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溶けていく 22

 青銅の鍵で錠を開け、角灯に魔法でともしびを灯す。マナは肩で押すようにして、神殿の書庫の重い扉を開けた。
 埃と古い紙の匂いが鼻腔をくすぐる。窓のない半地下の部屋はいつの季節も変わらぬひんやりとした静寂に包まれている。所蔵された本の大半は神聖文字で書かれた古文書や教典の類で、古代語のわからぬマナが利用するのは、子供向きの本や神話や説話集が収められたひどく狭い一角に限られていた。
 チュナに頼まれていた本は、その一角の最上段にすぐに見つかった。
 周囲を見回すが踏み台がなくて、不精をしたマナは角灯を床に置き、うんと手を伸ばしてみた。届きそうで届かない。最初は書架の棚の端に手を添え、おしとやかに片脚ずつ背伸びしていたが、すぐにむきになった。
 本棚から二歩離れて両腕をふり、「えい、やーっ!」と威勢のいい掛け声と共に斜め上に飛び跳ねたとたん、背後から「これか?」と声がかかって、マナは中途半端な姿勢で着地した。
 背後からマナの頭上に伸びてきた男の手が、書架から本を引き抜いた。いつの間にか後ろに立っていたメロダークが、振り向いた少女に本を差し出した。
「あ……あっ、ありがとうございます!」
 本を受け取りながら、巫女らしくない騒々しいところを見られてしまったと赤面するが、こちらを見下ろす静かな目と目があうと決まりの悪さは霧散した。代わりに心臓が強く脈打つのを感じ、頬がますます熱くなった。
 メロダークに会うのは久しぶりな気がしたが、もちろんまったくそんなことはなくて、つい先程、一緒に食卓を囲んで夕食を取ったところだ。
 久しぶりなのは誰の目もない場所でこうして二人になったことと、メロダークが躊躇いなく側に近づいてきたことなのだった。
 まだこんな風に意識してしまう、巫女として自覚の足りぬ自分を恥じた。内心の躊躇いは表に出さず、マナはメロダークが渡してくれた子供向きの神話集を、さりげなく盾のように胸元にかざし、にっこりと笑った。
「私が読むんじゃないですよ。チュナちゃんが貸して欲しいって言うから。メロダークさんも何かお探しに?」
 もしかして私を探しに来たのかなとちらりと思ったとき、「お前を探していた」とメロダークが言って、マナはまた動揺した。
「そ……そうですか」
「そうだ」
 メロダークが手を伸ばし、マナの額に一筋垂れた前髪を、指先で払った。今までにされたことのない親しげで優しいその仕草に、また心臓が跳ねた。呆然としたあとに、マナは赤面し、あやふやな口調でつぶやいた。
「やめてください」
 メロダークは少女の声を無視した。長い白髪をそっと耳にかけてやりながら、言った。
「巫女長殿にはもう話したのだが、二、三日のうちにホルムを発とうと思う」
「ホルムを……どちらまで行かれるのです?」
 アダ様からまたお使いを頼まれたのかしら、すぐにマナがそう思ったのは、最近では近隣の村や町への連絡がメロダークの仕事になっていたからだった。そこでようやく、いつもの無表情さの影で、メロダークがひどく緊張していることに気づいた。
 ホルム領で何かあったのだろうか、しかしアダ様からは何もきいていない、夕食の席でメロダークさんがどこか上の空だったのはそのせいか。不安がざわりと胸を騒がせたが、男の緊張を和らげたくて、明るい笑みを浮かべた。
「人手が必要なことなら、よろしければエンダと一緒にお供しますよ。パリスやネルにも声をかけて……アダ様にお許し頂ければですけれど。あっ、お弁当をお持ちになるなら、先にそうおっしゃってくださいね。この間のように厨房をこっそりお使いになるの、絶対禁止ですよ!」
 メロダークが顔の下半分を手で覆い、一度、二度、ついてもいない汚れを乱暴に拭うような素振りをし、その間ずっとマナから目をそらさなかった。
