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溶けていく 2

 その春、大河のほとりに建つ神殿はまた一人、新しい住人を迎えることになった。
 マナは朝から神殿の入り口と西側の宿舎を繋ぐ回廊を、そわそわと何度も行き来していた。
 通りを眺めては引き返し、宿舎の奥に用意した部屋を何度も覗きこんで、あれが足りないこれは余計か、あの寝台は少し小さすぎるような、ご用意した部屋着は気に入って頂けるからしら、窓辺に花を飾りたいけれど奢侈なことだと叱られるかもと、様々に悩みながら毛布や花瓶を探してあちこちの部屋と倉庫をうろついて、とうとう最後には神殿の入り口で巫女長に呼び止められ、「なんだねお前さんは落ち着きのない」と叱られる羽目になった。
 災厄の去ったこの町で英雄だのなんだのと散々にもてはやされている少女は、養い親のひと言にたちまちしゅんとなった。子供の頃と同じようにしょんぼりと頭を垂れたマナに、アダは容赦なく小言の雨を降らせた。
「夕方までには参りますって伝言を、あたしはお前さんからきいたんじゃなかったかね? 昼にもならないうちからなんだねまったく」
「でもアダ様、もしかしたら、あの方早めに来られるかもと思うんです。誰もいなければお困りになるでしょう?」
「大の大人が何を困るっていうんだよ。ここにゃ何度も出入りしてるんだから、勝手に奥まで入ってくるさ」
「そ、そうですね。でも、もしも……」
「もしもがそんなにあるもんか。お前さんももう大人なんだから、そうやってバタバタ騒々しくする癖はいい加減直しな」
 アダはそこで一旦言葉を切った。
 養い子がますます深くうなだれ、萎れた様子になったせいだった。神殿で育てられた孤児の少女は、いつでも真面目に言葉を受け止める。
 アダは咳払いして調子を変えた。
「まあ、人が増えてにぎやかになるのは嬉しいものさ。男手があれば助かるのは確かだしね」
 アダのその言葉に、マナはいきなり元気を取り戻した。
「ええ、きっとたくさん助けて頂けると思います!」
 一転して誇らしげな顔になり、ぐいと胸を張る。
「メロダークさんは力も強いし治癒術もお上手ですしエンダとも仲がよくって本当になんでもお出来になるんです。それにとても親切で、最初に遺跡にご一緒して頂いた時には、溺れかけた私を水から引きあげてくださってですね!」
 張り切った口調で『メロダークさんがどれだけ善良で立派な方か』という話を始め、これはメロダークが神殿に奉仕に訪れアダと面識を持って以来、マナが幾度となく繰り返すようになったお気に入りの話題なのであった。この話には永遠に終わりがないのを知っているアダは、面倒くさげに片手をふって、早めにマナを黙らせた。
 神殿の高い天井を支える、石造りの太い円柱の列の間を、新緑の匂いをはらんだ強い風が吹き抜けていった。
 雲ひとつない穏やかな晴天の下、ホルムの通りを、忙しげにあるいはのんびりと町の人々が通りすぎていく。
 どうということもないのどかな昼下がりの光景であったが、マナにとっては見飽きることのない、大変幸福な眺めであった。災禍と戦争の爪痕はそこここに残っているものの、小さな町は元の平和を取り戻している。真新しい巫女装束を身にまとった少女は、口元に笑みを浮かべきらきらと輝く目で、人々の往来を見つめていた。しばらくしてアダが口を開いた。
「噂も広まっているようだし、しばらくは住人からの風当たりもきついだろうがね。ここで真面目に働くところを見せりゃあ、そのうちに受け入れられることだろうよ。過ちを償う機会は、誰にでもいくらでもあるさ」
 アダの口調は男の素性を知った時と変わらぬさりげなさで、マナは養い親の横顔に、感謝と敬意のこもった眼差しを向けた。
「はい、アダ様」
「お前さんはお前さんに出来る範囲で気を配ってやんな」
「はい」
「ただし自分が巫女だってことは忘れないようにね」
「わかりました」
 神妙な顔で頷き、一拍置いて、眉間に皺が寄った。マナは訝しげな表情を浮かべたまま、きいた。
「あの、今の。どういう意味です?」
「男と女なんだから、気をつけなって意味だよ」
 アダは実にさらりとした口調でそう言い、だが言われたマナはぎょっとして硬直したあと、
「アダ様!」
 ありありと傷ついた声で叫んだ。
「アダ様、なんてことを! ひどすぎますよ! そんなの絶対ありませんから!」
「今のあんたの気持ちは疑っちゃいないが――」
「今だけじゃなくてずっとです」
 胸元に下げた護符を握り締めたマナは、娘らしいかたくなさで繰り返した。
「私は巫女ですし、メロダークさんだって元は神殿軍の方なんですから、そういうこと、普通の男の人よりもずっとわかっておられます。万が一私がメロダークさんをそんな目で見たりしたら、メロダークさんは本当に失望なさいますよ! 大体ですね、私が神官として誓願を立てたのはつい先日の……」
 視界の端にちらりと何かがひっかかり、マナは唐突に言葉を切った。
 目を上げてみれば思ったとおり、橋の向こうの通りにメロダークが姿を現したところだった。まだ顔すらわからぬ距離であったが、長身の男の姿をマナが見間違えることはなかった。
 少女の頬は見る間に薄紅に染まった。
