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溶けていく 4

 帰還したばかりの頃には、雷光が天地を繋ぐ一本の矢となり、全身を震わす轟音と共に一直線に己の左胸を貫く、そういう夢を見た。
 繰り返し見た。
 いつも同じ夢だった。
 濁り粘る空気がまるで淀んだ水のように手足に重くまとわりつく。飛んでくる矢を避けようとしても体が動かず、雷光の矢が当たった瞬間、肌に熱ではなく冷たさを感じ、次に灼熱が爆発する。手足がバラバラになるような衝撃、耐え難い激痛、熱、暗闇、死、そして死、死と絶望。
 夢の中で死にながら、これは夢だ、本当のことじゃない、現実では私はイーテリオのかけらを握り締め女神の御名を夢中で叫び、懐かしい優しい手がすべてに触れて、タイタスの結界は砕け散ったのだ、夢だ、大丈夫だ、私は生きている――。
 目覚めると心臓が激しく鳴っている。
 暗い部屋の中で汗をかき、震え、しかし自分が死んではいないことに安堵する。


 掃除の仕上げに寝台を整えている最中、戸口に影が差した。マナは機嫌よく鼻歌を歌いながら、毛織の毛布をぴんと伸ばし、皺なく寝台を包んだところだった。
「マナ、ここの掃除はいい。私が自分でする」
 声がして、風を通すため大きく開けておいた扉から、メロダークが入ってくる。男が羽織っていた丈の長い上着を脱ぐと、薬と消毒液が混じり合う治療室の匂いがふわりと漂った。
 屈めていた体を起こし、マナはメロダークに笑顔をむけた。
「もう終わってしまいました。いいんです、任せてください。宿舎のお部屋は全部私が掃除することになっていますから」
「そうではなくて……」
 語尾を濁したメロダークはすぐに気を取りなおしたように、「そうだな。お前に任せよう」と言った。振り向いたマナが見つめていると、上着を椅子の背にかけ、平坦な口調で続けた。
「神殿軍の兵舎では、自室の清掃が日課のうちだったのだ。兵舎以外の場所でも。その癖がついている」
「あっ、そうなんですか?」
 何気ない明るさでそう答えたマナは、ほんの少し萎縮する自分を感じた。神殿軍から離れた直後には進んで来歴を話したメロダークであったが、その後は己の過去について語らず、マナもまたその話題に触れることがなかった。男が自分から語らぬ以上、神殿軍時代の話は、日常では避けるべき小さな禁忌のようになっていた。
 過去を口にしたメロダークは相変わらずの無表情で、壁際に引き寄せた椅子に腰掛けると、マナを見つめ、すぐに窓の外に目をやった。命令を待ち構える兵士のような横顔で、実際マナが何かを頼めばそれがどんな些細で馬鹿げたことであっても、即座にそれに全力でとりかかるメロダークであった。
 午後からはいくつかアダに命じられた用事もあったのだが、マナはすぐにはその場を立ち去りかねた。所在なげに室内を見回し、メロダークがここに移ってきてそろそろふた月になるのに、私物が一切増えていないのに気がついた。書き物机と椅子と寝台だけが置かれたがらんどうの部屋を、窓から差しこむ初夏の陽光が白々と照らしていた。痕跡を残さぬ、人と関わらぬ、どこであろうと部外者であり続ける、密偵らしい自室の使い方であることに思い至り、胸が締め付けられるような気がした。孤独が習慣になっており、別の暮らし方を知らないのだ。
 気がつくとマナは、崖の下から響く波音に満ちた狭い部屋で粗末な椅子に座ったメロダークの姿を、知らない人を見るように熱心に見つめていた。少女が男に対しそのような眼差しを向けたのは、あの秋の日の墓地で、メロダークに正体を明かされた時以来のことであった。
 少しうつむいた男の前髪の影が落ちた額や、高い鼻や、鉄の錠のように固く結ばれた唇や、顎から太い首と喉元にかけての男らしい輪郭を目でたどるうちに、この人を傷つけたくない、守りたいと強く思っている自分に気づいた。それは己に課せられた大切な義務であると同時に特別な権利のようでもあって、チュナやエンダに感じる庇護欲とはまた違った、臆病さと優しさと優越感が混じり合う不思議な感情だった。
 あるいは男から忠誠を誓われ信仰を捧げられたことと関係しているのかもしれず、マナは己の心の動きを、
(傲慢になっている)
 そう思い、恥じた。
 気がつくとメロダークが訝しげに、黙り込んでしまった少女を見つめていた。
 出会った最初の頃とは違い、彼の瞳にはなんの警戒心も秘密もなく、魂までが見通せるような透明さでまっすぐにマナを捕らえていた。マナはなぜか強い恥じらいを覚え、赤くなった顔を伏せた。寝台の端にすとんと座ると体を捻りメロダークの視線から顔を隠して、ありもしない毛布の皺を丁寧に伸ばすふりをしながら、明るい声で言った。
「いつも綺麗だと思っていたんですが、ご自分で掃除されていたんですね。メロダークさんは本当になんでもお出来になりますね」
 そう言ってすぐに、ああそうかなんでも一人でしないといけない立場の方だったのだと気づく。また悲しくなったが、メロダークの方に向きなおった後は朗らかな口調のままで続けた。
「メロダークさんがいらしてから、お務めがとても楽になりました。アダ様も喜んでおられますし、エンダも……えーと、エンダは、多分。私はすごく。すごく嬉しくて……毎日、すごく、楽しいです」