「そういうことではない」
 いつもより低い声だった。
「そうではなくてお前の――お前の側から――つまり――ここを出て、どこか別の土地に行くつもりなのだ」
「別の土地って?」
「まだ決めていない」
「はっきりしないことばかりで、なんだか不思議なご用事ですね! では、いつお戻りになるのです?」
「もうここには戻らないつもりだ」
 マナは、場にそぐわぬ冗談を耳にしたかのように、曖昧に微笑した。
 よくわからないな。
 何をおっしゃっているのか意味がわからない。
 メロダークさんは普段は無口なのに一度口を開けばいつもこちらがびっくりするような突拍子もないことをおっしゃる。
 わからないはずなのに、鼓膜がキリキリと冷たくなって、こめかみがなんだか変に痺れていく。
 すぐそこにいるはずのメロダークの声が、やけに遠くからきこえた。
 ――もうここには戻らない。もうここには……。
 言葉の意味がゆっくりと染みはじめた。
 彼はホルムの町を出て行くのだ、私を置いて。
 メロダークはすべてがすでに決まったこととして話している――。
「タイタスが起こした怪異はここでは収束を迎えたが、飛び火した各地で戦火として育ちはじめている。シーウァと神殿軍がネスを攻めている間にメトセラ教国が南部の都市と密約を交わしたという噂もある。後始末というのもおかしな話だが、神殿軍の密偵として遺跡を探索した私の経験が役に立つ場所が、大陸のあちこちにあるはずだ。もちろんこの町を」
「嘘」
 とマナが言った。そのつもりだったが、声にならなかった。メロダークは少女の唇が動くのを見たはずだが、言葉を切ることなく話し続けた。
「――離れたからといって、お前への信仰が変わるわけではない。あの誓いを立てた時の気持ちは今も何一つ変わっていない。お前はずっと私の光だ。この先迷うことがあれば、いや、そうでなくとも毎日毎夜、お前の振舞いと言葉を思い出し、そうすればどんな困難があろうともきっと道を誤ることなく」
 肺の上に、何か冷たい物が生まれた。そのせいで喉や、顎や、唇や目を動かすことができなかった。冷気が心臓に伝わる寸前に、マナの舌がようやく動いた。
「嘘、嘘」
 こわばった声で言った。
「だっておっしゃったじゃないですか。去年の春、神殿に移ってこられたときにメロダークさんが、これでずっと一緒にいられるので安心しますって。私と一緒にいられるから、ずっと一緒にいられるからって。アダ様にそうおっしゃって、それで私が怒ったらびっくりした顔をなさって、メロダークさんはいつも私が腹を立てたら驚かれるんですよね。最初に釘を刺しておいたのにあんなことをおっしゃるから、あの時も、誤解されるような言い方は駄目ですって申し上げたら、それ以外に言いようがないって……いつもそうやって勝手に、お気持ちを一人で決められて、大事なことは何もおっしゃらないから私は振り回されてばかりで――別の土地へ? じゃああれは嘘だったんですか? ずっと一緒に……だから私は……なのにホルムを……なんで――どうしてここから出ていくんです?」
 支離滅裂な言葉を必死にまくしたてた最後に、ようやくその一言がでた。口を閉ざすといくらかの冷静さが戻って来て、黙って耳を傾けていたメロダークの眉間に、いつのまにか一筋深い皺が刻まれていることに気づいた。苦しげなその表情に、ああまた困らせてしまったと激しく後悔する。炎に鱗を光らせる竜を前にした時すら平静であった体が恐怖に痺れた。
 メロダークが自分から離れることなどありえないと、理屈にあわぬ激情が心の中で叫んでいて、しかし一方では、冷静に、冷酷に、男がこの町を去ろうとする理由が次々と泡のように浮かんで来る。
(私がこんな風に子供だからうんざりして)(我慢できなくなって)(つまらないことで煩わせるから)(非礼への詫びはとうに尽くし終えたことにようやくお気づきになって)(田舎町の小娘に信仰を捧げる馬鹿らしさを)(私がどのような生まれなのか)(物珍しさも薄れ)(もう飽きて)(違う、決してそのような方ではない。ただ私が)(努力が足りなくて)(失望させた)(信頼を裏切ったのだ)
