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溶けていく 8

 オーセルまで食料品を買い出しに行った帰り道、荷物を抱えた男の前を歩きながら、マナはご機嫌だ。真夏の白い日差しと木の影で白黒に染めあげられた森の小道を、弾むような足取りで歩いていく。
 二人で道を歩けるのが嬉しい。最近はますます露骨にメロダークに避けられているような気がしていたのだが、アダから命じられたこのお使いには躊躇せず同行を申し出てくれたところを見ると、きっといくらかは自分の勘違いも混ざっていたのだろう。
 それだけは持つのを許してもらえた新鮮な卵の入った籠を手に、マナはのべつくまなしにしゃべり続けている。麻袋を担いだメロダークはずっと無言で、相槌すら打たず、黙々と歩を進めている。しかし振り向いて顔を見れば、話をちゃんときいてくれていることがマナにはわかる。少女にはそれだけで嬉しく、幸せなことだった。
 真夏の日差しは厳しく、じっとしているだけで全身から汗が噴き出す酷暑であったが、小さな森の中には涼気が満ちている。木々の枝葉が遥かな頭上で幾重にも重なりあい、緑のアーチと木陰を作っていた。白すぎる肌を日差しから隠す薄いマントの前を開き、そのうちにそれも脱いでしまい、人目がないのをいいことに、いつもの巫女装束姿になる。夢中でおしゃべりをしながら、時折両腕で髪をかきあげ、吹き抜ける風に当たってうなじや脇から汗がひいていくのを感じる。
「それで結局、パリスとネルと私の三人で、城館へ羊を連れていくことにしたんです。カムール様が大笑いして、『子供たちに褒美としてお菓子をやってくれ』っておっしゃったんですよ。考えたら私たち、お城の厨房でその時に初めてフランさんとお会いしていたんです。挨拶すら交わさずお別れして、将来こんな形で親しくなるなんてもちろん思いもしなかったのですけれど。人の縁って不思議ですよね。そういえば探索の間に、あの丘の向こうまでご案内すると約束したのに、結局まだ一度も――メロダークさん?」
 ちらちらと振り向きながらしゃべっていたのだが、気がつくと、すぐ後ろをついて来たはずのメロダークの姿がない。マナは驚いて立ち止まった。
 隠れようもない一本道なのだから、メロダークの姿は当然、すぐに見つかった。道の途中で足を止めており、気づくのが遅かったようで、マナのいる場所からは大分距離が開いている。黒々と重なりあう影が男の頭部に落ちて、メロダークの顔を隠していた。
 具合でも悪くされたのかしら、真っ先にそう思い、踵を返したマナにむかって、「来るな」という声が飛んだ。メロダークが手を上げ、マナの背後を指差した。振り向いた少女の目に飛びこんできたのは、緩やかに蛇行して伸びていく白茶けた小道、少し先で途切れた森、畑地、ホルムを囲む古い城壁と森の木々と大門、そういった見慣れた、いつもと変わらぬ風景だけであった。
「ここからは一人で帰れ」
 メロダークの声に、マナは振り向いた。
「どうなさったんですか?」
「どうもしない」
 森のあちらこちらで、虫たちや鳥が鳴いている。風は木々の梢を揺らし、緑の香りを撒き散らす。平和な森のざわめきで、獣や人の気配はなかった。ここにいるのは二人だけだ。危険など何ひとつ感じられなかった。
「メロダークさん?」
 真剣に理由を問う声を出したが、男からは返事がなかった。
 森の中に何か――あるいは背後から誰かが――。不安に駆られたが、男に駆け寄らずにいるだけの理性はあった。両手を胸の前で組み、メロダークの表情を伺おうと目を細める。
「私は一人で行った方がいいのですね」
「ああ」
「あなたに危険なことはないのですね?」
 迷宮を探索していた頃のように、自然と厳しい調子になった。メロダークの答えも、あの頃のように非常に端的で素早かった。
「ない。大丈夫だ。行け」
 マナはもうぐずぐずしなかった。すぐに背を向けて歩き出し、歩調を緩めることなく、背後にはずっと意識を集中していた。森を抜けたところで一度だけ振り返った。メロダークは、行け、と命じた場所から、微動だにしていなかった。
 顔見知りの門番と挨拶を交わして城門をくぐり、マナは路肩で立ち止まり、そこで男を待った。
 炎天下の大通りには人影もまばらであった。長槍を持ち鎧を着た門番の姿が、陽炎のように揺れていた。
 肌に痛みを感じ、日除けのマントを忘れていたことに気づいて、慌ててずっと手にしていたマントを羽織った。じりじりするような時間が過ぎたあと、ようやくメロダークが姿を現した。マナと同じように門番とひと言、ふた言挨拶を交わし、門番が槍でマナの方を指した。
 メロダークがマナを見、無表情なままで片手をあげた。その手を動かして、行け、とまたしても、仕草だけで命じた。
 神殿に一人で帰りついたマナがメロダークを捕まえて話をすることができたのは、結局、夜になってからだった。
「今日のあれ、なんだったんですか?」
 回廊の柱を背にしたメロダークは、彼の前に立ちふさがり、不安と不審と心配を露にした少女から、無言で目をそらした。沈黙が続き、マナはためらいを振りきり、最近、ずっと気になっていたことをぶつけてみた。
「今日のことだけじゃなくて、最近のメロダークさんが……えっと、私に対して、ずっとご様子がおかしいように思うのですが。目を合わせるのすら避けておられる気がして。もしかして私を」
『お嫌いになったのですか』という言葉が最初に浮かんだが、そんなことはありえない、はっきりとそう思い、別の事をきいた。
「……怒ってらっしゃるんですか? あの、こうしてお話ししていても、顔も見て頂けませんよね」
 弾かれたようにメロダークが顔をあげ、まっすぐにマナを見た。自分から、見ろ、と命じたようなものなのに、黒い瞳にとらえられた瞬間、マナは激しく動揺し、赤くなった顔をさっと伏せた。
「違う。怒ってなどいない」
 熱くなった耳に届いた男の声は、しかしマナをかえって失望させた。当たり前だ。彼が自分に腹を立てていたとしても、それを口にするはずがない。実際の気持ちがどうあれ、こうやって否定されるのは決まっていた。
(私に帰依する、信仰するとおっしゃったんだから)
 胸の底に失望とかすかな苛立ちを覚えたが、それを慌てて追い払う。マナは努めて優しく、明るく微笑した。
「本当に? 嫌なことがあるなら、どうか遠慮せずにおっしゃってくださいね。一緒に暮らしているのですし、私のことを本当の家族だと思って」
「お前は私の主だ」
 分厚い刃を叩きつけるように断言し、すぐにメロダークがため息をついた。
「女ならよかったのにな」
「え?」
「私がだ」
 マナはまじまじとメロダークを見つめた。
「……それ、メロダークさんの脱ぎ癖がとってもまずいことになると思いますよ。今だって十分問題があるのに」
 真面目さを装ったマナの冗談に、メロダークはのってこなかった。男を待つ間に日に焼かれ、痛々しい赤みを帯びた少女の胸元を一瞥し、再び目をそらすと、
「さもなければ」
 と、苦い物を吐き捨てるように続けた。
「お前が男ならよかったのだ」


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