 少し悩んでから、マナは思ったことをそのまま口にした。
「どうかずっとここにいてくださいね。私もアダ様も、メロダークさんがもうこの神殿の方だと思っていますから」
「もちろんだ」
 そう答えたメロダークは、ひどく真面目な顔をしていた。ほっとしてマナは微笑を浮かべ、すぐにそれを引っ込める。
「お前に帰依した身だ。離れるわけにはいかん」
 とメロダークが続けたせいだった。
 マナはいつものように困った顔になって、いつものように「つまりそれは、私の信仰するアークフィア様の教えに帰依なさった、そういうことですよね」と男の言葉を訂正したが、これもまたいつものように頑固な沈黙が戻って来る。
「そういうことになるんです。じゃないと困ります。……えっと、話を戻しますが、私もアダ様もメロダークさんのことをもう身内だと思っていますから、遠慮なく色々なことをお願いして……それで、最近、少し甘えすぎているのではないかと心配なんです。だからなんでも無理はなさらず、体が辛かったり、そうでなくてもご面倒な時にはどうかすぐにそうおっしゃってください」
 そうは言ったもののこの寡黙な男が弱音を吐いたり、自分の体を労ったり、あるいは誰かの頼みを断るところがどうしても想像ができず、それこそがメロダークにとって無理なことのようにも思え、マナはすぐにこれは自分が気を配り、メロダークに負担をかけすぎないようにしようと決めた。
「それと、アダ様のことなんですが」
 もう一つ、ずっと気になっていたことを言う。
「アダ様は聖職者の鑑のような方で……いつも信者の方への奉仕が一番で、ご自分や身内を甘やかすようなことは決してなさらないのです。それで、えっと、少し口がお悪いから、信者さんのことで一生懸命になった時には、言葉をお選びにならないところがあって、ですね。あんなにも頑張っておられるメロダークさんにすごくひどい事を……先日の事故で船員さんたちが運び込まれた時に、ぼんやりしなさんなとか、で、でくのぼうじゃあるまいし、とか! もちろんアダ様に悪気はないんです。全然ないんですよ。でもあれはとてもひどかったと思うので、気がついた時には私からアダ様にひと言申し上げますけれど、でもああいう時、メロダークさんもしょんぼりしないで! いいんですよ、ああいう時にはアダ様に抗議しても!」
 思い出し怒りでうっすらと興奮しはじめたマナの前で、メロダークはますます真面目な顔になった。
「わかった。次にこのうすらトンカチの大飯喰らいと言われたら、抗議しよう」
「うすらト……うううっ、えっ!?」
 想像を遥かに越した罵倒具合に、マナはがっくりと肩を落とした。もう身内だとは言ったものの、まさかそこまでという身内っぷりであった。アダといいテレージャといい、マナの知る巫女はどうも全員血の気が多すぎ、口が悪すぎる。
「す……すみません。あの、気にせずにお食事はたくさん召し上がってくださいね」
 メロダークが素直にこくりと頷いたのを見届けて、マナはふーっと息を吐いた。
 色んなことをちゃんとお話しできたのでよかったと思う。こういう風に、時々は二人きりで会話をする時間を持たないといけない、と思った。これまでにも一日に三度か四度、あるいは五度か六度か七度か八度、とにかく顔を合わせるたびにそういう時間を持っていたのだが、それは棚にあげてそう決めた。
 たくさんしゃべった反動で気が抜けて、寝台にぱたりと仰向けに倒れこむ。頬に触れた毛布から男の匂いがした。
 しばらくするととろとろと眠気が襲ってくる。瞼が重くなり、一度閉じると持ち上がらない。メロダークの座っている場所からは身じろぎの音すら聞こえず、代わりに男の視線を強く感じ、見守られていることに安心した。目を閉じたまま、
「メロダークさんは、夢を見ますか?」
 と、眠たげな声で尋ねた。
 遠くに大河の流れる音が聞こえる。沈黙の後、低い声が聞こえた。
「なんの話だ」
 半ば微睡みながら、メロダークさんの声はとても素敵だなと思う。もっとたくさんお話ししてくださればいいのに。
「眠っている間の夢です。私は時々……フランさんや、アルソンさん……メロダークさんと一緒に、タイタスと戦った時の夢を」
「終わったことだ」
「ええ。ただの夢です。ただ時々、本当に時々。そのうちきっと忘れてしまって、夢も見なくなると思います」
 メロダークさんは?
 怖い夢を見ませんか?
 そうきいたつもりだったが返事はなかった。
 開いた窓からは初夏の風が吹きこみ、部屋を若葉の芳香で満たして、開け放たれたままの扉から石造りの廊下へと吹き抜けていく。

 頬に手が触れ、優しく撫でられた気がした。
 顔に当たる自分の髪か毛布かあるいは風を、誰かの掌と勘違いしたのかもしれない。陽光のまぶしさに目覚めれば、西に移動した太陽がぎらぎらとした輝きを増している。メロダークの部屋の寝台の上にいて、靴も脱がず、眠りについた時と同じ姿勢のままであったが、体には毛布が掛けられていた。部屋には男の姿はなく、扉はもう閉ざされている。

 その夜はもう、死ぬ夢を見なかった。


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