 私が光ではなく、忠誠にも信仰にも見合う人間ではないから、捨てられるのだ――。
 そうしようと、すでにお決めになったのだ。  気がつくと激しく膝が震えていた。
 男が一旦決意したことを覆すのは至難の業だと熟知していた。出会ってから今まで一度たりとも彼の気持ちを変えさせられたことなどない。いや、一度、たった一度だけあった。その時に周囲に響き渡っていた大河の轟音や、濡れて体に張り付いた髪や衣類の重さや、岩影から姿を現した男の肉体がどんな風に傷ついていたのか、どんな目でこちらを見たのか、その時の絶望的な己の胸の痛みも、跪いた彼が差し出した抜き身の剣の白々とした重みや、水が滴り落ちる黒髪の向こうに覗いた晴れ晴れとした安堵の表情や、そういった諸々が五感のすべてに蘇り、いや、少女はあの日に剣と共に差し出された彼の心と信頼の重みを、一日、一瞬たりとも忘れたことなどなかった。
 ――どこにも行かないでください。
 その願いが口からこぼれそうになった瞬間に、低い声が頭上から降って来た。
「側にいるとお前の信仰の妨げになる」
 マナは弾かれたように顔をあげた。
 両目を見開いて、メロダークを凝視しながら後ずさり、背が書架にぶつかったのにもしばらく気付かなかった。
 青ざめた少女の顔に血がのぼり、頬や震える唇にゆっくりと赤みがさしていくのを、メロダークはいつかのように目を細め、まぶしげに見つめていた。
「大丈夫です」
 マナがつぶやいた。
「大丈夫……わ……私は巫女としてちゃんと自覚を……見くびらないでください。だって、だから、二人にならないし、お話もしないし……こ……こうして……ずっとちゃんと、節度のある、誰にだって……妨げになんか。絶対に大丈夫です」
 メロダークが目をそらし、
「俺も弱い」
 と囁いた。
 黴と埃の漂う書庫に沈黙が落ちた。長く冷たい静けさの中で、マナは決意を翻そうとする予兆を求め、すがるようにメロダークを見つめ、しかし男の目も表情も岩のように揺るぎがなかった。
 だから、やがて、マナが言った。
「し……仕方のないことですね。メロダークさんがそうお決めになったのなら」
 返事はなかったが、男が自分の言葉に耳を傾けている気配があった。いつものように。ずっとそうしていたように。大河の巫女はうつむいたまま、のろのろと続けた。
「寂しいですけれど、お引き止めするような権利も私にはありませんし。長い間よくしてくださって……あ……ありがとうございました。本当に……よくしてくださって」
 笑顔を作ろうとしたが、唇の端が不格好にひくついただけだった。笑おう、笑わなければ、笑みを浮かべ大丈夫な様子を見せよう、彼の決断を受け入れたところを見せなければ。
 しっかりと振舞わなければならない。最後まで彼を失望させてはいけない。子供のように泣いてはいけない。人に故郷に神殿軍に、身を捧げ心を寄せそのたびに道具のように使われて、汚れを理由に軽蔑され、ご自身もそれに慣れきって、繰り返し踏みにじられ続けてきたこの方の心を、巫女たる私がこれ以上落胆させてはいけない。決して信仰を裏切ってはならない。私はいつも光でなくてはならない。
 深く息を吸い、片手で乱暴に頬を擦ると、こわばっていた口元が緩み、ようやく微笑が浮かんだ。背を伸ばして胸を張り、しゃんと頭をあげた。信者たちの前に立っている時のように、何が起ころうと困らないし、どんな悩みでも力になろうという、神官らしい落ち着いた笑顔を作った。
「ごめんなさい、取り乱してしまって。急なお話だったので、びっくりしました。ホルムを離れても、危険なことはなさらないでくださいね。メロダークさんはいつも無理をなさるから。落ち着いたら、手紙――ホルムを通る方にお願いして、手紙を……ア、アダ様……エンダもきっと喜ぶから。皆で読みます。頂いた手紙を、皆で」
