アークフィア大河の対岸を覆い隠す白い霞が一段濃さを増した翌日、南から春がやって来た。
通りに敷き詰められた石畳の隙間に小さな白い花を咲かせ、強い風で娘たちの髪と服と笑い声を煽り、暖かな日差しをひと冬の間雪に濡れ続けた家々の屋根に投げかけて、春はホルムの町と北の森を、たちまち黄金と若草色と蒼天の瑠璃に染め上げた。
河べりの町の生あるすべてがそれぞれの方法で歓声をあげ、新たな命の季節の訪れを歓迎していた。
――マナは正式に神官となって一年、節目の季節に初めて、巫女長の代わりに礼拝で説教を行った。
いくつかの些細な失敗はあったもののなんとか無事に短い説教をやり遂げた少女に、礼拝後、アダは養い親ではなく巫女長の顔で微笑した。
「まあ、それなりに格好はついていたね。信者さんたちも満足したようだし、お前さんもそろそろ一人前さ」
語調は厳しかったが、アダの目は彼女の満足を余すこと無く語っており、マナの胸は誇らしさに震えた。アダから巫女として一人前と認められた感動は、しかし見習い時代に幾度も夢想したような、一点の曇りもない喜ばしさからは不思議と遠く、マナは、これはきっと大人になったせいなのだ、無邪気な子供の頃とは違って信者を導く責任の重大さもわかっている自分だから、手放しで喜ぶこともできず、こんなに冷静な気持ちなのだと思い、それで納得し、胸の底でうごめく悲しみは努めて無視することにした。
そもそも悲しくなる理由など何もないのだ。
神殿を訪れる信者の数は以前よりも増え、戦争で荒れた町並みは一年の歳月を経て、新たな住人、新たな建物によって以前よりも賑やかに復興している。遺跡はテレージャたち調査団の手によって調査が進み、東西から船で訪れる観光客たちは今やホルムの風景の一部となっていて、彼らを相手にしたパリスのみやげ物屋は、なんとか繁盛しているように思える。
この春は、領内に夜種の噂もきかない――体つきも表情も少し大人びたチュナは、神殿には変わらずマメに顔を出し、こちらは体格も口ぶりも一年まえとさほど変わらぬエンダと仲良くじゃれあっている――鍛冶屋の前を通りかかれば、ガリオーさんの怒鳴り声の合間にネルの明るく元気のよい返事が響く――デネロス先生は新しい庵でまた山羊を飼い始めた――ナザリから来た商人に、テオル公子の遺児たちがラウル大公の元に引き取られたという噂をきいた夜、マナは久しぶりに公子の魂のために祈祷した――。
黒髪の男は、マナが外出する時には必ずその後ろを歩き、マナは時折振り向いては男に話しかけ、だが他愛もない話はもうしなくなった。
二人きりになることがなくなった、手のあいた時に側をうろうろすることがなくなった、じっと顔を見つめて理由もなく笑いかけることがなくなった、理由もなく笑みを返すこともなくなった、目を合わせることがなくなった、遠くに姿を見かけても駆け寄っていくことがなくなった、寂しさを感じた時には「でも側にいるのだ、ずっと一緒にいられるのだ、私たちは同じ聖職者で、同じ場所に住み、同じ思い出がある、誰に恥じることもない関係だ、私は十分に幸福だ」、そう自分に言いきかせて、すると訓練されたマナの忍耐と服従は、おとなしくその意見に納得するのだった。
ある夕暮れ、病人の慰問を終えて帰宅したマナは、階段を上りきった神殿の入り口で足を止めた。橙色の夕日を受けて、神殿と鐘楼の影が、神殿の階段から通りまで落ちていた。マナの後を追ってゆっくりと近づいてきたメロダークがその影を踏み越え、一日の疲労を感じさせぬ足取りで階段を上がってくる様子を、マナはじっと見つめていた。
「どうした」
顔を上げたメロダークにそう問われてマナは静かに首を振り、神殿を支える太い柱に触れた。
去年、メロダークさんが神殿にいらした時のことを思い出していたのです。あの橋の向こうにおられるのをアダ様と見ていました。ホルムの町を当たり前のように歩いて来られるあなたが、それだけでとても嬉しかった。少しの距離を待ち切れず、駆け寄っていった私に、あなたはとても楽しそうにお笑いになりましたね。
掌に触れた石造りの柱はひんやりと冷たく、ざわめくマナの心を落ち着かせた。
「願ったことはすべてかないました。今の私はとても幸福だな、と思っていたのです」
石段の上で足を止めたメロダークの視線を感じた。本当のことを言ったつもりであったが、まるでひどい嘘をついたような、そしてその嘘をなじられるような気がして、マナはそっと目を伏せた。メロダークはしかし、「そうか」と言っただけだった。
小さな町にも、この国にも、すべての人に等しく時間は流れ、穏やかな春が万人の元に訪れていた。