床にへたりこみ、寝台に顔を押しあて、声をあげて泣いた。
どのくらいそうしていたのか、気がつけばすぐ横にメロダークが立っていた。
「出ていって。出ていってください」
ついさっき、命令ならなんでもきくと言った癖に、メロダークはマナの言葉を無視した。寝台に手をつき身をかがめたメロダークが何か言いかけたのを遮り、
「嫌いです!」
大声で叫んだ。
そう言ったとたん、耳の奥でキンと、薄い氷が割れるような、何かが砕けるような、とても嫌な音がした。だが一度口にしてしまうと、もう止まらなかった。
癇癪を起こした三つ、四つの子供のように激しく泣きじゃくり、だが実際にはその年の頃、マナは癇癪を起こしたことも、こういった泣き方をしたこともなかった。捨てられた子供が皆そうであるように、二度捨てられないよう忍耐と我慢を身につけた、おとなしく、静かで、何も欲しがらず、自分のことはいつも後回しにして、他人の邪魔にならぬようわきまえた子供であった。
顔をそむけメロダークに背をむけ、絶叫した。
「嫌い。嫌い。メロダークさんなんか大嫌い。最初からずっと好きじゃなかったんです。出ていって、二度と顔を見せないで!」
メロダークが無言で後ずさった。重い足音が静かに戸口へ向かうのを、マナは自分の激しい嗚咽の合間にきいた。ああ、行ってしまわれると思い、そうすると座っている床がすうっと消えていくような思いがして、泣き濡れてひりひりと痛む顔や、耳や、冷たい指先や、そういった体の全部が『行かないで! 行かないで! お願いだから私を一人にしないでください!』そう強く叫んでいるような気がして、立ち上がって追いかけてすがりつきたくなり、だからシーツを強くつかみ寝台に顔を擦りつけ、震える拳や立ち上がろうとする膝を決して動かさないよう必死で努めた。
扉に手をかけたメロダークが、開いたままであったそれをそっと閉め、鍵をかけた。
マナの側まで戻って来ると、少し距離を取り、少女と同じように床に腰を下ろした。慰めを与えるには少し遠すぎる場所であった。
背中にメロダークの手が触れるのを感じた。男の手がゆっくりとマナの背を撫ではじめ、マナの嗚咽がやむまでそうしていた。
マナが泣きやむと、メロダークがシーツをつかんで寝台の上に身を乗り出した。少女の泣きはらした顔をシーツの乾いた部分で拭き、乱暴で遠慮がなく無作法な仕草だったが、マナは従順にされるままになっていた。
汚れたシーツから手を離すと、メロダークがマナの右手を取り、その上にもう一方の自分の手を重ねた。神官たちが信者に慰めを与える際にはよくそうする、マナにとって慣れ親しんだ極めて穏やかな仕草であったが、少女は怯えて身を引いた。逃げ出そうとした白い小さな手をもう一度捕まえ、今度は強く握り締めて、メロダークがきいた。
「それでお前は、いつから俺のことを好きなのだ」
重ねられた手は熱く、痛いくらいに力がこめられていた。
泣きすぎたせいで痺れている頭とくたびれきった体に、メロダークの声と手の重みが、空白になった心に伏せられた視線が満ちて、それでもまだ逡巡があり、最後にマナの気持ちを押したのはうつむいたメロダークの両目に揺れる、剥き出しの恐怖と愛情であった。
「最初にお会いした時からずっとです」
言い終えて少女は両目を閉じた。
とうとう言ってしまったと思い、体が震えた。なにかが――なにか天罰が、例えば自分の舌が腐り落ちたり、雷鳴が響き渡って雷に打たれ、あるいは神殿を支える柱が砕けて天井が崩れ落ち、さもなければ大河の水が溢れ、そういった恐ろしい、戒律を破った自分への、神々の怒りの到来を待った。
何も起こらなかった。
ただ自分の手を包む温かな骨ばった両手にこめられた力が、一段強くなっただけだった。
「そうか」
メロダークがそうつぶやき、息を吐きながら深くうなだれ、マナの手の甲を自分の額に押し付けた。
「俺は夢を見た」
と言った。
「お前を殺そうとして大河に落ちた時に。夢というにはあまりに生々しく、長く、まるで現実のようだった。永遠の苦しみを受けていた俺をお前が助け、傷を癒し、俺の願いを受け入れて一緒に旅を――俺は忘れた役目を探し、果ても見えぬ大河を、お前の操る小舟に乗って……」
「私も同じ夢をみました」マナが恐る恐る答えた。「子供の頃のメロダークさんと忘却界を旅をする夢です」
「島々を巡った」
「ええ」
「無辜の民を殺した。そこでもまた殺した」
その言葉にはっとして、マナは男に体ごと向きなおった。
「夢の話です」
「天界に拒まれる夢だった」
マナは沈黙した。唇を噛み息を潜め、男の様子を伺うように見つめた。
「あの岸でお前は我が身の危険も顧みず三度俺の魂を助け、夢から覚めたあとも剣を向けた俺をまた許し――お前のような者の側にいるならば、俺がずっと探し求めていた正義が果たせると――お前に仕えることで、汚れた我が身が救われると思ったのだ。卑怯者だ」
「そんなことおっしゃらないでください。メロダークさんはあの時もあんなに苦しまれて……誰だって救われたいと思っています。誰だって自分の魂の安らぎを」
「卑怯者だ。自分は救われたいと願いながら、お前とお前の信仰を汚すことばかりを考えている」
そう言いながらメロダークがマナの手を離した。広い窓から差し込む西日はすでに夕闇に半ば飲み込まれており、春の夕暮れに相応しいにぎやかさで、ねぐらに戻る鳥たちが鳴き声を交し合っていた。射しこんだ西日の最後の残照が当たる壁は重い金色に輝き、当たらぬ場所は黒い影が落ちた部屋の底で、同じ光と影に染まった少女は男を黙って見つめ、男も彼女を見つめていた。やがてマナの体から力が抜けた。ぐったりと寝台に頭を預け、息を吐いた。
「まだお話していないことが一つあるのです」
と、これまでとは違う、疲れ切った調子で言った。
「いいえ、二つ」
「言え。俺に隠すな。なんでも話せ」
「忘却界で。あなたが懇願を退けられ、立ち去れと命じられた谷間の門で、私もまた、御使いに天への道を阻まれました」
メロダークの眉がぴくりと動いた。二つ目は、とマナが掠れた声で続けた。
右手を伸ばして身じろぎもせずに座っている男の頬に触れ、左から右へと震える指先で唇の形をなぞった。自分の指先にまで血が通い、心臓に合わせて脈打っていることを強く意識した。
「二つ目は、私もあなたの信仰を汚すことを――」
指先の脈動が男の唇に移った。