしい信仰を持っているのか、お前は神殿の中で戒律を守りつつ一生を過ごしていくつもりなのか、そう問い返されて「はい」と答えるなら彼を拒むことになるし、「いいえ」と答えるなら――。
 岸壁に建った至聖所の屋根に積もる雪を見下ろし、また目をあげて大河を見る。凍えるような白い波がぶつかりあい音を立てて砕け散り、飛沫は落ちてくる雪の白さと混じり合う。この流れは過去に止まったことがなく、未来にも、人間が何をしようが止めることはできず、永遠に流れ続けるのだと思う。いつもは女神の永遠を感じ、畏怖の念と強大な物への安堵を覚えるその光景が、今はただ恐ろしく胸が震える。
 視線を転じて港の方角を見やれば、建ち並ぶ商館の形に美しく雪は積もっており、仄かな陽光を拾いぼんやりと光るその光景に、白い、薄明かりに包まれた、あの優しい手のことを思い出す。
 薄暗い小屋で黄昏の光を受けて輝いた流れる髪を、頭をのせた両膝の温もりを、白い肌の上に玉となり光る汗を、何よりも側にいるだけで得たあの安らぎを、食卓に向かい合い寝床に横たわり朝焼けの窓辺で夕暮れの角灯の下で、あの中洲の島で永遠であった毎日、二人だけで暮らしていたのに、どうしても彼女の顔が思い出せないのだ。思い出そうとしても女の顔は夢の中で開く書物のように白くぼやけ、記憶の中で目をこらしても、細部はいよいよ薄闇に滲み、やがて失われてしまう。
 アークフィア様。
 今、声に出しその名を呼んでも、返事はない。
 探索の間は二度、三度、窮地に陥るたびに自分を救ってくれたあの手が触れることはない。
 アダは厳しく優しい養い親であったが、彼女は何よりも巫女であり、マナに愛情を惜しみなく与えながらも、ついぞ母親になろうとはしなかった。マナは母親を知らぬ。しかし我が子の手を引いて礼拝に参列する母親たちを、真夜中に高熱を出した赤ん坊を抱いて神殿の扉を叩く姿を、良人によく似た小さな子供を抱き上げて幸福そうな笑みを浮かべる彼女らを、子供の頃からずっと見てきた。
 永遠の黄昏の国であの人から与えられた抱擁は、マナがそれまでに味わうことのなかった母親の抱擁に似て、いやもしかしたらそれよりもずっと甘く深く、まだ幼い生涯の朝に夕に祈りを捧げ、信仰し奉仕して来た存在に、己のすべてを委ね、委ねたすべてを受け入れられるあの喜びは、何物にも代えがたい悦楽であった。
 もっともあれは本当に女神であったのか。
 自分に問うても、彼女は彼女であった、それ以外の、それ以上の言葉は浮かんで来ない。ただあのような幸福を味わった信者は地上には一人もいないだろう、もしかしたら大聖エルですら、そう思う。
 己の肉体が神々に逆らい地上に災禍をもたらした男の器であり、この魂がかつて女神に愛されたというならば、この町で大河神殿の巫女に拾われ聖職者として育てられたことは、なんと大きな恵みだろう。無心に女神に仕え、巫女として人々を救うなら、それが女神の愛への報恩となり、自分のせいで災厄に巻き込まれたこの町への償いとなり、汚れたこの身の救いとなるだろう。天界へと続く道は目の前にすでに用意されており、自分は女神に対する愛を胸にまっすぐにその道を歩んでいくだけで、永遠のやすらぎを得ることができるのだ。


 いいえと答えれば、そのすべてを捨てることになる。



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