 やっぱり早くにいらした。ひばり亭でお別れする際、ではお越しになる日を楽しみにしていますねと申し上げたら無言で素っ気なく頷かれて、でも目元や指の動きであの方が私と同じようにわくわくしていらっしゃるのがわかって、私はそれがとても嬉しくて、きっと約束の今日、夕方を待たずにお越しになると思っていた、ううん、ずっとわかっていたんです。
 そういうことを一度にアダに言おうとしたが、さすがに今の話の後ではしゃいだ様子を見せるのもはばかられ、マナは努めて真面目そうな顔を作った。
「いらっしゃいましたね」
「ほう、そうかい?」
「そうですよ。ほら、あそこ――」
 指差した手はすぐに下ろし、マナはアダの隣で近づいてくるメロダークを眺めていたが、すぐに我慢ができなくなる。その場でそわそわと左右の足に交互に体重を移動させたあと、
「アダ様、私……えっと、そう、荷物を運ぶお手伝いをしてきますね!」
 元気よくそう宣言して、長衣の裾をつまみあげ、神殿の階段を駆け下りていった。
 春の陽射しにぬくもった石畳の路面を弾むような足取りで走り、男がこちらに気づくのが遅かったせいもあって、途中からマナは全力で駆け出していた。メロダークは背と片方の肩で大剣と盾を担ぎ、もう一方の方には道具袋を下げて、旅慣れた人間らしい簡素さであった。マナに気づくと、表情を変えぬまま、目だけで挨拶をした。
 橋の上で会った。足を止めたマナは忙しく肩で呼吸しながら、メロダークを見上げた。マナとしては、男がにこやかに自分を見下ろし、これからよろしく頼む、嬉しくて早めに来てしまった、よく出迎えてくれたな、そういう挨拶をしてくれることを期待していたのだが、メロダークは何も言わず、それどころかマナから顔を背け、口元を片手で押さえていた。微かに頬が震えている。
 ――笑っている。
「な、な、な」
 抗議しようとすると、鼻から荒い息がすーっと音を立てて漏れてしまい、慌てて深呼吸した。息を必死で整えながら、言った。
「なっ……なんでお笑いになるんですか? なんです一体、お、おかしくないですか? 前も、こういうこと、ありましたよね? 探索の時に……」
「いや、なんでもない」
「前もそうおっしゃいましたよ! 私が走って来たら、どうしていつもお笑いになるんですか?」
 黙殺されるかと思いきや、「……強いて言うなら」と、メロダークがこちらをむいた。両目に微笑の影が揺れている。
「なぜ走る、と。そんな必死に。それが面白い」
「……やっぱり笑ってるんじゃないですか!」
「ああ。笑っている」
 おかしいほど夢中で走っているのかしら、確かに一生懸命だったけれど、だって嬉しかったんだもの別にいいじゃない、巫女としては落ち着きはないと思うけど! そう考えるうちに本気で決まりが悪くなってきて、マナはつんとした口調で言った。
「私、荷物をお持ちしようと思って来たんですよ」
「そうか」
 嬉しそうな、あるいは面白がっているような声でそう言われ、だが差し出した手に荷物は渡してもらえない。
 マナはつい先日、彼に対し、信仰者の手本となるような立派な姿を見せようと決心したことを思い出し、それにホルムの神殿では私の方が先輩なのだからと、アダのようにちゃんと説教することに決めた。両手を腰に当てると、アダを真似、威厳のある表情を作ってみせた。
「メロダークさん。これからは一緒に暮らすのですから、助け合っていかないとね。ええと、だから、そういう風に私の助けを拒むような、そんな強情なことでは困ります」
「そういえば正式に神官となったそうだな。おめでとう」
 マナはたちまち満開の笑顔になった。
「あっ、ありがとうございます! そうなんです、やっとアダ様にお許し頂けたんです! この服ね、ネルがお祝いにって新しく仕立ててくれたんですよ。素敵でしょう? ネルとネルのおばさまに手伝って頂いて、でもその時に二人が途中で喧嘩になってしまって大変だったのですけれど、ええと、そうじゃなくて、その時、私も一着……ううん、これは後で。後でお見せします。気に入って頂けたらいいのですけれど。アダ様からもメロダークさんに――そうだ! メロダークさん、アダ様にご挨拶なさるとき、変なことをおっしゃったら嫌ですよ」
「変なこととはなんだ」
「わかりません。わかりませんけど、だってメロダークさんは普段無口なのに、いつもびっくりするようなことをおっしゃるじゃないですか?」
 ひとつを話し終えるまえに、次から次へと話したいことを思いつく。今日はお話を途中でおしまいにしなくていいのだ! そう思って胸がわくわくした。歩き出したマナの少し後ろをついてくるメロダークの顔には穏やかな喜びが浮かんでいる。広がる青空にはもはやマナの心を脅かす幻の都も魔術師の影もなく、春風は甘く、行き過ぎる町の人々はマナとメロダークの二人に向かって挨拶していく。大河の波音の合間には、春の鳥が鳴く声がきこえた。二人が目指す先はマナが生まれ育った家であり、女神を奉る聖域であり、彼女が生涯奉仕する場であった。
 欠けることのない幸福に全身が震えるようであった。自然に女神への感謝の念が胸に沸きあがってくる。
 アークフィア様は、私の願いをすべてかなえてくださった。
 あの運命の戦いの日以来、一度も外したことのない胸元の護符にそっと触れれば、月長石は澄んだ冷たさで少女の指先を濡らした。



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