TOP>TEXT>R18TEXT>溶けていく 18

溶けていく 18

 窓の外で何かが落ちた。
 どさりという重い音には毛布の中で身じろぎしただけだったが、続けて廊下の先で扉が開き、慌ただしく人が飛び出してきた気配に、ぱちりと目が覚めた。
 毛布を跳ねのけると冷気に身震いしながら部屋履きを履き、薄い夜着のままで急いで廊下に出る。通路の天井にひとつだけ置かれた小さな魔法のともしびの下、メロダークの背が、宿舎から神殿へと続く廊下の奥の暗がりへと早足で消えていくところだった。
「雪ですよ」
 急いでそう声をかけると、暗闇の向こうで、男が振り向いた気配がした。しばらくして、先程とは違う密やかな足取りで、決まり悪げな表情をしたメロダークが戻ってきた。自室の扉の影からちょこんと顔を出したマナと目が合うと、手にした長剣を後ろ手にし、背中へ隠す素振りをする。子供っぽいその仕草に思わず微笑すると、「お前は起きて来なくていい」と、なぜか叱られてしまう。
 遠くでまた、どさりと、どこか高い場所から雪の塊が落下する音が響いた。メロダークが、その音にまたしても警戒するような表情を浮かべる。
「雪が溶けて……毎年のことです。春が近いから」
「ああ」
「それと、敷地内で剣は駄目ですったら。またアダ様に怒られますよ」
 眠い目をこすりながら見つめ、メロダークが抱え直したその武器が、外出時、護身用に身につける長剣でなく、探索中に携えていた大剣であることに気づいて、ふと違和感を覚えた。
「それ、いつも手元に置いておられるんですか?」
「いや、今夜はたまたまだ」
 小首を傾げたマナに「たまたま、手入れをしていただけだ」とメロダークが言い訳のようにつぶやいた。
 なぜ手入れが必要なのかを重ねて問おうとしたら、その前に大きなあくびが出て、今度はメロダークがかすかに笑う番だった。
「もう眠れ」
 そう言いながら、メロダークの手が扉の上部を押した。
 このまま、おやすみなさい、でお別れしてはなんだかもったいない気がした。じきに春ですねとか、これまで暮らしてこられたところでは雪は積もらなかったのですかとか、久しぶりにそういった他愛のない話をしたくなる。しかしすぐに、今は探索者同士でもないのだから、こんな夜更けに二人きりで話しているのはよくないと思い直した。
「おやすみなさい、メロダークさん」
 そう挨拶して扉を閉めようとした時、隙間に汚れた靴が滑りこんできて、扉を押さえた。
 驚いて顔をあげると、こちらを見下ろす黒い瞳と視線がぶつかった。メロダークは先ほどとは打って変わって、無表情になっている。マナの手は無意識のうちに、薄い夜着の胸元を掻きあわせていた。
「もしもだ」
「はい」
「もしも俺が――」
 とメロダークが言い、それきりまた黙った。両方の目には出会った最初の頃のような暗さがあって、蝋燭の炎よりも小さな、頼りないともしびの下では、その目から男の考えがまったく読みとれなかった。
 沈黙のうちに、雪の夜の冷気が一段増したようだった。心臓の音が速くなった。扉の向こうに立つ長身の男は、少女を無言で見下ろしている。
 うろたえたマナは視線をそらし、早口に言った。
「ごめんなさい、寒くて……どうしても今でないと駄目なお話ですか?」
 返事はなかった。マナは目を伏せ、落とした視線の先の履き古された革の靴に、手も足も大きい、と当たり前のことを思った。見つめるうちにメロダークの靴が動き、音もなく、廊下の暗がりへと消えた。静かな声が頭上から降ってきた。
「おやすみ、マナ」
 マナが顔をあげるのを待たず、メロダークが扉を押した。重い木の扉は音を立てて閉まり、次の瞬間、一人きりで、自分の部屋の中にいた。
 マナは長い間、その場に立ち尽くしていた。廊下にいた男の気配が遠ざかり、宿舎の一番奥の部屋で扉が開閉した音をきいたあとも、手足の先が冷たくかじかみ、感覚がなくなったあとも、まだ身じろぎできずにいた。
 自分から拒絶したくせに、拒絶されたと思った。
 扉から離れて寝台に腰掛け、窓からの雪明かりにぼんやりと輝く壁を見つめていたが、やがて静かに泣きはじめた。深く傷ついていて、馬鹿のように深く深く、涙がちっとも止まらなかった。氷のように冷えた両手で目をこすり鼻をすすりあげて、囁いた。
「もしもなんて、ないじゃないですか。そんなのどこにもないじゃないですか」


TOP>TEXT>R18TEXT>溶けていく 18