 沈黙を保ったまま、今度はメロダークが探るように少女の笑顔を見つめていた。やがて肺の中から空気をすべて押し出すような深いため息をついた。
「そうしよう」
「はい」
「神殿に宛てた手紙を出す」
「はい」
「立派な巫女になってくれ」
「は……はい。必ず」
「……私だけでなく人々の光に……」
「なります、きっと」
「そうすれば私も報われる」
 部屋を埋め尽くす何千という紙と文字の中へ、メロダークの声が消えていった。もう話すこともなくなったのに、メロダークはまだ立ち尽くしたままで、マナは自分がこの話を打ち切らなければいけないと思った。
「それでは失礼しますね。明日は朝からパリスのお店で約束があるので、今日は早めに休むつもりなんです」
 と、マナは朗らかな声で言った。
「パリスやネルにもメロダークさんがお発ちになること、話しておきます。ホルムを離れられる前に、ひばり亭に皆で集まりましょう。昔みたいに……シーフォンくんや、キレハさんを見送った時のように」
 マナは本を胸に抱きなおし、男の横をすり抜けて書庫を出た。
 宿舎にたどりついた時、角灯も鍵も書庫にそのまま残して来てしまったことに気づいたが、引き返すどころか立ち止まることすらしなかった。メロダークがきっと後始末をしてくれるだろう――うかつで、注意が足りず、何もできない自分のために、探索中からいつもずっとそうしてくれていたように。困難の前で立ちすくみ、困惑し、戸惑い、どうすればいいか分からぬ時には、背後から伸びてきた手が無言で必要な助けを与え、振り向いて「ありがとうございます」と言い、それを何度も繰り返し、メロダークは軽く頷くだけで、機嫌がいい時には微笑のような物を両目に浮かべることもあり、そうされるたびマナはなぜか赤くなって目をそらし、でもそれが嬉しくて、しかしそれももう終わりなのだと気づいた。目の前が白くぼやけていた。
 こんな風に終わるのか、と思った。
 こんな風に、こんな簡単に。
 互いに憎しみも心変わりもなく、あの日誓われた通り彼の心は私の物のままで、私も彼の光であるよう怠ることなく努め、それなのに二人、道を違えてしまうのか。
 なんの脈絡もなく、ホルム伯の城館の広間で窓から射しこむ午後の光の下、楽しげに談笑するテオル公子とアルソンの姿が思い出された。血溜まりの上に倒れた公子の姿が、その側に立ち尽くすアルソンの背が、夕日が真鍮で出来た偽の大地を赤く赤く染めていて、私とメロダークさんの終わり方はああいう形ではない、だから私たちは幸せなのだ。私は相変わらず幸福なままなのだ。メロダークさんがこの町で一時安らぎを得たことも、私が信仰を強く保てることも、アークフィア様に感謝すべきだ――。
 背後から男の足音が追いかけて来るのに気づいたが、聞こえないふりをして歩く速度を早めて自室にたどりつき、扉に手をかけた時、乱暴に肩をつかまれ、振り向かされた。声もなく、滂沱の涙を流している少女に、メロダークがあからさまに怯んだ顔をした。音を立てて唾を呑むと、言った。
「命令しろ」
 思いもかけぬその言葉に、マナが打たれたように両目を見開いた。
「な――なん……」
「命令しろ。命令を――言え、命じろ、お前の命令ならなんでもきく。その方が楽だ、お互いに」
 威嚇するような声と口調でメロダークが懇願し、呆然と男を見上げていたマナは、言葉の意味を理解した瞬間、顔色を変えた。
 長身の男の手を跳ねのけるように振り払い、怒鳴った。
「あなたに命令しろなんて言わないでください! 私はそんなことのために、ここへ戻って来たんじゃないんです!」
 メロダークを突き飛ばして身を翻すと、自室に駆け込んで叩きつけるように扉を閉めた。




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